読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

街場の天皇論(改憲のハードルは天皇と米国だ)

参院選挙で改憲勢力が3分の2の議席を獲得し、改憲の動きが出てきたタイミングで、天皇の「生前退位」の意向が示されました。時期的に見て、それなりの政治的配慮があったはずです。2016年8月8日に放映された「おことば」をよく読み返すと、さらにその感が深まります。

 

 

海外メディアは今回の「おことば」について、「安倍首相に改憲を思いとどまるようにとのシグナルを送った」という解釈を報じています。私もそれが「おことば」についての常識的な解釈だと思います。

 

 

天皇はこれまでも節目節目でつねに「憲法擁護」を語ってこられました。戦争被害を受けた内外の人々に対する反省と慰藉の言葉を繰り返し語り、鎮魂のための旅を続けてこられた。

 

 

現在の日本の公人で、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」という内9条に定めた憲法尊重擁護義務を天皇ほど遵守されている人はいないと思います。国会議員たちは公然と憲法を批判し、地方自治体では「護憲」集会に対して「政治的に偏向している」という理由で会場の貸し出しや後援を拒むところが続出しています。

 

 

そういう流れの中で進められている安倍政権の改憲路線に対する最後のハードルの一つが、護憲の思いを語ることで迂回的な表現ながら「改憲には反対」というメッセージを発し続けてきた天皇です。

 

 

自民党改憲草案第1条では、天皇は「日本国の元首」とされています。現行憲法の第7条では、天皇の国事行為には「内閣の助言と承認」が必要とされているのに対し、改憲案では、単に「内閣の進言」とされている。これは内閣の承認がなくても、衆議院の解散や召集を含む国事行為を行うことができるという解釈の余地を残すための文言修正です。

 

 

なぜ、改憲派天皇への権限集中を狙うのか。それは戦前の「天皇親政」システムの「うまみ」を知っているからです。まず天皇を雲上に祭り上げ、「御簾の内」に追い込み、国民との接点をなくし、個人的な発言や行動も禁じる。そして、「上奏」を許された少数の人間だけが天皇の威を借りて、「畏れ多くも畏き辺りにおかせられましては」という呪文を唱えて、超憲法的な権威を揮う。

 

 

そういう戦前の統帥権に似た仕組みを安倍政権とその周辺の人々は作ろうとしています。彼らにとって、天皇はあくまで「神輿」に過ぎません。「生前退位」に自民党や右派イデオローグがむきになって反対しているのは、記号としての「終身国家元首」を最大限利用しようとする彼らの計画にとっては、天皇が個人的意見を持つことも、傷つき病む身体を持っていることも、ともに許しがたいことだからです。

 

 

「おことば」の中で、天皇はその「象徴的行為として、大切なもの」として、「人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添う」ために「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅」を果たすことを挙げました。それが天皇の本務であるにもかかわらず、健康上の理由で困難になっている。そのことが「生前退位」の理由として示されました。

 

 

象徴としての務めは「全身全霊をもって」果たさねばならないという天皇の宣言は、改憲草案が天皇をその中に閉じ込めようとしている「終身国家元首」という記号的存在であることをきっぱり否定したものだと私は理解しています。

 

 

「おことば」の中で、天皇は「象徴」という言葉を8回繰り返しました。特に重要なのは「象徴的行為」という表現があったことです。それは具体的には「皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅」を指しています。けれども、よく考えると「象徴」と「行為」というのは論理的にはうまく結びつく言葉ではありません。「象徴」というのはただそこにいるだけで100%機能するから「象徴」と言われるのであって、それを裏付ける「行為」などは要求されません。

 

 

でも、天皇は「象徴的行為を十全に果たし得るものが天皇であるべきだ」という新しい考え方を提示しました。「おことば」は「御簾の内」に天皇を幽閉して、その威光だけを自らの政治目的のために功利的に利用しようとする人々に対する、天皇からの「否」の意思表示だったと私は思います。

 

 

 

2013年に開催された政府主催の「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」で、天皇と皇后が退席されようとした際に、安倍首相をはじめとする国会議員たちが突然、予定になかった「天皇陛下万歳!」を三唱し、両陛下が一瞬怪訝な表情を浮かべたことがありました。

 

 

それはこの「万歳」が両陛下に対する素直な敬愛の気持ちから出たものではなく、「天皇陛下万歳」の呪文を功利的に利用して、自分たちに従わない人々を恫喝し、威圧しようとする「計算ずく」のものであることが感じられたからでしょう。

 

 

今回も、自然発生的な敬意があれば、天皇の「おことば」に対して内閣が木で鼻を括ったようなコメントで済ませられるはずがない。天皇の本意のあるところをぜひ親しくお聞きしたいと言うはずです。でも、彼らはそうは言わなかった。「余計なことをして」と言わんばかりにあからさまに迷惑そうな顔をしただけでした。自分の政治的勢力を誇示するための装飾として「天皇陛下万歳」を大声で叫びはするが、天皇陛下ご自身の個人的な意見には一片の関心もない。

 

 

安倍首相のみならず、日本の歴史で天皇を政治利用しようとした人々のふるまい方はつねに同じです。天皇を担いで、自分の敵勢力を「朝敵」と名指しして倒してきた。倒幕運動のとき、天皇は「玉」と呼ばれていました。

 

 

二・二六事件青年将校たちは天皇の軍を許可なく動かし、天皇が任命した重臣たちを殺害することに何のためらいも感じませんでした。そのひとりの磯部浅一は獄中にあって、自分たちの行動を批判した昭和天皇に対する怒りと憎しみを隠しませんでした。磯部は「天皇陛下 何と云ふ御失政でありますか 何と云ふザマです、皇祖皇宗に御あやまりなされませ」という「叱責」の言さえ書き残しています。

 

天皇がどのように考え、どのように行動すべきかを決めるのは天皇自身ではなく、「われわれ」であるというこの傲慢さは明治維新以来の我が国の一つの政治的「伝統」です。「君側の奸」を除いて、天皇親政を実現すると言い立てている当の本人が「君側にあって、天皇に代わって天下のことについて裁可する権利」を要求している。

 

 

同じことは終戦時点でも起こりました。8月15日の降伏に反対して「宮城事件」を起こした陸軍省参謀たちは、「國體」護持のためには「ご聖断」に耳を傾ける必要はないと言い放ちました。

 

 

 

伊藤博文から現政権に至るまで、天皇を祭り上げ、神聖化し、天皇へのアクセスを(自分自身を含む)少数のものに限定しようとしてきた人々は、天皇が何をすべきかを決めるのは天皇ではなく、「われわれ」であると考えてきました。彼らは天皇の権威を絶対化し、天皇を「御簾の内」に隠し、その代弁者として、政府にも憲法にも掣肘されない、不可視の座に立とうとしたのです。

 

 

自民党改憲草案における天皇に関わる条項の変更も、めざしているのは二・二六事件磯部浅一や宮城事件の畑中健二と本質的には変わらないと私は思います。それは国家元首である天皇を、まずは憲法にも内閣にも議会にも掣肘されない絶対的存在に祭り上げる。それと同時に国民から隔離して、その意思を伝える手立てを奪う。

 

そうすることによって、天皇を絶対的権威者であり、かつまったく無力な彼らの「傀儡」として操作する。

 

 

2015年の安全保障関連法の成立で示されたように、あるいは改憲草案の「緊急事態条項」に見られるように、安倍政権ははっきりと立憲主義を否定する立場にあります。草案第98条の「緊急事態条項」はこう定めています。

 

 

内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる」。

 

 

こういう法律のつねですけれど、「等」という語の解釈は内閣総理大臣に一任されています。総理大臣はいかなる事態を「武力攻撃、内乱」に類する「社会秩序の混乱」であると認定するかについて判定する専権を有しています。緊急事態宣言の発令によって憲法は停止され、内閣が発令する政令が法律と同様の効力を持つことになる。

 

 

つまり、法の制定者と法の執行者が同一機関になる。そのような政体のことを「独裁制」と呼びます。緊急事態条項というのは言い換えれば「独裁制への移行の法的手続き」を定めたものです。

もちろん、それが独裁制の法的な正当化である以上、そこにはデュープロセスのようなものが装飾的文言として書かれてはいます。

 

 

 

緊急事態宣言は「事前又は事後に国会の承認を得なければならない」「百日を超えて緊急事態の宣言を継続しようとするときは、百日を超えるごとに、事前に国会の承認を得なければならない」とありますが、よく考えればこれは空文に過ぎません。というのは、発令時点で国会多数派が政権与党であり、宣言に賛成して、憲法停止と独裁制の樹立を支持するならば、このあと宣言発令中はもう選挙は行われない。

 

 

議員たちは「終身議員」となり、彼らが100日ごとに宣言を延長すれば、憲法停止状態は適法的に未来永劫に続けることができるからです。

この独裁制を転覆するためには、国民にはもう院外での活動、政権批判の言論やデモという行動しか残されていないわけですけれど、それはまさに「社会秩序の混乱」を引き起こすものに他ならない。

 

 

緊急事態宣言を正当化するような秩序の混乱がなく、宣言が濫用されているという当の事実を指摘する人々の出現そのものが秩序の混乱と認定され、宣言の発令を正当化する。そういう出口のないループに国民は閉じ込められることになります。

 

 

改憲草案に透けて見えるのは、内閣総理大臣憲法に制約されない独裁者の立場に置き、内閣が法律を起案し、かつ執行する独裁政体を作るという夢想です。これは「法治国家」から、中国や北朝鮮のような「人治国家」への政体変換を意味しています。

 

 

しかし、果たして政体の変換がそこまで進むことを国際社会は拱手傍観しているでしょうか。中国や韓国はそのような独裁国家が必ず採用するファナティックなナショナリズムに警戒心を抱くでしょうし、国連をはじめとする国際機関も日本を「リスクファクター」とにんていするでしょう。

 

 

最も重要なのは「宗主国」米国がどうでるかです。オバマの「リバランス」戦略までの米国でしたら、中国や北朝鮮を牽制するために、日本と韓国との連携が重視されていましたが、トランプ政権のアジア戦略はまだよくわかりません。わかっていることはアメリカの「西太平洋からの撤退」が基本戦略であり、アメリカがこの地域でこれまで担ってきた軍事的な負担を日本や韓国や台湾やフィリピンといった同盟国に「肩代わり」させることをトランプ自身は求めているということです。そして尻に火がついたアメリカにとっては、「肩代わりしてくれるならどんな政体でも構わない」というのがおそらく本音でしょう。

 

 

私たちが経験的に知っているのは、アメリカは自国の国益増大に資するのであれば、同盟国がどんな政体であってもまったく気にしないということです。アメリカはこれまで同盟国として、フィリピンのマルコス政権を、インドネシアスハルト政権を、ベトナムのゴ・ジン・ジエム政権を、韓国の朴正煕(パク・チョンヒ)政権を、シンガポールリー・クアン・ユー政権を支持してきました。

 

 

いずれも米国の独立宣言や憲法の価値観と両立し難い強権的な独裁専権でしたけれど、ホワイトハウスは気にしませんでした。ですから、日本の政体が民主的であろうと、独裁的であろうと、アメリカの世界戦略に「役に立つ」ならアメリカは何も言わない。私はそう予測しています。

 

 

 

解釈改憲と安全保障関連法成立のせいで、自衛隊は米国にすれば使い勝手のよい「一」軍になりました。自衛隊員が危険な任務において米兵を代替してくれることをアメリカは歓迎しています。とはいえ、米国にとって日本はかつての敵国です。「同盟国」としてどこまで信頼できるかわからない。

 

「空気」一つで「鬼畜米英」から「対米従属」に一気に変わる国民性ですから、当てにはできない。ですから、米国内に「安保法制で取るべきものは取ったから、首相はもう少し米国の価値観に近い人間に変えてもらいたい」という考え方が出て来ても不思議はありません。

 

 

ですから、改憲日程が具体化すると「それは中国、韓国の対日感情を悪化し、西太平洋における地政学的な安定を揺るがすリスクになるから、自制してほしい」というメッセージがアメリカの政策決定にかかわるプラグマティックな知性からは出てくるはずです。

 

 

いずれにせよ、自民党が進めようとしている改憲の最後のハードルになるのは野党ではなく、天皇ホワイトハウスだというのが私の予測です。日本が民主主義の主権国家ではなく、君主制を持つ米国の属国であるという現実が、そのときに改めて露呈されることになるわけです。」