読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

国体論 ー菊と星条旗—

「▼ 明治憲法の二面性 ― 天皇は神聖皇帝か、立憲君主

(略)

明治憲法の最大の問題は、それが孕んだ二面性であった。すなわち、この憲法による天皇の位置づけは、絶対的権力を握る神聖皇帝的なものであったのか、立憲君主制的なそれであったのか、という問題である。

 

 

敗戦後に、占領当局は前者であると判断し、憲法の全面的な改正を要求したが、この判断には矛盾が含まれている。なぜなら、そうであるとすれば、昭和天皇の戦争責任がなぜ免ぜられうるのか、説明がつかないからである。

 

 

他方、憲法改正を要求された当時の日本のエリート層は、困惑し、最小限の変更でその場を切り抜けようとした。そこに彼らの自己保身の動機があったことは否定できないが、同時に彼らの当惑も理由なきものではなかった。なぜなら、大正デモクラシーの時代の記憶を持つ彼らにとって、明治憲法は民主主義的に運用され得る立憲君主制を定めたものと認識されていたからである。

 

 

とはいえ、昭和の神がかり的なファシズム体制が、明治憲法を基礎とする法秩序を舞台にして作り出されたこともまた、確かであった。

こうした認識の齟齬が生じる両義性は、明治憲法それ自体に含まれていた。

 

 

 

戦後に、鶴見俊輔久野収は、明治憲法ジームは、エリート向けには立憲君主制として現れ、大衆向けには神権政治体制として現れたのであり、前者は明治憲法密教的側面、後者は顕教的側面としてそれぞれ機能した、と論じた。そして、昭和の軍国主義ファシズム体制の出現とは、神権政治体制の側面が立憲君主制の側面を呑み込んでしまった事態であった。

 

 

▼権力の制約

(略)

この二面性は、条文レベルでは次のように現れている。

 

第一条 大日本帝国万世一系天皇之ヲ統治ス

第四条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ

 

(略)

 

つまり、ここで伊藤は、憲法に基く政治は「専制」の反対物であるとはっきり述べており、憲法が君主をも拘束するものであることを強調している。

さらに、「統治権の総攬」という概念は、素人目には「天皇自らが絶対的統治権を行使する」ことを指すかのように映るが、法学的常識によれば、その意味するところは正反対である。

 

 

 

すなわち「統治する」のではなく「統治権を総攬する」が含意するのは、統治する行為を具体的な次元で決定し担うのは天皇の輔弼者であり、元首たる天皇はこれを裁可するという形式的な行為をするに過ぎないということだ。(略)

 

 

しかしこれも、立憲君主制における君主無答責を意味しており、ヨーロッパの立憲君主国の憲法を参照して採り入れられたものであった。君主無答責とは、国家が誤ったことを行なっても、国王が責任を問われる(罰せられる)ことはなく、大臣(輔弼者)が責任を負うことを意味する。

 

 

なぜなら、立憲君主制国家において、国王の権力は形式的なものであり、政策を具体的に立案し実行するのは、大臣であるからだ。権限が無いものには、責任もない、という論理である。

 

 

▼ 権力の正統性の源泉としての天皇

しかし現実には、明治憲法ジームの全歴史を通じて、天皇の意思は単なる形式的なものとして機能したわけではなかった。

たとえば、伊藤博文明治憲法の起草者のうちでも立憲主義憲法観を持ち、藩閥政治からの脱却を目指して山県有朋と対立したこともあったが、その伊藤でさえ、第四次内閣を率いていた当時の第一五回帝国議会(一九〇〇~〇一年)で、増税に強硬に反対する貴族院を屈服させるために、勅語を用いた。

 

 

 

これに対して「憲法違反ではないのか」という批判が衆議院で起こるが、この批判に対して、政友会の星亨は、こう反論した。すなわち、「天皇の「大権の中に於いて憲法は成立」しているのだから、「憲法を以て陛下の口を噤み陛下が為さるることを妨げたものではない」と主張し」、こうした反論が実質的に通ってしまうのである。

 

 

 

その後の明治期の帝国議会では、計一〇回もの明治天皇の「御沙汰書」「勅語」が出されている。(略)

かくして、昭和ファシズム期においては、明治憲法立憲主義的解釈は主流の地位を失ったどころか、禁止されるに至った(一九三五年の天皇機関説事件ならびに国体明徴声明)。そしてその果てには、ポツダム宣言の受諾という政治的にこの上なく重要な決断を天皇自らが下さねばならない事態を出現させることとなる(「御聖断」)。(略)

 

 

 

憲法とは権力への制約である」という基本命題を、このレジームは国民大衆に対してひた隠しにしただけでなく、レジームの運用者たるパワー・エリートたちがこの点を曖昧にする(あるいは無理解である)ことによって政争を闘ったのである。(略)

 

ゆえに民主制に不可欠な、国民の意思や批判的視線が国家を監視し制約するという発想は、「君側の奸」が不当に天皇の意思を操っている、あるいは天皇の徳政を邪魔している、という推断のかたちをとるほかなくなる。(略)

 

 

 

このようにして、天皇を中核とする国家権力そのものへの宗教的崇拝を必然化する要因が、可能性としては立憲主義の基礎となりうるはずの憲法自体に孕まれていた。

事情は、教育勅語に似ていると言えるかもしれない。今日でも「教育勅語には現在でも尊重されるべき教訓が書かれている」として、擁護し復権させようとする動きがあるが、問題は、勅語の内容 ― 「親孝行しろ」とか「友を信頼しろ」とか ― ではなく、その形式、すなわち国家元首が国民の守るべき徳目を直接命じているという点にある。

 

 

国家元首の盲目的崇拝に基く道徳など、道徳の名に値しない。これと同様に、憲法の内容(立憲主義=権力の制約)を憲法の形式(欽定憲法神権政治=無制約の権力)が裏切っているのである。」