読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

陸相人事に見せた、天皇の警告的御希望

 

(略)

ただこの「御希望」がもし、「意に満たぬものを持ってきたら裁可しないぞ」となったらどうであろうか。

昭和十四年八月、独ソの電撃的な不可侵条約の締結に、平沼内閣は「欧州の天地は複雑怪奇な新情勢」と声明して総辞職した。この年の四月、大島駐独大使と白鳥駐伊大使が、板垣(征四郎)陸相の意を受けて、独伊が第三国と戦う時は日本も参戦すると意思表示し、天皇がこれを大権の干犯と憤慨されたことはすでに述べた(16ページ参照)。

 

 

この平沼内閣が倒れ、阿部(信行)内閣が組閣するとき、天皇陸相の暴走を警戒され、次のように言われたと「西園寺公と政局」にある。

 

 

「どうしても梅津(美治郎)か畑(俊六)を大臣にするようにしろ。(それ以外の者は)たとえ陸軍の三長官が議を決して自分の所に持ってきても、自分にはこれを許す意思はない。なお政治は憲法を基準にしてやれ。外交は英米を利用するのが日本のためにいいと思う……」

 

 

いわば梅津か畑でなければ「これを許す意思はない」と陸相を予め指名されているわけで、これは単なる「御希望」とは言い難い。もっとも陸相を直接に指名することは、明治憲法の第十条に基づけば憲法に違反しているとはいえないであろうが――。

 

 

しかし、いずれの国でも憲法に基づく慣例があり、イギリスではいわば慣例だけである。内閣が責任を持つ以上、閣僚は総理が選定し、その名簿を奉呈して御裁可を受けるのが通例である。組閣前に天皇陸相を指名し、それでなければ「許す意思はない」と言われたら、これは「命令」に等しい。これは板垣陸相の大権干犯に対する異例の処置だが、こういう処置もなかったわけではない。

 

 

 

高松宮・海軍中佐の「内奏」を無視

 

さらに「内奏」という問題がある。もっともこの言葉は、二とおりの意味に用いられているので注意を要する。たとえばアメリカではレーガン大統領の時「ナンシー人事」という言葉があった。(略)

 

 

この点、あらゆる資料を見ても、「皇后人事」とか「皇族人事」といった様子は、全くない。さらに人事だけでなく政策も同じこと。ミッドウェー敗戦の後、高松宮が敗戦必至と内奏されたが、天皇は受け付けなかった。弟宮の言葉としては聞いても、天皇は一中佐の内奏に耳を傾けて、それによって何らかの決定を下すことはされず、この場合、海軍軍令部長の奏上しか受け付けない。こういう意味の「内奏」で、天皇が動かされたといった気配はない。

 

 

もう一つの「内奏」は、ご裁可を得られるか否かわからない問題について、総理なら総理が、事前に原案を説明して内諾を得ておくという慣行である。これはあくまでも慣行であって、前記の「恩赦」の場合のように行われなくてもよい。ただこの「内奏」の際、天皇の強硬な反対にあって取りやめた例は、決して少なくないらしい。(略)

 

 

多少わかるのは、天皇がそのことを内大臣侍従長に話された場合だけだが、それで見ると、大体、次のような場合である。

 

 

昭和十九年七月、戦局はいよいよ悪化し、内閣はすでに戦争早期終結を目指す小磯(国昭、陸軍大将)・米内(光政・海軍大将)内閣である。陸軍はすでに、天皇の安全と指揮系統保持のため、大本営移転計画を進めていた。長野県の松代に大洞窟陣地を造るという計画、俗にいう松代大本営で、すでに工事がはじまっていた。

 

 

また一部には大陸移動を主張する者もあり、私もフィリピンで「たとえ本土決戦に敗れても、関東軍天皇を奉じて百年戦争を戦う計画である」などという、若手参謀の方言を聞かされたものである。ただ首都を放棄することに、天皇が果たして賛成されるかどうか、陸軍には自信がない。こういうときに「内奏」が行われる。天皇は反対された。

 

「自分が帝都を離るる時は、臣民、ことに都民に対し不安の念を起こさしめ、敗戦感を懐かしむるの虞ある故、統帥部において統帥の必要上、これを考慮するとするも、出来る限り万不得止場合に限り、最後まで帝都に止まるように致したく、時期尚早に実行することは、決して好まざるところなり」

              (「木戸日記」昭和十九年七月二十六日)

 

 

 

なお、二十年三月、東京大空襲となり、いよいよ危険が迫った五月中旬、梅津参謀総長が宮中に伺候し、松代大本営もようやく完備したので、移転あらせられるよう願い出た。しかし天皇は頑として拒否された。そして五月二十四、二十五、二十六の大空襲で皇居は焼失したが、それでも天皇は動こうとしなかった。

 

 

こういう点になると、周囲の者は「頑固」という感じさえ持ったであろう。(略)

 

 

出光侍従長は講演の中で次のように語っている。

「(天皇は)厳格で、一度定めたことは容易に変更せず、また、事柄が理に合わねば、事の軽重にかかわりなく、決してお許しにならない。御裁可を仰ぐ書類も、条理に合わぬと御裁可なく、幾日でも宮中に御留めおき遊ばすのである」

 

言うまでもなく立憲君主は、正規の手続きを踏んで奏上されたものは、「意に満ちる」場合も、「意に満たない」場合も、裁可を拒否することは出来ない。ただ、納得せずに裁可することは、天皇には出来なかった。差別用語になるかも知れぬが、俗にいう「めくら判」は、押さないということである。(略)

 

 

 

「君臨すれども統治せず」とは、正規の手続きを経て上奏された者は裁可するが、あくまでも納得の上で裁可するということだと理解してよいのだと思う。天皇は国民を代表しているのだから、天皇を納得さすとは国民を納得させ、すべてを国民の納得の上で行なうというのが立憲君主制の本義であると天皇は理解されていたように思われる。(略)

 

 

 

「聖断」を未遂に終わらせた”もう一つの事件”

 

では、なぜ天皇は「立憲君主」から一歩を踏み出そうとしなかったのか。天皇も人間だから、「やむにやまれず……」といった気持ちになられても、それは少しも不思議ではない。この点で「ニ・二六事件」と「終戦」は、天皇自身が「立憲君主としての道を踏みまちがえた……」と自認されているからひとまず除く。

 

 

もう一回が、前に少し触れた昭和八年の「熱河作戦」のときの天皇の御発言である。天皇はこれが中国との衝突にならないかと深く懸念され、相当に興奮されて、直接に作戦中止を命じようと、奈良侍従武官長に次のように言われた。

 

 

 

「軍の態度に疑念あり。日支両国はまさに平和を以て相処すべく、兵威を以て相見るべきではなく、兵をきわめ、武を汚すことは立国の道ではない。(大元師の)統帥最高命令により、これを中止させることは出来ないか」

 

 

今の人にこの話をすると、みな天皇の質問事態を不思議がって、妙な顔して私に言う。「ヘーェ、変じゃないですか。天皇大元帥陛下で陸海軍総司令官でしょ。「出来るか」、「出来ないか」の問題じゃないはず、「中止せよ」と命令すればいいじゃないですか」。これは「戦後の常識」であり、「天皇の戦争責任」という言葉の背後にあるのが、ほぼこの認識であることは、質問してみると分かる。

 

 

すなわち、太平洋戦争の開戦でも、天皇が「中止せよ」と命じたら中止出来たはずだ、という前提に立っている。

このとき天皇は、鈴木貫太郎侍従長とも相談している。彼への天皇の信頼は絶対的であったが、奈良武官長も新任厚く、その点では後任の本庄武官長以上であっただろう。そして奈良武官長は次のような意見であった。

 

 

「国策上に害があることであれば、閣議において熱河作戦を中止させることが出来る。国策の決定は内閣の仕事であって、閣外のものがあれこれ指導することは許されない。もし陛下の命令でこれを中止させたりすれば、それは大きな紛擾を引き起こすこととなり、政変の因とならないという保証はない」

 

 

 

言うまでもないが、これは「機関説」時代のことであり、以上の言葉の少なくとも前半は、美濃部博士が満点をつけた答案であろう。「国策の決定は内閣の仕事」であり、閣外の人間は口を出すことは出来ない。簡単にいえば「内閣の閣議決定に対して天皇は拒否権を持たない。天皇閣議に出席して意見を述べることはもとより、閣議に出席することも出来ない」ということである。(略)

 

 

 

熱河事件は、政府が二月十七日に国際連盟満州撤退勧告案を拒否、熱河侵攻を決定し、関東軍の作戦開始はその一週間後の二月二十三日である。実質的には軍部に引っ張られたのであっても、天皇がこれの中止を命ずれば、議会で信任されている内閣の閣議決定を、天皇がひっくりかえすことになる。それがどのような「紛擾」を起すか予測がつかないという奈良侍従武官長の言葉は確かにそのとおりだという以外にない。

 

 

もしこれを強行すれば、天皇は「立憲君主」とは言えなくなるであろう。

それは天皇には出来ない。しかしそれを守れば「陸海軍総司令官、大元帥陛下」の天皇は、その名のみで、実は何も出来ない。立憲君主の”命令”は、「熱河作戦中止」にまでは踏み込めないのである。もっとも「大元帥」という言葉は、明治憲法にはない。

 

 

もし、天皇閣議決定を拒否していたら…

 

昭和には様々な岐路がある。人はあまり注目しないが、この「熱河作戦」は、確かに一つの岐路であり、これが日華事変の種子となり、太平洋戦争へと発展していく。歴史には仮定がないが、もし天皇が「立憲君主の枠」を踏み越えて、「二月十七日の閣議決定」を拒否したら、どういう結果になったであろうか。

 

 

否、そのまえに、天皇が、絶対視している明治天皇明治憲法発布勅語「朕及び朕カ子孫ハ将来此ノ憲法ノ条章ニ循ヒ之ヲ行フコトヲ愆ラサルヘシ」を無視しても、あえて一線を踏み越えようとした理由はどこにあるのか。

 

 

それは満州事変にある。柳条溝事件、すなわち鉄道爆破ぐらいまでは、軍の「陰謀」でも出来る。しかし、それを機会に増援軍が来てくれなければ、事件が線香花火で終わることは、軍自身が最もよく知っている。問題は在朝鮮軍が越境して進撃して来るか否かである。

 

 

 

確かに当時、日本は満州に利権を持ち、この地は張学良が半独立的に支配しているとはいえ、「越境」は中国との戦争を意味し、単なる「現地駐留軍の起こした一事件」ではなくなる。

 

 

天皇がそれを許可しないことは明らかで、内意をうかがっても、とうてい許可は不可能なことを軍部はしっていた。そこで内閣を動かし、出兵とその経費支出を認めさせた。これは「閣議決定」であり、天皇は許可する以外にない。天皇は激怒され、金谷(範三)参謀総長を難詰されたが、それ以外のことは出来ない。

 

 

さらに問題は世論である。当時の朝鮮軍司令官は、前述した林銑十郎であり、「独断越境司令官」などと称賛される状態である。ただ天皇の厳しい態度に、軍はしばらくおとなしくしていたが、「熱河作戦」で、また同じ手を使った。天皇には、ここで何とかせねばというお気持ちがあったであろう。

 

 

戦後になると、「軍が独走した」「軍部が悪い」「統帥権は独立しているから、これを押さえられなかった天皇の責任だ」ということになる。だが「軍の独走」などということがなければ何も出来ないのは他の官庁と変わりはない。軍もまた厖大な官僚機構である。

 

 

 

簡単に言えば三度の食事さえ、正規の「食事伝票」を切らねば支給されない。被服・兵器・弾薬・車両はもちろん、民間の軍需産業からの購入であり、移動にはすべて運賃を払っており、厖大な給料を支払っている。

 

 

その一大官僚機構を「予算」なしに動かすなどということは、もとより不可能であり、その予算は、内閣と帝国議会が握っており、軍が握っているわけではない。

 

 

「独走」というが、軍と内閣が「野合」しても「帝国議会」の承認がなければ、軍は動かせない。問題はその自覚が強烈だったのが軍であり、その自覚がなかったのが政治家で、その典型が「不拡大方針」を声明しながら「拡大予算」を組んでいた近衛である。

 

 

問題は、この「熱河作戦」のとき、天皇憲法を無視し、閣議決定を拒否したらどうなったかであろう。歴史の仮定は無意味かも知れぬが、これにゆおって日本の運命が変わり、日華事変も太平洋戦争もなかったかもしれない、と空想したいところだが、現実には、ニ・二六事件が早まり、もっと激烈な事件が起こり、奈良武官長の言うように、「陛下の命令でこれを中止させたりすれば、それは大きな紛擾を惹き起こすこと」になったであろう。(略)

 

 

 

この問題は、前述した田中内閣のときの「説明は聞く必要がない」にはじまり、それ以来、昭和二十年までつづく。このとき天皇は激怒されたが、結局は「閣議決定」は受け入れて裁可されている。

 

内閣は議会の信任によって成立しているのだから、その決定を拒否することは「タテマエ」からいえば、天皇と国民との正面衝突ということになるからである。

 

 

 

帝室とは「虚器を擁するもの」なのか

 

「タテマエ」を別とすれば、現実問題として、「国策決定は内閣の仕事」というより「軍部の仕事」となっていく。天皇は明らかに憲法に違反せず、これを何とか出来ないかと考えられている。

 

 

そこで明治天皇の先例を引かれ、「御前会議(または午前閣議)での決定」という方式は採れないかと、早くもこのときに提案されている。しかしこれは、西園寺公望以下、みな反対であった。

 

 

 

その反対の理由づけには、さまざまな解釈があるが、「タテマエ」論は別として、私は結局、イギリスを模範としたのだと思っている。(略)

 

 

 

そして、そこでの天皇の役割はいわば「議長」であり、会議の決定への拒否権は持たない。もちろんご希望は述べられることはあっても、終戦の時を除けば、記録に残るのは第六回御前会議(戦争を辞せざる決意のもと外交交渉を行ない、要求が通らぬ時は開戦を決意)のとき、明治天皇の御製を朗誦され、強い平和への意向を示されたことが、例外としてただ一回残されているだけである。

 

 

しかし、これも結局は無視された。さてこうなるとわれわれは、一体、どう考えたらよいのか、ということになるであろう。

福沢諭吉の「人あるいはわが帝室の政治社外に在るを見て、虚器を擁するものなりと疑う者なきを期すべからざるといえども…」までを読むとこれではそういう感じがするなあ」と思うのが普通であろう。

 

 

そこで問題は「では天皇とは一体……」となる。」

 

 

〇 一番大きな権威、誰もがそれを認める権威がある時、不必要な権力争いがなくなり、その権威の下に、人々が纏まる。人間社会には、そんな力関係の絡繰りがあるらしい、ということは理解できます。

 

でも、天皇制はとてもわかり難い。きちんと正しく理解することが出来ない国民が多い時、また戦前のように、天皇を現人神のように奉る空気が生まれてしまうのでは、と心配になります。

 

というのも、この教育が行き届いたはずの日本で、文化水準が欧米並みに高くなったように見えるこの日本で、平然と、公文書の改竄が行われました。しかも、その官僚は、不起訴になり、今や、公文書や議事録を残さない方針が取られるようになっています。

 

本来であれば、それを追及するはずのジャーナリストも、いつの間にか、沈黙し、何事もなかったかのように、次の話題へ関心を移しています。

 

安倍政権はあからさまに司法の人事にまで介入し、法さえ、

自分の力で抑え込もうとしています。ここまで露骨に法を踏みにじることが出来るのは、国民がそれを黙って許すと思っているからです。

 

実際、黙って許して来たから、今も安倍政権は続いている。

恐ろしくてたまりません。