読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホモ・デウス (下)

「不平等をアップグレードする

 

ここまでは、自由主義に対する三つの実際的な脅威のうち、二つを見て来た。その第一は、人間が完全に価値を失うこと、第二が、人間は集団として見た場合には依然として貴重ではあるが、個人としての権威を失い、代わりに、外部のアルゴリズムに管理されることだ。(略)

 

 

自由主義に対する第三の脅威は、一部の人は絶対不可欠でしかも解読不能のままであり続けるものの、彼らが、アップグレードされた人間の、少数の特権エリート階級となることだ。(略)

 

 

人類が生物学的カーストに分割されれば、自由主義イデオロギーの基盤が崩れる。自由主義は、社会経済的な格差とは共存できる。それどころか、自由主義は平等よりも自由を好むので、そのような格差はあって当然と考える。とはいえ自由主義は、人間はすべて等しい価値と権限を持っていることを、依然として前提としている。

 

 

自由主義の視点に立つと、ある人が億万長者で壮麗な大邸宅に住んでおり、別の人が貧しい農民で、藁の小屋に住んでいても、いっこうにかまわない。なぜなら自由主義に従えば、その農民ならではの経験もやはり、億万長者の経験とまさに同じぐらい貴重ということになるからだ。(略)

 

 

同じ論理が選挙の日にも働く。貧しい農民の一票も、億万長者の一票と完全に同じ価値を持つからだ。社会的不平等に対する自由主義の解決策は、全員のために同じ経験を生み出そうとするのではなく、異なる人間の経験に等しい価値を与えることだ。(略)

 

 

アンジェリーナ・ジョリーは「ニューヨーク・タイムズ」紙の生地で、遺伝子検査の高額な費用に触れた。ジョリーが受けた検査には三〇〇〇ドル以上かかった(これには乳房切除手術そのものや再建手術や関連の治療の費用は含まれていない)。これは、一日あたりの稼ぎが一ドル未満の人が一〇億人、一ドルから二ドルの人がさらに一五憶人いる世界での話だ。これらの人は死ぬまで一生懸命働いても、お金がなくて三〇〇〇ドル以上もする遺伝子検査は受けられない。

 

 

しかも現在、経済的な格差は拡がる一方だ。二〇一六年初めの時点で、世界の最富裕層六ニ人の資産を合わせると、最貧層の三六億人の資産の合計に匹敵する!

世界の人口はおよそ七ニ憶人だから、これら六ニ人の大富豪が集まれば、人類の下位半分の持つ資産の合計に匹敵する富を持っていることになる。(略)

 

 

 

豊かな人々は、歴史を通して社会的優越や政治的優越の恩恵にあずかってきたが、彼らを貧しい人々と隔てるような巨大な生物学的格差はなかった。中世の貴族は、自分たちの血管には優れた青い血が流れていると主張し、ヒンドゥー教バラモンは、自分は生まれつき他の人々よりも賢いと断言したが、それはまったくの作り話だった。ところが将来は、アップグレードされた上流階級と、社会の残りの人々との間に、身体的能力と認知的能力の本物の格差が生じるかも知れない。

 

 

科学者はこの筋書きを突きつけられると、たいてい次のように応じる。二〇世紀には、医学の飛躍的発展は豊かな人々を対象に起こることが多すぎたものの、やがてその恩恵は全人口に及び、社会的格差を拡げるのではなく縮めるのに役立った、たとえば、ワクチンや抗生物質は、最初は主に西洋諸国の上流階級に利益をもたらしたが、今日では、あらゆる場所で、すべての人の生活を向上させている、と。

 

 

 

ところが、この過程が二一世紀にも繰り返されると期待するのは考えが甘すぎるかもしれない。それには二つの重要な理由がある。第一に、医学は途方もない概念的大変革を経験している。

 

 

二〇世紀の医学は病人を治すことを目指していた。だが、二一世紀の医学は、健康な人をアップグレードすることに、しだいに狙いを定めつつある。病人を治すのは平等主義の事業だった。(略)それに対して、健康な人をアップグレードするのはエリート主義の事業だ。(略)

 

 

 

したがって、二〇七〇年には、貧しい人々は今日よりもはるかに優れた医療を受けられるだろうが、それでも、彼らと豊かな人々との隔たりはずっと拡がることになる。人はたいてい、不運な祖先とではなく、もっと幸運な同時代人と自分を比較する。(略)

 

 

 

そのうえ、どれだけ医学上の飛躍的発展があっても、二〇七〇年に貧しい人々が今日よりも良い医療を享受できるかどうか、絶対的な革新は持てない。国家もエリート層も、貧しい人に医療を提供することに関心を失っているかも知れないからだ。(略)

 

 

 

一九一四年に日本のエリート層が、貧しい人々に予防接種をしたり、貧民街に病院と下水設備を建設したりすることに熱心だったのは、日本を強力な軍隊と活発な経験を持つ大国にしたければ、何百万もの健康な兵士と労働者が必要だったからだ。

 

 

 

だが、大衆の時代は終わりをつげ、それとともに大衆医療の時代も幕を閉じるかもしれない。人間の兵士と労働者がアルゴリズムに道を譲る中、少なくとも一部のエリート層は、次のように結論する可能性がある。

 

 

無用な貧しい人々の健康水準を向上させること、あるいは、標準的な健康水準をすることさえ、意味がない、一握りの超人たちを通常の水準を超えるところまでアップグレードすることに専心するほうが、はるかに懸命だ、と。(略)

 

 

 

並外れた身体的能力や情緒的能力を持った超人が出現したら、自由主義信仰はどうやって生き延びるのか?そのような超人の経験が、典型的なサピエンスの経験と根本的に違うものになったら、何が起こるのか?超人は、卑しいサピエンスのドロボウたちの経験を描いた小説に飽き飽きし、一方、平凡な人間は超人の恋愛を題材にしたメロドラマが理解できないとしたらどうなるのか?

 

 

 

飢饉と疫病と戦争の克服という、二〇世紀の人類の壮大なプロジェクトは、誰にも例外なく豊かさと健康と平和を与えるという、普遍的な規範を守ることを目指した。不死と至福と神性を獲得するという二一世紀の新しいプロジェクトも、全人類に尽くすことを願っている。

 

 

 

ところが、これらのプロジェクトは通常の水準を維持するのではなく凌ぐことを目指しているため、新しい超人のカーストを生み出し、そのカースト自由主義に根差す過去を捨て、典型的な人間を、一九世紀のヨーロッパ人がアフリカ人を扱ったのと同じように扱う可能性がある。

 

 

 

もし科学的な発見とテクノロジーの発展が人類を、大量の無用な人間と少数のアップグレードされた超人エリート層に分割したなら、あるいは、もし権限が人間から知能の高いアルゴリズムの手にそっくり移ったなら、そのときには自由主義は崩壊する。そうなったとき、そこに生じる空白を埋め、神のような私たちの子孫の、その後の進化を導いていくのは、どんな新しい宗教あるいはイデオロギーなのだろう?」

 

 

〇 読んでいてとても嫌な気分になりました。理由は、「将来こうなってしまったら困る…」という悲観的予想によるものだ、と思っていました。でも、今回こうしてキーボードを打ちながら、もう一度この部分を読むと、この状況は、「将来の悲観的想像」ではなく、「現在の日本の状況」だ、と気付きました。

 

 

● 私たちの間に今ある空気=見えない「物語」は信じない

● 人々が何を欲するかを形にすることが一番必要で正しい事。

  そこを「商売」にすることが成長戦略につながる。

  成長戦略を打ち立てることが国の重要な問題。

● 人権とか民主主義などは、国際社会の中でやっていくために、

 一応大切にしているふりをしなければならないが、現実には、

  西洋からの借り物で、日本古来のの思考パターンからは、

  生まれ るはずのないもの。

● 私たちの社会では、人には生まれ持った「格」があると

 考えられており、それは、動かしがたいもの。

 

そんな風土の日本は、ある意味、世界で最も時代の最先端を行っているのかもしれない、と感じました。

つまり、日本の現在のあり方を見れば、世界(愛を信じ、人権を守ろうと戦い、民主主義を造り上げた)の将来像を見ることができるのではないか、と思います。

 

人々は、見えるもの=経済(損得)しか信じない。

生きる意味は欲望に従う事。美味しいものを食べ、したいこと、面白いことをするために生きている。

弱い者、貧しい者、税金を払わないものは、社会における厄介者、迷惑をかける者なので、大切にする必要はない。

 

子供たちが育つ、学校の中には、すでにカースト制度があり、

次の世代に受け継ぐべき価値観を育てている。

 

正義も公正も理想など、語っても意味のないことは、学ぶに値しないことなので、そのような学部には、税金を投入しない。

うまく、ごまかし、一見正しいように見える事だけが必要。