読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

天皇の戦争責任(第二部  昭和天皇の実像)

張作霖爆殺事件

 

橋爪 それでは二番目の「張作霖爆殺事件の際の対応」に移りたいと思います。

張作霖事件は一九二八(昭和三)年六月四日に起こりました。(略)

その結果、どうなったかと言うと、張作霖軍閥は息子の張学良によって継承された。張学良は事の真相を知るにおよび、父の仇である日本に強い敵意と不信感を抱き、その後は、国民党と共産党を橋渡しして抗日統一戦線をつくるように動いていくわけです。

 

 

ですから、結果からみるならば失敗で、やらない方がよかったとも言えるわけですけれど、とにかくそういう事件がおこる。

ここでの最大の問題は、これが日本陸軍の軍人が関与した政治的な陰謀であって、その真相を陸軍の首脳もすぐに知ったのだけれども、それについて適切な処分がなされなかったということです。(略)

 

 

この報告を受けたあと、田中儀一は「自分は軍に騙されていた」と大変に怒りまして、さっそく、元老の西園寺公望と相談する。西園寺公望は、日本の軍人が犯人であると判ったら、一刻も早く軍法会議で処罰するべきだ、それでこそ日本の国際的な信用も、軍の統制も保たれる、と正論を述べるわけです。

 

 

 

ところが閣僚たちは、小川平吉鉄道大臣をはじめとして、真相の公表などもってのほかであると、一致して反対する。孤立した田中首相は悩んだあげく、十二月二十四日になって天皇に、張作霖爆発事件は「遺憾ながら帝国軍人関係せるものあるもののごとく、目下鋭意調査中」である、もし事実であれば軍法会議で処罰する、詳細が判明次第、陸軍大臣が報告する、と口頭で報告します。

 

 

さて、ここからが天皇の行動です。天皇は事件後の七月、関東軍に責任なしという報告を、陸軍→田中首相→奈良武官長経由で聞いていたので、田中首相の新たな報告に衝撃を受ける。田中首相にはなにも言いませんでしたが、奈良武官長には、軍人による張作霖の暗殺は許しがたいむねの感想を述べています。

 

 

また陸軍大臣白川義則大将が、調査を開始すると上奏した際には、軍紀を厳正に維持するようにと注意を与えています。

そうこうしているうちに、野党が国会で、真相公表を迫るなど、この事件は政治問題化していきます。一方、陸軍は、事件の内容は公表せず、責任者の処分も最小限にとどめるとの方針を固め、板挟みになった田中首相は苦慮する。

 

 

 

軍法会議の開催を求める田中首相と、首相批判を強める陸軍との水面下での攻防が続き、結局、関係者の処分をたんなる行政処分(警戒を怠って、何ものかが爆殺事件を起こすのを防げなかったことに対する責任=要するに、犯人ではないという意味)にとどめるという妥協が成立する。

 

 

 

一九二九年六月二十七日、田中首相天皇に、調査の結果、陸軍に犯人はいないと判明した、ただし事件の発生の責任をとって、警備上の責任者を処分する、と報告する。天皇はこれに対して、「責任ヲ明確ニ取ルにアラザレバ赦シ難キ」と田中首相を叱責。

 

 

翌日参内した白川陸相の報告に対しても、首相がかつて報告した内容と違うではないか、これで軍紀が維持できるのか、と激怒して席を立った。寺崎英成御用掛が一九四六年にまとめた「昭和天皇独白録」によると、天皇田中首相にこの際、「辞表を出してはどうか」と詰問したという。

 

 

また同「独白録」によれば天皇は、河本大作大佐が、軍法会議(法廷は一般に公開される)を開けば機密事項を洗いざらい暴露してやる、と陸軍を脅迫したという事実を伝え聞いている。この直後に、田中内閣は総辞職してしまう。

これが張作霖爆殺事件に関する天皇の行動の全体です。(略)

 

 

 

この種の事件のうち、中国大陸で最初に起こった陰謀事件が張作霖爆殺事件だったわけだから、天皇がこの事件を軍法によって適切に処理すべきであるとたびたび田中首相や白川陸相に注意し、圧力をかけていったことは、たいへん正しい。法を守るこうした感覚こそ、当時の閣僚や陸軍の幹部に欠けていたものです。(略)

 

 

加藤 (略)児島襄の記述だと、天皇は、事件から一年後の一九二九年六月に、田中儀一首相の二度目の上奏を受け、その翌日、陸軍の軽い処分を報告する白川陸相の内奏を聞くにおよんで激怒し、「総理がかつて上奏したものと違うではないか」と述べ、「総理のいうことはちっともわからぬ、二度とききたくない」と侍従長にもらした結果、田中首相は総辞職したことにになっています。

 

 

 

そしてこれを受けて橋爪さんは、天皇田中首相を強く叱責したのは、事件の処罰に関し、言を左右にし、結局、これを厳正に行わなかったためだと見ています。でも、たとえば児島襄とは逆の立場からこの事件を記述している井上清の「昭和天皇の戦争責任」だと、そこのところの解釈は、だいぶ違っています。

 

 

井上によれば、天皇が田中を怒ったのは、言を左右にし、最初に行った約束を守らなかったうえに、事件に関し、国民に嘘の発表を行う許可を天皇に求めたためだとなる。天皇にすれば、それは首相が国民に嘘の発表をすることを自分が許可するかたちになる、そういう上奏を田中がしたため拒否したので、最終的に陸軍と内閣が厳正な処分をしないことに怒ったのではない、と井上は見ています。(略)

 

 

橋爪 陸軍軍人の任免は、陸軍大臣の専権事項ですから、天皇にはそもそも承認するとか拒否するとかいう権限はないのです。だから、拒否はしなかった。それでも陸軍当局は、これまでの経験があるから、非公式の打診をしたものであり、天皇はその機会をとらえて、異例の注意を与えたものと考えることができる。精一杯のことをしていると思います。(略)

 

 

 

ところで天皇は、この事件に関して、若気の至りだったとあとで反省していると思います。なにをどう反省したかということですが、私の考えでは、田中儀一首相はむしろ真相の究明をはかろうと最大の努力をした側の人間でしょう。

 

 

ところが、天皇接触できる相手はかぎられていたので、軽率に、というか真相究明を急ぐあまり、前回の報告と違って事件をうやむやに葬るという報告があがって来た時に、田中儀一を個人的に追及するような言い方をしてしまった。そのために田中儀一は、すぐに辞職して、真相究明はますますうやむやになってしまい、なおかつ田中は心労のために頓死してしまった。それで河本大佐の処分は決着してしまった感がある。

 

 

この事件は、天皇が即位して間もない時期のことですが、この種の事柄は結果がすべてですから、ひとつの教訓として反省の材料にしたのではないか。

 

 

 

加藤 その「若気の至りだったと反省している」というのは、どこに出てくる言葉でしょうか。もし「昭和天皇独白録」にでてくる言葉を指すなら、その文脈では、橋爪さんが言うようにはなっていないと思います。この話は、この本の最初にでてきますが、このとき天皇が田中のことを怒ったら、そのことがショックで田中が死んでしまった。自分がコミットしたらこういうふうになってしまった。

 

 

そして田中の同情者が以後、重臣たちを敵視するきっかけをつくってしまった、反省して、「この事件あつて以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へる事に決心した」そう書いてある。(略)

 

 

 

橋爪 加藤さんは文学者だから、人間を見る時にその個人の性格とか、そのとき何を考えていたかという点をまず考えるのは仕方がないと言えば言えるのかもしれないけれど、人間の行為は社会関係のなかで営まれるのだから、組織や法制などにも十分目を配ってもらいたいと思う。

 

 

張作霖事件の場合、天皇のおかれていた文脈からみて、陸軍に対する追及が主眼だったと理解するのが、いちばん自然ではないのかな。軍紀の維持について繰り返し注意を与えている点も、このことを裏付けてると思うけれども。

 

 

 

満州事変はれっきとした陰謀なのだから、首相や内閣はもちろん、参謀本部にも連絡のないまま、出先の軍が暴走した。中国側の策略に対抗するためと報道されたので、世論もそれにひきずられた。そのあと、政府と参謀本部が調整した案件が、天皇のところに上奏されてくるわけだから、首相と軍がまっこうから対立した張作霖事件の時と違って、天皇も基本的にそれを認めるしかない。日華事変についても、これから見ていくわけですが、同様のことが言えると思う。」