読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホモ・デウス (上) (第3章 人間の輝き)

「実験室のラットたちの憂鬱な生活

 

心とは何かを検討し、じつは心についてはほとんどわかっていないことを知ったところで、人間以外の動物に心があるかどうかという疑問に戻ることにしよう。犬をはじめ、いくつかの動物は、チューリングテストの修正版に間違いなく合格するだろう。

 

 

あるものに意識があるかどうかを私たちが判定しようとするときにたいてい探し求めるのは、数学の才能や優れた記憶力ではなく、私たちと情動的な関係を結ぶ能力だ。(略)犬は人間との情動的関係を結ぶことができる事実を踏まえて、犬の飼い主のほとんどは、犬は心を持たない自動機械などではないと確信している。

 

 

とはいえ、懐疑的な人はそれで満足するはずもなく、情動はアルゴリズムであり、既知のアルゴリズムのうちには、機能するために意識を必要とするものはないことを指摘する。動物が複雑な情動的行動を見せるときにはいつも、それが、非常に手の込んだ、それでいて非意識的なアルゴリズムの産物ではないと証明することはできない。この主張はもちろん人間にも当てはめられる。(略)

 

 

サルやマウスを使った初期段階のテストからは、少なくともサルとマウスの脳は意識のシグネチャーを現に示すことがわかっている。ところが、動物の脳と人間の脳の違いを考え、私たちが意識の秘密をすべて解き明かす段階には依然として程遠いことも考慮すると、懐疑的な人を満足させられる決定的なテストが開発されるのは何十年も先かもしれない。(略)

 

 

 

犬は、意識があることを立証されるまでは、心を持たない機械と考えるのか、誰か説得力がある反証をみつけるまでは、意識ある生き物として犬を扱うのか?(略)

 

 

 

多くの企業も動物は感覚のある生き物だと認めているが、皮肉にも、そのせいで実験室での不快な試験に動物たちがさらされることが多い。製薬会社は抗うつ薬を開発するときに、ラットを使うのがごく普通だ。広く使われている手順に、次のようなものがある。

 

 

 

ラット一〇〇匹(これだけの数を使うのは、統計的信頼性を得るため)、水の入ったガラスの容器に一匹ずつ入れる。ラットは容器の内側を登って逃げ出そうと何度も試みるが、うまくいかない。ほとんどのラットが一五分後には諦めて動かなくなる。容器の中を漂うばかりで、周囲の状況に無関心になる。

 

 

 

次に別のラットを一〇〇匹、容器に放り込むが、一四分後、彼らが絶望する直前水から掬い出す。体を乾かして、餌をやり、少し休ませてから、また容器に放り込む。

 

 

 

今度は、ほとんどのラットが二〇分間諦めずに奮闘する。なぜ一回目よりも六分余計に頑張るのか?それは過去の成功の記憶が脳内で何らかの生化学物質の分泌を促してラットに希望を与え、絶望の到来を遅らせるからだ。この物質を単離できさえしたら、抗うつ薬として人間に使えるかもしれない。

 

 

だが、どの瞬間にもラットの脳にはおびただしい種類の化学物質があふれている。どうすれば適切な物質を特定できるか?

そのためには、それまでのテストに参加していないラットを新たに何グループも用意する。そしてそれぞれのグループに、抗うつ薬として期待の持てそうな化学物質を一種ずつ注射する。

 

 

 

それからラットを水に放り込む。Aという物質を注射したラットが一五分もがいただけで元気を失えば、Aはリストから抹消できる。Bという化学物質を注射したラットが二〇分手足をばたつかせ続ければ、CEOと株主たちに連絡し、大発見をしたかもしれないことを告げる。

 

 

懐疑的な人は、このような描写全体がラットを必要以上に擬人化している、と異議を唱えるかも知れない。ラットは希望も絶望も経験しない、素早い動きを見せる時もあれば、じっとしているときもあるが、けっして何も感じてはいない、非意識的アルゴリズムに動かされているだけだ、というのだ。

 

 

 

だが、もしそうなら、こうした実験のいっさいに何の意味があるというのか?(略)

製薬会社がそのような魔法の薬に役立てようとしてラットを使った実験を行うのは、ラットの行動には人間のものと同じような情動が伴うことを前提にしているからこそだ。そして実際、これは精神医学の研究所では一般的な前提だ。

 

 

自己意識のあるチンパンジー

 

人間の優越性を崇める試みは、他にもある。ラットや犬やその他の動物には意識があることは認めるものの、人間とは違って彼らには自己意識がないと主張するのもその一つだ。動物は憂鬱や幸福、空腹や充足は感じるかも知れないが、自己という概念は持っておらず、自分が感じる憂鬱や空腹が、「私」と呼ばれる唯一無二のものに属している自覚はない、というのだ。

 

 

 

この考え方は一般的ではあるが、理解し難い。犬は空腹を感じると、肉に食らいつき、他の犬に食べ物を提供したりはしない。近所の犬たちが尿をかけた木の臭いを犬に嗅がせると、それが自分の尿の臭いか、隣家の可愛いラブラドールレトリバーのものか、それともどこかの知らない犬のものか、たちどころにわかる。

 

 

犬は自分の臭いと、交尾相手や競争相手の候補の臭いとでは、見せる反応の仕方がまるで違う。それならば、彼らには自己意識がないというのは、どういう意味なのだろう?(略)

 

 

 

この問題を浮き彫りにするためには、スウェーデンのフールヴィック動物園にいるオスのチンパンジーのサンティノの例を考えるといい。サンティノは飼育場での退屈を紛らわすために、胸の躍るような娯楽を考え出した。

 

 

 

動物園の来園者に石を投げつけるのだ。それ自体には、独自性はないに等しい。(略)ところがサンティノは、あらかじめ自分の行動を計画していた。朝早く、動物園の開園時間のずっと前に、サンティノは怒っている気配を少しも見せずに、石を集めて積み上げておく。

 

 

 

ガイドや来園者は間もなく、サンティノは警戒しなくてはいけないことを学んだ。とりわけ、彼が石の山の近くに立っている時は。そのため、彼は標的にする人を見つけるのがしだいに難しくなった。

 

 

二〇一〇年五月、サンティノは新しい戦略で対応した。彼は早朝、就寝場所から藁を持ってきて、飼育場の壁のそばに置いた。そこは来園者がたいていチンパンジーを見に集まる場所の近くだった。彼はそれから石を集め、藁の下に隠した。一時間ほどして最初の来園者たちが近づいてくると、サンティノは涼しい顔を保ち、苛立ちも攻撃性も、片鱗さえも見せなかった。

 

 

犠牲となる人々が絶好の距離まで寄って来た時にようやく、サンティノは突然隠し場所から石をつかみ取って投げつけ、恐れをなした人間たちは慌てて散り散りに逃げ出した。二〇一二年の夏には、サンティノは軍拡競争を加速させ、藁の下だけではなく、木の幹や建物をはじめ、隠し場所にふさわしいところにはどこにでも石を隠すようになった。

 

 

 

それにもかかわらず、このサンティノでさえ懐疑的な人は満足させられない。あちこちに石を隠している午前七時に、来園した人間たちめがけて正午に石を投げるのがどれほど面白いかサンティノが想像していると、どうして確信し得るのか?ひょっとすると彼は、冬を一度も経験していない幼いリスが「冬に備えて」木の実を隠しているのとちょうど同じように、何らかの非意識的アルゴリズムに動かされているのではいか?

 

 

 

同様に、オスのチンパンジーが何週間も前に痛めつけられた競争相手を攻撃していても、本当に過去の侮辱の仕返しをしているのではない、と懐疑的な人はいう。彼は束の間の怒りの感情に反応しているだけであり、その感情の原因は、彼には理解のしようがない、(略)

 

 

私たちにはこうした主張を立証することも反証することもできない。それらはじつは、他我問題の変種だからだ。私たちは意識を必要とするアルゴリズムにはまったく馴染みがないので、動物がすることは何であれ、意識的な記憶や計画ではなく非意識的アルゴリズムの産物と見なせる。(略)

 

 

なにしろ私たちは、人が一生懸命に過去を思い出したり未来について夢見たりしていないときにさえ、自己意識があると考えているのだから。たとえば、人間の母親が、往来の激しい道路に幼い我が子がよちよち足を踏み入れようとしているのを目にしたら、立ち止まって過去や未来について考えたりしない。

 

 

先ほどのゾウとちょうど同じように、彼女も駆けつけて我が子を救おうとするだろう。それならば、ゾウについてと同じことを彼女についてもなぜ言わないのか?すなわち、「迫りくる危険から自分の赤ん坊を救うために母親が駆け出したい、まったく自己意識を持たずにそうした。彼女は束の間の衝動に動かされていたにすぎない」と。

 

 

 

同様に、最初のデートで熱烈なキスをしている若いカップルや、傷ついた戦友を救うために激しい敵の砲火の中へ突っ込んでいく兵士、猛烈な筆の動きで傑作を描いている画家を考えてほしい。

 

 

 

その一人として、立ち止まって過去や未来についてじっくり考えることはない。それならば、彼らには自己意識がないのか?そのときの彼らの状態は、過去の実績や将来の計画について選挙演説を行っているときの政治家の状態に劣るのか?」