読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

天皇の戦争責任(第一部  戦争責任)

憲法第九条 ― 戦争放棄

 

加藤 憲法について議論が進んでいるので、このあたりでちょっと第九条の問題についても語っておきます。戦争放棄条項と天皇の関係は、憲法で言うと第九条と第一条の関係になります。昭和天皇東京裁判で免責となり、現憲法に第一条の天皇の存置条項を入れるためには、第九条の戦争放棄条項がバランサーとして必要だったというのが、両者の基本的な関係といってよいでしょう。(略)

 

 

つまり、憲法の平和条項を自分たちの力で作ったんじゃなくて、戦争の勝者から、敗戦国としての国家に押し付けられたものを、当時の国民が熱狂的に賛同して受け入れたというあり方は、この第九条の規定でいうと、自衛権の否定、というところに痕跡をとどめているんじゃないかと思われるのです。(略)

 

 

 

でも、僕たちは、この平和条項の議論を一歩先に進めるために、自衛権は当然あるんだよ、そのうえで、国際紛争の解決の手段としての戦争を否定し、非軍事的に国際平和の実現をめざすんだよ、というかたちに、議論の土俵をつくりかえたほうがいいんじゃないだろうか。これが僕の提案です。

そのメリットは次のようなものです。(略)

 

 

でも、これだと、平和条項は、たんに大日本帝国の侵略行為の罪責感の打ち消しのために反動形成されたエクスキューズ(excuse 言いわけ・弁明)としての理念でしかないことになる。しかし第九条の理念を現実化し、その主意を前に進めるために、そこからむしろ崇高な理念という性格をとりさり、平和条項を現実に着地させるのがいい。

 

 

第九条の理念は、自衛権は当然ある、しかしわれわれは国際社会の紛争解決の手段としては、戦争を放棄し、平和を追求するという形で再構築するのがいいと思うんです。浅田彰湾岸戦争のとき「女々しいと言われようがなんと言われようが、ラジカルな平和主義をとるしかない」、「われわれは戦うくらいなら全員無抵抗で殺される用意だってある」、これは「すべての戦争が核戦争になり得る時代」にその「重要性を訴えること」で「特別な立場に立てる」世界史的先進性をもった憲法なんだと言ったけれども、

僕に言わせると、これは戦後民主主義における憲法第九条の反動形成としての性格を、典型的に表現した言葉です。

 

 

第九条という理念が戦後に隠し持ってきた、戦前的な玉砕思想的な傾斜、罪責感打消しの心情的な傾斜が、湾岸戦争の危機感のなかで噴出した例と言えると思う。だけど僕は、この第九条は、そういう罪責感打消しの意味ではないところで、ほんとうは戦後の日本人の願いを体現しているんだと考えたい。それを、罪責感打消しの理念型から、開かれた理念として受け取りなおすことが、この議論では大事なんだというのが、この新解釈の僕の提案です。(略)」

 

〇この後も、加藤氏の話がしばらく続くのですが、戦争について最近感じていることを、少し書きます。少し前に橋爪氏が、

「端的に言えば(当時の)日本は国家を運営する能力がなかった」と書いていました。

 

では、今は?今の日本は国家を運営する能力があるのでしょうか。

総理大臣が違法なことを平然とする。犯罪者なのに、総理大臣である自分の「仲間」だという理由で、その犯罪を不問に付す。つまり、国のトップが、法と秩序をズタズタに破壊したのです。

 

 

そして、それを支えた自民党は未だに高い支持率を持っています。犯罪を犯す総理大臣がその職を続けられるのは、その犯罪を見て見ぬふりをする国民がいるからです。

これが法治国家でしょうか。これが近代国家でしょうか。これで、日本に国家を運営する能力があると言えるでしょうか。

 

こんなモラルや道理を理解する力もない人々が「管理者」になっているこの国が、戦争をした時、一般庶民は、あの太平洋戦争の時と同じように、どれほど酷い目にあうかと思うと、「国家を運営する能力の無い国」には、戦争をする能力もない、と私たちはしっかりとわかっていなければならないと思います。

 

 

「加藤 (略)この場合、いくつか課題がありますが、主要問題のひとつは、現在の自衛隊をどうするかだと思う。もちろん、国際平和部隊の中核に移行していくとしても、いまの自衛隊のかたちのままではダメです。なぜかというと、いくつか理由があるけれど、そのいちばん大きなものは自衛隊がシヴィライズ(civilize 市民化)されていないということです。

 

 

シヴィリアン・コントロールというのは、 文民が軍隊を統括するということですが、その前提は、軍隊の本体がいわば市民に統括されうる身体になっていること、それ自体がいわば市民化され、市民的原則が貫徹された近代軍隊になっているということです。でも、いまの自衛隊は市民原則をもつ近代軍隊になっていない。戦前の天皇の軍隊としての性格をいまだにひきずっている。

 

 

 

戦前の軍隊は大元帥天皇をいただいた神の軍隊で、そこでの最高の価値は、天皇天皇に体現された国体を守ることだったのですが、これに対して近代軍隊というのは、市民のための軍隊で、市民を守るということが一番の存在理由です。いまの自衛隊に、その国家を守ることの中身が国家指導者をではなく市民を守ることだという第一原則がタタキこまれているとは、どうしても思えないのです。(略)

 

 

 

ナチスというのはどうしようもないものだったけれども、ただひとつ、ドイツの東部戦線でロシア軍が攻めて来た時、ドイツ国軍は市民を守って潰滅した。ヒルグルーバーは、こう述べて、この東部戦線の自己犠牲的な戦いに肯定的な価値をおき、そこからドイツの歴史を描きなおすことが一定の意味をもつという視点を提示した。(略)

 

 

 

では日本の場合はどうだったか。同じように軍隊が市民を守るべき状況というのが、二度、あるいは三度だけあった。それが、ソ連参戦直後の満州と米軍上陸時の沖縄の場合、また住民が海に身投げして死んだサイパンなどの事例です。(略)で、そのとき日本軍がなにをしたか。少なくとも大きな事例、満州、沖縄の二度とも、きれいに、臣民つまり市民を守るのではなく、市民を盾にして自分たちは逃げるという、ドイツの軍隊とまるで逆のことをやっている。(略)

 

 

 

でも、いまにいたるまで、その自衛隊が、戦前の軍隊の問題点を戦後の観点から自己批判し、責任を明確化し、それとは違う組織として自分を提示するということをしていない。服部卓四郎という人などが中心になって太平洋戦争の歴史というのをまとめていますが、ここに問題があったという指摘、自己批判、あるいは戦前の軍部に対しての批判、戦前の軍部に代わっての謝罪、というようなことがなされたという話はついぞ聞かない。

 

 

 

この服部卓四郎という人物自身が、辻政信とともに最悪の作戦と言われるノモンハン事件(本書212頁参照)を強引に主導した一人で、そのことの責任をうやむやにして生き延び、その後、GHQに勤務した軍人なのですから、他は推して知るべしで、戦前の軍隊のあり方をどのくらい批判出来ているのか、内部の市民化はどの程度すすんでいるのか、僕はその点に関して、いまの自衛隊に根深い不信感をもっています。(略)

 

 

 

橋爪 (略)自衛隊と軍隊は、どういうところが一番違うかというと、法律的に違っていて、軍隊には国内法が適用されず、国際法上、戦時法規で保護される。自衛隊の場合は、国内法の適用をまぬがれないうえ、そもそも外国では行動できない。ここが違うわけですね。(略)

 

 

 

しかし、自衛隊は実質的には軍隊で、専守防衛ということになっているけれど、日米安保条約というものがあり、アメリカ軍の対等の相手です。そして、国際法上も奇妙なことに軍隊のあつかいを受けている。戦闘行為じゃなくて外国に行った時、駐在武官というのがあちこちにいるけれども、そういう軍人同士の集まりに呼ばれる。国外では軍人として処遇されているわけです。(略)

 

 

橋爪 民兵でも義勇軍でも、その条件というのはですね、訓練を受けて、国際法の知識があって、指揮官がいて、そして整然と行動する能力がないかぎり、そういうものとは認められない。自分で義勇軍になりたいと言っただけでは義勇軍にはなれない。

 

 

加藤 わかってるわかってる。(略)

 

 

 

竹田 いまの加藤さんの発言だけど、数年前、われわれは「思想の科学」で吉本隆明と同じ問題で議論したことがあった。あのとき吉本さんは、自衛隊や軍隊をまったく拒否して、もし外国から攻められたら自分は市民として銃をもって戦う、と答えた。われわれには異議があって、橋爪さんがやはり反論した。ただ、加藤さんの立場はそれとは少し違うと思う。

 

 

橋爪 どこが違う?

 

 

加藤 だって吉本さんは、国家が廃絶されることを先取りした理念として、第九条をみてる。吉本さんは自衛権を認めない。僕は、第九条を崇高なる理念としてはみていない。だから自衛権は認める。

 

 

(略)

 

 

 

橋爪 まず第一に、なぜいまの日本に軍隊がないかというと、それは戦争に負けたからです。日本は軍隊を運営する能力がない民族であり、非文明国であるというふうに理解されて、陸軍省海軍省が解体されたからです。そしてその後、アメリカの政策に変化があって、自衛隊ならよかろうということになり、日米安保条約が結ばれた。

 

 

 

自衛隊というのは、戦略をもてない軍隊で、どのように戦うかは相手次第。敵がどこからどのように攻めてくるかに依存しているわけです。(略)

なぜそういう中途半端な自衛隊なるもので防衛が果たされるかというと、それはアメリカと合体しているからです。いざという場合には、アメリカ軍の参謀本部の指揮下に入るでしょう。そして、米軍の援軍が到着するまでの間もちこたえて、米軍がやってきたら共同行動するわけでしょう。

 

 

アメリカが仮想敵国について研究し、情報を提供してくれるからでしょう。つまり、アメリカが軍隊を日本に駐留させ、日本の防衛を約束してくれているからこそ、この態勢は成立しているわけです。もし、自衛隊という名前であれ、軍隊という名前であれ、日米安保のような同盟関係を一切結ばないで、しかも戦争を紛争解決の手段にしないという覚悟を固めると、それはスイスのようなやり方になるでしょう。(略)

 

 

橋爪 私の考えでは、シヴィリアン・コントロールがうまくいかない理由は、自衛隊が軍隊ではないからです。軍隊であるという実態を明確に日本国民が認識しないかぎり、それをコントロールすることは不可能なんです。

 

 

 

加藤 それだったら、シヴィリアン・コントロールができるようなかたちで、自衛隊を軍隊として認知すればいいじゃないですか。(略)

ようするにどうしたら自衛隊という組織の中身が変わるか、ということが一番大きな問題なんです。シヴィリアン・コントロールというのは、ある組織があって、その組織の上を市民がおさえるということでしょう。

 

 

だけどそういうことが成り立つには、その組織がすでにシヴィライズされていること、軍隊としていえば市民原理をもつ近代軍隊になっていることが必要です。体質として天皇の軍隊とい戦前の軍隊のしっぽをひきずっている自衛隊が近代軍隊化するには、その組織自身がかわらないといけない。(略)

 

 

 

もしそれが内側からでは変わらないというのであれば、これまでと違う働きかけをくわえ、これを外から変えていくしかない。(略)

 

 

橋爪 シヴィリアン・コントロールがなぜ必要かと言うと、加藤さんは誤解しているのかもしれないが、軍隊内が市民社会ではありえないからです。軍では、指揮系統を通した命令が絶対で、討論している暇はない。軍隊が、本質として反市民社会的な団体だからこそ、それを市民の代表である文民政治家(シヴィリアン)が指揮する必要がある。これがシヴィリアン・コントロールの原則です。(略)

 

 

 

橋爪 日本で軍隊のことを考えると、どうしても日本軍のイメージに引き寄せられてしまうけれど、近代国家の軍隊は、市民を守ることと、シヴィリアン・コントロールとこの二点が基本にならなければならない。

シヴィリアン・コントロールのためには、国会に防衛委員会をもうけて常時討論し、有事法制を整備し、国防の専門家を育て、国民に軍事常識を普及し、国民の信頼をかちえなければならない。

 

 

 

なぜ日本にそういうシヴィリアン・コントロールの軍隊ができなかったのかということをちょっと述べると、それは臣民ということと関係がある。

「臣民」という言葉は、日本人の発明で、儒教にもない言葉だと思います。

 

 

 

儒教の考え方では、「君」というものがあり、それから「臣」というものがあり、それから「民」というものがある。民というのは自作農であって自由な主体です。いっぽう臣というのは君主の奴隷です。もともとは民は臣よりも身分が高かった。自由だったからですね。

 

 

 

ところが、臣は君の代理人となることによって税金を取り、官僚組織をつくることによって民衆を支配し、やがて民よりも上に立つみたいになった。民のなかから臣になりたいという人まで出てくるようになった。

 

 

 

つまり、伝統中国では、君と臣、このふたつが支配階級であり、この下側に民があり、搾取されている。臣と民とは対立するものである。これが古典的な儒教の発想です。臣は君に対して忠誠をつくす義務がありますが、民には必ずしもそんな義務はないのです。

 

 

 

ところが、この臣と民とを日本は一緒にし、「臣民」という新しいカテゴリーをつくって、これを「国民」という名前の代わりにした。(略)

臣民がどう集まって、どう自発的に組織をつくろうとも、それはかならず天皇に対する忠誠義務を課せられてしまう。そういう論理構造になります。大日本帝国憲法はこの論理でできている。だから、大日本帝国憲法のなかで軍隊をつくると、シヴィリアン・コントロールにはなりえない。なぜならば君がコントロールする構造だからです。

 

 

 

竹田 だからね、それをどうするかというときに、第九条をもういっぺん選び直すという道もあるぞ、というのが加藤さんの提案ですね。第九条を選び直すという感覚がでてきてはじめて、軍というものは自分たちがつくっているものだ、という感覚が出てくる。それを通過しないと、いつまでもいわば古い臣民軍のような感度のままで軍や自衛隊を認めていかざるをえない。それが加藤さんの言い分だと思うけど。

 

 

加藤 そう。

 

 

橋爪 九条と、シヴィリアン・コントロールの問題は直接関係がないと思うな。われわれには戦前の経験しかないわけだから、かつて日本軍がどのような理由でシヴィリアン・コントロールを免れていたかを具体的によく研究しないと、いくら自衛隊を作り変えようとか、あるいは民兵をつくろうとかしても、同じことが起こる。

 

 

竹田 うーむ、どうも論点の違いの核心がわかりにくいな。(略)

 

 

竹田 加藤さんの主張としては、そういう事実の問題はともあれ、「戦争放棄」ということが国民の選択肢としてありうる、ということですね。

 

 

橋爪 それは、現実的な選択肢として、ありえません。いまそれを説明しようとしているのです。そもそも、日本国憲法をもちながら国連に加盟するということは、論理的に矛盾している。国連に加盟したなら、国連軍が組織されたとき、加盟国は最大限の努力を払って、国連の戦略目的を達成するために行動しなければならない。

 

 

それが、国連憲章の課す義務なのです。国際社会の常識がそのようにできているとき、日本だけが憲法上そこに加われないようになっているから、「懲罰規定」だと言ったのです。

 

 

加藤 でも、国連というのも、そういう意味ではこれまでの戦争による国際紛争の解決に代わる国際平和の実現と確保を目標に謳い、第二次世界大戦後につくられた組織なわけだから、その目標達成にいたる方法での違いはあるにせよ、日本がもし本気でこれに取り組み、働きかければ、その「集団安全保障機構」への特別な仕方での参加という例外を認めさせることは不可能ではない。(略)

 

 

(略)

 

 

橋爪 国際社会の現実を無視した暴論ですね。完全無抵抗主義というのは、大日本帝国とまったく同じ精神構造だと思う。なぜかというと、大日本帝国は「望むべき世界秩序を実現するために軍事力を使ってやりましょう」という話で、完全無抵抗主義というのは「それが悪かった。自分たちがそういう征服意思をもったから戦争が起こった。だから、征服意思さえ持たなければ、平和的な世界秩序が実現できるに違いない」と、こういう裏返しになっている。

 

 

 

これもまた、国際社会では通用しない論理です。国際社会は、たくさんの国々があって相互に意思しているのだから、その複雑な関係のなかでどうやって戦争をミニマム(minimum 最小限・極小値)にしていくかというのが大事なのに、そういった現実の平和を維持していく論理とはまったく無関係なわけです。

 

 

つけくわえるならば、日本が無謀な軍事的行動を起こしたときにそれをストップできたのは、外国が国際紛争を軍事的に解決しようと決意してくれたからでしょう。

 

 

 

加藤 ですからそれを除去するという考え方です。ただ橋爪さんの議論を聞いていると、そこから日本は「軍隊をもってもいい」という論理がでてきそうな気もするんだけど、それはどうなんですか?

 

 

橋爪 考え方の筋としては軍隊をもってもいい。なぜなら主観国家だから。ただし、それにはたいへんに強い社会能力が必要です。シヴィリアン・コントロールと、言うのは簡単だけれど、伝統のない国にはとてもむずかしい。少なくとも戦後日本は、戦前の影から完全に脱却できていないし、たんなるそれの裏返しに安住しているだけなんだから、まだその能力が足りないのではないか。

 

 

 

(略)

 

 

 

橋爪 戦争放棄条項と自衛隊は、それだけで組になっているわけではなく、日米安保条約と三つで組になっているわけです。その全体でセットになっている。つまり、第九条と自衛隊をもっている限り、日米軍事同盟から逃れられないということですね。これは、それ以外の国際秩序を他の国と共同で構想していくことができない、ということを意味している。

 

 

 

加藤 それだったら、もういまの枠組みは絶対に変わらない、ということになっちゃうじゃない。(略)

僕に言わせれば、第九条というのはなにより第一条の象徴天皇条項と組になっている。戦後、天皇制をなくさないために、象徴天皇というかたちでもいいからと天皇制の命脈をつないだ。そのためにいわば保証として戦争放棄の第九条をおくことが必要になった。(略)

 

 

だから、たとえば日米安保条約というのは、米軍が日本に駐留していてけしからんと言われるけれども、それをやめて、それとは別のあり方を模索しようとすれば、そこから第九条をどう考えるか、自衛隊をどうするか、またさらに天皇の地位をどう国民主権の戦後日本の体制に位置づけるか、というようなことが必然的に問題になってくる。

 

 

 

そこで、これらの枠組みの総体をどうするか、というように僕たちは自分で考えなくちゃいけない。それがいま、なぜそのように議論が進まないかというと、それが、軍隊というのは絶対よくないとか、自衛隊を持つなんて言ったら軍国主義に逆戻りするとか、すぐにそういう、「二度と誤りを繰り返さない」ことを価値化する罪責感打消しタイプ議論になるからでしょう。

 

 

 

それを打開する共通了解がないということが問題なんです。(略)

 

 

僕は、集団自衛権をも認めない戦争放棄のまま国連参加を国連に認めさせる、という方向で、この問題を解決する倫理的な筋道はつくれると思っていますが、とにかく、いまのところは、第九条の解釈で自衛権を認めるか認めないかということが、この一連の問題群を考えるうえで、ひとつの入りh口を構成していると思う。そこで共通の了解ができれば、いまのところは満足です。

 

 

橋爪 加藤さんはどうも、安全保障という国際社会の問題を、日本の側だけからしか見ないようですね。そもそも戦争放棄条項を残す=日米安保条約がないと困る、ということなのだから、最初にそこを選択してしまったら、現じょぷ維持の結論しかでてこない。

 

 

 

日米安保だって、日本がいまのままなら、そのうちアメリカに廃棄を通告されてもおかしくない。そうしたら日本は大混乱ですよ。

単なる自衛権ではなくて、やはり集団自衛権を認めるかどうかというところまで話を進めないと、この問題は解けないと私は思う。ここで集団自衛権とは、国連憲章の認めている軍事同盟であって、日本以外の国が侵略された場合にそれを助けるかどうかということです。たとえば、クウェートや韓国を助けに行くかどうか。

 

 

 

竹田 それでは戦争放棄という条項はありえないことになるね。

 

 

 

橋爪 集団自衛権の考え方は、国際紛争を解決する手段として軍事行動を認めるわけです。それは、世界の現実だと思うし、国連憲章の考え方です。それで世界の秩序は、現に維持されていて、日本はそこから大きな利益を得ている。しかし日本は、過去の経緯から第九条のことがあるので、応分の責任を果たさないで、フリーライダー(free rider ただ乗りする人)としてぶらさがっているという実態があるわけです。

 

 

 

(略)

 

 

加藤 戦争行動とは別の努力をすることにした、というのが「押し付け」られたものであれ、とにかく戦後、日本人が憲法に定めた理念として実質的に選択してきたものだと認めるからですよ。戦後日本の半世紀の実績をもつ選択だからです。戦争という手段をとらないで国際紛争の解決をやっていくノウハウを積んでいく国があったっていい。国際紛争の解決の手段として軍事力と非軍事力がある。(略)

 

 

 

橋爪 別の努力をすることにした、というけれど、アメリカに示唆されてそれもいいと思っただけで、日本国民が自分たちだけで議論してそう決めたのとは違う。そんなものは、理念ではなくて、やはり懲罰ではないのか。

 

 

(略)

 

 

竹田 かなり細かい議論になっているけれど、こういうことじゃないだろうか。国家とか権力、あるいは戦争とか軍隊ということに関して、いままでは、現にある権力や戦争という事態を完全に否定して理想的な崇高な理念でやっていくか、それはアメリカから押し付けられたニセの理念でしかないから、日本が主権国家として本来もっていたものを取り戻すべきだ、という考え方の、ふたつの道筋しかなかった。

 

 

けれど、現在の時点人あってみると、国民が公共的な感度をもつということにおいても、近代社会とか市民社会という観点から軍隊や戦争という問題をしっかり位置付けることが、非常に重要であり、そのことがまた戦争責任を考えるうえでも欠かせない道筋である。

 

 

ところがいままでの議論、天皇の戦争責任とか、日本の戦争責任とか、あるいは慰安婦の問題などについての議論にも、そういう観点が完全に抜け落ちている。まずそういう点では二人の意見は一致していると思う。

対立しているのは、戦争放棄という考えが国債関係のなかで現実感覚として可能かどうか、というところで、それはそれで一つの門dファイではあるけれど、いわば前提になる問題を通り過ぎて先まで行き過ぎている気がする。

 

 

考え方だけで言うと、僕としてはどちらかといえば橋爪大三郎の考え方に近いと思う。つまり、国際紛争を少しずつ押さえてゆくためには国際ルールがどうしても必要であり、そのためには、やはりそれなりの実力、つまり武力が前提とならざるを得ない。実力のないルールというのは絵そらごとですね。(略)

 

 

加藤 しかし、そういう体制に参加する用意がいまの日本にあるだろうか。たとえば小沢一郎が「国連軍に日本も参加できるように第九条に付加条項をつけるか新たに平和安全保障基本法を作るべきだ」という主張をしているけど、それはウサン臭い感じがして僕は賛成できない。(略)

 

 

橋爪 小沢一郎の主張にはそんな詳しくないから、同じかどうか知りませんけれど、彼の主張は、従来の自民党の主張よりまともだと思いますよ。それに、いったい何を根拠に、いまの自衛隊を旧軍と同一視するのかわからない。自衛隊に失礼ではないか。(略)

 

 

 

加藤 僕が自衛隊と旧軍に連続性を見るのは自衛隊自身のイニシアティヴによる旧軍への自己批判的断然の動きが弱いからですよ。なぜいまも海上自衛隊艦は旭日旗を掲げるのか。日の丸ではないのか。

 

 

 

(略)

 

 

竹田 でも、それは順序が逆ではないかな。橋爪さんは「整合性をとるために第九条を改正せよ」と言う。だけど、その言い方には、なにかが欠けていると感じる。つまり大事なのは、国際関係上の現実性として、こういう対応ではやっていけない、というだけでなく、「こういう社会をみんなでつくっていくんだ」という新しいイメージ、いままでの戦前的な国家ではなく、単に理想主義的なそれでもない将来の国家像の展望が提示されないといけないと思う。(略)

 

 

橋爪 シヴィリアン・コントロールの意識を欠いたまま、自衛隊の軍事力だけが突出している。そこで、まずとにかくシヴィリアン・コントロールの構図をきちんとだし、それを通じて、国内に議論の場をつくる。そして、世界に対する構想をだす、という順序になると思います。」

 

 

〇 「ただし、それには大変に強い社会能力が必要です」と橋爪氏は書いています。「主権国家なら軍隊を持ってもよい」これは、当たり前の考え方だと思います。

ただ、法治国家を語っていながら、無法者のように何でもありのやり方で、社会をズタズタにした安倍政権を見た今となっては、私たちの国には「大変に強い社会能力」はない!!と断言したいと思います。

 

 

安倍政権の人々だけがひどかったのではない。それを黙って見ていた一般国民や、忖度によって、そのやり方を許していた周りの人々も同罪だと思います。

「私たち」にその能力がないのだと思います。

情けないことだけど、そのことをまず認めなければならないと思います。

 

ですから、軍隊を持つのは、絶対反対です。

 

今日、安倍首相が辞任を表明しました。

本当に本当に良かった。この人のおかげで、どれほど酷い腐敗政治が蔓延ったか。

本来なら、数々の犯罪的なやり方が明るみに出た段階で、その責任を取って、辞任に追い込まれた…となるのが、当然なのに、そうならなかったのは、この国に「社会能力」がなかったからです。