読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

「真崎大将、陸軍首脳の腰抜けぶり

 

一方、陸軍の首脳の多くは彼が見た通り腰抜けで、右往左往するだけであった。この点、東京陸軍軍法会議における裁判官の一人、陸軍法務官・小川関治郎の「ニ・二六事件秘史」は、まことに的確に事件の概要を要約している。その中での「当日川島陸相の恐怖振り」は興味深いが、これが軍人とは少々情けない。次に引用しよう。

 

 

「当日払暁決起部隊は陸相官邸に侵入し、下士官兵には着剣せしめて官舎内に闖入し、廊下の所々に立哨せしめ、一方決起将校は川島陸相に会見を要請した。当時護衛の憲兵および宿直の属官等はいたが、外部への電話通信連絡を遮断抑止しながら、頻りに陸相に面接を強要した。

 

 

しかるに容易にこれに応ぜず、かえって陸相夫人が周章狼狽の色をも見せず、出でて応対するなど、ことさら時間を費やすことに努められた。その内陸相は決起将校中に閣下閣下と呼び居る者の声を聞き、これなら恐らく自分には害を加えまいと思い、ようやく会見の用意をしたが、その間約二時間も掛かったとのことである」

 

 

「……(襲撃された者の)何れの夫人も身を以て夫を守り、そのような度胸には感服するの外ない」

とそれにつづけて記されているが、いずれにせよ、その後も一貫して川島陸相はまことにだらしがなく、大体、反乱側の言いなりであった。また、反乱側の背後にあり、押しとあくの強さでは抜群で、一見、大変に度胸があるかに見えた真崎大将は、ひとたび収監されるや神経症のようになり、

 

「戒護看守らは……その扱いに手こずり、甚だ閉口したとのことである。大将とまでなった人物としての、精神修養の点において甚だ遺憾であると評したものもあった」と。

 

 

 

興味深いのは、この点で、実に度胸がすわっていたのが、反乱幇助の容疑で収監された実業家の久原房之介(日立製作所を設立、また政友会の有力政治家)である。多少横道にそれるが、その部分を引用しよう。

 

 

「次には久原房之助の事である。同氏はもちろん軍人ではない、……同氏の収監も初夏の頃であったと思うが、同氏は入監前から少し胃腸を痛め、健康を害していたから、かねて温泉にでも行き静養するつもりであった。そこへ反乱幇助の嫌疑で収監の不幸に遇った。ところが、入監すると食事はもちろん起居動作、運動等きわめて規律正しく、規則通り実践して試みると、たちまち健康を回復した。

 

 

……同氏の述懐に、「入監以来規律正しき生活により、健康を回復し全然温泉に行く必要もなく、健康保持には温泉以上である」と、また盛夏になってからも、「ここは非常に閑静で、風通しも良く暑さ知らずで、これ以上の避暑地はない」と語ったとのことである。かように監獄を以てあたかも理想郷であるが如く感じたのは、恐らく久原氏一人ぐらいであろう……」(略)

 

 

 

岡田内閣総辞職のとき天皇は、

陸軍大臣の辞表が他の閣僚の辞表と同一辞句なるを御覧あり、「陸軍大臣はこれで責任が尽くせりと思うのか、こんな考えだからよろしくない」」

               (「木戸日記」昭和十一年二月二十八日)

 

と怒ったが、これは反乱側にとっても同じで、彼らは彼らなりに「川島はよろしくない」で、信頼できなかったのであろう。

 

 

二・二六事件、最大の失敗

 

「ニ・二六事件秘史」には「当日香田、村中、磯部らが参内せんとせし目的ならびにこれが平河門にて阻止せらる」について、次のように記述がある。(略)

 

 

との告示を説示せらるるや、その内容抽象的にして先に要求したる事項として実現せられあらずとなし、古荘次官に対し、さらに具体的決起を為すべき旨大臣に伝達を要請せり、同日午後五時半ごろ香田清貞、村中孝次、磯部浅一らは、参内して宮中に在る陸軍首脳部に意見を上申せんことを企て、

 

 

山下奉文、満井佐吉の自動車に追随し、宮中に赴かんとしたるも平河門において阻止せられその目的を達せず」とありて、右判示の上ではそれほど極悪非道のものとも認められぬが、いよいよ参内の目的を達した上は、あくまで彼らの要求を貫徹するためには、非常手段として、

 

 

天皇に)拳銃を突きつけても御承諾を願う計画であったと。なお彼らは自分らはたとえ足利尊氏になっても目的を達せんとするものであると、暴言を放っていたとの調書も他にあるようである」

 

 

二・二六事件の最大の失敗はこの「平河門において阻止せられ」であろう。もし彼らが皇居に入り、天皇に拳銃を突きつけるような事態になれば、おそらく磯部は天皇を射殺して、秩父宮を擁立しようとしたであろう。磯部はその布石は打っていた。彼らがなぜ二月二十六日に決起したか。その理由の一つが、同氏の一人、近歩三(近衛歩兵第三連隊)の中橋基明中尉が、この日に赴援隊に当たっていたことが挙げられている。(略)

 

 

ただ彼らの計画に非常に無理があったのは、中橋中尉に高橋是清(蔵相)邸を襲撃させ、そのあとで何くわぬ顔で皇居に赴かせたことである。これはきわめて危険なやり方で、周到に準備するなら、中橋中尉はそ知らぬ顔で近歩三におり、緊急事態による要請があってから堂々と皇居に向かい、時機が来るまで知らんぷりをしていれば、あるいは、磯部らは皇居に入れたかもしれない。(略)

 

 

このあたりから、周囲はおかしいという目で彼を見る。守衛隊の一人であり、同じ連隊(近歩三)で中橋の部下でもある大高少尉は、兵に着剣させて中橋を囲ませた。中橋は怒って彼をにらみつけたが、それ以上の行動にでようとしない。

 

 

大高少尉は兵を下がらせ二人で対決し、拳銃に手をかけた。すると中橋も拳銃を抜き出したが、発射したばかりの硝煙のにおいがプーンとする。大高少尉は中橋中尉を射殺しようかと思ったが、決心がつかない。にらみ合っている間に中橋は身をひるがえして二重橋に向かい、部下を置いて皇居を脱出した。(略)

 

 

結局、彼の恐怖は坂下門を中心とした「皇軍相撃」であろう。私も軍隊時代に近衛野砲にいたから、近衛には一種独特の「近衛意識」といったものがあったことを知っている。

 

 

彼らには彼らなりの誇りと使命感がある。指揮下であるはずの大高少尉が着剣した部下に彼を取り囲ませたのは一種の「近衛意識」である。それを中橋は理解できる。

 

 

それから見れば、皇居の守衛隊司令官は、近衛以外の部隊を黙って皇居に引き入れることはあり得ない。情況がしだいに明らかになる一方、天皇の意志は最も早く彼らに伝わる。野中隊が強行突破しようとすれば、当然に「皇軍相撃」となり、この際、攻撃軍が逆賊の烙印を押されることは目に見えている。これらの不安感と孤立感から彼は脱出した、と私は解釈している。

 

 

磯部浅一が残した”重い遺産”

 

ここで少々不思議なのは、香田、村中、磯部の三人が、山下奉文らによって平河門に誘導された点である。(略)

 

もし中橋基明があくまで合法的に皇居に入り、反乱とは無関係な顔をして坂下門をはじめとして内部を警備し、山下奉文らについて来た磯部浅一らを知らんぷりで坂下門から皇居に入れたら、どうなっていたであろうか。彼らの目的は達せられたであろうか。おそらく、そうはいかなかったであろう。

 

 

というのは終戦時、「玉音盤奪取」を企ててクーデターを起こし、森近衛師団長を射殺し、ニセの師団命令を発して部隊を出動させて皇居を占領し、兵が内廷庁舎まで迫っても、天皇は平然としていた。その例からすると、わずか三名の将校が内廷まで押し入ったにしろ、どうも出来ずに逮捕されるのが落ちであったろう。

 

 

マッカーサー会談でもわかるように、天皇には妙に度胸がすわっているところがある。磯部だけでなく、多くのものも、それを何となく感じざるを得なかった。(略)

 

「陛下が、私どもの義挙を国賊反逆の業とお考え遊ばされているらしいウワサを刑務所の中で耳にして、私どもは血涙をしぼりました。……今の私は怒髪天を衝く怒りに燃えています」

 

「余は確かに鬼になれる自信がある、地ゴクの鬼になれる、今のうちにしっかりした性根をつくってザン忍猛烈な鬼になるのだ、涙も血も一滴

悪鬼になるぞ」

 

 

確かに彼はこの望みは達した。この「涙も血も一滴もない悪鬼」「ザン忍猛烈な鬼」は、天皇に取り憑くことは出来なかったが、多くの重臣や軍上層部、さらに政治家にも取り憑いた。

 

 

 

重臣たちの昭和史」を書いた勝田龍夫氏と話し合ったとき、私は、氏が相当辛辣に批判している近衛文麿の、きわめて不可解な態度の真の理由を問うたとき、氏は言われた。「暗殺をこわがっていたんですよ。しかしそれは彼だけではありません」と。

 

 

そのとおりだっただろう。東条の「それでは部下がおさまりません」の一言でみな沈黙してしまう。この「残忍猛烈な鬼」は天皇の周辺だけでなく、政府も議会も腑抜けにしてしまう。この点では彼は勝った。

 

 

天皇が言われた「真綿にて朕が首を絞むるに等しい行為」を、彼はその死後も、悪鬼となってつづけた。この悪鬼に「止メ」を刺したのは、安藤大尉が、その夫人に制止されて「止メ」を刺し得なかった鈴木貫太郎天皇との、「私と肝胆相照らした鈴木であったからこそ」の終戦によって、はじめて行われた。

 

 

彼は国民にとって全く「涙も血も一滴もない鬼」であった。天皇への呪詛は、結局、国民への呪詛となった。一方、鎮圧が天皇の意志であることが、陸軍の関係者に知られるようになると、彼らは方向を変え、一見、”合法的”な方法でその目的を遂げようとする。」