読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホモ・デウス (上) (第1章 人類が新たに取り組むべきこと)

「ジャングルの法則を打破する

 

第三の朗報は、戦争もなくなりつつあることだ。歴史を通してほとんどの人間にとって、戦争は起こって当然のものであり、平和は一時的で、いつ崩れてもおかしくない状態だった。(略)

 

 

ところが二〇世紀後半に、このジャングルの法則は、無効になりはしなかったにせよ、ついに打破された。ほとんどの地域では、戦争はかつてないほど稀になった。古代の農耕社会では死因のおよそ一五パーセントが人間の暴力だったのに対して、二〇世紀には、暴力は死因の五パーセントを占めるだけだった。

 

 

そして二一世紀初頭の今、全世界の死亡率のうち、暴力に起因する割合はおよそ一パーセントにすぎない。二〇一二年には世界中で約五六〇〇万人が亡くなったが、そのうち、人間の暴力が原因の死者は六ニ万人だった(戦争の死者が一二万人、はんざいの犠牲者が五〇万人)。一方、自殺者は八〇万人、糖尿病で亡くなった人は一五〇万を数えた。今や砂糖のほうが火薬よりも危険というわけだ。(略)

 

 

一九九八年には、ルワンダは隣国コンゴの豊かなコルタン鉱山を収奪したが、それは理解できた。コルタンは携帯電話やノートパソコンの製造のために需要が多く、世界のコルタン埋蔵量の八割がコンゴにあったからだ。

 

 

ルワンダは、奪ったコルタンで年に二億四〇〇〇万ドルを得た。(略)

それとは対照的に、中国がカリフォルニアに侵入してシリコンバレーを奪ったとしても、意味がなかっただろう。(略)

中国はそのような侵略を行なう代わりに、アップルやマイクロソフトのような巨大なハイテク企業と手を組んで、そうした企業のソフトウェアを購入したり製品を作ったりして莫大な利益をあげてきた。

 

 

ルワンダコンゴのコルタンを強奪してまる一年の間に得た金額を、中国は平和な交易を通してたった一日で手に入れている。(略)

 

 

 

一九一三年にフランスとドイツの間が平和だと人々が言った時には、「現時点でフランスとドイツの間で戦争は行われていないが、来年どうなるかは誰にもわからない」という意味だった。一方、今日フランスとドイツの間が平和だという時には、想定し得るいかなる状況の下でも、両国間で戦争が勃発するとは考えられないという意味になる。(略)

 

 

ブラジルの閣僚が集まって来年の予算について話し合うときに、国防大臣が立ち上がって拳をテーブルに叩きつけ、「待った! ウルグアイに侵攻して征服することを望んだ場合にはどうなるのです?それを考慮に入れてないではないですか。この征服計画の財源として、五〇億ドルを予算に計上するべきです」などと声を張り上げるところは想像できない。

 

 

もちろん国防大臣が依然としてそのようなことを口にする国もいくつかあるし、新たな平和を根づかせることができずにいる地域もある。私はそうした地域の一つに暮らしているので、それは百も承知だ。だが、それは例外にすぎない。(略)

 

 

 

とくにサイバー戦争は、小国や非国家主体にさえ超大国と効果的に戦う能力を与え、世界の安定を損ないかねない。(略)

とはいえ、能力を動機づけと混同してはならないf。サイバー戦争では新しい破壊手段が導入されるものの、それを使用する誘因が必ずしも増えるわけではない。

 

 

人類は過去七〇年にわたって、ジャングルの法則を反故にしたばかりか、チェーホフの法則をも打ち破ってきた。アントン・チェーホフは、劇の第一幕に登場した銃は第三幕で必ず発射されるという有名な言葉を残している。(略)

 

 

それでは、テロはどうだろう?たとえ中央政府や強国がすでに自制を学んでいたとしても、テロリストは破壊的な新兵器を平気で使うかもしれない。これは確かに憂慮するべき可能性だ。とはいえ、テロは真の力にアクセスできない人々が採用した、弱さに端を発する戦略だ。

 

 

少なくとも過去には、重大な物的損害を惹き起こすよりも恐れを蔓延させることで効果をあげてきた。(略)

平均的なアメリカ人やヨーロッパ人にとっては、アルカイダよりもコカ・コーラの方がはるかに深刻な脅威なのだ。(略)

 

 

テロというのは、本質的には見世物だ。テロリストはぞっとするよゆな暴力の光景を計画的に現出させて私たちの想像力を掻き立て、世界が中世の混乱状態にずるずると後戻りしているかのように思わせる。その結果、国家は特定の人々の集団をまるごと迫害したり、外国を侵略したりして、テロの脅威に対して派手な力の誇示を演出し、安全を印象付ける見世物によってテロという出し物に反応せざるをえないと感じることが多い。ほとんどの場合、テロに対するこの過剰な反応は、私たちの安全にとって、テロリストそのものよりもはるかに大きな脅威となる。

 

 

テロリストは食器店を破壊しようとしているハエのようなものだ。ハエはあまりに微力なので、ティーカップ一つさえ微動もさせられない。そこでハエは牛を見つけて耳の中に飛び込み、ブンブン羽音を立て始める。

 

 

牛は恐れと怒りで半狂乱になり、食器店を台無しにする。これこそ過去一〇年間に中東で起こったことだ。(略)

 

 

テロリストたちは独力ではあまりに弱すぎるので、私達を中世に引きずり戻してんグルの法則を再び打ち立てることはできない。私たちを徴発するかもしれないが、けっきょくは、すべて私たちの反応次第だ。ジャングルの法則が再び効力を発するようになったとしたら、それはテロリストのせいではない。

 

 

 

飢饉と疫病と戦争はおそらく、この先何十年も厖大な数の犠牲者を出し続ける事だろう。とはいえ、それらはもはや、無力な人類の理解と制御の及ばない不可避の悲劇ではない。すでに、対処可能な課題になった。(略)

 

 

人々は歴史を通して、この三つは解決不能の問題だと考え、それらに終止符を打とうとしても無意味だと感じて来た。(略)

 

 

過去の業績を認めれば、希望と責任のメッセージを伝えられるし、将来なお一層の努力をするように奨励することにもなる。二〇世紀に成し遂げたことを思うと、もし人々が飢饉と疫病と戦争に苦しみ続けるとしたら、それを自然や神のせいにすることは出来ない。私たちの力をもってすれば、状況を改善し、苦しみの発生をさらに減らずことは十分可能なのだ。(略)

 

 

主要なプロジェクトの一つは、人類と地球全体を、私たち自身の力に固有の危険から守る事だ。私たちが飢饉と疫病と戦争を抑え込めたのは、目覚ましい経済成長に負うところが大きい。この成長のおかげで、私たちは豊富な食糧や医療、エネルギー、原料を手に入れられた。

 

 

 

ところがまさにその成長が、無数の形で地球の生態学的平衡を揺るがしており、私たちはようやくこの問題を探求し始めたところだ。

人類はなかなかこの危険を認めたがらず、これまで手をこまねいてきたに等しい。

 

 

環境汚染や地球温暖化や気候変動がこれほど話題になっているというのに、まだほとんどの国は状況改善のために経済的犠牲も政治的犠牲も本気で払おうとしていない。経済成長と生態系の安定性の一方を選ばざるをえない時が来ると、政治家やCEOや有権者はほぼ確実に成長を選ぶ。

 

 

だが二一世紀には、悲劇的な結末を避けたければ、態度を改めなければならないだろう。

人類は他に何を目指して努力するのか?私たちは自らの幸せを噛みしめ、飢饉と疫病と戦争を寄せ付けず、生態学的平衡を守るだけでよしとしていられるのか?じつはそれが最も賢明な身の処し方なのかもしれないが、人類はそうしそうもない。

 

 

 

人間というものは、すでに手にしたものだけで満足することはまずない。何かを成し遂げたときに人間の心が見せる最もありふれた反応は、充足ではなくさらなる渇望だ。(略)

 

 

成功は野心を生む。だから、人類は昨今の素晴らしい業績に背中を押されて、今やさらに大胆な目標を立てようとしている。(略)飢饉と疾病と暴力による死を減らすことができたので、今度は老化と死そのものさえ克服することに狙いを定めるだろう。

 

 

人々を絶望的な苦境から救い出せたので、今度ははっきり幸せにすることを目標とするだろう。そして、人類を残忍な生存競争の次元より上まで引き上がることが出来たので、今度は人間を神にアップグレードし、ホモ・サピエンスをホモ・デウス(訳註 「デウス」は「神」の意)に変えることを目指すだろう。」

 

 

〇 ここまで読んで、ハラリ氏の言葉に共感できないものを感じ始めました。ハラリ氏が生きている世界では、おそらく「人々は絶望的な苦境から救い出されている」のだろうけれど、私の住んでいる世界では、今や絶望はどんどん複雑になり、巧妙に入り組んで来ているように見えます。

 

とりあえず、食事が出来て、死なずにいられたら、絶望から救い出されたということになるのかな…と。