読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

天皇の戦争責任 (まえがき―― 思想の敗北に抗する力)

竹田青嗣

 

この対談は、加藤典洋橋爪大三郎による、「天皇に戦争責任はあるのか」についての対決バトル討論である。わたしはこの対決討論の行司役を買ってでた。彼らの討論なら、これまで延々くりひろげられてきた「天皇」と「戦争責任」に関する議論とはまったく違った、新しい本質的な議論になるはずだと考えたからである。

 

 

私はこのバトル討論を、とくに若い人々に読んでほしい。「社会」、「国際問題」、「戦争」、「天皇制」といった問題がいろいろ気になるが、どうもすでにある議論がすんなりと胸に腹におさまらない、といった人々に読んでもらいたい。これは、なぜこれまでの「社会」、「戦争」、「天皇」の議論がどこか大上段で、自分の日常の存在の感度にまで繋がらないか、どう考えればそこに辿っていくべき道をみいだせるかを、かならず示唆してくれるような対談なのである。(略)

 

 

 

結局は、大山鳴動してネズミ一匹で、各論者のいわば政治的帰属を確定するだけの問いとなるからだ。つまりそれは、与えられた問題を追い詰めて、はじめに存在した問題のかたちを変容させながら、これをより本質的な問題へ鍛えていく、ということがむしろ不可能になるような「レトリカル・クエスチョン」であることが多いのである。

 

 

 

天皇制」と「戦争責任」の問題は、つまり、これまでずっとそのような二項対立的、二者択一的問題として機能してきた。ざっくばらんんい言ってそれは、論者にとっては、彼が「革新派」に属するか「保守派」に属するかによって、その答えがほぼ自動的に決定されるような問題として存在してきた。

 

 

また読者にとっては(とくに現在の若者にとって)、君は「戦争」という悪を犯した「天皇」や「日本」を擁護するのか、それともそれらに反対の立場をとるのか、といった、じつはかなりナイーヴな倫理決定を二者択一的に迫るような問題として機能してきた。

 

 

 

ようするに、はじめに「左より」か「右より」かという規定の態度や立場があり、さまざまな議論はその立場をただ支えるだけの「信念補強型」、「直観補強型」の議論でありつづけてきたし、現在もそうなのである。(略)

 

 

 

この核とはつまり、「戦争」や戦前の天皇制をもはや歴史記述としてしか知らない現代の若者が、自国の過去の歴史、日本という国家の国際的な位置などを、どのように自分の生の場所につなげるかたちで構想できるか、という問題なのである。(略)

 

 

私としては、同時代の事件や問題が、例の「二項対立」的議論の色彩を強めたらさっさとそこから撤退するのが賢明であると若い人たちに言いたい。この古くからの議論には、もはや「君はどちらの立場に属しますか」という態度決定を促す機能しか残っていない。そして「どちらか」に属したら、思想は敗北する。そこにもはや問題の核心は存在しえず、ただ心情的”倫理性”だけが生き延びているのである。

 

 

さて、「天皇」と「戦争責任」をテーマとする加藤典洋橋爪大三郎のこの対決討論は、一見、「天皇に戦争責任はあるか、否か」という二項対立的問いを形成している。しかし、すぐにわかるのは、ここではどちらの「立場」に立つかなどということが問題の中心をなしていない。

 

 

二人はいわば作業仮説的に対極の立場に立ち、この問題を、いまわれわれが「白紙」の状態から考え直すとして、どのような問題設定をおこなうべきか、という思考実験を競っているのである。(略)

 

 

 

われわれもまた、戦後思想が長く論じてきた一切の問題について、新しい問題設定を”作り出さ”なくてはならない。加藤、橋爪のここでの「天皇」と「戦争責任」の問いはその端緒に立っている。」