「▼ 祈りによって「国民の統合」を作り出す
かくして、「動く」ことに基いた「祈り」が天皇を「象徴」たらしめる。それでは、その時、天皇は何を「象徴」するのか。
今回強調され、想起せしめられた―そして、憲法上の想定でもある―のは、天皇は「日本国の象徴」であるだけでなく、「国民統合の象徴」であるということだった。(略)
なぜなら、国民が天皇の祈りによってもたらされる安寧と幸福を集団的に感じることができてはじめて、国民は互いに睦合うことが可能になり、共同体は共同体たりうるからだ。
▼「国民統合」の危機を乗り越えるための譲位
以上のような、天皇の「動き」「祈る」ことを中核とする「動的象徴論」は、天皇が高齢や病気のために弱った時には、祈りと励ましが同時に衰弱し、したがって天皇によって象徴される「国民の統合」が弱体化することを含意しよう。(略)
まさにこの危機を打開するために、新しい若い天皇による祈りの更新が提案され、象徴天皇制について国民が考えるよう天皇が自ら訴える、という異例の行動がなされたのである。
(略)
今上天皇が介入した政治的文脈が、戦後民主主義の危機=象徴天皇制の危機であるとは繰り返し述べてきた通りだが、それは、学者が展開してきた議論における概念を用いて言えば、「永続敗戦レジーム」が空中楼閣になっているにもかかわらず清算されず、逆にあらゆる強引な手法を用いてでも死守されていることによって生じている危機である。
そう考えた時、その危機とは、取りも直さず、対米従属レジームの危機、より正確に言えば、特殊な対米従属を基礎として維持されてきたレジームの危機である。(略)
ダグラス・マッカーサーが強く自覚していたように、アメリカの構想した戦後日本の民主化とは、天皇制という器から軍国主義を抜き去り、それに代えて「平和と民主主義」という中身を注入することであった。(略)
▼アメリカと国体をめぐる逆説
ゆえにわれわれは、一個の逆説に直面している。
今上天皇による象徴天皇制を何としても守らなければならないという訴えは、一方で、敗戦を契機としてアメリカの介入のもとに制度化されたものを守るべきだという訴えである。(略)
「アメリカ」は肯定されると同時に否定されている。(略)
思えば、占領改革と東西対立は、戦後日本をイデオロギーの次元ではすこぶる奇妙な状況に置いた。その構造においては、アメリカによる支配を受け入れることが、同時に天皇制の維持(独自性の維持)であり、民主主義でもあったのだった。
国体の破壊(敗北と被支配)は国体の護持(天皇制の堅持)であり、国体の護持(君主制の維持)は国体の破壊(民主制の導入)であった。これらは敗戦に伴う一時的な混乱などでは、さらさらない。この奇妙な矛盾のうちに、戦後日本の腑分けされるべき本質が横たわっているのである。」