読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

天皇の戦争責任(第一部  戦争責任)

「正統性の根拠

 

加藤 僕の観点をはっきりさせるために、なぜ天皇について考えることが大事か、もう少し言ってみます。

僕は戦前の日本人は、自分が日本という国の中でどういう存在なのか、あるいは日本の国民とはどういう存在なのかということについての認識を、非常に明確なかたちで持っていたと思う。(略)

 

 

でも戦後になると、憲法によって国民主権が明示されますが、自分たちでつくった憲法ではないので、その結果、たとえば日本国民とはなんなのかとか、戦後の日本人はどういう存在なのか、ということがわからなくなった。でも、戦前が天皇との関係で自分を決めた、というなら、戦後求められているのは、主権者である自分と他社の関係を自分で決めることなんですね。誰も決めてくれないんだから、自分のほうから、自分と憲法の関係は、こう、自分と政治の関係は、こう、と決めていくことが、自分が誰かということを確定していくことに繋がる。

 

 

そう考えると、日本の「象徴天皇という存在」と「国民としての自分」との関係を確定する作業も、国民が自分が何者かを決める上で、大きなモメントになることがわかる。(略)自分と天皇の関係を国民が自分から定義することが、本当は主権者となるため、避けられないことなのではないかと思うわけです。

 

 

 

橋爪 戦前に比べれば、戦後の日本は近代化という点で一歩すすんだ、と言えると思います。(略)

しかし現在の人類は、国家をつくって国際社会のなかで生きていくという段階なので、国家の作り方に関して言えば、どうしても非合理の要素、あるいは特殊事情がからんでしまう。民族とか歴史とか、それ自身は選択できないのに人類をいくつかのグループに分割してしまうものを所与にするのでないと、国家を構成できないのです。

 

 

 

日本の場合は、その非合理な要素や特殊事情が、天皇の存在というところに集約されていて、それが今の憲法では象徴天皇というかたちになっている。自分たちの社会を合理的に運営して、同時代の国際社会に対して開いていくためには、この非合理な要素をどう認識して、それと付き合っていくかということに関して、自覚的、かつ戦略的でないといけないと思う。(略)

 

 

そのことをみていくために、さきほど言った正統性ということをとりあげて考えてみることにします。

日本国憲法が正当な憲法なのは、大日本帝国憲法の正統な改正手続きを経て合法的に発布され、効力を持ったからです。では、その大日本帝国憲法がなぜ正当化というと、それは明治の半ばに、日本の統治権者である天皇によって制定されたからです。

 

 

 

では、明治維新のあとから大日本帝国憲法が発布されるまでの間は、どのように天皇の正統性があったか。明治政府は、王政復古、すなわち律令制への復帰を掲げた。(略)

律令制に復帰した最初のごく短い期間と、それを手直しした太政官制度の十数年間、内閣制度をとった最後の数年間このように、時期によってちょっと制度が違うんですけど、ようするにそれは伝統的な日本の統治権者である天皇を支持する勢力が武力革命を起こして徳川幕府を打倒し、合法的な政権として宣言したものでした。(略)

 

 

 

明治政府は江戸幕府を敵として打倒したわけで、外交権のないはずの江戸幕府が結んだ条約など、ほんとうなら否定してもよいわけですけれども、明治政府の人々は当時の列強に承認されるにはどうしたらいいかという国際常識があったので、日米修好通商条約などの不平等条約を全部甘受し、条約改正にこぎつけるまでのあいだ、その条約上の義務を守り抜いた。こういうことが国家の正統性のために大切なわけです。

 

 

さらに戦後の社会について言うと、憲法学ではしばしば、憲法が国の根本規範であるということを強調するけれども、条約もそれに負けず劣らず、というかそれと等しい地位を占めることを忘れてはいけない。ポツダム宣言を、日本は受諾したわけです。(略)

 

 

天皇に関する部分は、憲法が改正され、サンフランシスコ講和条約を結んで独立を認められたときに実行的な規定ではなくなったのですけれど、とにかくこうした、日本国の正統性の由来をきちんと理解することには意味がある。

 

 

 

加藤 僕には、なぜそのことがそんなに重要なこととして言われるのか、ということがわからないな。橋爪さんの言い方が詭弁めいて聞こえるいちばんはっきりしている例を言うと、橋爪さんは、日本国憲法が正統性を持つ理由は、大日本帝国憲法の改正だからだと言うけれど、これは法的にはそういう外見を持っているにせよ、なにしろ改正内容が「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という憲法の骨格におよぶような改正でしょう。窓のサッシをとりかえる規定を利用して、家の大黒柱から間取りから、全部変えちゃったようなものです。(略)

 

 

橋爪 どこがどうウサン臭いのかはっきりわからないうちは、それを引き受けるもないものだと思う。憲法が公布されたのは一九四六(昭和二十一)年十一月三日、発効したのは翌年の五月三日。この手続きは帝国議会を経ているし、天皇が公布しているわけです。(略)

 

 

 

かたちのうえから言えば、日本国民に主権があったほうがいいと思うので、主権者である私が皆さんに主権をあげます、という構成になっている。でも、アメリカに占領されて押し付けられたものは、主権者であることの証明にならない。かりに押し付けられたものでなかったとしてしても、主権者である天皇から与えてもらうなんていうのは主権者である国民にとって迷惑な話だ。もし本当に日本国民が主権者でありたいのであれば、主権者を僭称している天皇を打ち倒して、共和制の革命を起こすのが本筋だから、そうやってもいい。いずれにしても、こういった表面的な話は受け入れられないわけです。(略)

 

 

 

橋爪 まず第一に、帝国議会を再招集すべきだという正統感覚をもった議論があっていい。日本の右翼はだらしがないから、そこがポイントだということに気づかなかった。その分、日本の言論はバランスを欠いたものになり、国民は右翼を甘くみるようになった。(略)

 

 

 

次に、この憲法は押し付けられた憲法だし、形式上の正統性をとりつくろっているだけだから、自主憲法を制定すべきだ、という議論がある。(略)そこで、自主憲法とはどういうことか聞いてみると、内容はともかく、押し付けられたことがよくないので憲法を「改正」するということらしい。そして、どの憲法を改正するのかと聞いてみると、戦後の日本国憲法だという。改正すると言う以上、改正する以前の押し付けられた新憲法も、正統な憲法だと認めていることになる。腰折れもはなはだしい。

 

 

 

こんな腰折れの議論でも、左翼をおどかす効果はあったとみえて、三番目に、憲法を改正させない「護憲」勢力というものができあがった。天皇条項が入っている憲法をそのまま「護る」など、左翼の風下にもおけない反動です。第九条はそのままでいいから天皇制を廃止し共和制に移行すべきだ、という議論ならまだわかるのですが、そうではない。(略)

 

 

以上、三つの可能性について私が思うのは、なんと意気地がない、ということです。弱くて戦争に敗れ、無条件降伏した国が、あたかも敗れなかったかのように無傷の正統性を再生させることなどできない。敗れても、日本国民は存在しているのだから、その主体性を信じればよい。

 

 

つまるところ、押し付けだとか、経緯がごちゃごちゃしているとかいうことは、この際、どうでもいいことです。この憲法のもとで、五十年間、日本国を営んできたという実質がある。この実質そのものが憲法の正統性を日々に更新しているのだから、ここから出発する以外にない。

 

 

 

竹田 とすれば、そこで結局論拠は同じになるんじゃないかなあ。つまり僕が言いたいのは、日本の憲法の来歴をさかのぼって「これは正統である/ 正統でない」とか、「もういっぺん自主的に憲法をつくりなおさなくてはいけない」というような議論に、いちいち従わなくていいという感覚が、われわれのなかで広がりを持っているということです。

 

 

加藤 うん、それはかなり重要なポイントだよ。

(略)

 

 

 

加藤 (略)

正統性というものを、なにも過去にさかのぼて担保する必要はない。過去とのつながりから手渡されるものと考える必要はない。過去との断絶からも正統性はつくれる。これをいまの時点から新しく担保する視点をつくれればよいんです。憲法の場合、過去の出自は非常にねじくれている。でも、それをかたちだけまっすぐになおすというのは姑息な対処であって、そのねじくれの事実をそのままにまっすぐに受け止める強度があれば、そのことから正統性をつくり、始めることができる。(略)」

 

〇 加藤氏の言葉には説得力があり、確かにそうだ、と頷きたくなるのですが、でも、「正統性」というのは、誰でもが納得できる道筋でここに至っているという時間的な経過や手続きのようなものが絡んでくるのではないのかな、と思います。過去との断絶からも正統性はつくれる、と大勢が思えば、それはそれでいいのかも知れないけれど、なかなかそうは行かないので、天皇が持ち出されるのだろうな、と思います。

 

私には、橋爪氏の話の方が、しっくり受け入れられるような気がします。

 

「橋爪 私の議論を、いろいろあるけど五十年これでやってきたんだからいいじゃないかという、なあなあの議論とまちがえないでほしい。民主主義は、法的な正統性をもっとも重視し、それをとことん追求する態度としてしか可能でないのです。戦後日本という歪んだ空間でそれをやって、やり抜いて、やっと着地するところが、五十年間の実効的な統治なのです。

 

 

ところで、憲法は変わったけど、法律体系の全体としては戦前と戦後は連続しているということも、もうちょっとよく認識していく必要があります。

 

加藤 それは同感です。

 

橋爪 まず刑法は、基本的に変わっていない。そして、民法家族法などが改正された以外に骨格は変わっていないし、商法も変わっていない。主要な法規は変わっていないわけです。それから陸海軍省は解体され陸海軍はなくなったけれども、内務省は編成を変えさせられただけで官僚の身分も変わっていないし、司法官も組織は変わったけれど身分は変わっていない。(略)

 

 

戦前からの所有権なども全部含め、法空間として連続している。そういうことが、やはり正統性を保証しているということを見通すべきなんですよ。

 

 

加藤 背骨は折れているけれども、肋骨は残っているから、全体としてはつながっている(笑)。

 

加藤 僕の言う正統性と橋爪さんの言う正統性は、僕のが、自分たちにとっての内的な正統性だとすると、橋爪さんのが、対外的な正統性ということだと思う。(略)

 

 

橋爪 そうすっきり二つに分かれるか私は知りませんが、それはおくとして、さらに付け加えると、正統性とは、国家にとっての正統性であると同時に、個々の人間にとっての価値基準、行動の基準、思考の基準に結び付いている。自分の属している国とはなにかとか、自分が個人であることや家族を営んでいること、地域社会の一員であること、それからたまたまここにあるこの国家の関係とはなにかということに関して、ある程度考えていて、そしてそれをいつもどこかで意識しつつ行動するということは、人間の、とくに近代人の人格の一部だと思うわけ。

 

 

そうであってはじめて、たとえば組織のなかで行動するときにはどうしたらいいかとか、家庭人として行動するときにはどうしたらいいかとか、芸術的表現をするにはどうしたらいいかとか、そういうことのバランスというか、感覚が計れるようなところがある。よかれ悪しかれ、それが近代というものである。近代はこの先、超えられるかもしれないけれども、それをふまえたうえで主体的に超えるのでなければ、とても近代を超えることは出来ないと思う。

 

 

たとえば若い人が天皇について「私は全然、関心がない」とか「知識がない」とか「考えたこともない」とかいうふうに言った場合、いま述べた人格的な成熟を期待すべくもないように思うので、彼(女)がなにか話をしたとしても、なんというか、聞くに耐えず(全員笑)、それからなにか新しい情報を発信するということをほとんど期待できず、それが日本社会のなかでなにか間違った事情で関心を呼ぶとしても、それ以外の社会のなかで何事か反響を呼ぶということはないんじゃないかなと思う。」

 

 

〇 「民主主義は、法的な正統性をもっとも重視し、それをとことん追求する態度としてしか可能でないのです。戦後日本という歪んだ空間でそれをやって、やり抜いて、やっと着地するところが、五十年間の実効的な統治…」という文章を読みながら、歪んだ空間の中ででも、それをやり抜くことで、やっと民主主義が定着するはずなのに、今の私たちの社会は全くそうなっていないことを実感します。

 

安倍政権が確信犯的に民主主義を破壊し、実質的に旧体制、国民・市民の国ではなく、天皇の臣民の国にしようとしています。ここで、それを黙って受け入れていくのか、あくまでも、民主主義を貫くために闘っていくのかで、未来は変わってしまいます。

 

自分たちで勝ち取った民主主義ではないけれど、せめて今、民主主義のために闘えないかと思うのですが。