読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

社会民主主義に共感を抱いたのは、”時代”だった

 

簡単に言えば、磯部浅一らの青年将校が企画したのは、天皇をかついでの軍う独裁内閣であり、戒厳令のもとで憲法を三年間停止し、その間に国内の一大改造をやろうということで、こういったケースは戦後の中進国に実に多く起こっている。もっとも三年先に民政に移管するといった計画があったかどうかは明らかではない。否、それどころか、決起後の新しい体制さえ彼らには明確であったとは思えない。

 

 

ただ彼らは、「日本改造法案大綱」の次の部分は読んでいたであろう。

 

 

天皇は国民の総代表たり。国家の根柱たるの原理主義を明らかにす。この理議を明らかにせんがために、神武国祖の創業、明治大帝の革命に則りて宮中の一新を図り、現時の枢密顧問官その他の官吏を罷免し、以て天皇を輔佐し得べき器を広く天下に求む。

 

 

華族性を廃止し、天皇と国民とを阻隔し来たれる藩屛を撤去して、明治維新の精神を明らかにす。

貴族院を廃止して審議院を置き、衆議院の決議を審議せしむ。

審議院は、一回を限りとして、衆議院の決議を拒否するを得。

審議院議員は、各種の勲功者間の互選および勅選による。

 

 

二十五歳以上の男子は、大日本国民たる権利において、平等普通に衆議院議員の被選挙権および選挙権を有す。

地方自治会またこれに同じ。

女子は参政権を有せず」

(略)

 

 

 

そういう時代には北一輝が先覚者のように見え、二・二六事件に新たな評価を下す人が現れても不思議ではない。”社会民主主義者・北一輝”に強い共感を抱いたのは何も”全共闘の学生”とそのシンパだけではない。そういう人から見ると、天皇はまことに頑迷な重臣たちの「ロボット・鈍行馬車」、というより、重臣の中心で「凡庸で困る」存在、磯部浅一が呪いに呪った対象に見えて来る。

 

 

私自身、当時の事を知っている人間として批評ないし感想を求められたことは一再ではない。そしてその際につくづくと思うことは、その時代が過ぎると、その時代の人が実感していた事実は、結局は分からなくなるということである。

 

 

というのは彼は、この革命の実施は、天皇を長とする軍(陸軍)が在郷軍人とともに実施すべきだと考えた点である。これが、彼の考え方がナチスともファシストとも違う点であった。彼ら(ナチスファシスト)は革命の手段に軍隊を用いておらず、あくまでも議会で多数党となり、その多数にファシスト独裁法やナチス授権法(ナチスに全権を委任する法)を制定させることにより、独裁権を獲得するという方式である。両国では軍は動いていない。(略)

 

彼は軍と在郷軍人に期待した。たとえば農地を制限し、一定以上を国有地とする場合「在郷軍人団会議は在郷軍人団監視の下に私有地限度超過者の土地の価格徴収に当たることとする」と記す。いわば、天皇戒厳令施行中に、在郷軍人団を、改造内閣の直属機関として国家改造中の秩序を維持させるとともに、全日本の私有財産限度超過者の調査・徴収に当たらせるわけである。

 

 

そして互選により在郷軍人団会議を造らせ、これを常設機関とするという。

いわば軍人と在郷軍人で全日本を抑え、その革命の勲功者の互選で審議院をつくり、在郷軍人団会議を母胎に衆議院の選挙を行なえば、それは結果においてファシスト独裁法に似た軍部独裁法へと進むということであろう。

 

 

余談になるが、私が日本の新聞を信用できない理由の一つは、この種の”改革”に常に共感と賛同を示すことである。

私のような「軍」にいたことのある人間には、それが「官軍」と呼ばれようと「解放軍」と呼ばれようと、また「連合赤軍」と呼ばれようと、もうたくさんだという気がする。

 

 

「御公家かついで壇の浦」

 

以上で充分であろう。以上を読まれただけで、なぜ青年将校が「日本改造法案大綱」を聖典のようにしたかの理由が納得できるであろう。

と同時に、それによって生まれた社会での現実がどんなものか、戦前を経験された人はある程度想像がつくであろう。

 

 

それは戦争末期とやや似た状態である。すなわちあらゆるところで軍人・退役軍人・在郷軍人が権力を揮い、軍隊的な高圧的な態度で国民を圧服させ、無言の隷従を強いた時代であった。われわれの世代は、それに何らかの評価を与えうることは出来ない。

 

 

そして私の世代が、昭和天皇に何らかの親近感を持つのは、天皇がそれを受け付けなかったということを、何となく感じ取っていたからである。

 

 

革命が天皇によって阻止されたことを知った時、磯部浅一天皇を呪いに呪っても不思議ではない。そして、前述のようにそんぼ呪いは、天皇以外のものにはある種の作用を及ぼした。彼らに非常に同情的だったのが近衛である。

 

 

当時のいわゆる革新派は、ニ・二六方式は諦め、ナチス型で目的を達成しようと方向を変えた。すなわち大政翼賛会をつくり、議会を無力化し、ナチス授権法のような法律をつくって独裁権を行使しようとする行き方である。これはある程度は成功したが、彼らの前には憲法天皇があり、司法権の独立は如何ともしがたい。

 

 

翼賛会に挑戦した尾崎行雄を告訴しても無罪になる。同じように津田左右吉博士は免訴になる。気に入らぬ者はナチのようにガス室に送り込むことは出来ない。さらに、陸海軍は別々で一体化しておらず、むしろ反目している。

 

 

法律は、枢密院で違法か否かを審査されたうえでなければ、上奏・裁可は不可能である。

意志弱き「仮装のヒトラー」近衛は、中途半端で投げ出してしまう。ヒトラースターリンのように強権の発動はもとより不可能であったのは幸いであったが、これが一面では不幸であった。時代は、近衛内閣の外相を辞任せざるを得なくなった宇垣一成が言ったように「御公家かついで壇の浦」へと進んでいく。

 

 

天皇機関説のどこが問題にされたのか

 

問題はどこにあったのであろう。天皇機関説明治憲法当然の帰結であり、天皇憲法を絶対としているから、機関説を当然とし、そのとおりに実施している。では、機関説の問題点とはどこなのか。(略)

 

 

前に、政府には軍を抑えることは出来ないといった近衛の言葉(139ページ)は「逃げ口上」だと述べたが、軍を抑えるか野放しにするかの権限は、軍事予算を握っている者が握っている。たとえ美濃部学説どおりにならなくても、この点では変わりはない。

 

 

近衛が「不拡大方針」を宣言したなら、拡大できないように「臨時軍事費」の全額は削ればよい。

彼にはそれが出来ない。出来ないのは勇気がないことと軍の行為を妙に容認する点があったからだが、戦後になると、これは「天皇親政のたてまえ」から天皇しか出来なかったのだと言う。

 

 

では、天皇に出来るか。機関説に基づけば、「議会は天皇の命令に服するものではない」し、出来ないに決まっている。では、機関説を否定すれば出来るか。もちろん出来ない。明治憲法がある限りは――。(略)

 

 

立憲君主制とは制限君主制であり、天皇自ら言われているように、「憲法の命ずるところにより」すべてを行なうのであるから、もし天皇の命令が「違法」なら、大臣はこれを「執行せざる責任を有する」。右翼はこれを、大臣を天皇の上に置くものとして厳しく攻撃したが、もちろんこれは誤りで、天皇の上にあるのは憲法であって大臣ではない。

いわば「絶対」なのは憲法であって「天皇」ではない。(略)

 

 

それなのに、これを否定する「国体明徴運動」が起こり、議会は国体明徴決議なるものを行なう。「機関説」は封じられ、日本人はすべて天皇の意志どおりに動くべきだといった言説が出てくる。

国民は何となくそんな気持ちになる。ところが、実際には「機関説」どおりで何一つ変わってはいない。

 

 

前述のように、天皇はこれを「神学論争」のように言われたが、まことに適切な表現である。というのは神学論争でいずれの側が勝とうと現実には何の変更もない。(略)

確かに”異端者”は次々に葬り去られたが、最大異端者・天皇は葬り去るわけにいかない。

 

 

天皇終戦の時まで明治憲法どおりで、その頑固とさえ感じられる持続力は、少々不思議に思える。というのは普通の人間なら少々ぐらぐらするであろう。当時の”空気”を知っている私には、天皇のこの異常なまでの「頑固さ」と「継続性の保持」は、とうてい常人の為せるわざとは思えない。

 

 

 

そして諸外国の天皇への誤解は、主としてこの点にある。というのは世界史において、制限君主制の下で、この制限を破ろうとするのが君主で、破らせまいとするのが議会であるのが普通であった。

 

 

すなわち「国王と議会との闘争」である。ところが日本では「憲法停止・御親政」、すなわち天皇独裁を主張する強力な勢力があるのに、君主自身が頑としてこれを拒否し、一心に「制限の枠」をその自己規定で守っている。これは世界史に類例がない不思議な現象だから、例外的な一部の知日家を除けば、この点を誤解するのは当然であろう。

 

 

誤解は外国人だけではない。一般の日本人も、機関説が否定されると「明治憲法絶対」でなく「天皇絶対」のように錯覚する。(略)

 

 

ただ「機関説否定=国体明徴=天皇絶対」をそのまま受け取り、戦後にそれを裏返すと、すべての責任は天皇にあったことになってしまう。前述のように、これを的確に指摘しているのが津田左右吉博士である。

 

 

天皇の戦争責任を論ずる人の言説に耳を傾けていると、時々、妙な気持ちになる。その人は「機関説否定・天皇絶対」を今でも裏返しに信じているような気がしてくるからである。また時には、機関説を保持する北一輝に心服しつつ、機関説排撃に決起した青年将校の「盲信の悲劇」の裏返しを感ずる場合もある。

 

 

しかしその悲劇には起こるべき理由があった。いまの国会は立派だと言いかねるが、各人が一応生活していければ世の中は落ち着いている。一方戦前の帝国議会は、お世辞にも今の国会より立派とは言えない。そして社会には、現実に食えない人が充満していた。

 

 

一方、ファシストのイタリアもナチスのドイツも、あらゆる、問題を実に能率的に克服して、すべての問題を一掃したように見えた。否、少なくとも新聞はそう報じた。それは中国の「大躍進」や「文化大革命」のときの報道と共通する一面を持っていた。それに、少なくとも一部の人間がどのように反応したかは、現在でも、ある程度は想像可能であろう。(略)」

 

〇 大政翼賛会を作ったのが近衛文麿だとは知りませんでした。ここでは、近衛は卑怯な奴のように書かれていますが、歴史に疎い私が今まで感じていた近衛のイメージは、違いました。

 

もともとの政治家ではなく、「御公家さん」なので、金もうけや名誉欲で政治家になったわけではない、戦争を避けるために、最後まで頑張った…的な説明を聞いたからだと思います。

 

また、中国の「大躍進」や「文化大革命」が例に挙げられているのを見て、確かに私自身も、あの頃、共産主義は素晴らしいと、漠然と感じていた、と思い出します。特別何かの本を読んで勉強したわけでもないのに、なんとなく、流れて来るラジオの番組などから、そんな風に感じていたのですから、いかに、その時の雰囲気で、簡単にイメージが植え付けられてしまうものなのかを実感します。