読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

「事件勃発、天皇の決然たる対応

 

天皇に反乱勃発を伝えたのは当直の甘露寺侍従、時間は五時四十分すぎ――。

 

「陛下はまだ御寝になっている時刻だが、事柄が事柄だけに、一時も早く奏上せねばならぬと、御寝室に伺った。差し支えない。緊急の用務ならここで聞くと仰せられたので、鈴木(貫太郎)、斉藤(実)両重臣が軍隊に襲撃され、斉藤内府は落命、鈴木侍従長は重体である旨を申し上げた。

 

 

陛下は静かにお聴き取りになり「そして暴徒はその後どの方面に向かったかわからないか、まだ他にも襲撃された者はないか」とかお訊ねになった……」

             (「天皇陛下」 高宮太平著)

 

 

天皇の最初の言葉が「暴徒」であることは注意を要する。そして岡田(啓介)首相生死不明のため、急ぎ首相臨時代理に任命された後藤文雄への指示も、

 

「速やかに暴徒を鎮圧せよ」

 

である。本庄(繁)侍従武官長は、女婿・山口大尉の手紙を見、すぐに参内し六時ごろ到着した。その時には、暗殺された者がほぼ明らかになっていた。(略)

 

 

だが事態は一向に進捗しなかった。それもそのはず、反乱軍を背景に真崎が、いつでも大命降下(首相任命)のため拝謁できるように、勲一等を佩用して宮中に乗り込み、侍従武官長室に入り「決起部隊は到底解散せざるべし。このうえは詔勅渙発を仰ぐ外なし」と繰り返し主張した。その席に本庄と川島陸相がいたはずだが、二人が何を言ったか明らかでない。

 

 

 

またこの言葉を天皇に取り次いだ形跡もない。到底そんなことの言える状態ではなかった。「本庄日記」はつづける。(略)

 

 

事実、「行軍相撃」を何とか避けようとさまざま策を弄するだけでなく、これを機会に政権にありつこうとする真崎もいる。ただ彼は、本庄侍従武官長から天皇の意志の固さを聞いたのであろう。ここで実質的に反乱軍を裏切り、何とかうまく逃げて無関係な状態にしてしまおうとする。少々気の毒な位置に立ったのは本庄侍従武官長である。

 

 

 

二十六日も二十七日も、ほぼ一時間置きに天皇に呼びつけられている。

本庄はかつて関東軍司令官で、関東軍や荒木(貞夫、真崎と並ぶ皇道派の首領)らの強い推挙で侍従武官長になったという。

 

 

彼らは本庄を通じて天皇をあやつるつもりだったのかもしれない。また女婿の山口大尉が反乱側にいたわけで、この点でも「皇道派」と見られる位置にいた。だが彼は、侍従武官長をしている間に、天皇は到底ロボットに出来るような対象ではないと悟っていたであろう。簡単に言えば叱り飛ばされているような感じである。

彼は正直な人柄なので、その「日記」は、当時彼とともにいた侍従武官が見ても、きわめて正確であるという。

 

 

真綿にて、朕が首を締むるに等しき

 

「この日(ニ十七日)拝謁の折り、彼ら行動部隊の将校の行為は、陛下の軍隊を、勝手に動かせしものにして、統帥権を犯すの甚だしきものにして、もとより、許すべからざるものなるも、その精神に至りては、君国を思うに出でたるものにして、必ずしも咎むべきにあらずと申し述ぶる所ありしに、後御召あり、

 

朕が股肱の老臣を殺戮す、かくの如き兇暴の将校ら、その精神においても、何の恕すべきものありやと仰せられ、

またある時は、

 

朕が最も信頼せる老臣を悉く倒すは、真綿にて、朕が首を締むるに等しき行為なり、と漏らさる。

これに対し老臣殺傷は、もとより最悪の事にして、事たとえ誤解の動機に出ずるとするも、彼ら将校としては、かくすることが、国家のためなりとの考えに発する次第なりと重ねて申し上げしに、それはただ、私利私欲のためにせんとするものにあらず、と言い得るのみと仰せられたり」

 

 

この問答は多くの人が記し、すでにさまざまな解説が出ているが、私はこの問答の背後に、ある種の「含み」があったのではないかと想像している。本庄侍従武官長に、彼らを、というより陸軍全体を弁護したい気持ちがあっても不思議はない。

 

 

天皇は反乱側だけでなく、「皇軍相撃」を避けようとして、速やかに討伐をしようとしない軍の首脳にも怒りを感じている。

そして本庄侍従武官長は、反乱側をどのように弁護しようと天皇が受け付けないことはすでに知っている。それをあえて「(その精神は)必ずしも咎むるべきにあらず」とか「国家のためなりとの考えに発する次第なり」などと言っているのは、それゆえに「皇軍相撃」だけは避けたい」という伏線であろう。

 

 

というのは、あまり注意されていないが、二・二六事件のとき、戒厳令が二度出ていることである。最初に出たのは「平時戒厳令」で、これは内閣の副署で出される。簡単に言えば大震災の時の戒厳令と同じで、警察では手に負えなくなった事態への応急的な処置として行われるもので、厳密にいうと作戦行動ではなく、タテマエから言えば軍の一部が内閣の指揮下に入って警察行為をする、いわば今の機動隊の役割に任ずることになる。

 

 

一方、「戦時戒厳令」は、「内乱勃発」のような場合で、これへの対処は純然たる戦闘行為になるから、「内閣副署」でなく、参謀総長が起案して天皇の決裁を求める。この戦時戒厳令の日本国内における公布は、後にも先にもこのとき一回だけである。(略)

 

 

「二十七日午前八時二十分、自分(杉山参謀次長)は拝謁し、奉勅命令の御允裁を仰ぎしに、陛下にはしごくご満足にて直ちに御允裁ありしが…」

 

これが事件勃発以後、天皇がはじめて見せた「しごく御満足」であろう。「本庄日記」には次のように記されている。

 

「この日、戒厳司令官は武装解除、止むを得ざれば武力を行使すべき勅命を拝す。

ただし、その実行時機は司令官に御委任あらせらる。

戒厳司令官は、かくして武力行使の準備を整えしも、なお、なるべく説得により、鎮定の目的を遂行することに勤めたり」」