読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホモ・デウス (上) (第3章 人間の輝き)

「紙の上に生きる

 

書字はこのようにして、強力な想像上の存在の出現を促し、そうした存在が何百万もの人を組織し、河川や湿地やワニのありようを作り変えた。書字は同時に、人間にとってそうした虚構の存在を信じやすくもした。書字のおかげで、人々は抽象的なシンボルを介して現実を経験することに慣れたからだ。(略)

 

 

 

古代のエジプトにおいてであれ、二〇世紀のヨーロッパにおいてであれ、読み書きのできるこのエリート層にしてみれば、紙に記されたことには何でも、木々や牛や人間と少なくとも同じぐらい現実味があった。

 

 

一九四〇年春、ナチスが北からフランスを侵略したときに、ユダヤ系フランス人の多くが、国を脱して南へ逃げようとした。(略)ポルトガル政府はフランス駐在の領事たちに、事前に外務省の許可を得ずにピザを発給することを禁じたが、ボルドーの総領事だったアリスティデス・デ・ソウザ・メンデスは、外交官としての三〇年に及ぶキャリアを捨てる覚悟でこの命令を無視することにした。(略)

 

 

それでも、苦境に立たされた人々のことなど気にもかけない役人たちでさえ、公的な書類に対しては深い畏敬の念を抱いていたため、ソウザ・メンデスが命令に背いて発給したビザは、フランスとスペインとポルトガルの官吏たちが揃って尊重したので、三万もの人がナチスの魔手から逃れて国外へ脱出できた。

 

 

ゴム印以外にほとんど何の武器も持たなかったゾウザ・メンデスは、こうしてユダヤ人大虐殺の間に一個人としては最大規模の救出作戦をやってのけた。

 

 

文書の記録の神聖さがこれほど良い結果をもたらさないことも、しばしばあった。一九五八年から六一年にかけて、共産中国は大躍進政策を実施した。(略)

彼の実行不可能な要求は、北京の官庁から官僚制の階層を下り、地方行政官を経て、各地の村長にまで伝えられた。(略)

 

 

でっち上げられた数字が官僚制のヒエラルキーを上へと戻って行くときには、役人がめいめいペンを振ってどこかしらに「0」を書き加え、さらに誇張が積み重なった。

そのため、中国政府が一九五八年に受け取った年間穀物生産高の報告は、現実の五割増しだった。政府はその報告を鵜呑みにし、武器や重機と引き換えに、何百万トンもの米を外国に売却し、それでも自国民を養うだけの量は残ると思い込んでいた。

 

 

 

ところがその結果、史上最悪の飢饉が起こり、何千万もの中国人が命を落とした。

その間、中国農業の奇跡を伝える熱狂的な報道が、世界中の人々に届いていた。(略)政府のプロパガンダは、それらの集団農場が小さな楽園であるかのように宣伝したが、その多くは政府の書類上の上にしか存在しなかった。(略)

 

 

 

文字で表すのは現実を描写するささやかな方法と思われていたかもしれないが、それはしだいに、現実を作り変える強力な方法になっていった。公の報告書が客観的な現実と衝突したときには、現実の方が道を譲ることがよくあった。税務当局や教育制度、その他どんな複雑な官僚制であれ、相手に回したことがある人なら誰もが知っているように、事実はほとんど関係ない。書類に書かれていることのほうがあるかに重要なのだ。

 

 

 

聖典

 

文書と現実が衝突した時には、現実が道を譲らざるをえないことがあるというのは本当なのか?(略)

たとえば、アフリカの多くの国の国境は、河川や山並みや交易ルートを顧みず、歴史的な区域や経済的な区域をいたずらに引き裂き、地域の民族や宗教のアイデンティティをないがしろにしている。(略)

 

 

 

 

それにもかかわらず、侵略者たちは新たな衝突を避けるために、合意を堅持し、これらの想像上の線がヨーロッパの植民地の現実の境界となった。(略)

現代の教育制度も、現実が文書記録にひれ伏す例を無数に提供してくれる。(略)

もともと学校は、生徒を啓蒙し教育することが主眼のはずで、成績はそれがどれだけうまくいっているかを測る手段にすぎなかった。だがほどなく、学校はごく自然に、よい成績を達成することに的を絞り始めた。(略)

 

 

 

文書記録の持つ力は、聖典の登場とともに絶頂を極めた。(略)

エイブラハム・リンカーンは、すべての人をずっと騙し通すことはできないと言っている。残念ながら、それは考えが甘い。実際には、人間の協力ネットワークの力は、真実と虚構の間の微妙なバランスにかかっている。

 

 

もし誰かが現実を歪め過ぎると、その人は力が弱まり、物事を的確に見られる競争相手に歯が立たない。その一方で、何らかの虚構の神話に頼らなければ、大勢の人を効果的に組織することができない。だから、虚構をまったく織り込まずに、現実にあくまでこだわっていたら、ついてきてくれる人はほとんどいない。

(略)

 

 

 

ファラオの支配するエジプトや、ヨーロッパの諸帝国、現代の学校制度のような、本当に強力な人間の組織は、物事を必ずしも的確に見られるわけではない。それらの権力の大半は、虚構の信念を従順な現実に押し付ける能力にかかっている。貨幣というものがその好例だ。

 

 

政府がただの紙切れを発行し、それには価値があると宣言し、それからそれらを使って他のあらゆるものの価値を計算する。政府はその紙切れで税を払うことを国民に強制する権力を持っているので、国民は紙幣をある程度は手に入れるよりしかたがない。その結果、紙幣は本当に価値を持つようになり、政府の役人たちの信念が正しかったことが立証される。(略)

 

 

 

聖典も同様だ。(略)

「この本はただの紙にすぎない!」と抗議し、その言葉通りに振舞う人がいたとしたら、たちまち行き詰るだろう。(略)

もっとも、ヘロドトスやトゥキュディデスは聖書の著者たちよりも現実をはるかによく理解していたとはいえ、二つの世界観が衝突したときには、聖書の圧勝だった。古代ギリシアの人々はユダヤ人の歴史観を採用し、ユダヤ人がギリシア

歴史観を採用することはなかった。(略)

 

 

 

それどころか今日でさえ、アメリカの大統領が就任の宣誓を行うときには、片手を聖書の上に置く。同様に、アメリカとイギリスを含め、世界の多くの国では法廷の証人は、真実を、すべての真実を、そして真実だけを述べることを誓う時に、片手を聖書の上に置く。これほど多くの虚構と神話と誤りに満ちた書物にかけて真実を述べると誓うとは、なんと皮肉なことだろう。

 

 

 

システムはうまくいくが……

 

私たちは虚構のおかげで上手に協力できる。だが、それには代償が伴う。そのような虚構によって、私たちの協力の目標が決まってしまうのだ。だから私たちは、非常に手の込んだ協力システムを持っていても、それが虚構の目標と関心のために利用されるわけだ。

 

 

 

その結果、そのシステムはうまくいっているように見えるかも知れないが、それは私たちがそのシステムそのものの規準を採用した場合に限られる。(略)

学校の校長ならこんなことを言うだろう。「我々のシステムはうまくいっている。過去の五年間で、試験の結果が七・三パーセント上がった」。

 

 

とはいえ、それは学校を評価する最善の方法なのだろうか?(略)

このように、人間の協力ネットワークを評価するときには、すべてはどのような基準と観点を採用するかにかかってくる。ファラオ時代のエジプトは、生産高で評価するのか、それとも栄養で、あるいは社会的調和で評価するのか?(略)

 

 

したがって、どんな人間のネットワークであれ、その歴史を詳しく調べる時には、ときどき立ち止まって、何か現実のものの視点から物事を眺めてみるのが望ましい。では、あるものが現実のものかどうかは、どうすればわかるだろう?

 

 

 

とても単純だ。「それが苦しむことがありうるか?」と自問しさえすればいい。人々がゼウスの神殿を焼き払っても、ゼウスは苦しまない。ユーロは価値が下がっても苦しまない。銀行は倒産しても苦しまない。国家は戦争に敗れても本当に苦しむことはない。苦しむと言ったとしても、それは比喩でしかない。

 

 

それに対して、兵士は戦場で負傷したら、本当に苦しむ。飢えた農民は、食べ物が何もなければ苦しむ。雌牛は産んだばかりの子牛から引き離されれば苦しむ。それこそが現実だ。

 

 

 

もちろん虚構を信じているから苦しむこともありうる。たとえば、国家や宗教の神話を信じていたら、そのせいで戦争が勃発し、何百万もの人が家や手足、命さえ失いかねない。戦争の原因は虚構であっても、苦しみは一〇〇パーセント現実だ。だからこそ、虚構と現実を区別するべきなのだ。

 

 

 

虚構は悪くはない。不可欠だ。お金や国家や協力などについて、広く受け入れられている物語がなければ、複雑な人間社会は一つとして機能しえない。人gは定めた同一のルールを誰もが信じていないかぎりサッカーはできないし、それと似通った想像上の物語なしでは市場や法廷の恩恵を受けることはできない。

 

 

 

だが、物語は道具にすぎない。だから、物語を目標や規準にするべきではない。私たちは物語がただの虚構であることを忘れたら、現実を見失ってしまう。すると、「企業に莫大な収益をもたらすため」、あるいは「国益を守るため」に戦争を始めてしまう。

 

 

 

企業やお金や国家は私たちの想像の中にしか存在しない。私たちは、自分に役立てるためにそれらを創り出した。それなのになぜ、きがつくとそれらのために自分の人生を犠牲にしているのか?

 

 

私たちは二一世紀にはこれまでのどんな時代にも見られなかったほど強力な虚構と全体主義的な宗教を生み出すだろう。そうした宗教はバイオテクノロジーとコンピューターアルゴリズムの助けを借り、私たちの生活を絶え間なく支配するだけでなく、私たちの体や脳や心を形作ったり、天国も地獄も備わったバーチャル世界をそっくり創造したりすることもできるようになるだろう。

 

 

 

したがって、虚構と現実、宗教と科学を区別するのはいよいよ難しくなるが、その能力はかつてないほど重要になる。」