読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホモ・デウス (上) (第3章 人間の輝き)

「ことによると、生命科学はこの問題を間違った角度から眺めているのかもしれない。生命科学では、生命とはデータ処理に尽きる、生き物は計算を下す機械であると考えられている。とはいえ、生き物とアルゴリズムとの間のこの類似性は、私達を誤った方向に導きかねない。(略)

 

 

二一世紀の今、人間の心を蒸気機関に例えるのは子供じみて見える。今日、私たちはそれと比べ物にならないほど高性能のテクノロジー、すなわちコンピューターを持っているので、人間の心を、圧力を調節する蒸気機関ではなくデータを処理するコンピューターであるかのように説明する。だが、この新しいたとえも、けっきょく幼稚なものなのかもしれない。(略)

 

 

これまでのところ、私たちにはこの問題に対する妥当な答えがない。哲学者たちがすでに何千年も前に気づいていたように、私たちは自分以外の人に心があると、反論の余地がないまでに証明することはけっしてできない。実際、他人の場合には、私たちはただ、意識があると推定しているだけで、本当に意識があると確実に言えることはできない。

 

 

ひょっとしたら、全宇宙の中で何かを感じる生き物は唯一私だけで、他の人間と動物はすべて、心を持たないただのロボットなのか?ことによると、私は夢をみており、出会う人はみな、夢に出てくる人物にすぎないのか?(略)

 

 

科学の大躍進のうち、他人にも自分と同じような心があるかどうかという、悪名高いこの「他我問題」を克服してのけたものは一つもない。これまで学者たちが思いついた最善のテストは「チューリングテスト」と呼ばれるものだが、それは社会的慣習しか検討しない。

 

 

チューリングテストでは、コンピューターに心があるかどうかを判定するために、コンピューターと本物の人間を、どちらがどちらとは知らずに同時に相手にして言葉を交わす。何でも好きな質問をしたり、ゲームや議論をしたりしていいし、なれなれしく戯れることさえしてかまわない。

 

 

 

時間も好きなだけかけられる。それから、どちらがコンピューターでどちらが人間かを判断する。もし区別できなかったり、判断を誤ったりしたら、そのコンピューターはチューリングテストに合格し、本当に心を持っているものとして扱われるべきであるということになる。

 

 

とはいえ、もちろんそれは本物の証明とは言えない。自分のもの以外にも心があると認めるのは、社会的・法的慣習にすぎないのだ。

チューリングテストは一九五〇年に、コンピューター時代の創始者の一人であるイギリスの数学者アラン・チューリングが考案した。彼は同性愛者であったが、

当時のイギリスでは同性愛は違法だった。

 

 

 

一九五二年、チューリングは同性愛行為のかどで有罪とされ、化学的去勢処置を強制的に受けさせられた。二年後、彼は自殺した。チューリングテストは、一九五〇年代のイギリスですべての同性愛者が日常的に受けざるをえなかったテスト、すなわち、異性愛者として世間の目を欺き通せるかというテストの焼き直しにすぎなかった。

 

 

 

チューリングは、人が本当はどういう人間なのかは関係ないことを、自分自身の経験から知っていた。肝心なのは、他者に自分がどう思われているかだけなのだった。チューリングによれば、コンピューターは将来、一九五〇年代の同性愛者とちょうど同じようになるという。コンピューターに現実に意識があるかどうかは関係ない。肝心なのは、人々がそれについてどう思うかだけなのだ。」