読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

国体論 ー菊と星条旗—

「▼ 憲法制定権力としての自由民権運動

かくして、物理的暴力によって新政府に対抗する途を閉ざされた抵抗勢力は、言論闘争を軸とした闘争(自由民権運動)へと転換を余儀なくされる。(略)

 

 

言論闘争の場が公式に与えられることが予定されているにもかかわらず、自由民権運動が穏健化するどころか逆に過激化したのは何故だったのか。

それは、自由民権運動がすでに確立された制度の内部で国民の権利を拡張しようとする運動ではなく、制度そのものを確立する主体たろうとする運動であったからだった。

 

 

 

政府によって与えらえた舞台としての国会で民衆の意見を主張するのではなく、民衆が自らの意見を主張し、法を制定する舞台を自らの主導で作り出すことを、それは目指していた。一八八〇年に結成され、後の自由党の母体となる国会期成同盟は、歴史学者、松沢裕作によれば次のような考えを持っていた。

 

 

 

国会期成同盟は、単に政府に国会の開設を働き掛ける運動体ではない。国民の権利として、国会は当然開設されなくてはならない。(略)だから、仮に政府が国会開設を決めたとしても、その具体的な方法については、国民を代表して国会開設を主張している国会期成同盟が意見を述べなくてはならない。

 

 

 

民権を高らかに謳う数々の「私擬憲法」が作られるのも国会期成同盟の結成を契機としてであるが、それらが物語るのは、この時期には革命がある意味でまだ続いていたということである。

何故なら、西南戦争によって、革命による暴力の独占のプロセスこそ一応の終わりを迎えたものの、自由民権運動が打ち立てようとしたのは、政治学・法学で言う所の「憲法制定権力」(制憲権力)にほかならないからである。

 

 

 

憲法は権力運用の規則であり、権力への制約である。したがって、その憲法を生み出す力である制憲権力は、無制約の権力(=革命権力)であり、主権そのものである。(略)

 

 

 

憲法・議会に随伴した教育勅語

ここで注目すべきは、憲法および議会をセットとして、一八九〇年に教育勅語が発布されたことである。(略)

 

 

 

天皇の名において出された教育勅語は、このような文脈において、封建時代を生きてきた国民にとって馴染み深い儒教的な通俗道徳を援用することで、権利主張と要求に対してタガをはめるものとして企図された。(略)

 

▼国民大衆への天皇制の浸透という点では、この時期にあの有名な「御真影」が製作され流通(下賜)し始めたことも特筆に値する。(略)その容貌は理想化され、超人格的であり、明らかに社会的政治的な環境において人々に受け入れられる、権勢のイメージとして、作為されているのを感じないわけにはいかない。(略)

 

かくして、一方では憲法と議会によって立憲政体の体裁を構築しつつ、他方では、国民の内面を「天皇の国民」としての規範の統制に服せしめる試みが同時に行われた。(略)言い換えれば、ここにおいて、明治維新から二十年余りを経て、近代前半の「国体」は一応の確立を見たのである。(略)

 

 

 

当時第一高等学校教員であった内村鑑三勅語天皇の署名に対して最敬礼しなかったという、それ自体ではささいな出来事が事件化されるに際して、大きな役割を果たしたのは御用学者とマスコミであった。言うなれば、市民社会からの自発的な動きが、後の「国体」を大義名分とした激しい思想弾圧・内面支配を予感させる事態を生ぜせしめたのである。(略)

 

 

 

2 明治憲法の二面性

▼「国体」概念の内実 ― 「国体と政体」の二元論

(略)

この頃から対外的危機感の高まりのなかで「国体」という語は多数の文献に現れるようになるが、当初は論者によってまちまちで一定しなかった国体の意味内容は、やがて近代日本の公式イデオロギーとなる国体概念、すなわち、「神に由来する天皇家という王朝が、ただの一度も交代することなく、一貫して統治しているという他に類を見ない日本国の在り方」という観念へと定まってくる。(略)

 

 

 

ただ、こうした動きは廃仏毀釈運動の激化をもたらしはしたものの、結局のところ神権政治的理念は近代国家の建設・制度整備と相容れず、紆余曲折を経て祭政一致国家の試みは挫折する。その意義について、宗教学者島薗進は次のように述べている。

 

 

 

こうした経過は、「神道国教化」政策が撤回、ないし修正されていった過程と理解されている。だが、「神道国教化」の「撤回」ということが何を意味するか、必ずしも明確ではない。というのは、その後も神道はある種の国教的地位を保持し、次第に高めていったとも言えるからである。確かに「政教分離」へ向かって行く内実も含まれていた。しかし、「祭政一致」の理念もまた堅持されたのだ。

 

 

政教分離」と「祭政一致」の両方向が同時に存在した、という事態を島薗は指摘している。(略)

 

 

 

しかし、そこに付けられた重大な留保、「安寧秩序を妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」の意味するところは、後に肥大化してゆくこととなる。(略)

ここにおいて、政教分離が本来保障すべき「信教の自由」「内面の自由」は完全に没却され、政治的権力(軍部)と精神的権威(天皇)は一致させられた。」