読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

北一輝には「天皇尊崇の念」など全くなかった

 

ではここで北一輝への妄信の構造を少し調べてみよう。(略)

だがここでは第一の顔、すなわち彼の著作を通してみた基本的な思想のみを採り上げたいと思う。といっても、これも短い紙面への要約は相当にむずかしいが、この点で山本彦助検事の「国家主義団体の理論と政策」の中の、北一輝の部分は便利である。(略)

 

 

「我が国における、いわゆる国家主義運動中には、日本主義運動でない、すなわち正統派でない一つの力強い思想の流れがある。それは北一輝社会民主主義思想である。同人の著「日本改造法案大綱」は、革新陣営内にありては、革命経典とまでいわれ、この書の革新陣営に及ぼした影響は、きわめて大なるものがある。

 

 

西田税(陸軍少尉)は、北一輝に師事するもの。しかして、この両者より、直接影響を受けたる者も、いまなお、ずいぶん、残存しているのである」

 

 

社会民主主義思想という言葉は読者に意外かもしれないが、彼が「国体論及び純正社会主義」を著したのが明治三十九年、二十三歳のとき。「日本改造法案大綱」を著したのが大正八年であることを考えれば別に不思議ではあるまい。この時代の思想家で、何らかの形で「社会主義」の影響を受けていないものは、まず、ないと言って良いからである。

 

 

 

では、その後の彼の思想は変わったのか、変わっていないと北自ら述べ、山本検事も次のように記している。

「(全く変わらず)と豪語し、彼の晩年、すなわち、二・二六事件当時においても、彼の思想根底には、何らかの変化なく、いぜん、社会民主主義を堅持し、天皇機関説を執り、天皇尊崇の念全くなかりしものと推定せざるを得ない……」

 

 

 

そのとおりで、二・二六事件の将校が妄信した北一輝には「天皇尊崇の念」などは全くない。彼は処刑されるとき、「天皇陛下万歳」を叫ぼうとする西田税をとどめ、黙って処刑された。

 

 

北が唱えた天皇の位置づけとは

 

では一体、変わらざる彼の「根本の思想」は、どのようなものであったであろう。山本検事は次のように記す。

 

北一輝の根本思想は、社会民主主義である。社会民主主義は、広義社会主義の一種であって、個人主義自由主義を根本指導原理となし、国家国体は、その手段に過ぎないのである。

 

 

換言すれば、国家国体の存在は、認めることは認めるが、それは、個人の目的を達せんがためであって、個人の権威を強調するのである。かくの如く個人主義自由主義を根本指導原理とするが故に、議会主義はもちろん、資本主義といえども、根本的に、これを、排撃するものではない」

 

ここまで読まれた読者は妙な気持ちになるであろう。一体全体、何が故に彼の思想が危険思想で、しかもそれを二・二六事件の将校が絶対視したかと。そこで次に進もう。(略)

 

 

ここでは、まず彼の言う「社会民主主義」はどのようなものか、その定義を記しておこう。

社会民主主義は、社会の利益を終局目的とするとともに個人の権威を強烈に主張す。個人というは社会の一分子にして社会とはその分子そのことなるを以て個人すなわち社会なり」

 

 

 

「「社会民主主義」とは個人主義覚醒を受けて国家のすべての分子に政権を普及せしむることを理想とする者にして、個人主義の誤れる革命論の如く、国民に主権存すと独断するものにあらず。

 

 

主権は社会主義の名が示す如く国家に存することを主張するものにして、国家の主権を維持し、国家の目的を充たし、国家に帰属すべき利益を全からしめんがために、国家のすべての分子が政権を有し、最高機関の要素たる所の民主的政体を維持し、もしくは獲得せんとするものなり」

 

 

これは、議会制国家社会主義とでも定義すべきものかも知れない。もちろん明治三十九年は、まだファシストナチスも出現していないから、それらの影響を受けたのではない。これが現実にどのようになるかは、彼も具体的に把握していたわけではあるまい。問題点はそれより、こういう発想の中で彼がどのような「天皇の位置づけ」をしていたかであろう。(略)

 

 

彼はつづける。

天皇は土地人民の二要素を国家として所有せる時代の天皇にあらず、美濃部博士が広義の国民中に包含せる如く国家の一分子として他の分子たる国民と等しく、国家の機関なるにおいて大なる特権を有すという意味における天皇なり」

 

「現天皇明治天皇)は、維新革命の民主主義の大首領として英雄の如く活動したりき。「国体論」は貴族階級打破のために天皇と握手したりといえども、その天皇とは国家の所有者たる家長という意味の古代の内容にあらずして、国家の特権ある一分子、美濃部博士のいわゆる広義の国民なり。

すなわち天皇その者が、国民と等しく民主主義の一国民として天智の理想を実現して、はじめて理想国の国家機関となれるなり」

 

 

「機関の発生するは発生を要する社会の進化にして、その継続を要する進化は、継続する機関を発生せしむ。日本の天皇は、国家の生存進化の目的のために発生し継続しつつある機関なり」

 

 

 

天皇自らが、「機関説」の信奉者

 

いかなる機関かをひとまず措けば、彼もまた機関説の信奉者である。二・二六事件に先立って、相沢中佐が永田軍務局長を斬殺したが(114ページ参照)、その理由の一つを「機関説信奉」だからとしながら、彼は北の「日本改造法案大綱」をまるでバイブルのように四冊も持っている。そしてこの点では二・二六事件の将校も変わりはない。

 

 

では一体、機関説のどこがいけないと彼らは言うのか。細かい点は除くが、俗にいう一木・美濃部学説の問題点とは、まず一木喜徳郎(宮中政治家・枢密院議長)の「天皇と議会とは同質の機関と見做され、一応、天皇は議会の制限を受ける」と、美濃部達吉の「立法権に関する議会の権限を天皇のそれと対等なものに位置づける」「原則として議会は天皇に対して完全なる独立の地位を有し、天皇の命令に服するものではない」であろう。

 

しかし軍部が最も問題にしたのは、統帥権が国務から独立しているかの如き現状を改め「軍の統帥権についても、等しく内閣の責任に属さしめ」るという点であろう。

 

 

その点はひとまず措くとして、まず立憲君主制とは、言葉を換えれば制限君主制であり、国会が天皇服従したのでは、国会の意味がなくなってしまう。当然のことを言っているだけである。さらに当時盛んに口にされた「国体」という言葉を、美濃部は「本来法律上の語ではなく、歴史的観念もしくは倫理観念」として峻別している。

 

一方、機関説否定派は「国体」とは天皇と一体化した倫理的かつ政治的実体であるとし、これが「神聖ニシテ侵スヘカラス」の対象であるとした。

ただ問題は、これが憲法学者の論争から離れて、いわゆる機関説問題となって政争の具となり、攻撃する相手へのレッテルになっているので、今では逆にその実態がわかりにくくなっている。というのは、北一輝は明らかに機関説だが、彼にはそのレッテルは貼られていないからである。(略)

 

 

そしてもっと奇妙なことは、天皇自身が機関説の信奉者であった。磯部浅一はこのことを知らないで死んだが、もしも知ったら、衝撃で口が利けなくなったであろう。これはたとえ天皇がそのことを口にされなくとも、その行為を見れば明らかなはずである。

 

 

簡単に言えば「議会は天皇に対して完全なる独立の地位を有し、天皇の命令に服するものではない」を、天皇自身当然のこととし、この原則を破ったことはもちろん、触れたこともない。(略)

 

 

「主権が君主にあるか国家にあるかということを論ずるならば、まだ事が分かっているけれども、ただ機関説がよいとか悪いとかいう議論をすることは、すこぶる無茶な話である。君主主権説は、自分から言えばむしろそれよりも国家主権の方がよいと思うが、一体、日本のような君国同一の国ならばどうでもよいじゃあないか」

 

と、まず天皇は言われる。いわば”神学論争”は、それによって現実が何か変更されるわけではないが収拾がつかなくなる。天皇自身としては、機関説が排撃されようとされまいと、立憲君主という今までの生き方を変えるわけではない。それなら自分にとって無関係な議論と言うことであろう。そして、それにつづく言葉は「一般論として言えば」ということであろう。

 

 

「君主主権はややもすれば専制に陥りやすい。で、今に、もし万一、大学者でも出て、君主主権で同時に君主機関説の両立する説が立てられたならば、君主主権あめに専制になりやすいのを牽制出来るから、すこぶる妙(結構)じゃあないか。美濃部のことをかれこれ言うけれども、美濃部は決して(排撃論者の言うように)不忠な者ではないと自分は思う。今日、美濃部ほどの人が一体、何人日本におるか。ああいう学者を葬ることはすこぶる惜しいもんだ」

 

岡田啓介回顧録」には「陛下は「天皇は国家の最高機関である。機関説でいいではないか」とおっしゃった」とある。」