読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

「「アラヒトガミ」の思想は、どこから生じたか

 

こういう「生活の座(ジッツ・イン・レーベン)」で生きている日本人のところへ、中国から文字が入って来た。文字が入って来たことによって「記紀・万葉」が記されるようになった。もちろんそれ以前の記述があり、それを基にして記されたのが「日本書紀」だが、文字が入って来たということは、思想が入ってきたということである。このことを津田博士は強調される。言われてみれば当然のことで、思想を除いて文字だけ入ってくることはない。(略)

 

 

 

しかし、「記紀」は決して中国思想と同じではない。否、全く違うと言ってよい。ではどのようにして上代の日本独特の思想が形成されてきたのか。それはどのような思想なのか。これが津田博士の学問的関心の中心であろう。

 

 

そこに「アキツカミ」「アラヒトガミ」の問題が出てくる。こういう観念は中国にはないし、「万世一系」もないからである。

まず博士は、上代の日本人も「人」と「神」とをはっきり分けていることを指摘する。そうでなければ「神代」「人代」という分け方があるはずはない。この点、宣長の考え方と同じではない。(略)

 

 

 

天皇はまず「アラヒト」であり、「アラヒトガミ」と記されていても、上代の日本人の普通の神の観念とは違う存在であることを、津田博士は次のように言う。

 

 

「……その神(アラヒトガミのカミ)は、宗教的に祈祷を受け、祭祀を受けられて、あるいは供え物を受けられて、一々人々の日常生活を支配し、日常生活における禍福を与えられる、そういうお働きは天皇はなされないのであります。

 

 

 

天皇は「アキツカミ」であらせられます。その「アキツカミ」としてのお働きは、国家を統治あらせられる点にあるのであります。外の多くの神々が人々の御祭りを受け、祈祷を受け、それによって人々に、禍を下したり幸を下したりする、(天皇は)そういうことをなされるのではありませぬ。

 

 

それのみならず、そういう意味におきましては、天皇はやはり神をお祀りになるのであります。

天皇御自身が神をお祀りになるのでありまして、その点では天皇は神に対する人の位置にあらせられるのであります」

 

 

まさにそのとおりで、もしそうでなければ、拝めば病気が治ると信じられている新興宗教の教祖の方こそ「アラヒトガミ」になってしまう。(略)

 

 

 

だがこの膨大な講義をすべて記すわけにいかない。そこで、戦後の津田博士の論文へと移るが、津田博士の結論を一言で言えば「アラヒトガミ」とは「アラヒト象徴」だということである。

 

 

天皇は人間である、と同時に象徴であるというのが、津田博士の一貫した考え方であり「中央公論」(昭和二十五年七月号)所収の論文「元号の問題について」の中で次のように記されている。

 

 

「象徴という言葉は、法律上の用語としては、今度の憲法に初めて現れたものでありますが、実際は昔から象徴であられた。憲法で象徴という言葉を使ったのは、誰の考えから出たことか知りませんが、私はよい言葉を使ったものだと思います。

 

 

私自身のことを申すのは言いにくい気がしますが、私は皇室は国民的精神の象徴、または国民的結合の象徴であるということを、三十何年も前に公にした著書の中に、明白に書いております。

 

 

憲法についてはいろいろな意見もありましょう。完全無欠なものではないかもしれません。しかし皇室を国家および国民統合の象徴として規定してあることは、歴史的に形作られて来た日本の天皇の地位を性質を最もよく示したものとして、私は感服しているものであります………」

 

 

 

天皇が、中国型皇帝とならなかった五つの理由

 

事実、津田博士は天皇を象徴と規定した最初の人であり、その「天皇論」は戦前・戦後一貫して変わっていない。そして中国の皇帝は決して「アラヒト象徴」ではなく、天命により地の民を支配する支配者なのである。

 

 

「l公判記録」では、この中国思想についても詳しく述べられているが、この中国思想の圧倒的な影響下にありながら、天皇がなぜ中国型皇帝にならなかったのかを述べた、精緻をきわめた論証は省略し、それを要約したような、前記の「世界」の論文の中の五つの条件だけを、次に記そう。

 

 

「第一は、皇室が日本民族の外から来てこの民族を征服し、それによって君主の地位と権力とを得られたのではなく、民族の内から起こって、しだいに周囲の諸小国を帰服させられたこと」—— この点、天皇はウィリアム征服王(ザ・コンカラー)(ノルマン王朝を開いたイギリス王、在位一〇六六ー八七年)とは基本的に違う。

 

 

「第二は、異民族との戦争が無かったこと」—— もちろん局地的紛争があったことは事実だが、それらは政治体制に決定的影響を及ぼすようなものではなかったこと。

 

 

「第三には、日本の上代には、政治らしい政治、君主としての事業らしい事業が無かった、ということ」—— 簡単に言えば、当時の日本の「生活の座」は、そのようなことを要請しなかったということであろう。

 

 

 

もちろん時代とともにそうはいかなくなるが。

「こういう状態が長く続くと、内政において何らかの重大な事件が起こってそれを処理しなければならぬような場合にも、「天皇みずからはその局に当たられず、国家の大事は朝廷の重臣が相謀ってそれを処理するようになってくる」

 

 

―― これが政権と教権の分離のようになり、朝幕併存体制へと進む。

 

 

「第四には、天皇に宗教的の任務と権威とのあったことが考えられる」 

 

―― 日本の律令制は中国をそのまま模倣したのでなく、天皇の下に神祇官太政官とがあり、天皇はこの二つの上に君臨していた。太政官の方は時代の要請で変化し、摂関制となり、幕府制となって行くが、神祇官の方は変わらないで継続えいる。これは祭儀権と政権の分離といってもよい。

 

 

 

「第五には、皇室の文化上の地位が考えられる」 —— いわば、中国の先進文化を導入し、それによって、

「皇室はおのずから新しい文化の指導的地位に立たれることになった。このことが皇室に重きを加えたことは、おのずから知られよう。そうしてそれは、武力が示されるのとは違って、一種の尊さと親しさとがそれによって感ぜられ…… その文化の恵みに浴しようとする態度を採らせることになった」

 

―― このことは鎌倉時代になり、武家が政権を取っても明確である。朝廷は彼らにとって、あくまでも文化的に尊いもので、そのあこがれは、絶対的とさえいえる。

 

 

以上が津田博士の挙げている五条件である。そして津田博士は、このようにして形成されていった文化の継続性を願う気持ちが、言い換えれば民族の継続性への希求が「万世一系」という思想を生み出し「そういう思想を生み出した歴史的事実としての政治・社会的な状態に一層大いなる意味があることを、知らねばならぬ」とされる。

 

 

 

ということは、「天皇は国民統合の象徴」であるだけでなく、「民族の継続性の象徴」でもあるということになる。そしてこの点から「元号」について論じられている。だがこれについては省略しよう。」

 

 

〇 外からの征服者によらずに、民族が一つの国になった日本、ということで、そこには、征服者が支配することで一つの国にした場合とは違う

力関係ややり繰りや工夫が働いていたのだろうということは、わかるような気がします。

 

そして、その場合、「纏めること」「纏まること」が何にも増して最優先になってしまうだろうということも想像出来るような気がします。

 

安倍政権の人々が日本会議を後ろ盾にして、日本を取り戻そうと、

万世一系天皇制を持つ国」とか「単一民族のわが国」とか強調するのは、

そこを拠り所に「纏めたい」のだろうな、と思いますが、それによって、本当に護るべきは何なのかが、ズレているように思えてなりません。

 

天皇は国民の象徴であり、日本文化の象徴であるとするなら、まず、国民一人一人が大切にされ、生き生きと生きる国、豊かで文化的な生活が保障されている国にしなければならない、とは思わないのでしょうか。

 

一人ひとりの国民が惨めで悲しい生活を強いられているその象徴が天皇ということになると、天皇はまさに、惨めで悲しい象徴になっていまうのでは?

 

結局、日本会議の人々は、本気で我が国を「すばらしい天皇制をもつ国」に

しようとはしていないと思えてなりません。