読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

天皇磯部浅一との「心理戦争」

 

天皇のいらいらはまだつづくが、磯部浅一の計画はこのとき挫折したといってよい。(略)

そして動揺がはじまると崩壊は早かった。首謀者は、部下に離脱されて崩壊したという結果になる事を恐れ―― 一部ではすでにそうなっていた ——自ら部下を原隊に帰した。

 

 

これが一歩誤ると逆の結果となる。というのは「心理戦争は」強烈な意思を持つ側の勝ちであり、磯部は当時の軍首脳の誰にもないような強烈な意志の持ち主であった。いわば皇軍相撃を避けるため、周章狼狽した軍首脳が彼らと妥協し、天皇がそれに動かされれば彼らの勝ちである。

 

 

 

そして少なくとも二十六日いっぱいは、あらゆる面から見て、そうなりそうに彼らには思えた。(略)彼らは内心では「成功」と思っていたであろう。これが裁判の途中で、磯部が真崎ら一五名の将軍・佐官を告発した理由である。自分たちを反乱と規定するなら、彼らも同じではないかという主旨で、これは、多くの軍首脳が彼らに傾いていたことを示している。

 

 

ではなぜそれが逆転し崩壊したかを彼らは知らなかった。そして知ろうとしないまま処刑された。

 

 

「自殺するならば、勝手に為すべく」

 

少し冷静に事態を見ていれば、自分たちを鎮圧し反乱を失敗に終わらせたのが天皇その人だと感ずる機会はいくらでもあったはずである。反乱三日目、事がすでに終わったと感じた彼らに対し、川島陸相ら軍首脳は、事件収拾策として、天皇の勅使を得たうえで、陸相官邸での彼らの謝罪の自決を許してほしいと申し出た。

 

 

 

これは少々ずるい、軍首脳の口封じとも受け取れる。これについて「本庄日記」には次のように記されている。

 

「陛下には、非常なる御不満にて、自殺するならば勝手に為すべく、かくの如きものに勅使など、以ての外なりと仰せられ、また、師団長が積極的に出にあたわずとするは、自らの責任を解せざるものなりと、いまだかつて拝せざる御気色にて、厳責あらせられ、直ちに鎮定すべく厳達せよと厳命をこうむる」

 

 

そしてこの「勅使差遣」の要請はもう一度、電話を通じて山口大尉から本庄侍従武官長のところへ来る。だが彼はもうこれを天皇に取り次ごうとしなかった。

これで見ると「勅使」は反乱軍将校の要請で、軍首脳がこれに便乗したと見るべきであろう。(略)

 

 

人間の妄信とは不思議なもので、彼らは、それを天皇の意志とは思わなかったらしい。さらに人間には希望的観測というものがあり、ラ・ロシュフコーの「箴言」にあるように、直視し得ないものは太陽と死、すなわち自己の死である。

この妄信と希望的観測から、彼らは、死刑の判決があってもその後で恩赦があると信じ切って安心していた。

 

 

 

「安心というのは求刑を極度にヒドクして判決において寛大なるを示し、軍部は吾人及び維新国民に恩を売らんとするのだろう、という観察だ。この観察は日時たつほど正しいと思えるようになった」

 

と磯部は自らを記し、ついで次のように記す(「仙台発見遺書」より)。

 

「安ド(藤)は馬鹿に楽観して、四月二十九日の天長節には大詔渙発とともに、大赦があって必ず出所できるとさえ言っている。余はそれほそには思わなかったが、マァ近いうちには出られるだろうと考えた……」(略)

 

 

彼らが勝手に描いている天皇像への彼らの信仰である。そしてその信仰に基づけば、天皇は忠誠なる軍人を処刑するはずがなかったのである。しかし、もとより恩赦はなく、天皇の言葉からすればあるべきはずもなく、まわりの者もそんなことを言い出せるような状態ではない。処刑は実施された。

 

 

 

天皇を叱咤、怨嗟する磯部の叫び

 

証人のために処刑を延期された磯部はこれが納得できない。そこでまず彼はそれをあくまでも天皇側近の仕業と考え、側近のロボットであってはならないと天皇を叱咤する。

 

「八月六日 / 

一、天皇陛下、陛下の側近は国民を圧する漢奸(売国奴)で一杯でありますゾ。お気付き遊バサヌデハ日本が大変になりますゾ、今に大変なことになりますゾ、

 

二、明治陛下も皇大神宮様(天照大神)も何をしておられるのでありますか、天皇陛下を、なぜお助けなさらぬのですか、

 

三、日本の神々はどれもこれも皆ねむって居られるのですか、この日本の大事をよそにしているほどのなまけものなら日本の神様ではない、磯部菱海(彼の法号)はソンナ下らぬナマケ神とは縁を切る。そんな下らぬ神ならば、日本の天地から追い払ってしまうのだ、よくよく菱海の言うことを胸にきざんでおくがいい、今にみろ、今にみろッ」

 

彼の呪詛はまず側近、ついでそれの言いなりになっていると思われる天皇から、明治天皇、さらに皇大神宮にまでおよぶ。彼のこと言葉と、「憲法停止・御親政」を秩父宮から言われた時の天皇のお言葉、「祖宗の威徳を傷つくるが如きこと」「明治大帝の創制せられたるところのもの(憲法)を破壊するものにして、断じて不可」(135ページ参照)とを対比してみると興味深い。

 

 

 

そして彼が勝手に描く天皇像は天皇とは無関係なことが、彼にもうすうす感じられるようになってくる。

 

 

 

「八月十一日 / 天皇陛下は十五名の無双の忠義者を殺されたであろうか、そして陛下の周囲には国民が最もきらっている国奸らを近づけて、彼らの言いなり放題にお任せになっているのだろうか。陛下、吾々同志ほど、国を思い陛下のことを思う者は、日本国中どこをさがしても、決して居りません。

 

 

その忠義者を、なぜいじめるのでありますか、朕は事情を全く知らぬと仰せられてはなりません、仮にも十五名の将校を銃殺するのです、殺すのであります、殺すということはかんたんな問題ではないのであります……」

 

 

この言葉には、彼らが天皇重臣たちを簡単に殺したことへの反省は全くないことを示している。おそらく一種の”総括”に似た感情で、彼らは殺されてしかるべき国奸・売国奴だが、自分たちは天皇の最も忠節なものと彼は信じて疑わない。(略)

 

 

事実、彼は事件が終わりを迎えた時、ただ一人、逃亡しても再挙を図ろうとしている。そしてこうなると天皇への脅迫だが、実質的には呪詛に近い。(略)

 

 

彼には天皇の激怒が、ぼんやりながら伝わってきたらしい。おそらく本庄侍従武官長から女婿の山口大尉が聞き、それが彼に伝わってきたのであろう。(略)

 

 

「八月三十日 / 余はたしかに鬼になれる自信がある、地ゴクの鬼になれる、今のうちにしっかりした性根をつくってザン忍猛烈な鬼になるのだ、涙も血も一滴ない悪鬼になるぞ」

悪鬼・怨霊になって天皇に取り憑いてやるぞ、ということであろう。磯部から見れば、天皇は裏切り者であった。天皇は、彼が勝手に描いていた天皇とは、似ても似つかぬ対象であった。」