読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホモ・デウス (上) (第3章 人間の輝き)

魔女狩り

私たちは科学を、世俗主義と寛容の価値観と結びつけることが多い。それならば、近代前期のヨーロッパほど科学革命発祥の地として意外な場所はないだろう。コロンブスコペルニクスニュートンの時代のヨーロッパは、宗教的狂信者が最も集中しており、寛容の水準がいちばん低かった。

 

 

科学革命を担った名だたる人々は、ユダヤ教徒イスラム教徒を排除し、異端者を大量に火あぶりにし、猫を可愛がる高齢の女性はみな魔女と見なし、月が満ちるたびに新たな宗教戦争を始める社会に暮らしていた。

一六〇〇年頃にカイロかイスタンブールに旅したら、そこは多文化で寛容な大都市で、スンニ派イスラム教徒やシーア派イスラム教徒、東方正教会キリスト教徒、カトリック教徒、アルメニア教会のキリスト教徒、コプト教徒、ユダヤ教徒、さらには少数のヒンドゥー教徒までもが隣り合って比較的仲良く暮らしていたはずだ。

 

 

 

彼らもそれなりに意見が対立したり暴動を起こしたりはしたものの、そして、オスマン帝国が宗教を理由に人々を日常的に差別してはいたものの、そこはヨーロッパと比べれば偏見のない楽園だった。海を渡って当時のパリやロンドンに行けば、そこには宗教的な過激主義が満ちあふれ、支配的な宗派に属している人しか住めなかった。

 

 

 

 

ロンドンではカトリック教徒が殺され、パリではプロテスタントが殺され、ユダヤ教徒はとうの昔に追い出されており、正気の人ならイスラム教徒を迎え入れること等夢にも思わなかった。それにもかかわらず、科学革命はカイロとイスタンブールではなくロンドンとパリで始まった。

 

 

 

近代と現代の歴史を科学と宗教の闘争として描くのが慣習になっている。理屈の上では、科学と宗教はともに何よりも真理に関心があり、異なる真理を擁護するので、必ず衝突する定めにある。ところが、じつは科学も宗教も真理はあまり気にしないので、簡単に妥協したり、共存したり、協力したりさえできる。

 

 

 

宗教は何をおいても秩序に関心がある。宗教は社会構造を創り出して維持することを目指す。科学は何をおいても力に関心がある。科学は、病気を治したり、戦争をしたり、食物を生産したりする力を、研究を通して獲得することを目指す。科学者と聖職者は、個人としては真理をおおいに重視するかもしれないが、科学と宗教は集団的な組織としては、真理よりも秩序と力を優先する。

 

 

したがって、両者は相性が良い。真理の断固とした探求は霊的な旅で、宗教や科学の主流の中にはめったに収まり切らない。

したがって近代と現代の歴史は、科学とある特定の宗教、すなわち人間至上主義との間の取り決めを形にするプロセスとして眺めた方が、はるかに正確だろう。

 

 

現代社会は人間至上主義の教義を信じており、その教義に疑問を呈するためにではなく、それを実行に移すために科学を利用する。二一世紀には人間至上主義の教義が純粋な科学理論に取って代わられることはなさそうだ。とはいえ、科学とン現至上主義を結び付ける契約が崩れ去り、まったく異なる種類の取り決め、すなわち、科学となんらかのポスト人間至上主義との取り決めに場所を譲る可能性が十分ある。

 

 

 

本書ではこれからの二章で、科学と人間至上主義との間で交わされた現代の契約の理解にもっぱら努めることにする。そしてその後、最後の第3部では、この契約が崩れかけている理由と、その後釜に座るかもしれない新しい取り決めを説明する。」

 

 

〇 ここで、「ホモ・デウス」上巻 は終わっています。

 

図書館で借りて読んだため、最初に下巻を読み、次に上巻を読んだのですが、

当然のことながら、やはり、上巻から読むべき本でした。

上巻にはこの本を書いた著者の意図が書かれていて、下巻はそれを具体的に示すための、材料が提示されていたのだと感じました。

 

下巻のメモをもう一度、振り返って読んでみたいと思います。