読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

「津田博士の神代上代史観

 

この津田左右吉博士は、東宮御学問所で裕仁親王に歴史を教えた前出の

白鳥庫吉博士の高弟、いわば、歴史学では天皇の先輩である。その彼の上代史に関する研究は、しばしば東大右翼学生の批判の的となり、時には「つるしあげ」のような状態にもなった。

 

 

そして昭和十四年、蓑田胸喜国家主義者で、機関説排撃の理論的指導者)が「原理日本」という雑誌で「津田左右吉氏の大逆思想」という論文を掲げて熱烈な口調で攻撃した。

 

 

まず彼は、津田左右吉が「神武天皇から仲哀天皇まで十四代に亘る「古事記」「日本書紀」の記事」は「お伽話的方式における「全然後の修史家の虚構」であり、「全部架空譚」」であると断定していると憤慨し、次のように述べている(傍点は原文のまま、一部文字遣い改め。以下同じ)。

 

 

「かくの如き津田氏の神代上代史捏造(ねつぞう)論、すなわち抹殺論は、その所論の正否にかかわらず、掛けまくも畏(かしこ)き極みであるが、記紀の「作者」と申しまつりて「皇室」に対し奉りて極悪の不敬行為をあえてしたものなるは勿論(もちろん)、皇祖 皇宗(こうそこうそう)より仲哀天皇に及ぶまでの御歴代の御存在を否認しまつらむとしたものである。

 

 

天皇機関説」はなお、天皇の御存在は認めまつっているもので、統治権の主体に在しますことを否認しまつったのであるけれども……。(中略)(略)

 

 

「「現日本万悪の渦源」を禊祓せよとの神意を畏みまつりて、内務・文部・司法当局は速やかに厳重処置を講ずべく、全国同志の立つべきはいまである」

 

 

と結んでいる。もっとも「国史上全く類例なき」は彼の勉強不足で、徳川時代に町人学者山片蟠桃もまた「夢の代」で、これとよく似た身方をし、「応神記」以前は、歴史とは見ていない。

 

 

「告発マニア」とでも言うべき蓑田胸喜のようなタイプは、左右を問わず時々日本に出現するが、精神分析の対象としては興味ある人物かも知れない。彼はあらゆる方面に執拗に働きかけ、その結果、ついに検事局は津田左右吉博士と、彼の著作を刊行した岩波茂雄を「出版法違反その他」で告発した。

 

 

しかし当局はあまり乗り気ではなかったらしく、この管、約二年を要し、昭和十六年十一月一日から公判が開かれた。彼の著書は発売を中止され、裁判は非公開であったから、裁判がどのように進められ、どのような審査が行われたのか、戦後になってもすぐにはわからなかった。(略)

 

 

昭和二十一年、岩波書店の「世界」は津田博士に寄稿を依頼した。来た原稿が「建国の事情と万世一系の思想」であった。これを読んで「世界」の編集部は跳び上がって驚いたのであろう、津田博士の論文と共に「津田博士「建国の事情と万世一系の思想」の発表について」という相当長い「編集者の記」がともに掲載えているが、いま読むと、何でこんな「言いわけ」を書かねばならぬか、なぜ野坂参三の所説などを長々と引用して、無理にそれと関連させねばならぬのか、少々不思議だが、これが時代の風潮というものであろう。

 

 

長谷川慶太郎氏(経済評論家)はこの「編集者の記」を、戦後ジャーナリズムの原点だと言われたが、そう言えるかもしれない。いま読むと、戦時中は確かにおかしかったが、戦後もまた、その裏返しのようなおかしな時期があったのだな、と思わざるを得ない。」

 

 

〇「おかしな時期」は今もまさにそうです。「日本独自のやり方」をしようとしている人々が、「おかしなルール」を復活させようとしているように見えます。本来は、日本のルール=世界に誇れるルールであってほしいのに、

人々を誤魔化すために嘘をつく、公文書改ざん、データは都合の良い数字だけを公表する、政権の良い所だけを報道するように圧力をかける、等々、日本独自のやり方って、卑怯者・恥知らずのやり方なのか…と思えてきます。