読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

天皇の戦争責任(第二部  昭和天皇の実像)

終戦

 

橋爪 じゃあ、終戦の問題にうつりましょう。

終戦の際、天皇が混乱した政府や軍の首脳たちに対して適切なリーダーシップを発揮し、日本を無条件降伏に導いたこと、そして本土決戦→一億玉砕という最悪のシナリオを回避し、日本軍の武装解除を成功させたことは、よく知られています。

 

 

敗戦直後の国民も、このことを認識していて、さまざまな世論調査でも、天皇制を支持するという回答が高い割合を占めています。(読売報知新聞一九四五年十二月九日・九五%、朝日新聞一九四六年一月二十三日・九二%、毎日新聞一九四六二月三日

・九一%)。(略)

 

 

しかし、客観的にみて、そんなに早く講和のチャンスはなかった。そう思われる理由を、いくつかあげてみます。

 

 

 

まず第一に、日本は無条件降伏のような惨めなかたちで負けるということを現実の問題として認識していなくて、いわゆる「一撃論」—— 戦力を一点に集中して敵の主力部隊をひきつけたうえで打撃を与え、戦局を好転させてから講和にもちこむという戦略――の幻想にずっととらえられていた。(略)

 

 

それから二番目は、アメリカの戦争継続の決意が固かったことです。アメリカは、戦局がまだ日本に有利にみえたうちから、日本の無条件降伏と戦後の改革を日程にのせていた。(略)

 

 

三番目に、天皇がその努力をしなかった理由のひとつに、日独伊三国同盟のなかに単独講和を禁止するという条項があるからです。(略)

 

 

加藤 僕のほうからも少し補足しつつ、反論を試みてみます。一番目について言えば、橋爪さんが言うように、天皇は講和への判断において適切ではなかった、もっと早く講和できたんじゃないかという非難がかなりの数、でています。その根拠とされるひとつは、一九四五年二月の時点で天皇が、戦局は非常に深刻だという認識から、特別に時間をさいて六人ぐらいの重臣にあっていることです。(略)

 

 

これに対して天皇は、「もう一度戦果を挙げてからでないと、話はなかなか難しい」、どこかでもう一花咲かせて、それを足場にして講和にもっていきたい、と答える。この時のやり取りは、「近衛文麿」にでています。(略)

 

 

 

橋爪 (略)

近衛の進言は、非現実的なものです。近衛は一線を退いてから何年も経っており、軍や政治の首脳と日頃接触している天皇からみて、なにを言っているのかという感じだった。天皇は、軍が講和の話に乗ってくるタイミングをはかっていたので、決して遅らせたわけではない。

近衛と違って、天皇共産主義を恐れていた証拠はないと思います。あとで紹介しますが、終戦時の決断と、国体護持に関する天皇のコメントがそれを示している。

 

 

加藤 (略)

敗戦前の半年で、戦史者のうちのかなりの部分が死んでいる。また日本の戦死者のかなりの部分が最終局面での餓死や病死であって、戦闘で死んでいる人は思われているほど多くはないと指摘されている。そういうことを考えると、やはり講和の遅れは天皇のミスだという批判がでてくるのは、仕方ないんじゃないだろうか。

橋爪さんは、終戦の際のプラスポイントを、どういうふうに説明するの?

 

 

橋爪 敗戦の直前で本土空襲や沖縄戦、各地の戦闘で多数の犠牲者が出たのは痛ましい事実ですが、日本の戦争能力がなくなるとは、ようするにそういうことを言うのです。

それでさえ、陸軍は本土決戦を主張し、御前会議で意見がわかれ、クーデター未遂事件まで引き起こしたのだから、ギリギリのタイミングだった。残念ながら、ソ連参戦と原爆投下に先立って、降伏を決定することは難しかったでしょう。(略)

 

 

 

大本営というものについて、ちょっと説明すると、日本の軍は陸軍と海軍の二本立てで、指揮系統も作戦参謀部もなにからなにまでわかれていますから、協力して戦争をするのに困る。そこで、戦争になると、陸海軍の連絡・合議機関をつくるのです。

 

 

 

日華事変の場合は、「戦争」ではないのですけれど、実際には戦争ですから、規則を改正してやはり途中から大本営を置きました。ですから大本営といっても、実態(建物や組織)はなにもなく、たんなる両軍の会議なのです。(略)

 

 

出席者は、首相、外相、陸相海相参謀総長軍令部総長の六名。重要事項を審議決定する場合は天皇の臨席をあおぎ、「御前会議」のかたちで開きます。なおオブザーバーとして、枢密院議長が出席し、原則として黙っている天皇の代わりに、いろいろと質問をします。戦争終結を決めたのは、この「御前会議」でした。(略)

 

 

 

けれども軍部、とくに陸軍が強硬に反対し、最後の局面でポツダム宣言を受諾するという意思決定ができそうにない。閣議でも結論がでない。最高戦争指導会議は、その構成員六名のうち、首相の鈴木貫太郎大将、東郷重徳外相、和平派の米内光政海相ポツダム宣言受諾に賛成。阿南惟幾陸相梅津美治郎参謀総長豊田副武軍令部総長が反対で、三対三になってしまう。

 

 

 

そこで天皇の「御聖断」を仰いで、和平に決することにしようというシナリオを立てて、鈴木首相、東郷外相、木戸幸一内大臣天皇の四名で打ち合わせたわけです。(略)

 

 

これがいわゆる、バーンズ回答です。これでいったい国体が守られるのかと、陸軍はなお不服でしたが、「それでいいではないか」と天皇が判断して、ポツダム宣言を受諾すると八月十四日に決定した。(略)

 

 

天皇個人の立場になってみれば、自分の身柄はどうなるのだろうとか、心配すればきりがなかった。しかし、そういう事情は置いて、最高指導部が割れた状況のなか、降伏に向かって日本国を導くため、勇気をもって決断し、終戦を実現させたということは、掛け値なしに評価できるのではないかと思います。

 

 

 

八月九日から十日にかけて、そして八月十四日の、二回の「御聖断」を示した御前会議での行動、そして、今日は時間がないので述べませんが、本土決戦を決定した六月八日の御前会議をひっくり返し、戦争終結へ大きく転回をはかった六月二十二日の御前会議メンバーの会合でのリーダーシップは立派なものだったと思う。(略)

 

 

加藤 天皇のイニシアティヴでしか戦争を終結させることはできない、と講和を望んでいた人たちは考えて、意見がわかれて最終的に天皇の指示を仰ぐというかたちにするために、非常に綿密な終戦工作というか、そういうふうになるようにしむけたということがあるんだけれども、僕も最終的に終戦のときには天皇はよくその役割を果たしたと評価します。

 

 

ただ、このことが天皇の聖断で終戦が決まったという物語になって、それ以外のマイナスを帳消しにしておつりがくる、というかたちになっていることについては、金額を適切なラインに戻したい。(略)

 

 

だとすれば、むろん天皇一人では極めて困難だが、周囲との連携次第では、天皇の意思もまた「親政」

のかたちをとらずに表現できたことになる。このとき以前にも同じことが条件次第では起こりえたことになります。(略)

 

 

 

軍部は「この回答ではわからない、国体がなくなるかもしれないじゃないか」と言い、片方は「いや、これで国体はあると読んでいいんだ」と答えた。そのときに天皇は「自分はこれでいいと思うと言った。つまり、これで国体は護持されたと解釈していいと思うと答えて、終戦を決定している。あとからアメリカ側の事情を知ってみれば、読む人が読めばわかるように、わざとぼかして書かれたものだった。(略)

 

 

たまたまうまくいったけども、一歩間違ったら、全然そうじゃないことだって起きる可能性はいくらでもあった。ここはそういうふうに評価すべき所だと僕も思います。

 

 

橋爪 バーンズ回答でさしつかえないとした天皇は、木戸内大臣に向かって、さらにこう解釈しています。有名なくだりですが「たとへ連合国が天皇統治を認めて来ても、人民が離反したのではしやうがない。人民の自由意思によつて決めてもらつて、少しも差支へないと思ふ」と。イギリスでは、いつでも王室廃止論が語られつつ、王制が国民の支持で今日まで存続しているわけですが、天皇も同様に君主制を理解していると思います。(略)

 

 

 

八月十四日の御前会議で天皇は、梅津参謀総長、豊田軍令部総長、阿南陸相の発言を聞いたのち、八月九日の御前会議の「聖断」(ポツダム宣言受諾)に変わりがないことを述べ、さらに次のように発言している。

 

 

「軽々に判断したものではない。このたびの処置は国体の破壊となるか、しからず、敵は国体を認めると思う。これについては不安は毛頭ない……敵に我が国土を保障占領せられた後にどうなるか、これについて不安はある。しかし戦争を継続すれば、国体も何も皆なくなってしまい、玉砕のみだ……忠勇なる日本の軍隊を、武装解除することは耐えられぬことだ。

 

 

しかし国家の為には、これも実行せねばならぬ……どうか賛成をしてくれ」。これは、抗戦派の阿南陸相らを前にした、命を懸けた、人間として全力を傾けた、必死の説得です。阿南陸相は、皇居を襲撃し戦争を継続するクーデターを計画している畑中少佐らの若手グループとも連絡があり、最後まで迷っていたわけですから、この説得は重みをもちます。」