読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

天皇の戦争責任(第三部  敗戦の思想)

「民主主義と象徴天皇

 

竹田 「断固正しい」とか「責任がない」とかいう言葉のうえでの違いはあるとして、お二人の考えの内実はかなりはっきりしてきたように思います。ひとつ言うと、「天皇の戦争責任」と「戦争の死者の考え方」ではっきり対立があるが、その対立は構造としては同じであるということ。そこに違いがあるけれど、お二人がこの問題をはっきりさせたいと考える、そのモチーフには大きな共通点があるということですね。

 

 

つまり、これまでの、戦後民主主義マルクス主義をベースにした戦後論、戦争論には大きな不備がある。(略)

 

 

 

加藤 なんで橋爪さんと僕が、こんなにモチーフ的に重複しながら天皇のことになると考えが違うのか。橋爪さんが書いてくれたメモを呼んで、僕はある程度予想がつきました。橋爪さんは、メモの最後のほうに「天皇制は歴史的な役割を終わった」と書いている。もし、僕にもそう思えるんだったら、天皇のこだわる必要は全然ないんです。でも僕は、残念ながら、天皇制の歴史的役割が終わったとは思っていない。

 

 

 

いま日本に「もう天皇制はいいよ」という国民的な総意があること、それが、終わったということなんですよ。メモの中で橋爪さんは「日本国は共和制に移行することが望ましい(国民の総意が条件)」と書いている。僕もそれに賛成だ。でも、国民の総意はまだない。つまり天皇制の歴史的役割は終わっていない。

 

 

 

橋爪 国民の総意がまだそこまででないという事実認識については、もちろん同意します。だけど、日本の過去百五十年の歩みをふりかえって、これからどういう方向に進んだときに過去を乗り越え、現状をもっと市民社会に近づけることができるかと言えば、現に天皇がいるわけですけど、日本国民がこの天皇という問題にどう決着をつけるかなんです。

 

 

 

これまで、天皇という存在をかりて、そこにさまざまな重みをかけたり、心のへこみをあずけたりして、いろいろな感情のゲームをやってきたけれども、そういうことからいわば足を洗って、自分たちの権利と義務と主権と倫理観で国家を組み立てられるんだという意味で、私はメモに「共和制に移行することが望ましい」と書いたわけです。

 

 

(略)

 

 

加藤 いや、橋爪さんの論理は、さっき言った橋爪さんのメモがなければ伝わりにくい話だと思う。(略)

つまり、「日本は共和制に移行することが望ましい」と橋爪さんが言ったとしても、それは「いまある天皇制をどういうふうにするのか」という答えになっていない。

 

 

 

では僕から言いましょう。そうすれば、なぜ僕が昭和天皇の責任をうるさく言うのか伝わるかも知れない。僕は現在の象徴天皇制についてこう考えています。日本国憲法には第一条があって、戦前の天皇制とは違う象徴天皇の制度を定めている。

 

 

 

この第一条はなにを語っているかと言えば、天皇主権が国民主権になり、民主主義国になった、しかし同時に、戦前の天皇制が象徴天皇制というかたちで残って、君主制から共和制というところにまで一気には進まなかった、つまり階段を一段ではなく半分だけあがった、そういう「階段の半分あがり」を語っている。(略)

 

 

それを僕たちは、やっぱり半歩の前進、「半分」の階段を「のぼった」とみるべきなんです。中途半端きわまりない上昇だけど、これが日本の実力だった。自分では改革できずに、敗戦でよその国に変えてもらった戦後日本の正当な取り分は、これだった。そう受け取るべきなんです。

 

 

 

だから僕は、国民主権というものを前提にした象徴天皇制に立って、少なくとも戦前の天皇制を否定するところが、いまの日本の、それこそ国民の総意というものがおかれている場所だと、そう認識する。(略)

 

 

天皇が平成期の天皇として昭和期との違いをはっきりさせないまま、いま存在しているけれど、実は、昭和天皇が死んではじめて、一身で一体を現す最初の完全に戦後型の象徴天皇が現れている。平成の現天皇昭和天皇とではその点がまったく違っているのです。(略)

 

 

この象徴天皇と主権者である国民がどういう関係を結ぶのかということが、実は昭和天皇が死去したあと、国民に問われていた。もう十年前から問われていた。でも誰一人そのことに気づかなかった。そういう局面に僕たちはいるんだと思うんです。(略)

 

 

僕は、天皇の戦争責任を過不足なく、戦後の国民主権象徴天皇制の名において明らかにすることが、共和制への移行のための「国民の総意」形成の第一歩になると思う。

 

 

竹田 なるほど。いまの説明はとてもわかりやすいかたちになっていたと思うけれど、独断的に言うとこんな感じで受け取りました。つまりわれわれはともかくいま天皇というものをもっているが、それはのんべんだらりと同じものとして続いているのではない。(略)それははっきり違う存在になった。そのことを国民も天皇も明瞭に自覚するだけでなく、いわば「表現」することが大事だ。(略)

 

 

 

すると、かつての天皇制というものを日本の諸悪の根源というようなことではなく、不十分な市民社会だった戦前の日本国家の単なる法政治制度の一部としてだけ考えるのがいい、と言っている気がします。(略)そのことにふれつつ、共和制に移行することが望ましいと考えていることにも入っていってもらいたいと思うんですけど。

 

 

橋爪 まず、共和制に関して言うと、これはメモのなかでも付録にあたり、ここが私の言いたいことの中心ではないんです。今回の焦点は、天皇の戦争責任ということだから、私はやはりそれを議論したい。(略)

 

 

つぎに、天皇の戦争責任ですが、まず、なぜ天皇に責任があるようにみえるかというと、それは明治国家がつくられたそのつくられ方にあると思うんです。(略)これまでも縷々述べましたが、別の言い方をすると、明治国家が神聖国家だからです。

 

 

国家機関である天皇が、同時に人間を超えた神であるという含意を与えられ、そのかぎりで主権者になるという構造があった。つまり、国家がそのまま教会なわけです。ですから、国家はたしかに法律で動いているけれども、同時に天皇に対する信仰をもち、天皇が神であると考え、天皇の命令であればこれは国家の命令だから、それに従うのは臣民の義務であるというふうに人々に信じさせ、国家も動く。そういう神聖国家というメカニズムをとっていたから、天皇に責任があるようにみえる。(略)

 

 

 

彼は天皇になるために訓練された人間なので、その期待に応えるよう、ひとつの機関としてふるまった。しかし、その行為は同時にそれを超えたものとして、ひとつの神聖国家の主体として、一般の人間にはみえるわけです。(略)

だから、そういう意味で彼に、あらゆる選択や責任やもろもろのものがおおいかぶさってくる。国内においてもそういう像を結ぶわけだから、ましていわんや外からみれば、侵略された国からみれば、そういう実像をもって映るはずです。

 

 

 

しかし、天皇自身は個人としてどういう人間だったかというと、天皇は完全な合理主義者として訓練された規律訓練の塊で、天皇としてどのように行動するかというフォーマットでできているような人間だから、彼自身は尊皇主義者では当然ありえず、皇祖皇宗に対する敬意や義務感はもっているけれども神秘主義者でもない。

 

 

 

そういう意味で、彼自身には、自分の神秘性はみえないように出来ている。そこに、天皇をとりかこみ、仰ぎ見る人びととのあいだの大きなギャップがあるわけですね。

私は、天皇という場所に座らされた選択の余地のない個人の、行為責任や実存的責任を追及するという立場はとりたくない。

 

 

とりたくないというのは、その神聖国家を解体してそれを象徴というかたちにうつしかえて、日本国という国家を民主主義のルールで運営するようになった、主権者としての日本国民のプライドだと思う。

いわば、規律訓練の塊であった天皇個人には、神聖国家のなかで像を結ぶオーラとして以上の責任というものはない。彼は赤裸々な一個人であり、非常に特異な圧力のもとで規律訓練されているけれど、言って見れば普通のおじさんです。

 

 

そして、それが象徴天皇に移行して、現在の民主制の正統性の基礎を与えている。そういう実像をよく認識することが必要です。そのために彼は、生涯を費やして、その椅子に凡人として座り続けた。そういうことも含めて、日本国民が戦後にいたる日本国の来歴を自己認識するべきだというのが私のスタンスです。

 

 

そうするとどういうことが起るかというと、日本が象徴天皇制を取り続けるならば、天皇の死によってその椅子が空位になったときは、次の人間がそこに座らなければならない。その人間が死んだら、さらにその次の人間がそこに座り、ずっとそうやって日本国民の間から、そこに座る人間を調達していかなければならない。

 

 

けれど、天皇というのは人間でありながらいわば人間であることを禁じられているような存在ですから、そのことにはかなり限界に近い苦痛があるのではないかと思う。具体的に言うと、誰か女性が皇室に嫁がなければならないんだけど、それが犠牲的な行為みたいになってしまっているでしょう。

 

 

跡継ぎが生まれそうもないとなるとたいへんなプレッシャーになるし、やがて皇室典範を改正して女帝を認めるとか、そういう話も出てくるかもしれない。けれど、そこまで考えていくのであれば、もうそろそろそういう椅子に個人を選択の余地がないかたちで座らせていくということはやめて、象徴天皇制が戦後日本を基礎づけるという、その効力はもう十分わかったから、この際憲法を改正して、次の段階(共和制)に移行してもいいんじゃないか。そういう流れなわけです。

 

 

(略)」