読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

「文化的統合の象徴としての天皇

 

では天皇とは何なのか。戦前・戦後という題激変の間、一貫して変わらなかった津田左右吉博士の説を援用すれば、昔も今も「人間(アラヒト)・象徴」であるということになろう。

 

 

そしてその思想は、上代の日本人の「生活の座」と、その「国家形成」における、非軍事的、さらに非政治的ともいえる文化的統合によって生まれ、以後、さまざまな変転があり、時には例外もあったが、ほぼ一貫して継続してきた。

この時点で、故高倉テル氏の「本来、これは政治的な問題でなく、文化的な」問題であるという定義は興味深い。

 

 

天皇御自身はこのことをどう考えておられたであろうか。(略)

だがさまざまな機会に、生物学者歴史観を思わせるような面白い発言がある。軍部の機関説排撃に対して、天皇はしばしば本庄武官長と議論をしているが、そのなかに(昭和十一年三月十一日)、

 

 

「自分の位はもちろん別なりとするも、肉体的には武官長と何ら変わるところなきはずなり」

というお言葉がある。「肉体的には天皇はわれわれと何ら変わることのない人間じゃないか」と言えば、天皇御自身、「まさにそのとおり」と言われたであろう。すなわち「アラヒト」である。ただそれでありながら象徴でありつづけたのは、まさに「文化の問題」であろう。

 

人間は単なる「政治の対象」ではない。人間が、もし政治だけの対象であるならば、「少数民族問題」は発生しない。ソビエトがいかに強権を揮っても「民族」を消すことは出来ず、強圧が多少ゆるめばすぐ噴出するのが民族問題である。民族はもちろん人種ではなく、共通の継続的文化をともにその「生活の座」の中で保持しつづけてきた者である。

 

 

そして文化的統合の象徴が天皇であり、同時にそれは民族の継続性の象徴である。ヘブル大学の日本学者ベン=アミ・シロニー博士は、津田左右吉博士とは無関係だが、ほぼ同じような結論を出しているのが興味深い。

 

 

千葉周作に”死に方”を習いにいった茶坊主の教訓

 

前に杉浦の「倫理御進講草案」に基づく講義は、決して堅苦しいものでなく少年たちの喜びそうな挿話をまじえて話したという関係者の話を記した(68ページ参照)。

 

 

そのとき「後述する」と記したのが、実は「武力と文化の持つ力」といった問題である。特に裕仁親王は中学一年生、それを考えれば杉浦がむずかしい「文化論」などはせず、面白い挿話をしたのも不思議ではない。それが「兵」の章である。

 

 

杉浦は武力の必要を認めつつも、戦争が一国にとっていかに危険でかつ悲惨なものかを説く。これは彼のような年代、幕末に生まれ、戊辰の役、西南戦争日清戦争日露戦争を体験した世代にとっては痛切な実感であったし、講義はちょうど第一次大戦のまっただ中、「今や欧州全体にわたりて、戦塵空を掩う」時である。

 

 

戦争体験者は平和主義者(パシフイスト)になると言われるが、杉浦であれ、山川健次郎であれ、尾崎行雄であれ、常に革命や戦争への嫌悪感が背後にあることは、仔細に見ていくと分かる。(略)

 

 

実は同じ話が私が小学校のときの副読本にも載っていたので、それをも念頭に置きつつ、彼の講義を想像してみよう。要約すれば次のような話である。

 

 

 

幕末の頃、土佐の土方某というお茶坊主がいたが、彼は茶道の奥儀に達し、殿様は彼の点てたお茶以外は飲まないほどであった。参勤交代に行くとき、どうしても連れて行きたいが、茶坊主の身分ではそうもいかぬ。そこで士分に取り立て、武士にして連れて行った。ただこの「お茶坊主武士」は、剣の達人が見れば一目で「偽者」と分かる。(略)

 

 

ところがある日、和田倉門(江戸城の門の一つ)の近くである武士に「真剣の勝負」を申し込まれた。(略)

彼はその足で剣聖・千葉周作を訪れ、病中とことわられたのを強いて頼み込み、病床に招じ入れられ、事情を話した上で、次のように頼み込んだ。

 

 

「さてお恥ずかしきことなれども、(お茶坊主の)われいまだ剣法を知らず。とにもかくにも討たれて死すべき覚悟はしつれど、未練なるい死に様して恥を遺し、主名を汚すを恐る。ゆえに来たりて先生に見え、見苦しからぬ死をなすの方法を問わんとす。願わくば、先生これを教えたまえ」(略)

 

 

 

それは到底、目前の死を覚悟した人間とは思えない。

そこではじめて言う。

「よし、御身のために語らん……御身が剣道を知らざるを利なりとす。御身、心してわが言を聞け。

彼の武士と相対して互いに一刀を抜くや否や、御身は直ちに左足を踏み出して力を込め、大上段に振りかぶりて両眼を閉ずべし。いかなることありとも、その眼を開くこと有るべからず。

 

 

ややありて、腕か頭か冷やりと感ずることあるべし。これ切られたるなり。その刹那、御身も力に任せて上段より切り下ろすべし。敵も必ず傷つき、あるいは相打ちになるやも知れず。このこと決して背くべからず」(略)

 

 

 

時はたつ。お茶坊主・土方の方は、いつ「ひやり」とするか待っていたが、一向に何も来ない。不思議に思っていると「恐れ入った」という声がする。相手は刀を投げて土下座をしているのだが、かれはまだそのままである。

 

 

多くの見物人が集まっていたが、これを見て思わずドッと笑った。驚いて眼を明けて見ると目の前の土下座した武士が「恐れ入ったる御手のうちなり。われら及ぶところにあらず、つきてはわが一身を如何様にも処分し給え」という。

勝ちたいという野心は「捨て身」の前には無力であろう。(略)

 

 

 

周作は「事の始末を聞き、手を拍って喜ばれければ、両人はその面前において兄弟の約を定め、爾後親交渝らざりきとぞ」

 

 

この言葉で「兵」の項は終わっている。(略)杉浦がなぜこの話をしたか。元来、朝廷は「武」ではなく、いわば「丸腰」の非武装で「武家の幕府」の上にあった。それは上代以来の伝統的な文化の力によることを、幕末人の彼自身、体験的に知っていたからであろう。歴史に関心の深い天皇の歴史の読み方の視点は、この点でわれわれと違っていたものと思われる。」

 

 

〇 ここを読んで、これでは、まるで、憲法9条の精神ではないか、とびっくりしました。あの酷い戦争を体験し、「戦争放棄」の条文が出来たのだと思っていたのですが、それ以前の私たちの国の文化の中に、すでにそんな価値観があったのか…と。

 

 

 

「捨て身」の覚悟で成功したマッカーサー会談

 

では天皇は、この「民族の文化の力」といったものを信じておられたのであろうか。

天皇は単身、マッカーサーに会いに行かれた。丸腰で完全武装の相手に会いに行く。このときの天皇の行き方も、その論法もまさに「捨て身」である。何が起こるかは、一切予測できない。天皇がそのまま逮捕されるのではないかと思っていた側近もいたという。どのような会見であったか、信頼できると判断した資料はえに述べた。

 

 

そして、マッカーサーが、皇居へ帰る天皇を見送った時のことについて半藤一利氏は、次のように記している。

 

 

「……文字どおりに一身を犠牲にして責任を負う覚悟で会見にのぞんだ天皇に、マッカーサーが心を揺り動かされたことも、また確かのように思われる。会見を終え、宮城へ帰る天皇を見送ったあと、彼は副官のパワーズに言った。

 

 

「私は生まれながらの民主主義者だし、自由主義者として育てられた人間だ。しかし、これほど高位の、そしてすべての権威を持った人間が、いまこのように低いところに下ろされてしまったのを見ると、なんとも痛々しい」と」

   (「天皇マッカーサー」/ 「オール読物」昭和63年11月号所収)

(略)

 

 

会談を重ねて行くうちに両者の関係は微妙に変わっていく。第三回の階段で天皇は御巡幸についてのマッカーサーの意見を求める。マッカーサーはこれに賛成し、次のように言ったと半藤一利氏は記しておられる。

 

 

「「……米国も英国も、陛下が民衆の中に入られるのを歓迎しております。司令部かんする限り、陛下は何事をもなしうる自由を持っておられるのであります。何事であれ、私に御用命願います」—— この最後の、誇り高きマッカーサーが言ったという言葉”Please Command Me"が、まことに印象的に響くではないか」

 

 

〇 この後、十四章 天皇の”功罪”  終章 「平成」への遺訓 があって、

この本は、終わるのですが、ここで、一旦終わって、次回からは、

図書館から借りて来た「ホモ・デウス 上」のメモを始めたいと思います。

 

十四章へ続きます。