読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホモ・デウス (上) (第1章 人類が新たに取り組むべきこと)

「生物学的貧困線

 

飢饉から始めよう。飢饉は何千年も前から人類の最悪の敵だった。最近まで、ほとんどの人が生物学的貧困線ぎりぎりのところで暮らしてきた。(略)

古代のエジプトや中世のインドでは深刻な旱魃に襲われると、人口の五パーセント、あるいは一割が亡くなることも珍しくなかった。蓄えが尽きても、輸送にはあまりに時間と費用がかかるため十分な食糧を輸入できず、統治機関も脆弱過ぎて有効な手を打つことが出来なかったからだ。

 

 

どの歴史書をひもといても、飢えて狂乱した民衆の惨状に出くわさずには済まされないだろう。たとえば、一六九三年五月、フランスのボーヴェという町の役人が飢饉と食物の価格高騰の影響に触れ、自分の担当する地区全体が、「飢えと惨めな暮らしで衰弱し、困窮のせいで死にかけている無数の哀れな人々で」今や満ちあふれていると記している。

 

 

 

「仕事も働き口もなく、お金がなくてパンが買えないためだ……束の間の間でも生き長らえ、少しでも空腹を癒そうと、この哀れな人々は、猫や、川を剥がれて馬糞の山の上に打ち捨てられた馬の肉のような不潔なものまで口にする。

 

 

牛が屠られるときに流れる血を啜ったり、料理人が通りに投げ捨てる屑肉を食べたり「する者もいる」……イラクサや雑草を食べたり、草の根や葉を煮て食べたりする哀れな者もいる」(略)

 

 

一六九四年の春には、穀倉はすっかり空だった。金持ちは、どうにかため込んでいた食べ物には何にでも法外な値をつけて売り、貧乏人はばたばたと死んで行った。一六九二年から九四年にかけて、全人口の一五パーセントに当たるおよそ二八〇万のフランス人が飢え死にした。それを尻目に、太陽王ルイ一四世はヴェルサイユで愛妾たちと戯れていた。

 

 

 

翌一六九五年から九八年にはエストニアが飢饉に見舞われ、人口の五分の一が亡くなった。九六年から九七年はフィンランドの番で、国民の四分の一から三分の一が命を落とした。スコットランドは一六九五年から九八年にかけて深刻な飢饉に苦しみ、一部の地区は最大で住民の二割を失った。(略)

 

 

 

地球上のほとんどの場所では、人はたとえ職と財産を失っても、飢え死にする可能性は低い。個人保険や政府機関や国際的な非政府組織(NGO)は、貧困から救い出してはくれないかも知れないが、生き延びられるだけのカロリーは毎日提供してくれるだろう。(略)

 

 

それどころか、今日ほとんどの国では、過食の方が飢饉よりもはるかに深刻な問題になっている。(略)

 ビバリーヒルズの富裕な住人たちがレタスサラダや、蒸した豆腐とキヌア(訳註 南アメリカ産の雑穀で、栄養豊富な食材)を食べる一方で、スラムやゲットーでは貧乏人がクリーム入りのスポンジケーキやコーンスナック、ハンバーガー、ピザをお腹にたらふく詰め込んでいる。

 

 

二〇一四年には、太り過ぎの人は二一億人を超え、それに引き換え、栄養不良の人は八億五〇〇〇万人にすぎない。二〇三〇年には成人の半数近くが太り過ぎになっているかもしれない。二〇一〇年に飢饉と栄養不良で亡くなった人は合わせて約一〇〇万人だったのに対して、肥満で亡くなった人は三〇〇万人以上いた。

 

 

 

見えない大軍団

 

人類にとって、飢饉に続く第二の大敵は疫病と感染症だ。商人や役人や巡礼者の途絶えることのない流れで結ばれた賑やかな町は、人類の文明の基盤であると同時に、病原体にとっては理想の温床でもあった。

 

 

古代アテネや中世のフィレンツェの住民は、翌週、病に倒れて死ぬかもしれないことや、感染症が突発し、一気に家族全滅の憂き目に遭いかねないことを承知して暮らしていた。

 

 

 

大流行した感染症のうちでも最も有名なのが、いわゆる「黒死病」で、一三三〇年代に東アジアあるいは中央アジアのどこかでノミの体内に入ったペスト菌に、ノミに噛まれた人間が感染したのが始まりだった。

 

 

そこからこの疫病は、ネズミやノミの大群に運ばれ、アジア、ヨーロッパ、北アフリカ全土に急速に広まり、ニ〇年もしないうちに大西洋の沿岸までたどり着いた。死者は七五〇〇万~ニ憶を数え、ユーラシア大陸の人口の四分の一を超えた。

 

 

イングランドでは一〇人に四人が亡くなり、三七〇万に達していた人口がニニ〇万まで落ち込んだ。フィレンツェの町は、一〇万の住民のうち五万を失った。(略)

 

 

一五二〇年三月五日、スペインの小艦隊がキューバを離れ、メキシコに向かった。船にはスペイン人兵士九〇〇人と、馬、銃、アフリカ人奴隷数人が乗っていた。そして、フランシスコ・デ・エギアという一人の奴隷は、銃などよりもはるかに致死性の高い積み荷を体内に抱えていた。

 

 

本人は知らなかったが、何十兆もの彼の細胞の間には生物学的な時限爆弾が紛れ込んで時を刻んでいた。天然痘のウイルスだ。フランシスコがメキシコに上陸した後、ウイルスは彼の体内で急激に数を増やし始め、やがて全身の皮膚にひどい発疹という形で飛び出して来た。

 

 

発熱したフランシスコは、センポアランという町に住む、あるアメリカ先住民一家の住まいで病床に就いた。彼はその一家に病気をうつし、この一家が隣人たちにうつした。一〇日のうちに、センポアランは墓場と化した。

 

 

そして、難を逃れた人々が天然痘をセンポアランから近隣の町々に広めた。一つ、また一つと町がこの疫病に屈するなか、恐れをなした難民の新たな波が次々に起こり、メキシコ中に、さらにはその外へと、この病気を運んで行った。

 

 

 

ユカタン半島のマヤ族は、エクベッツとウザンカクとソジャカクという三柱の邪神が夜中に村から村へと飛びまわり、この病気を人々にうつしていると考えた。アステカ族はテストカトリボカやシペトテックという神のせいにした。あるいは、白人の黒魔術のせいにしたかもしれない。

 

 

 

神官や呪術医に相談すると、彼らは祈祷や冷水浴、アスファルトを身体に擦りこむこと、黒い甲虫を潰して腫れた箇所に塗ることなどを勧めた。だが、何をやっても無駄だった。通りには無数の死体が横たわり、腐るにまかされていた。あえて近づく人も、埋葬しようとする人もいなかったからだ。多くの世帯が数日のうちに全滅し、役人たちは家屋を壊して遺骸をその下敷きにしてしまうように命じ舵。居住地の中には、住民の半数が亡くなる所もあった。

 

 

 

一五二〇年九月には、天然痘はメキシコ盆地に到達し、一〇月には、アステカ族

首都で、二五万の人口を擁する堂々たる都市テノチティトランに入った。それから二カ月のうちに、皇帝クィトラワクを含め、全人口の三分の一が命を落とした。スペインの艦隊が到着した一五二〇年三月にはメキシコには二二〇〇万人が暮らしていたのに、同年一二月にまだ生きていたのは、わずか一四〇〇万人だった。

 

 

だが、この天然痘も最初の一撃にすぎなかった。スペインから来た支配者たちがせっせと蓄財し、先住民たちを搾取している間に、インフルエンザや麻疹(はしか)その他の感染症の致命的な波が相前後してメキシコを襲い、一五八〇年には人口はとうとう二〇〇万を切った。」