読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホモ・デウス 上 (第3章 人間の輝き)

チャウシェスクとその一派が二〇〇〇万のルーマニア人を四〇年間支配できたのは、三つの不可欠な条件を満たしていたからだ。

 

第一に彼らは、軍や種別組合、さらにはスポーツ協会まで、あらゆる協力ネットワークを忠実な共産党員の役人に管理させた。

 

第二に、反共産主義の協力の基盤となりかねない競合組織は、政治的なものであれ経済的なものであれ社会的なものであれ、いっさい創設させなかった。

 

 

第三に、ソ連や東ヨーロッパの同じ共産党の支援に依存していた。(略)

 

 

こうした状況下で、二〇〇〇万のルーマニア国民は、エリート支配層によってあれほど苦難や苦しみを味わわせられたにもかかわらず、効果的な反抗精力を組織できなかった。

チャウシェスクが権力の座からついに転落したのは、ようやくこれら三つの条件がどれ一つ満たされなくなったときだった。(略)

 

 

 

イオン・イリエスクはルーマニアの大統領に選出され、彼の一派は大臣や議員、銀行の取締役、富豪になった。今日まで国を牛耳るルーマニアの新たなエリート層は、主に元共産党員とその親族から成る。

 

 

 

ティミショアラやブカレストで命を危険にさらした一般大衆は、残りかすで我慢するしかなかった。協力する術も、自分たちの利益を守ってくれる効率的な組織を生み出す方法も知らなかったからだ。(略)

 

 

二〇一一年のエジプト革命も似たような運命をたどった。(略)

ルーマニアの元共産党員とエジプトの将軍たちは、以前の独裁者やブカレストとカイロのデモ参加者よりも知能が髙かったり、指先が器用だったりしたわけではない。彼らの強みは柔軟な協力にあった。彼らは群衆よりもうまく協力し、融通の利かないチャウシェスクムバラクよりもはるかに高い柔軟性を示すのを厭わなかった。

 

 

 

セックスとバイオレンスを越えて

 

(略)

それはそもそも何のおかげで人間がこれほどうまく協力できるのか次第だ。なぜ人間だけが、これほど大規模で高度な社会制度を構築できるのか?(略)

ピグミーチンパンジー(別名ボノボ)の場合は、だいぶ様子が違う。ボノボは緊張を解消し、社会的絆を結ぶために、しばしばセックスを使う。その結果、驚くまでもないが、同性間の性交が非常によく見られる。(略)

 

 

サピエンスはこうした協力のコツをよく知っている。チンパンジーのものと似た権力のヒエラルキーを構築することもあれば、ボノボとちょうど同じようにセックスで社会的絆を結ぶこともある。(略)

 

 

 

サピエンスが(敵対的なもの、好色なもののどちらでも)密接な関係を結べる相手は一五〇人が限度であることが、調査でわかっている。人間が大規模な協力のネットワークを組織するのを何が可能にしているにせよ、それが親密な関係でないことは確かだ。

 

 

これを聞いたら、心理学者や社会学者や経済学者など、研究室での実験で人間社会を解明している人は頭を抱えるだろう。実験の大多数は、計画と資金の両面の制約のせいで、個々の参加者や少人数のグループを対象に行われるからだ。

 

 

 

だが、小さなグループの振舞に基づいて巨大な社会のダイナミクスについて推論するのは危険だ。一億の国民を擁する国家は、一〇〇人から成る生活集団とは根本的に違った形で機能する。(略)

 

 

 

なぜエジプトの農民とプロイセンの兵士は、最後通牒ゲームやオマキザルの実験に基づいて私たちが予期していてもおかしくないような行動を見せなかったのか?それは、大人数の集団は少人数の集団とは根本的に違う行動を取るからだ。(略)

 

 

 

大規模な人間の協力はすべて、究極的には想像上の秩序を信じる気持ちに基づいている。想像上の秩序とは、私たちの創造の中にのみ存在しているにもかかわらず、重力と同様、冒すべからざる現実であると私たちが信じている一群の規則だ。(略)

ある土地に住んでいるサピエンス全員が同じ物語を信じているかぎり、彼らは同じ規則に従うので、見知らぬ人の行動を予測して、大規模な協力のネットワークを組織するのが簡単になる。

 

 

サピエンスはターバンや顎髭やビジネススーツといった、視覚的な目印をしばしば使って、「あなたは私を信頼できる。私はあなたと同じ物語を信じているから」と合図する。チンパンジーは人間に近い動物ではあるけれど、そのような物語を創作して広めることができない。だから彼らは大勢で協力できないのだ。

 

 

 

意味のウェブ

 

人々が「想像上の秩序」という概念を理解するのに手を焼くのは、現実には客観的現実と主観的現実の二種類しかないと思い込んでいるからだ。客観的現実では、物事は私たちが信じていることや感じていることとは別個に存在する。

 

 

たとえば重力は客観的現実だ。重力はニュートンよりもはるか以前から存在していた。そして、その存在を信じている人ばかりではなく信じていない人にも、まったく同じように作用する。

一方、主観的現実は私個人が何を信じ、何を感じているか次第だ。たとえば、激しい頭痛がして病院に行ったとしよう。医師が念入りに診察してくれるが、悪いところは見つからない。(略)

 

 

 

結果が出ると、医師は、健康そのものですと言って私を帰す。それでも激しい頭痛は治まらない。ありとあらゆる客観的検査で、私はどこも悪くないことがわかり、私以外、誰一人としてその痛みを感じていないにもかかわらず、私にとってその痛みは一〇〇パーセント現実のものだ。(略)

 

 

 

ところが、第三の現実のレベルがある。共同主観的レベルだ。共同主観的なものは、個々の人間が信じていることや感じていることによるのではなく、大勢の人の間のコミュニケーションに依存している。(略)

 

 

 

人々が信じなくなった途端に消滅してしまいかねないのは、貨幣の価値だけではない。同じことが法律や神、さらには一帝国全体にも起こりうる。それらは、今、せっせと世界の行方を決めていたかと思えば、次の瞬間にはもはや存在しなくなったりする。(略)

 

 

貨幣が共同主観的現実であることを受け容れるのは比較的易しい。(略)

ところが、自分たちの神や自分たちの国や自分たちの価値観がただの虚構であることは受け容れたがらない。なぜなら、これらのものは、私たちの人生に意味を与えてくれるからだ。

 

 

 

私たちは、自分の人生には何らかの客観的な意味があり、自分の犠牲が何か頭の中の物語以上のものにとって大切であると信じたがる。とはいえ、じつのところ、ほとんどの人の人生には、彼らが互いに語り合う物語のネットワークの中でしか意味がない。

 

 

意味は、大勢の人が共通の物語のネットワークを織り上げたときに生み出される。(略)

では、なぜこれらの人々はみな、それが有意義だと考えるのか?それは、彼らの友人や隣人たちも同じ見方をしているからだ。人々は絶えず互いの信念を強化しており、それが無限のループとなって果てしなく続く。

 

 

互いに確認し合うごとに、意味のウェブは強固になり、他の誰もが信じていることを自分も信じる以外、ほとんど選択肢がなくなる。

それでも、何十年、何百年もたつうちに、意味のウェブがほどけ、それに代わって新たなウェブが張られる。

 

 

歴史を学ぶというのは、そうしたウェブが張られたりほどけたりする様子を眺め、ある時代の人々にとって人生で最も重要に見える事柄が、子孫にはまったく無意味になるのを理解することだ。(略)

 

 

 

このようにして、中世の文明は一本また一本と糸を編んで意味のウェブを作り、ジョンや彼の同時代人をハエのように絡めとっていった。これらの物語がすべてただの想像の産物であるとは、ジョンには思いもよらなかった。(略)

 

 

やがて月日が流れた。歴史家が見守る中、意味のウェブがほどけ、その代わりに別のウェブが編まれる。ジョンの親が亡くなり、兄弟姉妹や友人もそれに続く。吟遊詩人たちによる十字軍遠征の歌に取って代わって、悲劇的な恋愛についての 舞台劇が流行する。(略)

 

 

そしてさらに歳月が過ぎていく。かつて城のあった場所は、今ではショッピングセンターになっている。(略)

歴史はこのように展開していく。人々は意味のウェブを織り成し、心の底からそれを信じるが、遅かれ早かれそのウェブはほどけ、後から振り返れば、いったいどうしてそんなことを真に受ける人がいたのか理解できなくなる。

 

 

 

後知恵をもってすれば、天国に至ることを期待して十字軍の遠征に出るなど、愚の骨頂としか思えない。今考えれば、冷戦は狂気の極みだ。三〇年前、共産主義天国を信じていたが故に、核戦争による人類の壊滅の危険を喜んで冒す人々がいたとは、どういうことか?そして今から一〇〇年後、民主主義と人権の価値を信じる私たちの気持ちもやはり、私たちの子孫には理解不能に思えるかもしれない。」