読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

天皇の戦争責任(第二部  昭和天皇の実像)

「背景

 

竹田 第一部では、いま戦争責任を論じることにどういう意味があるのか、これをどんなかたちで考えれば、いまの時代や状況にきちんとはまるかたちになるのか、ということを中心に話を進めてきました。ここからはできるだけ具体的に歴史的事実にふみこんで、「天皇の戦争責任はあるのか/ないのか」、責任があると言えるなら「どういう観点であると言えるのか」、ないと言うなら「どういう観点で、ないと言えるのか」について、それぞれの立場から論じてもらいたいと思います。(略)

 

 

橋爪 では、天皇の戦争責任について、私が感じていることをまず簡単に話します。

天皇の戦争責任がある」という人がよくいるけれど、率直な感想としては、なんとなくずるい気がする。(略)

 

 

私は、そういうことを言う人に対して、「あなたは何の権利があってそういうことを言うのだ」と強く思います。そして、その種の責任追及にたいしてどう反論できるかというと、「天皇に責任があるという人たちは、戦前、戦中の時期に摂政になり、そして天皇になった昭和天皇個人が、実際にどういうふうに行動したのかという実像を理解して、そういうことを言っているのか」と問い返したく思います。

 

 

私が理解しているかぎりで、情勢判断や行動基準に関して、天皇立憲君主として、これ以上望めないほど適切に行動していると断言できる。私たち日本国民はこうした困難な時期に、最善の天皇をもったわけです。それを裏付けるため、具体的に行動の面からみていけば、次のように、大きく六つの出来事に注目すべきです。

 

 

① 家庭に関する行動 ―― 昭和天皇は、公的世界と区別された、私的領域を守った。

 

② 張作霖爆殺事件の際の対応 ―― 即位してすぐに起きた張作霖爆殺事件のときは、軍旗違反(陸軍の陰謀)の危険性をみぬいて、その真相を究明し処罰するよう政府を督励した。満州事変や日華事変のときは、独自の政治的見識にもとづき、不拡大の判断を示した。

 

③ 二・二六事件の際の対応 ―― 立憲法治国家の原則により、断固として反乱軍の鎮圧を指示した。

 

④ 開戦時の行動 ―― 東条英機を首相に任じ、対米英戦争を回避しようとした。

 

⑤ 終戦時の行動 ―― 国体護持と天皇の身柄についての危惧をおして、降伏を決断した。

 

⑥ 戦後の行動 ―― 自らが退位せずにとどまることで、戦後の日本国に正統性を与えた。

 

 

それぞれの折節における天皇の判断と行動は、大日本帝国憲法が規定している合理的な君主としての行動をとっているわけであって、そこには賢明な判断がいくつも重ねられている。もし、この実像とずれたイメージが人々のあいだに広がっているとすれば、それは、「天皇機関説」と「天皇主権説」という大日本帝国の国家体制(国体)に関する不幸な二重の解釈にまつわる誤解の一種ではないかと私は思う。

 

 

たとえば、井上清さんが書いているような”天皇は主権者であったのだから責任がある”(「昭和天皇の戦争責任」)という短絡的なロジックは、いわゆる皇国史観の発想と同じものだと思います。(略)

 

 

 

加藤 これまでの天皇の戦争責任の論じられ方について、橋爪さんが「ずるい気がする」ということには、ほぼ全面的に同意できます。(略)

ただ、僕の天皇責任論というのは、ひとつは戦前・戦中に天皇が行ったことを対象にしますが、もうひとつは、その戦前・戦中に行ったことに戦後、天皇がどのような認識を示し、どういう対応をとったか、ということを対象にする。前者でも譲歩するつもりはないが、重心はむしろ後者にある。(略)

 

 

僕は、昭和天皇の行動の実像から見ていくのには賛成です。(略)

昭和天皇の戦争責任、これはアジアの人々に対する責任と考えてもらってもいいけれど、そういうことに対する基本的な責任は、天皇にもあると僕は考える。(略)

 

 

橋爪 私はなにも、被疑者について「推定無罪」をたてるように、天皇を無罪とみなそうというのではないのです。そうではなくて、公人としての天皇には行動能力がないのだから、そもそも被疑者たりえない、という考え方なのです。(略)

 

 

まず、その前提として、さきほど言った「天皇とはいかなる存在であるか」についての、彼自身の理解を考慮に入れるべきだと思います。天皇という存在は、きわめて特別なので、常人の理解ではおしはかりにくいとことがあるんです。

 

 

天皇は君主です。君主は、一国の中にひとりしかいなくて、生まれた瞬間にそのような立場を引き受ける。それは常人には想像もできないプレッシャーで、それによって特異な人格を形成します。そういう特異な人格であるということを、よくよく理解するべきだと思う。

 

 

これは戦後でもそうで、一例をあげると、私は「よいトイレ研究会」というトイレの改善を調査研究する変なグループに半年ばかり参加していたことがあるんです。(略)

そのときついでに、三階の貴賓席の裏側にある「天皇、皇后専用トイレ」も見せてもらったんです。(略)

 

 

常人からすれば、専用のトイレがあるとはなんと贅沢なことだろう、という話になるのですが、そこで非常に印象深かったのは、これが使われたことがあるのかと聞いたところ、何回もおいでになっておられるのに一回もない。皇族方は、公式行事の予定が入ると、到着時間をプラスマイナス三十秒みたいに指定されてしまうでしょう。

 

 

だから、生理的な要求に関しては、基本的に我慢するんです。前の日から水などはあまり飲まず、すべて節制されるのだそうです。もし、トイレに行かれるとなると予定に支障をきたすから、みんなの迷惑になる。これは皇太子を含めて、いまの後続でも全部そうなんです。(略)

 

昭和天皇に関して言えば、当時の皇族の例にたがわず、生後すぐ里子に出された。そして将来の君主として、皇長孫として育てられ、学習院初等科に通ったけれど、ご学友というのがいて一般の生徒からは隔てれらていた。(略)

 

それから、相撲と水泳はいいがゴルフはだめとか、つねに行動を制限されたわけです。(略)

では、どういう教育が天皇に施されたのかというと、いくつかの系統があるのですが、ひとつの系統は「大日本帝国憲法下での国家機関としての天皇」になるための教育です。ここまで厳しい規律訓練を受けたのは、昭和天皇が初めてです。(略)

 

 

 

もう一つの系統は、皇太子時代の一九二一(大正十)年に七か月にわたって、イギリス、フランス、イタリアなどを遊学したのですが、そのときに従来の環境からまったく解き放たれて西欧の世界、第一次大戦直後のヨーロッパを実際にみて、国際的な感覚を学び、彼の人格の基礎にくりいれた。英国王室の一員として遇されたことが、彼の君主館に大きな影響を与えた。

 

 

 

昭和天皇は、こういう世界同時代性と、日本固有性を、ふたつながらに具えている、たいへんに特異な君主であった。それが彼を個人として理解する場合の出発点になると思います。(略)

 

 

(略)

 

 

竹田 いま聞いたかぎりでは、近代日本の天皇は、かたちのうえでこそ西洋型の立憲君主だけれども、中身においては全然違う君主であり、ちょっと異様な君主のあり方をしているというイメージが伝わって来たけれど、こういう天皇像は一般的によく言われているんですか?

 

 

橋爪 わりあい、よく言われていると思う。ただ、左翼系の人たちは聞く耳をもたないから。

 

 

加藤 でも、左翼系の人間でも、こういうふうなことはある程度……。

 

橋爪 調べればわかる。

 

 

(略)

 

 

橋爪 じゃあ、もうちょっと背景説明として、明治国家について話をします。

明治国家といっても、一八八五(明治一八)年までの太政官制と、そのあとの内閣制(このときにはまだ議会がない)、さらに一八八九(明治二十二)年に明治憲法が施行されてからの立憲君主制では、政体としてかなり違うので一口では言えないんですが、話を簡単にするために、憲法制定以前のことは考えないことにします。(略)

 

 

ひとつの考え方は、日本は完全な西欧型の立憲君主国であって、法治国家であって、天皇は国家機関であるという、きわめて合理的な考え方ですね。これはいわゆる天皇機関説であり、大日本帝国憲法の構成を額面通りに受け取るならばこうなるわけでしょう。天皇自身もこの考え方で教育されているから、そこで期待されているとおりの立憲君主として行動しようとしたわけです。

 

 

もうひとつの考え方は、天皇主権説、あるいは天皇親政説と言われるもので、皇道派青年将校の決起などを支えたイリュージョン(illusion 幻想・錯覚)がこれです。これは決して公認の学説ではなかったのに、天皇機関説論争を境に軍の正式な考え方になり、この考え方のもとに総力戦とか、玉砕とか、特攻とかが戦われるようになった。だから、これもあながち正統でない考え方だとは言えないわけです。

 

 

むしろ、軍隊や学校での教育や、マスコミの宣伝を通じて、民衆のあいだにはこのほうが浸透してしまっていた。

この考え方は、大日本帝国憲法のなかのどこに根拠をもっていたかというと、第一条の「万世一系天皇之ヲ統治ス」というところで、「万世一系」というのはなにかといえば、神武天皇以来の天皇の皇統が連綿と続いているということですから、明治維新に先立って天皇は日本を統治する権限をもっていたことになる。

 

 

だから、その権限を発動して、明治維新を起こして幕府を打ち倒し、明治国家をつくったという話になる。(略)

それに加えて、第三条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」。これは、天皇政治責任を負わないという規定なのですが、神秘化されて、天皇が現人神であり統治の主体だという観念と結びついた。

 

 

 

そうだとすれば、立憲君主国であるというのは、これは見せかけのことであり、その根源には天皇の、いわば憲法制定権力のような、憲法を超越した主体性がある。その呼びかけに臣民が応じるならば、憲法体制を乗り越えて、国家改造のためのアクションを起こしていいということになる。

 

 

 

この天皇主権説にもとづけば、憲法よりも、君臣の義、尊王の至情の方が優先するという考え方になる。大日本帝国は、明治維新の正統性を肯定しなければなりませんから、こうした考え方をまったく排除することはできない。

 

 

このふたつが曖昧なかたちで、ないまぜになっていたことが、大日本帝国憲法の問題点でした。通常の立憲君主国は、王朝というかたちをとっているから、何年何月に誰が王権を奪取したかということが明白なわけで、それはプロイセンの王朝であれ、ブルボン王朝であれ、イギリスの王朝であれ、たいへんにはっきりしている。(略)

 

 

大日本帝国憲法は契約説をとっていないから、憲法に先行する天皇主権がある(あった)という観念を許容してしまうわけです。

では、天皇自身はどう考えて国家にかかわっていたかと言うと、皇祖皇宗に忠実で、同時に、明治天皇の遺訓に忠実でなければならないと考えていた。(略)

 

 

明治大帝の遺訓というのは、天皇機関説という明治憲法の考え方、つまり西欧型の立憲君主制です。その両方に忠実であるということは、彼自身もこの両義性をある程度引き受けざるをえないということを意識していたことになる。(略)

 

 

 

加藤 いまのバックグラウンドについて言うと、「天皇親政説と天皇機関説」というふたつの要素は、いままで言われてきた言い方だと「顕教密教」というかたちで理解していいと思う。(略)

 

 

もうひとつは、「万世一系」という憲法に先立つあり方が、ブルボン王朝などとは違うと言われたけど、たとえば西欧でも主権神授説などが必要だった。つまり、王権というのは法的な話し合いによって、契約によって成立しているのではなく、言ってみれば憲法に先立つものとして神授されているんだという説が必要とされた。

 

 

 

その王権神授説に対して、ロックなど複数の啓蒙思想家がでてきて、その論拠をくずしていったという経緯がある。そういうことを考えると、この「万世一系」という概念にも天皇親政説、天皇機関説の一対に対応する「憲法に先立つあり方」と「憲法にもとづくあり方」という一対の重層があって、「憲法に先立つあり方」が西洋にはない特異なところだというよりは、むしろそのふたつのあり方が重層、共存しているところに、西洋とは違うあり方があると理解していいわけですね。

 

 

 

橋爪 王権神授説というのは、人民と王のあいだに契約はないかもしれないが、人民と神とのあいだにすでに契約があるのだから、人民は神の任命した王に従いなさいということで、やはり契約説の範囲内にある考え方だと思います。(略)」