読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

天皇の戦争責任(第三部  敗戦の思想)

「民主主義と象徴天皇

(つづき)

橋爪 それについては最近、毎日新聞にもちょっと書いたんですが、そこで書かなかったことを少し言って見ます。

笑い話のような話なんですが、日本は日の丸を国旗とした方がいいかどうか。

「日の丸は、侵略戦争のときに日本国の象徴として使われたので、歴史の汚点にまみれている」。そこまではいいとして、「ゆえに日の丸は日本の国旗にふさわしくない。なぜならば、戦後の日本はそういう歴史の汚点にまみれていてはいけないから」。

 

 

 

そういう感覚が少なからぬ日本人にあるとすると、むしろだからこそ、日の丸を国旗にしておいたほうがいいのではないかとも考えられる。(略)

 

 

 

加藤 橋爪さんは読んでいるかどうかわからないけど、僕も毎日新聞に、日の丸について「日の丸が悪いイメージの汚れた国旗だというなら、それを(捨てる代わりに)引き受け、それを少しでもよいイメージのものに作り変えてゆくことが戦後の日本に求められている」と書いた。その点、日の丸については同意見です。ただ、君が代については意見が違う。僕は、君が代の歌詞は変わらなければならないって書いたんですけど、橋爪さんは、その後、同じ新聞に君が代の歌詞はそのままでも解釈を変えればいいって書いた。

 

 

 

僕は、きっとこれは僕への反論だろうと考え(笑)、さっそく反論を寄せました。(略)

 

 

橋爪 毎日新聞では、名前はあげなかったけど、加藤さんの君が代に対する考え方を批判したつもりでした。(略)

 

 

加藤 最終的な要点だけ言うと、僕は、国旗・国家法制化の問題で、国旗と国歌はそれぞれ別々に考えた方がいい、という分離提案をしたわけです。(略)

 

 

 

今後、民主主義の充実という課題を革新派流の天皇批判や軍部批判から分離独立させ、より堅固なモチーフのうえに構築すべきだという橋爪の意見に、私は深く同意する。それはこれまで私の述べてきたことでもある。しかし、昭和天皇の過去の責任を明らかにすることは、過去の誤りを繰り返さないため、必要である。それは、外への意思表示として、重要であり、また私たちが主権者として、憲法の定める平成期の象徴天皇制と新しく関係を結ぶうえにも、必須の作業となる。

 

 

これと罪責感の打消しとして天皇を中空の場所から非難することは、同じではない。(略)

いま必要なのは、罪責感の解消というこの「弱いあり方」を否定することではなく、罪責感の解消とならない、過去の否定、つまり過去を引き受けたうえでの過去の否定という「強いあり方」を、新たに作り出すことである。」

 

 

〇 過去の「罪」が事実としてしっかり社会に認識されていた時には、「罪責感」はあって当然のもので、「弱いあり方」か「強いあり方」か、などと言う議論になるのかも知れないけれど、それを知る人が少しずつ亡くなり、知らない人の方が多くなってきた今、日本の国際的な「罪」など、実はなかった…とか、もしくは、もうとっくに贖罪は終わっているのだから、いつまでもそれを問題にするのは、おかしいという「空気」が

作り出されています。

 

 

分かりやすく個人の問題に例えて見ると…

うちの娘が隣の息子とその仲間にレイプされた。

隣の息子は逮捕され罪を償った。

 

でも、私は隣の息子を見るたびに、怒りを感じる。

でも、隣の息子は、いつまでも過去の罪を言うな、もう償ったのだから…とか、

実は、あれは冤罪で、実際にはレイプなどしていない、と言い始めた。

 

私としては、怒りと憎しみが募るばかりです。

 

今の日本は、国際的にそんな態度を取っているように見えます。

人間として、尊敬出来ない態度です。

 

「橋爪 いまの文章はたいへんに正確に、私から見て公平に評定してもらっているから面白くて、納得して聞きました。

さてポイントは、罪責感を解消するのではないやり方で大日本帝国から日本国が決別しようとする場合、天皇の戦争責任を過不足なく追及してもうまくいかないということです。

 

 

 

それは、必要条件でも十分条件でもない、と私は思う。むしろ私の目から見て一番大事なことは、大日本帝国憲法憲法体制のメカニズム、とくにそこでの意思決定のあり方や、天皇への責任のあずけ方、無責任の保証のされ方、そういう行動様式について正確な知識を持ち、それから日本国の憲法体制についても、内部での責任の分担のされ方や、無責任の保証のされ方、責任逃れのあり方、そのようないろいろな問題について詳細な知識をもつ。そして、その比較のうえに立って、憲法を運用する能力を高めていくことです。それが必要にして十分なことではないのか。

 

 

 

加藤 だけど、そのための第一歩としては、たとえば、みんなが橋爪さんのようにいろいろな知識をもって、というわけにはいかないでしょう。だから、日本の社会のなかで、どういうかたちでそういう作業を進めていくか、そのための第一歩をどこにおくのか、ということなんですよ。(略)

 

 

橋爪 そうじゃなくてね。たとえば天皇の名前で戦争が行われたとして、それが不合理で間違った戦争だった。そこからでてくるひとつの反応は、天皇が不合理で間違った考え方をもって戦争を始めたのではないだろうか、というものです。(略9

 

 

 

しかし、もう少し詳しく考えて見ると、戦争自身は不合理で誤ったものであったかもしれないが、それは天皇が不合理で誤った考え方をもっていたからそうなったというわけではなくて、もっと違った原因がある。よく調べてみれば見るほど、実は、天皇にはほとんど責任がない。だとしたら、その責任は誰にあるのか。

 

 

 

天皇の名前に隠れて、大日本帝国の内部でそのメカニズムを悪用し、こういうことをした、ああいうことをしたという具体的な事実や具体的な人間がいるはずだ。そのことについて具体的につきとめておかないと、同じことが日本国の内部で起こらないとはかぎらないし、現に起こっているのではないか。そういうことなんですよ。

 

 

 

竹田 僕はずっと気になっていたんだけど、橋爪さんは詳細に制度上の事実を問題にしていて、それなりの証拠をだして実は天皇には法制上責任を問えないということがこれでわかるはずだ、と言っている。(略)

 

 

小林よしのりがこだわっていた従軍慰安婦の場合もそうですね。つまり、橋爪はああいうが、やはり実質的に天皇に責任があると言える、という考え方も可能なものとして出てくる。すると、双方の立場の人間がいろいろ言いだして、結局、一般の人間からはよくわからなくなってしまうことがしばしばある。

 

 

 

実際、同じような志を持っている加藤さんとですら、それほど違わない資料からまったく別の解釈がでているということが起っているわけですね。いわんや一人ひとりの人間にとっては、そういう歴史上の事実を詳細に調べて、どちらが正しいかということを自分なりに確定することは、なかなかむずかしい。これはこと天皇制といった歴史的な問題にかぎることではなく、実は若い人が現代社会のさまざまな問題に出会うとき、必ずぶつかる問題です。(略)

 

 

 

しまいには、世の中には進歩と保守というふたつの政治的意見があって、どんな問題についても、かならずあれこれ言い合って対立している、という像だけが残る。そういう事態がずっと続いてきた。(略)

 

 

 

まあ、そんなことがあって、この問題には単に事実がこうだったという解釈を示すだけでなく、もちろんそういう試みが無駄でないことは十分認めますが、むしろ、いまわれわれが持っている資料から、天皇に対してふたつの大きな解釈、考え方が可能である、ということを一応前提としたうえで、そのうえでこの問題をどう考えるのか、あるいはどういう態度をとるのが我々にとって積極的なことか、という考え方が必要なのではないだろうか。(略)

 

 

橋爪 普通の人は忙しいから、歴史的事実のことなんかそんなにいちいち詳しく知る必要もないし、多分知らないと思います。

そこで手掛かりになるのは、やはり戦後民主主義の原則でしょう。

 

 

戦後民主主義の原則は、いろいろあるけれども、それをつきつめるならば、国民が選択し、自己責任でこの国を運営するということだと思う。選択するからには最低限の知識がなければならず、その結果についてのある程度の予測もなくてはならず、結果が十分予測できなかったとしても、自分が選択したのだから、その責任を取らなければならない。それを人のせいにはしない。そういう考え方で国家を運営していけば、おおむね間違わないと思う。

 

 

では、その原則にてらして見ると、戦前の日本はどのように見えてくるのか。それは、まったくの独裁国家でも専制国家でもなかったわけで、日本国に通じるような近代国家として、それなりに運営されていた。

 

 

ただし、近代国家としては大きな構造上の欠陥があった。(略)

だから、それを打ち消す作用として、浄化作用として、構造の組み替えが行われて、日本国というものができた。しかし、その過程に大きな戦争があり、大きな犠牲があった。いわば、その犠牲と、この戦後日本というものはひきかえになっているわけです。(略)」

 

〇 橋爪氏は、当然の流れとして、このように言っていますが、現実には、今の私たちの国は、そのような動きになっていません。

 

「選択するからには最低限の知識がなければならず…」

こう考えるのは、当然のことです。その為に、その分野の研究者の「知識」が必要になる。だから、「学術会議」の提言が必要なのです。

戦前は、その知識を蔑ろにして暴走し、失敗した。だから、もう失敗しないために、学術会議の提言を政府の政策に絡めて、真っ当な知識、最低限の知識を無視しないようなシステムを作った。

 

それなのに、今、その基本的な姿勢をやめようと画策しているのが、安倍・菅政権です。

 

「自分が選択したのだから、その責任を取らなければならない。それを人のせいにはしない。そういう考え方で国家を運営していけば、おおむね間違わないと思う。」

 

これも、国家の運営は、どのような精神で行うのか、というところで、「当然の」ものではなくなってしまいます。

私たちの祖先は、少なくとも子や孫のことを考え、将来を考えて、国家の運営をしてくれていたと思います。でも、今の政治家は、今の自分たちのことだけを考えているように見えます。

 

 

選択し、その「責任=儲け」は、自分たちで受け取る。将来がどうなとうと、子や孫がどうなろうと、そこまでは考えられない。子や孫は、それぞれに、また自分たちのことを考えよ、とそういう姿勢に見えます。

 

 

だから、どれほどの核ゴミを残そうが、借金を残そうが、嘘や不正で人が信じられない社会を残そうが、自分たちさえ、うまく快適に生きられれば良い…と。

橋爪さんは、「間違わない」と言ってるけれど、後の世代にどんどんツケを回すのを、

間違っていると思わない国民が多数になる時、間違ってしまうと思います。

 

「(つづき)

では、その原則にてらしてみると、戦前の日本はどのように見えてくるのか。それは、まったくの独裁国家でも専制国家でもなかったわけで、日本国に通じるような近代国家として、それなりに運営されていた。ただし、近代国家としては、大きな構造上の欠陥があった。そういう風に見えてくるんじゃないか。

 

 

だから、それを打ち消す作用として、浄化作用として、構造の組み替えが行われて、日本国というものができた。しかし、その過程に大きな戦争があり、大きな犠牲があった。いわば、その犠牲と、この戦後日本というものは、ひきかえになっているわけです。

 

 

だから、すべての死者というのは、もし意味づけられるとすれば、そういうプロセスのなかでの犠牲者だというふうに考えられる。犠牲という言葉を使えばね。そういうふうに了解すれば、必要かつ十分なんじゃないかと思う。(略)」