読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

「十一章 三代目・天皇と、三代目・国民

      = 尾崎行雄が記した国民意識の移り変わりと天皇の立場

 

対中国土下座状態の一代目

 

前述のように、尾崎行雄安政五年(一八五八年)の生まれ、杉浦重剛より四歳年下だが、ほぼ同世代と言ってよい。この時代の人々の特徴は「憲政の明治」は「自分たちが創出した新しい体制」だという意識であった。

 

 

残念ながら戦後人は、戦後の体制は自らが創出したという意識を持ち得ない。この点では、明治人の「憲政絶対」は、それを口にする戦後人より強烈であったと言える。

しかし、戦前の一般民衆がその意識を共有していたか否かという点になると、これはむしろ戦後の逆であり、憲法とは一体どのようなものかを知らず、知ろうとさえしなかったと言ってよい。(略)

 

 

 

昭和の戦後もまた決定的な失敗はなく、経済的には成功に成功を重ねている。戦後を二十五歳で迎えた私などから見ると、この異常な成功に基づく「不誇驕慢」「逆上懈怠軽挙盲動」は、いずれはその「ツケ」を払っても不思議でないという気がする。だがそう思う人間は、いずれも今では年金受給者、やがてその世代が世を去れば、その種の危惧を懐く者さえいなくなるであろう。

 

 

 

尾崎行雄にとっての昭和初期はそういった時代であった。彼の言葉は、日本の将来にとっても参考とすべき点があると思うので、少々長いが次に引用しよう。

 

 

 

「明治の末年においては、朝廷はまだ御一代であらせられたが、世間は多くはすでに二代目になった。三条(実美)、岩倉、西郷、大久保、木戸らの時代は、既にさって、西園寺(公望)、桂(太郎)、山本(権兵衛)らの時代となっている。

 

 

これはひとり政界ばかりでなく、軍界、学界、実業界等、すべて同様である。故に予がいう所の二代目は、明治末より、大正の末年までの、およそ三十年間であって、三代目は昭和以後のことである。

 

 

全国民が三代目になるころは、朝廷もまた、たまたま御三代目にならせ玉われた。しかし、予が該川柳を引用したのを以て、不敬罪の要素となすのは、甚だしく無理である。それはさておき、時代の変遷によりて起これる国民的思想感情の変化を略記すれば、およそ左のとおりである。

 

 

(甲)第一代目のころの世態民情

この時代は、大体において、支那崇拝時代の末期であって、盛んに支那を模倣した。(略)

 

今日でも、年号や人名をば、支那古典中の文字より選択し、人の死去につきても、何らの必要もないのに、薨、卒、逝などに書き分けている。

この時代には、新聞論説なども、ことごとく漢文崩しであって、古来支那人が慣用し来たれる成語のほかは、使用すべからざるものの如く心得ていた。

 

 

 

現に予が在社した報知新聞社の如きは、予らが書く所の言句が、正当の言葉、すなわち成語であるや否やを検定させるために、支那人を雇聘していた。以て支那崇拝の心情がいかに濃厚であったかを知るべきだろう」

 

 

校閲のため、新聞社が中国人を雇ったとは、今では少々不思議な感がするであろう。しかし日本人の「慕夏思想」すなわち中国崇拝模倣は徳川時代に始まるのであってそれ以前にはないことは、秀吉の朝鮮戦役の捕虜・姜沆の「看羊録」を見ると分かる。

 

 

信長・秀吉・家康などの私的な手紙は、今読むとカナ文字論者の手紙の用である。これが綱吉(五代将軍)の時代にやや変わり、しだいに浸透したとはいえ、中国化が民衆にまで進むのは、幕末から明治にかけてである。福沢諭吉の「脱亜入欧」は、こういう歴史を背景に理解すべき言葉である。

 

 

「予は、明治十八年に、はじめて上海に赴き、実際の支那と書中の支那とは、全く別物なることを知り得た。特に戦闘力の如きは、絶無と言っても良いことを確信するに至った。故に予はこれと一戦して、彼が傲慢心を挫くと同時に、我が卑屈心を一掃するにあらずんば、彼我の関係を改善することの不可能なるを確信し、開戦論を主張した。

 

 

しかし全国大多数の人々、特に知識階級は、いずれも漢文教育を受けたものであるから、予を視て狂人と見做した。(略)」

 

 

明治初期の対中国土下座状態には、さまざまな記録がある。一例を挙げれば、清国の北洋艦隊が日本を”親善訪問”し、長崎に上陸した中国水兵がどのような暴行をしても、警察官は見て見ぬ振りをしていたといわれる。

 

 

土下座外交は何も戦後にはじまったことではないが、この卑屈が一転すると、その裏返しともいうべき、始末に負えない増長(上)慢になる。ここで尾崎は第二世代に入る。」