読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホモ・デウス (上) (第3章 人間の輝き)

「聖なる教義

 

実際には、倫理的な判断と事実に関する言明は、いつも簡単に区別できるわけではない。主教に歯、事実に関する言明を倫理的な判断に変え、深刻な混乱を生み、比較的単純な議論であってしかるべきだったものをわかりにくくする、根強い傾向がある。

 

 

 

たとえば、「神が聖書を書いた」という事実に関する言明は、「あなたは神が聖書を書いたと信じるべきである」という倫理的な命令に替わってしまうことがあまりに多い。事実に関するこの言明をたんに信じることが美徳となり、疑うことは恐ろしい罪となる。

 

 

逆に、倫理的な判断は、事実に関する言明を内に秘めていることが多い。擁護者たちが、そうした事実は疑いの余地がないまでに証明されていると考え、わざわざ言及しないからだ。たとえば、「人の命は神聖である」という倫理的な判断(科学には検証できないこと)は、「すべての人には不滅の魂がある」という事実に関する言明(科学的議論の対象になること)を覆い隠しているかも知れない。

 

 

 

同様に、アメリカの国家主義者が「アメリカという国は神聖だ」と宣言するときには、この一見すると倫理的な判断は、じつは、「アメリカは過去数世紀の道徳的進歩と科学的進歩の大半を先導してきた」という事実に関する言明に基づいている。

 

 

 

アメリカという国は神聖であるという主張を科学的に精査するのは不可能であるが、この判断に隠された言明をいったん明るみに出してしまえば、アメリカが道徳的大躍進と科学的大躍進と経済的大躍進の、不釣り合いなまでに多くを本当に引き起こしてきたのかどうかは、科学的に検証できるだろう。

 

 

 

そこから、サム・ハリスらの一部の哲学者は、人間の価値観の中には事実に関する言明がつねに隠されているので科学はつねに倫理的ジレンマを解決できると主張するようになった。人間はみな、苦しみを最小化し、幸福を最大化するという単一の至高の価値観を持っており、したがって倫理的な議論はすべて、幸福を最大化する最も効率的な方法にまつわる、事実に関する議論だとハリスは考えている。

 

 

 

イスラム原理主義者は幸せになる為に天国に行き着きたがり、自由主義者は人間の自由を増せば幸福を最大化できると信じており、ドイツの国家主義者はドイツ政府が世界の舵取りを任されればあらゆる人の境遇が改善するだろうと考えている。ハリスによれば、イスラム原理主義者と自由主義者国家主義者は、倫理的な意見の対立ではなく、彼らに共通する目標を実現する最善の方法をめぐって、事実に関する議論を戦わせているのだそうだ。

 

 

とはいえ、たとえハリスが正しく、あらゆる人が幸福を大切にするとしても、実際には、この見識を使って倫理にまつわる言い争いに決着をつけるのは至難の業だろう。なにしろ、幸福の科学的な定義も測定法もないからだ。三協ダムの事例をもう一度考えてほしい。

 

 

 

この事業の究極の目的が、世界をより幸せな場所にすることだと、仮に私たちが合意したとしても、安い電力を生み出す方が、伝統的な生活様式を守ったり、珍しいヨウスコウカワイルカを救ったりするよりも、全世界の幸福に貢献すると、どうして言えるだろうか?

 

 

 

意識の神秘を解明しないかぎり、私たちは幸福と苦しみの普遍的測定法を開発できないし、違う人どうしの幸福と苦しみを比較する方法もわからない。ましてや、異なる種の間での比較など論外だ。一〇億の中国人が安価な電力を享受するときに生み出される幸福は何単位なのか?

 

 

イルカの種が一つ絶滅するときに生じる苦難は何単位なのか?それどころか、そもそも幸福と苦難は足したり引いたりできる数理的なものなのか?アイスクリームを食べるのは楽しい。真の愛を見つけるのはもっと楽しい。だが、もしアイスクリームをたくさん食べれば、快感が積み重なって、真の愛がもたらす歓喜と肩を並べ得るだろうか?

 

 

 

したがって、科学は私たちが普段思っているよりも倫理的な議論にはるかに多く貢献できるとはいえ、少なくとも今のところは科学には越えられない一戦がある。何らかの宗教の導きがなければ、大規模な社会的秩序を維持するのは不可能だ。

 

 

大学や研究所でさえ、宗教的な後ろ楯を必要とする。宗教は科学研究の倫理的正当性を提供し、それと引き換えに、科学の方針と科学的発見の利用法に影響を与える。そのため、宗教的信仰を考慮にいれなければ、科学の歴史は理解できない。科学者がこの事実についてじっくり考えることは稀だが、ほかならぬ科学革命が始まったのは、教条主義的で不寛容で宗教的なことにかけては史上有数の社会においてだった。」

 

 

〇 私たちの国の宗教は何なのか?お葬式は仏教で、結婚式はキリスト教で、お正月には日本神道で…とよく言われてました。でも、今やそれもあやしくなっています。自分の人生には、意味があると考えずにはいられないのが人間で、そのために、宗教を生み出す、とここでも、言われています。

 

生きる意味…大昔、私がその答えを探した時、私たちの国の文化には、その答えがないと感じたことがあります。生きる意味について、考える習慣や文化が私たちにはない…と。

 

今は、むしろ、そんな大事なことは、大っぴらには口せず、心の奥で、ひっそりと考えているのだ、と感じます。「ない」のではない。ちゃんとみんなそれぞれに考えている。ただ、口にしないだけ。でも、そんなわかり難い「宗教」だと、若い私には、とても、理解できませんでした。