読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホモ・デウス (上) (第1章 人類が新たに取り組むべきこと)

「知識のパラドックス

 

二一世紀には人類は不死と至福と神性を目指して進むという予測に腹を立てたり、疎ましさを覚えたり、恐れをなしたりする人が少なからず出るかも知れないので、いくつか説明しておく必要がある。

 

 

第一に、不死と至福と神性を目指すというのは、二一世紀にほとんどの人が個人として実際にすることではない。人類が集団としてすることだ。大多数の人は、仮にこれらのプロジェクトで何かしら役割を演じるとしても、それはほんの些細なものにとどまるだろう。(略)

 

 

たとえ一人でも栄養不良で亡くなる子供や麻薬密売組織の抗争で亡くなる大人がいるかぎり、人類はそうした災難と戦うことに全力を傾けるべきだと主張することもできるだろう。(略)

だが、歴史はそのようには進まない。宮殿に暮らす人はつねに、丸太小屋に住む人々とは違う課題リストを持っていたし、それは二一世紀にも変わりそうにない。(略)

 

 

第二に、これは歴史的予測であり、政治的な声明書(マニフェスト)ではない。(略)これら三つのプロジェクトを採用するのは、大きな誤りかもしれない。だが、歴史は大きな誤りだらけだ。人間の過去の記録と現在の価値観を考えると、私たちは至福と神性を手に入れようとしそうだ ―― たとえそれで命を落とすことになっても。

 

 

第三に、手に入れようとするのと手に入れるのとは同じではない。歴史はしばしば誇大な希望によって形作られる。二〇世紀ロシア史は、不平等を克服しようとする共産主義の試みによっておおむね形作られたが、その試みは成功しなかった。私の予測は、人類が二一世紀に何を達成しようと試みるかに的を絞っているのであり、何の達成に成功するかが焦点ではない。(略)

 

 

 

そして、これが最も重要なのだが、第四に、この予測は、予言というよりも現在の選択肢を考察する方便という色合いが濃い。この考察によって私たちの選択が変わり、その結果、予測が外れたなら、考察した甲斐があったというものだ。予測を立てても、それで何一つ変えられないとしたら、どんな意味があるというのか。(略)

 

 

 

したがって、逆説的な話だが、データを多く集め、演算能力を高めるほど、突飛で意外な出来事が起こる。私たちは知れば知るほど、予測ができなくなる。たとえば、想像してほしい。いつの日か、専門家たちが経済の基本法則を解明するとしよう。

 

 

その日が来たら、銀行や政府、投資家消費者はみな、この新知識を利用し始め、斬新な行動を取って競争相手よりも優位に立とうとする。(略)だが、遺憾ながら、みなが行動の仕方を変えたら、新しい経済理論も時代遅れになってしまう。(略)

 

 

これは仮想の例ではない。一九世紀半ばに、カール・マルクスは見事な経済学見識に到達した。彼はその見識に基づいて予測した。労働者階級(プロレタリアート)と資本家の争いはしだいに暴力的になり、最後には前者が必然的に勝利し、資本主義体制は崩壊するというのだ。

 

 

イギリスやフランスやアメリカといった、産業革命の先鋒だった国々で革命が始まり、それが全世界に拡がるとマルクスは確信していた。

ところが、資本主義者も字が読めることをマルクスは忘れていた。最初はほんの一握りの信奉者だけがマルクスの言葉を真剣に受け止め、彼の著作を読んだ。

 

 

 

だが、これらの社会主義の扇動者たちが支持者を集め、力をつけるにつれ、資本主義者たちは警戒した。彼らも「資本論」を読み、マルクス流の分析の道具や見識の多くを採用した。二〇世紀には、ホームレスの子供から大統領までもが、経済と歴史へのマルクス主義のアプローチを受け容れた。

 

 

マルクス主義者による今後の見立てに猛烈に反発した筋金入りの資本主義者たちでさえ、マルクス主義の下した診断は利用した。CIAが一九六〇年代にヴェトナムやチリの状況を分析するときには、社会を階級に分けた。(略)

 

 

 

人々はマルクス主義による診断を採用しながら、それに即して自分の行動を変えた。イギリスやフランスといった国々の資本主義者は、労働者の境遇を改善し、彼らの国家意識を強化し、政治制度の中に取り込もうと奮闘した。そのおかげで、労働者が選挙で投票するようになって労働党が各国で次々に力を獲得したときにも、資本主義者たちは依然として枕を高くして眠ることができた。

 

 

結果として、マルクスの予測は外れた。イギリス、フランス、アメリカなどの主要な工業国が共産主義革命に呑み込まれることはけっしてなく、プロレタリアート独裁は歴史のゴミ箱行きとなった。

これが歴史の知識のパラドクスだ。行動に変化をもたらさない知識は役に立たない。だが、行動を変える知識はたちまち妥当性を失う。多くのデータを手に入れるほど、そして、歴史をよく理解するほど、歴史は速く道筋を変え、私たちの知識は速く時代遅れになる。(略)

 

 

一〇一六年には、一〇五〇年にヨーロッパがどうなっているかを予測するのは比較的容易だった。(略)

一〇五〇年のヨーロッパが依然として王や聖職者に支配されており、農耕社会であり、居住者の大半が農民で、飢饉と疫病と戦争にひどく苦しみ続けるだろうことは明らかだった。

 

 

それとは対照的に、二〇一六年の私たちには、二〇五〇年にヨーロッパがどうなっているか、想像もつかない。どのような政治制度になっているかや、求人市場がどのように構成されているかは不明だし、その居住者がどんな種類の体を持っているかすらわからない。

 

 

芝生小史

 

歴史が安定した規則に従わず、将来どのような道をたどるか予測できないとしたら、なぜ歴史を学ぶのか?(略)

もっとも、科学は未来を予測するだけのものではない。どの分野の学者も、私たちの視野を拡げようとすることが多く、それによって私たちの目前に新しい未知の未来を切り拓いてくれる。

 

 

 

これは歴史学にはなおさらよく当てはまる。歴史学者はときおり予言を試みるものの(ろくに成功しない)、歴史の研究は私たちが通常なら考えない可能性に気づくように仕向けることを何にもまして目指している。歴史学者が過去を研究するのは、過去を繰り返すためではなく、過去から解放されるためなのだ。

 

 

 

私たちは一人残らず、特定の歴史的現実の中に生まれ、特定の規範や価値観に支配され、特定の政治経済制度に管理されている。そして、この現実を当たり前と考え、それが自然で必然で不変だと思い込んでいる。(略)

 

 

 

私たちは生まれた瞬間からその手につかまれているので、それが自分というものの自然で逃げようのない部分であるとばかり思いこんでいる。したがって、身を振りほどき、それ以外の未来を思い描こうとはめったにしない。

 

 

 

歴史を学ぶ目的は、私達を抑えつける過去の手から逃れることにある。歴史を学べば、私たちはあちらへ、こちらへと顔を向け、祖先には想像できなかった可能性や祖先が私たちに想像してほしくなかった可能性に気づき始めることができる。

 

 

 

私たちをここまで導いて来た偶然の出来事の連鎖を目にすれば、自分が抱いている考えや夢がどのように形を取ったかに気づき、違う考えや夢を抱けるようになる。歴史を学んでも、何を選ぶべきかはわからないだろうが、少なくとも、選択肢は増える。

 

 

 

世界を変えようとする運動は、歴史を書き換え、それによって人々が未来を想像し直せるようにすることから始まる場合が多い。労働者にゼネストを行なわせることであれ、女性に自分の体の所有権を獲得させることであれ、迫害されている少数者集団に政治的権利を要求させることであれ、あなたが何を望んでいようと、第一歩は彼らの歴史を語りなおすことだ。

 

 

 

あなたの語る新しい歴史は、次のように説く。「私たちの現状は自然でも永続的でもない。かつて、状況は違っていた。今日、私たちが知っているような不当な世界が誕生したのは、一連の偶然の出来事が起こったからに過ぎない。私たちが賢明な行動を取れば、その世界を変え、はるかに良い世界を生み出せる」。

 

 

だからマルクス主義者は資本主義の歴史を詳述する。フェミニストは家父長制社会の形成について研究する。アフリカ系アメリカ人奴隷貿易というおぞましい行為を振り返る。彼らは過去を永続させることではなく、過去から解放されることを目指しているのだ。(略)

 

 

 

王宮や貴族の大邸宅は、芝生を権威の象徴に変えた。近代末期に王が権力の座から引きずり降ろされ、貴族がギロチンにかけられた時も、新しい大統領や首相たちは芝生をそのまま受け継いだ。(略)

 

 

こうして人類は、芝生を政治権力や社会的地位や経済的豊かさと同一視するようになった。だから、一九世紀に台頭してきた中産階級が芝生を熱心に取り入れたのも無理はない。(略)

 

 

芝生についてのこの小史を読んだあなたは、これから夢の家の建築を計画するとなったら、前庭に芝生を植えるかどうか、考え直してもいいかもしれない。(略)私たちは過去に縛られることは避けられないが、少しでも自由があるほうが、まったく自由がないよりも優る。

 

 

 

第一幕の銃

 

本書の随所に見られる予測は、今日私たちが直面しているジレンマを考察する試みと、未来を変えようという提案にすぎない。人類が不死と至福と神性を手に入れようとするだろうという予測は、家を建てる人が前庭に芝を植えることを望むだろうという予測と同じようなものだ。

 

 

非常に可能性が高いように見える。だが、いったんそれを口に出して言えば、それ以外の選択肢についても考え始めることが可能になる。

人々が不死と神性を獲得する夢にまごつくのは、それがまったく馴染みがなくて、ありそうにないように思えるからではなく、それほどあけすけなのは珍しいからだ。(略)

 

 

 

だが私は、ここでテーブルの上に別のものを載せたい。銃だ。第一幕で登場し、第三幕で発射されることになっている銃だ。以下の数章では人間至上主義(人類の崇拝)がどのようにして世界を征服したかを論じる。とはいえ、人間至上主義の台頭は、その凋落の種も孕んでいる。

 

 

 

人間を神にアップグレードする試みによって人間至上主義は必然的に行き着く所まで行くのだろうが、それは同時に人間至上主義に固有の欠点も暴露する。欠点のある理想を以て物事を始めた場合、その理想が実現に近づいた時になってようやくその欠点を思い知る羽目になることが多い。

 

 

私たちはこの過程が進んでいる所を高齢者病棟ですでに見ることができる。人命は神聖であるという、妥協の余地のない人間至上主義の信念のせいで、私たちは「このどこが神聖なのか?」と問わざるをえない哀れな状態に至るまで人を生き続けさせる。(略)

 

 

したがって、二一世紀に本当に取り組むべきことは、この巻頭の長い章が示した内容よりもはるかに複雑になるだろう。だが、これらの目標の到達に近づいたら、その結果として生じる大変動の数々のせいで、私たちは道を逸れ、まったく違う終着点へ向かう恐れがある。本章で説明した未来は、過去から見た未来にすぎない。つまり、過去三〇〇年にわたって世界を支配してきた考えや希望に基づいた未来だ。真の未来、すなわち、二一世紀の新しい考えや希望から生まれる未来は、それとは完全に異なるかもしれない。

 

 

 

こうしたことをすべて理解するためには過去を振り返り、ホモ・サピエンスとはいったい何者か、人間至上主義はどのようにして支配的な世界宗教になったのか、人間至上主義の夢を実現しようとすれば、なぜその崩壊を引き起こす可能性が高いかを詳しく調べてみる必要がある。それが本書の構想だ。

 

 

 

本書の第一部では、ホモ・サピエンスと他の動物たちとの関係を取り上げ、どうして私たちの種が特別なのかを理解することを試みる。(略)だが、私の見るところでは、私たちの仲間である動物たちから始めなければ、人類の性質や未来について本格的に考察することはできない。(略)

 

 

 

本書の第二部は、この第一部の結論に基づき、ホモ・サピエンスが過去数千年間に作り上げた奇妙な世界と、現在の重大な岐路へと私たちを導いた道筋について考察する。(略)

 

 

本書の最後に当たる第三部では、二一世紀初頭に戻ってくる。人類と人間至上主義の教義について得たはるかに深い理解に基づき、第三部では私たちの現在の苦境と、人類がたどりうるさまざまな未来を説明する。(略)

 

 

人間至上主義を心から信奉している人にとって、こうしたことはみな、はなはだ悲観的で憂鬱に聞こえるかも知れない。だが、結論を急がないにかぎる。歴史は、多くの宗教や帝国や文化が興っては衰えるのを目撃してきた。そのような大変動は必ずしも悪くはない。

 

 

 

人間至上主義は三〇〇年にわたって世界を支配してきたが、これはそれほど長い時間ではない。ファラオは三〇〇〇年間エジプトに君臨したし、ローマ教皇はヨーロッパを一〇〇〇年間支配した。(略)

 

 

 

中世の人々に、数世紀のうちに神は死ぬと告げたら、彼らはぞっとして、「神なしで私たちはどうして生きられようか?誰が人生に意味を与え、私達を混沌から守ってくれるのか?」と嘆くだろう。(略)

 

 

人がたいてい変化を怖がるのは、未知のものを恐れるからだ。だが、歴史には一定不変の大原則が一つある。すなわち、万物はうつろう、ということだ。」

 

 

〇 上巻の説明を読まず、下巻の未来の予測だけを読んだ時、ただただ嫌な気分になりました。この説明を聞くと、なるほど、そういうことなのか、と

思いました。