読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

天皇の戦争責任(第二部  昭和天皇の実像)

「開戦

 

竹田 では、次の「太平洋戦争開戦時の天皇の行動」について、まず橋爪さんから話してください。

 

橋爪 開戦に至る経緯は、たいへん複雑なのですけれども、まず言えることは、誰かの一貫した方針や考え方によって準備されたものと言うよりも、その場その場の状況に応じた行き当たりばったりの政策や軍事行動を積み重ねた結果、次第にのっぴきならないところに追い詰められていった。

 

 

日本にとっては対米戦争そのものが、勝算のない、まったく不合理な選択であったということです。これにくらべれば、蒋介石政権、アメリカ、ソ連などの関係諸国は、それぞれの国益にもとづいて、ずっと賢明に合理的に終始行動し続けた。

 

 

ともかく、おおよその経過を言えば、日本は一九三一年に満州事変を起こし、満州に傀儡国家を建設、満州を日本の排他的な勢力圏とした。このことで、中国の門戸開放を定めたワシントン体制(英米中心の国際協調態勢)と真っ向から衝突し、国際連盟を脱退することになります(一九三三年三月)。

 

 

 

一九三六年には日独防共協定、一九三七年には日独伊防共協定を結びますが、これは陸軍がきたるべき対ソ戦争に備えるためのものでした。一九三七年の盧溝橋事件が拡大し日華事変となるのも、もともとは、対ソ開戦の際に背後から中国に攻撃されてはまずいので、中国の抗日運動を圧伏し、平和条約を締結するか親日的な政権を樹立するかしようとしたことが動機です。

 

 

対ソ戦争を重視した参謀本部石原莞爾などは、ですから、さきほど加藤さんの紹介にあったように、日華事変そのものに反対でしたが、主流から外されていきます。そして、枝葉であったはずの日華事変が泥沼化するにつれ、英米との対立がますます決定的になっていきます。そもそも日本が、対中戦争を「事変」と称したのは、戦争継続に必要な物資を外国から輸入するためだったのですが(「戦争」となれば、中立の既定によって、交戦国は多くの物資が輸入できなくなる)、同じように相手の蒋介石政権も抗戦に必要な物資を外国からの援助にあおぐことができてしまうという矛盾がありました。

 

 

 

当時の国際情勢は、ヨーロッパにおけるナチス・ドイツの台頭を軸に、激動していくのですが、日本はこうした国際情勢のなかで、どの国と協力し、どの国と敵対していくかをめぐって、揺れ動きます。最初、日本の仮想敵国は一貫してソ連ですが、最後になって南進論が勢力をえ、土壇場になって対米英戦争が選択されるのです。(略)

 

 

一方アメリカは、わかりやすく言えばいまの北朝鮮を見るような目で、日本を見ていた。日本が近隣諸国を侵略し、国際社会の秩序を破って勢力の拡張をはかっている以上、いずれ衝突はさけられない。(略)

 

 

日本は、事態が深刻であることが、よくわかっていなかった。(略)

 

 

ひとつのポイントは、近衛内閣が開戦前に総辞職してしまって、次に東条内閣が成立したというところにあります。

首班の指名は、憲法上、天皇が行うことですけれど、その際には慣例として元老に諮問する。つまり、元老が生きていた間は、元老が次のキングメーカーの役割を果たしていたわけです。西園寺公を最後に元老が死に絶えてしまったあとでは、重臣会議がその代わりとなり、重臣たちがいろいろ意見を述べた。それで東条英機が首班に指名されて東条内閣ができるのですが、東条は陸相として主戦論を展開して近衛文麿を退陣においこんだ当事者であるから、東条内閣が出現したということは完全な戦争準備の内閣であって、それを裁可した天皇には開戦に踏み切った大きな責任があったのではないか、という議論がよくあるわけです(たとえば、井上清昭和天皇の戦争責任」)。

 

 

けれども、猪瀬直樹の「昭和16年夏の敗戦」によると、その経緯はそんなに簡単ではない。むしろ東条の力量でもって陸軍をおさえて、近衛内閣のもとで決められた対米開戦の決定を白紙に戻す、という意味合いだったというのです。入江昭「太平洋戦争の起源」もこのような解釈をとっています。(略)

 

 

 

天皇がそういう期待をしたのは、対米英戦争に突入した場合の戦局や結末を天皇はかなり冷静に予測していたためで、戦争を回避するための最大限の努力をしたと言えるのではないか。ここがひとつのポイントです。

 

 

 

竹田 ひとつ質問です。東条英機を首相に指名したことについて、天皇のイニシアティヴはどのくらいあったと考えますか?

 

 

加藤 対米英開戦の回避にむけての指名という意味ではもう一〇〇パーセントでしょう。

 

橋爪 そこまではないと思います。(略)

 

加藤 大日本帝国憲法下で首相の任命権をもっているのは天皇です。(略)

 

(略)

 

 

加藤 そうかな。そのときの事情はこうなってますね。一九四一(昭和十六)年九月六日に近衛内閣が御前会議において、米英蘭に対して交渉はするけれど戦争準備は始めると決めた。それで、十月下旬まで武力発動するかどうかを決めるとタイムリミットを設けた。その決定にちょっとでも反対しようとすると、陸軍大臣だった東条が急先鋒で怒鳴り、もうだめなんです。結局、それで通っちゃった。

 

 

通っちゃえば、これは御前会議で決まったことだから、十月下旬までには決定しなければならない。そうしたらもう選択肢は戦争しかない。近衛文麿は、これが通っちゃったあと、これはだめだというので内閣を投げ出す。(略)

 

 

猪瀬氏の「昭和16年夏の敗戦」によれば、木戸を東条に会わせて、天皇の意思はこうだということを言い含めたうえ、東条に命じています。(略)

僕の判断材料はこの猪瀬さんの本が主ですから、それをくつがえす他の材料があるのかもしれない。

 

 

でも、そのあといろんなものを読むと、「東条というのは急先鋒で、その東条を首班に任命した天皇に戦争責任がある」というような通俗的な解釈はいまは少なくて、ここ十五年ぐらいの文献では、九月六日の決定を白紙撤回しろという天皇の意向を受けて東条が戦争回避に動いたということが常識になっている。そういう印象を受けています。

 

 

 

竹田 ようは天皇のガヴァナビリティ(governability 統治権力)というか、つまり政治的決定権限ですね、それをどの程度もっていたのかということがここでのポイントになっている。橋爪さんの話だとそれほどの権限はなかったということになるが、しかし、一般の人間の感覚からは、天皇大日本帝国憲法上では完全な最高責任者なんだから、相当程度の権限はあったはずだとまず考えるところですね。(略)

 

(略)

 

橋爪 なぜ質問攻めのようになるかというと、天皇には拒否権(ベトー)がない。憲法の条文上はあるようにも読めるけれども、運用や慣例も憲法であって、慣例として拒否しないことになっていた。(略)

 

 

加藤 いや、そうだろうか。(略)質問をしていること自体を反対の意思表示だというのは、ちょっと言い過ぎかと思う。

 

(略)

 

 

加藤 一九四一年九月六日の御前会議で、十月までにアメリカと戦争するかどうかを決めることになる。アメリカと戦争するなんていう選択肢はずっと考えていなかったんだから、それに対して天皇は反対です。その理由はね、国際協調のためだとか、立憲制から考えてとか、国際法から考えてとか、いろいろ言っているけれど、そういうことではない。アメリカとやったら負けるからです。これをやって勝ちそうだったら反対はしない。そういう意味での合理性です。でもそれは、ゴールを設定する一義的な合理性ではない。

 

 

設定されたゴールにどうたどり着くかという二義的な合理性です。そういう二義的な意味の合理性に立っているために、この人は、最初、とにかく反対する。自分が最高責任者で、最終決定は自分がしなければならないから、いつも手前ですごく慎重になる。(略)

 

 

そういう意味で僕は、この人の対応をみていると、すごく妥当だと思う。当時のいろいろな人間とくらべたら、非常に温厚で、反応は妥当。

 

(略)

 

 

橋爪 対米英戦争には勝てないであろうということは、ある程度の知識をもっている人間であれば容易に予想がつくことで、よくて引き分けか、講和なんですね。もし講和ができなくて追い詰められれば君主制自体にもひびが入って、自分の一身の問題にもなるということは、一般に君主がいちばん明確に意識するはずのことなんです。

 

 

現に第一次世界大戦で、たくさんの君主国が解体した。そういう戦争の危うさについては、天皇は誰よりも意識していたと思います。

 

 

加藤 (略)

それは人間だから誰にでもそういうことはあるだろう、そこまで責めるのは酷だという見方もありうるけれども、天皇とほぼ同じ状況にいた近衛文麿は、保守政治家として、一九四一年の十月段階からこの戦争は負ける、とみている。そして天皇はもう少し積極的に戦争に反対するのがよいと考えている。(略)

 

 

そして戦後になって死後発表の手記に、天皇が積極的に動けば対米開戦は回避できた、という意味のことを書いている。ただし、この近衛もかなり問題がある。さっき言ったみたいに、日華事変のときの責任は完全に近衛にある、不拡大と言いながら拡大しているのは近衛だから。(略)

 

 

僕は近衛という人もそんなには信用していないけれども、近衛がそういうことを言う根拠は、やっぱり天皇自身にもあるんじゃないかと思う。

 

 

 

橋爪 加藤さんが言っていることに反対はしないけど、フェアじゃないと思う。加藤さんは文学者だから、側近が書きつけた片言隻語をとらえて天皇の内面をおしはかり、オプチミストだとかと個人の人格に対する批評を加えているけれど、私に言わせれば、それは議論の本筋と関係ない。天皇が公人として、どう行動したかだけが大切なのです。(略)

 

 

 

加藤 当時の民衆の平均的意識を基準に考えるというのは違うんじゃないかな。天皇というのは、統治権者とか統帥権者としての責任をもっているわけだから。

 

 

(略)

 

 

橋爪 天皇は政治家ではないが、政治家一般の基準で考えても水準以上の見識を持っていたと言える。開戦にいたる力学について言えば、まず陸軍は、満州や中国の権益を放棄できない、ということが主たる理由で対米英開戦を主張した。

 

 

対米英開戦となれば、おもに海軍の戦いになるわけです。ところが、海軍はその準備はできていなかった。(略)

だから天皇は、会議の場で海軍に発言させて、戦争ができないと言わせたかったのだろうけど、海軍は言わなかったわけです。

 

 

(略)

 

 

竹田 当時、ドイツは日の出の勢いで頑張っていて、ひょっとしたら勝つかもしれないと考えられていた。勝てば日本がより栄えるわけだから、乗り遅れたらまずい。だから、それに乗っちゃったというのは、判断としてはそれほど脆弱な判断とは言えないと思う。(略)

 

 

 

こういう問題点が全部でてきて、天皇像が明確になるとすればそれはいいことだと思う。ただ、それが相当明らかになったといって、そのことが天皇の責任の有無ということとすぐ結びつくかどうか気になるけどね。

 

 

(略)

 

 

加藤 (略)

この時期に戦争当事者の西欧諸国では、ある国際ルール上のパラダイムチェンジ(paradigm change考え方の枠組みの変化)が起こっていたと考えられる。そのときまで列強は、みんな、汚いことをやってきた。植民地戦争、帝国主義のアフリカ争奪戦をやっていた。(略)

 

 

 

でも、第一次大戦の悲惨さをきっかけに、そのディフェンス・ラインが「上がる」(笑)。ヴェルサイユ体制、ワシントン体制というのはそのモードの切り替え、ディフェンス・ラインの「上げ」を意味している。(略)

 

 

 

事実、日本ではそう理解され、一種のイジメとうけとられたわけですが、たしかにそういう意味合いもあるとはいえ、それは一部で、主要には、この変化のもとになったのは、第一次世界大戦ロシア革命によって世界秩序の基準の感度に変更が生じ、全体としてハードな帝国主義からソフトな協調主義へと、国際社会のルールが変わったということだった。(略)

 

 

 

その意味で、不当だと言えば言えなくもない。でも、国際ルールというのは、キリスト教世界とか朱子学世界という中世的な普遍秩序をもつ一元的な構造を破壊させて近代社会になったあとは、正義だからこれをルールにする、というのではなく、基本的にゲームの規則になっている。

 

 

つまりプレーヤーの合意によって変更可能なものになっている。その関係の世界のメンバーが、それぞれの言い分の「真」はあるだろうけれど、これに従っていたらいつまでも殺し合いを続けるしかないから、とにかく「真」はおいておいて、共存できる合意点を探そう、という「善」の考え方、関係性にもとづく考え方で設定するという性格のものです。(略)

 

 

 

 

そういうわけで、ルール変更の際には、その理由を深く納得する認識があるかないかがこれに正しく対処するための大きな要因になる。一九二〇年代、それが日本の指導層、軍部、国民総体に、ほとんどなかったことが、その後の日本の孤立に大きく響いてくるわけです。

 

 

竹田 そういう考え方を天皇が知り得た可能性がある?

 

 

(略)

 

橋爪 昭和天皇こそそういう、ヴェルサイユ・ワシントン体制のような国際協調体制を尊重すべきであるという教育を受けた人物なんです。(略)

 

 

(略)

 

 

橋爪 日本がどこまでガヴァナビリティのある国家だったかというところが問題です。

大日本帝国憲法の特異な構造のもとでは、誰が国家戦略を立てるのか、誰が戦争をするか譲歩するかをきめるのか、というメカニズムが明確でない。統帥権の独立という制度のあるおかげで、軍は作戦命令に関して政府のコントロールを受けないでしょう。

 

 

重要な軍事機密情報も、首相は教えてもらえない。そして、両者をつなぐ位置にいる天皇にはなんの実質的な権力もないから、軍と内閣の調整がつかなくなってしまう。そうすると、内閣のイニシアティヴと軍のイニシアティヴと、どちらが強くなるかということになるわけですけれども、軍部大臣現役武官制という制度が、途中しばらく中断された時期もあるのだけれど、広田弘毅内閣のときから終戦までの時期にはずっと生きていたから、軍が内閣よりも優位に立ってしまうのは仕方がない、内閣をいつでも倒せるわけですからね。

 

 

そうなれば、誰も軍をコントロール出来なくなる。軍は国益を代表する立場にないわけだから、たとえば満州で事件を起こしてそこを軍事占領したり、中国大陸でいろんな作戦計画をして、兵員を配置していれば、そこから撤兵するという発想は軍の中からはでてこない。(略)

 

 

だから、憲法上の主権者である天皇がその利害を調整しようと思っても、じつは本当に僅かな影響力を行使することしかできなかった。(略)

 

(略)

 

 

橋爪 いま竹田さんがおっしゃった、天皇には統帥権があったんだから、戦争は抑止できたし、侵略戦争も防止できたはずだということですが、それは不可能なことだったと思う。それを旧憲法下で、天皇があえてやるとどういうことになるかというと、超法規的にやらざるをえないわけです。内閣の輔弼責任とか、参謀本部や軍部のメカニズムを飛び越え、国益にかなうかどうか、国際条約にかなうかどうかという国家制度内の議論をも飛び越えて、とにかくこれは絶対的な基準からみて侵略戦争である(と天皇個人が信じる)から、この命令は裁可しないとか、撤退を命じるとかいうことになる。(略)

 

 

(略)

 

 

加藤 天皇のやれることに限りがあったというのはまったくそのとおりですね。いくらどんなスーパーマンがその位置にいたって、軍部にまつわる錯綜した問題を解決できたとは思えない。その非をすべて天皇に帰して天皇を責めるとしたら逆天皇制的な在り方だろうと思います。

 

 

だから僕からすると天皇への批判は、天皇のやれたことのうち、やらなかったことがあって、それはやるべきではなかっただろうか、ということと、すべてをやれなかったのはわかる、その状況ではかなりしっかりとやってくれた、それでもかなりの線をやったのだから、なぜ戦後、これだけはやった、ここまでしかできなかった、と率直にその不十分さを自分で示さなかったか、という二点に集約される。(略)

 

 

橋爪 加藤さんは簡単に言うけれど、「罰する」というからには、軍刑法などの根拠法が必要になる。軍刑法の手続きは平時と戦時で違うのだけれど、大略を言えば、大佐以下の軍人については師団長が指揮して、各師団において行う。(略)

 

 

大日本帝国法治国家ですから、天皇といえども、こうした手続きを踏み越えていきなり罰することなどできないのです。しかも、現場の命令違反や命令無視をあとから追認し、陸軍中央がかばってつじつまのあうように後追いで命令をだしているという状態では、天皇としてもまったく手を下せない。(略)

 

 

(略)   」