読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホモ・デウス(下) (第11章 データ教)

「データフローの中の小波

 

データ至上主義にも当然、批判者や異端者がいる。第3章で見たように、生命が本当にデータフローに還元できるかどうかは疑わしい。とりわけ、現時点ではデータフローがなぜ、どのように意識と主観的経験を生み出しうるのかは皆目わからない。(略)

 

 

生命現象とはつまるところ意思決定にすぎないということになるかどうかも、同様に疑わしい。データ至上主義の影響下で、生命科学も社会科学も、意思決定の過程の解明に躍起になって取り組んでいる。まるで意思決定が生命にとってすべてであるかのように。だが、果たしてそうだろうか?

 

 

 

感覚や情動や思考は、意思決定においてたしかに重要な役割を果たしているが、意思決定だけが、それらの唯一の意義なのだろうか?データ至上主義は、意思決定過程についての理解をますます深めているが、生命についてしだいに偏った見方を採用しているのかもしれない。(略)

 

 

 

データ至上主義の協議を批判的に考察することは、二一世紀最大の科学的課題であるだけでなく、最も火急の政治的・経済的プロジェクトにもなりそうだ。生命をデータ処理と意思決定として理解してしまうと、何か見落とすことになるのではないか、と生命科学者や社会科学者は自問するべきだ。

 

 

 

この世界にはデータに還元できないものがあるのではないだろうか?(略)

もちろん、たとえデータ至上主義が間違っていて、生き物がただのアルゴリズムではないとしても、データ至上主義が世界を乗っ取ることを必ずしも防げるわけではない。(略)

 

 

 

データ至上主義が世界を征服することに成功したら、私たち人間はどうなるのか?最初は、データ至上主義は人間至上主義み基づく幸福と力の追及を加速させるだろう。人間至上主義のこうした願望の充足を約束することによって、データ至上主義は広まる。(略)

 

 

ところが、人間からアルゴリズムへと権限がいったん移ってしまえば、人間至上主義のプロジェクトは意味を失うかもしれない。人間中心の世界観を捨てて、データ中心の世界観をいったん受け容れたなら、人間の健康や幸福の重要性は霞んでしまうかもしれないからだ。(略)

 

 

 

それなのに、「すべてのモノのインターネット」がうまく軌道に乗った暁には、人間はその構築者からチップへ、さらにはデータへと落ちぶれ、ついには急流に呑まれた土塊のように、データの奔流に溶けて消えかねない。

 

 

 

そうなるとデータ至上主義は、ホモ・サピエンスが他のすべての動物にしてきたことを、ホモ・サピエンスに対してする恐れがある。(略)何千年間もそうしているうちに、人間は高慢と偏見を募らせた。人間はそのネットワークの中で最も重要な機能をはたしていたので、ネットワークの功績を自分の手柄にして、自らを神羅万象の頂上と見なした。

 

 

 

残りの動物たちが果たす機能は重要性の点ではるかに劣っていたので、彼らの生命と経験は過小評価され、何の機能も果たさなくなった動物は絶滅した。ところが、私たち人間が自らの機能の重要性をネットワークに譲り渡したときには、私たちは結局森羅万象の頂点ではないことを思い知らされるだろう。

 

 

 

そして、私たち自身が神聖視してきた基準によって、マンモスやヨウスコウカワイルカと同じ運命をたどる羽目になる。振り返ってみれば、人類など広大無辺なデータフローの中の小波に過ぎなかったということになるだろう。

 

 

 

私たちには未来を本当に予測することはできない。なぜならテクノロジー決定論ではないからだ。同一のテクノロジーがまったく異なる種類の社会を作り出すこともありうる。たとえば、産業革命がもたらした列車や電気、ラジオ、電話といったテクノロジーを使って、共産主義独裁政権ファシスト政権と自由民主主義政権のどれを確立することもできた。

 

 

 

韓国と北朝鮮を考えてみるといい。これまで両国はまったく同じテクノロジーを利用することができたが、それを非常に異なる方法で採用する道を選んできた。

AIとバイオテクノロジーの台頭は世界を確実に変容させるだろうが、単一の決定論的な結果が待ち受けているわけではない。

 

 

 

本書で概説した筋書きはみな、預言ではなく可能性として捉えるべきだ。こうした可能性のなかに気に入らないものがあるなら、その可能性を実現させないように、ぜひ従来とは違う形で考えて行動してほしい。

 

 

 

とはいえ、新たな形で考えて行動するのは容易ではない。なぜなら私たちの思考や行動はたいてい、今日のイデオロギーや社会制度の制約を受けているからだ。本書ではその制約を緩め、私たちが行動を変え、人類の未来についてはるかに想像力に富んだ考え方ができるようになるために、今日私たちが受けている条件付けの源泉をたどってきた。

 

 

単一の明確な筋書きを予測して私たちの視野を狭めるのではなく、地平を拡げ、ずっと幅広い、さまざまな選択肢に気づいてもらうことが本書の目的だ。繰り返し強調してきたように、二〇五〇年に求人市場や家族や生態系がどのようになっているのか、どの宗教や経済制度や政治構造が世界を支配しているのか、本当にあっている人は誰もいないのだ。(略)

 

 

 

古代には、力があるというのはデータにアクセスできることを意味した。今日では、力があるというのは何を無視するかを知っていることを意味する。では、私たちの混とんとした世界で起こっていることをすべて考えると、何に焦点を当てるべきだろうか?

 

 

何か月という単位で考えるのなら、中東の紛争やヨーロッパの難民危機や中国経済の減速といった、目の前の問題に焦点を当てるべきだろう。何十年の単位で考えるのなら、地球温暖化や不平等の拡大や求人市場の混乱が大きく立ちはだかる。ところが、生命という本当に壮大な視点で見ると、他のあらゆる問題や展開も、次の三つの相互に関連した動きの前に影が薄くなる。

 

 

1 科学は一つの包括的な教義に収斂しつつある。それは、生き物はアルゴリズムであり、生命はデータ処理であるという教義だ。

 

2 知能は意識から分離しつつある。

 

3 意識を持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが間もなく、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになるかもしれない。

 

 

この三つの動きは、次の三つの重要な問いを提起する。本書を読み終わった後もずっと、それがみなさんの頭に残り続けることを願っている。

 

 

1 生き物は本当にアルゴリズムにすぎないのか?そして、生命は本当にデータ処理にすぎないのか?

 

2 知能と意識のどちらのほうが価値があるのか?

 

3 意識は持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか?」

 

〇 ここで、本文は終わり、謝辞があって、「ホモ・デウス 下巻」は終わって

います。

 

謝辞は、以前こちらにメモしました。

 

〇 はてなブログには、カテゴリーという機能があるのですが、

以前メモした記事を見られるように、「カテゴリー」に

リンクさせて、それぞれの記事が開けるようにしました。(まだ、不完全ですが…)

 

記事「カテゴリー」はこちら。