読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

「「仁徳天皇の御仁政」の伝説は、どこから生まれたか

 

一方、津田博士は、「日本書紀の記事の解釈であり」、それへの「非難なんであります」と言って「仁徳天皇の御仁政に関する日本書紀記載の本文」について詳しく記している。

 

 

有名な「朕高台に登りて以て遠く望むに、烟気域中に起たず。おもうに、百姓すでに貧しくして、家に炊くもの無きか……」ではじまる部分、昔はこれが小学校の教科書に「歴史的事件」として載っていたから、戦前の教育を受けた人なら、すべての人が知っているのでこの部分を採り上げよう。

 

 

これが実は歴史的事件でなく、その本文は「六韜」と「韓非子」からの引用で構成され、上代にはあるまじき記述があり、中国の聖天子を描く常套的手法が用いられていることを、実にこまかく論証している。

 

 

と同時に津田博士は、次に「記紀」が武烈天皇を暴虐天子として記しているが、それが「尚書」「呂氏春秋」「史記」の紂王の記述などからの引用で構成されていることを、事細かく説明している。いわば堯・舜のような理想的天子が出れば、桀・紂のような暴虐天子も出るというシナ思想をそのまま受け入れ、表現もまた引用であることを論証されている。

 

 

しかしこれらのことは津田博士が天皇制を否定したということではない。そして津田博士は日本という国がいかにして形成されたかへと進むが、その見方はあくまでも「生活の座」と、そこから生じた「記紀」の思想的特質という形になっている。(略)

 

 

津田博士の関心は、圧倒的に中国の影響を受け、その思想を導入しつつ国家を形成しながら、なぜ「万世一系という思想」—— 歴史的事件ではない —— が形成されたのか、まず、この点にあるであろう。

 

 

「皇室が如何にして日本の国家を統一遊ばされたかということの詳しい言い伝えがなかったということも、それ(国民全体の生活状態)と関連して居るものと思います。

 

 

上代の人間において人の語り草となっておることは、やはり戦争であります。子供が戦争の話を喜ぶと同じように、上代人の一番面白く思うことは、やはり戦争の話であります。

ですから、何処の民族の上代の歴史を見ましても、あるいは叙事詩のような文学上の作品を見ましても、その大部分は戦争の話であります。

 

 

戦争の話ならば、多くの人が面白くそれを語り伝えるのであります。上代人においては、何か変わった事件でなくては、語り伝えるということは少ないのであります。

ところが、我国の上代においては、あまり語り伝えることがないのであります」

 

 

これは大変に面白い見方である。というのは「建国史」や「王朝創立史」はみな「戦争物語」だと言っても過言ではないからである。ところが日本ではこれが少ない。(略)

 

 

なぜこういう物語が必要であったかというと、ここで「神代」と「人代」とを分けるためであったと論証されている。これは大変に面白い説で、多くの国の神話・伝説で「神代」と「人代」を分けているのが大洪水である。(略)

 

 

 

同じように、東征という航海で海にただよった後にカムヤマトイワレヒコ(神日本磐余彦尊)がハツクニシラスノ天皇(スメラミコト)(始馭天下之天皇)とされ、この天皇から書記は「人代」に入っているが、崇神天皇(第十代)もまたハツクニシラスと記されていることを津田博士は指摘する。つまり日本の場合、いわば神話時代から次の段階の伝説時代を経て、歴史時代に入っていく。

 

 

 

そもそも、日本は平和国家であった

 

「ところがわが国の上代においては、あまり語り伝えることがないのであります。

ないということは、平和であるということであります。昔のことがわからなくなったということは何であるかと言うと、平和な生活をしてきたということ、戦争が少なかったということであります。皇室が如何にして国家を統一遊ばされたかということの話があまり伝わらなかったということも、やはり武力を以て、すなわち戦争の手段を以て圧圧伏をせられるということもなかった、平和な上代において、次第に皇室の御威徳が拡がっていった、こういう状態であるとしますれば、語り伝えるべき著しい異変というものがありませぬ。

 

 

異変がないということは、すなわち、きわめて平和の間に、そういう国家の統一粉われたということになるのであります。

このことは日本の上代史、日本の起源を考えるにあたって、きわめて重要なことと考えます」

 

 

このように、じゅんじゅんと「記紀」に基づく上代の思想を説く津田博士の言葉を聞いていると、

「日本はそもそも建国のはじめから平和国家であった」と主張しているように感じられる。戦後に急にこういうことを言い出したら、それは「時代に迎合している」と言っても良いであろう。しかし津田公判がはじまったのは昭和十六年十一月一日、以上の記述は第十五回公判で十二月十一日、すでに太平洋戦争に突入し、国中が戦争で沸き返り、ラジオからは軍艦マーチが流れ、「勝った、勝った」で国中が興奮している時の陳述である。津田博士は次のように述べる。

 

 

「又(現今では)戦闘的精神を極度に発揮せしめるような国際状態になっておりますが、上代においては、今日とは全く違った有様でありますので、只今申し上げましたようなことが、一つの日本民族の国民性を養うのに大切なことと考えられるのであります。

 

 

そういう民族であったのであります。そういう民族が非常に長い間日本のこの土地に住んで、そうして日本民族として民族的な共同な生活を致しておりました」」