読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

国体論 ー菊と星条旗—

「4 征夷するアメリ

征夷大将軍マッカーサーという物語

かくて、敗戦と混乱、被占領という危機を乗り越えて、初期戦後レジームの骨格、すなわち、日米安保条約を基礎とする微温的な反共主義体制が結果的に成立するが、そこから遡及的に見れば、マッカーサーは戦争責任問題から天皇を救い出しただけでなく、一層勢力を増して来た「国体への脅威」としての共産主義から国体を守り抜く存在として、日本に降り立ったのだと見ることができるようになる。

 

 

 

してみれば、マッカーサーは、ある意味で「勤皇の士」ではないのか。

そして、実はこのような光景は、日本史において見慣れたものにほかならない。天皇マッカーサーのあの会見は、日本の歴史上、何度も繰り返されてきた構図の反復なのである。(略)

 

 

かかる構造においては、権力の正統性源泉は天皇によってあらかじめ独占されており、したがって、権力を獲ろうとする者は、尊皇・勤皇を表向き必ず掲げざるを得ない。

しかし、権力交替の際、天皇が実力者との接し方を誤ればこの法則は破られかねなかったであろうし、そうなることは直ちに、天皇の身の危険、王朝の廃絶の危機を意味したはずである。

 

 

あの会見以来、天皇マッカーサーの関係は速やかに協力的なものとなり、GHQ天皇制温存の判断はますます堅固なものとなっていったが、それは、幾度ものそのような危険な瞬間を歴史上乗り越えてきた、天皇家の、いわばDNAが力を発揮した結果であっただろう。(略)

 

 

占領史研究をリードしてきた政治学者の袖井林二郎も次のような指摘をしている。

 

 

天皇を通じて日本を支配する、それこそまさに将軍家の機能にほかならなかった。明治維新によって最後の将軍が廃絶されて以来、七十余年ぶりで、日本は将軍を戴くことを強制される。

 

 

 

だが、この「強制」は、日本人の歴史的無意識によって濾過され、天皇によるマッカーサー征夷大将軍への任命ととらえれば、次のような首尾一貫した物語をつくることに役立てることができる。

 

 

 

すなわち、「夷狄」を討つことが征夷大将軍の役割であるが、マッカーサーはまず、平和主義者たる天皇に無理矢理戦争を始めさせた戦争狂の軍人たちを屈服させて、天皇を彼らの包囲から救けだした。そう考えれば、あの会見の場面は、昭和天皇マッカーサー征夷大将軍に任命した瞬間である、ということになる。(略)」

 

〇 この「マッカーサー(=アメリカ)によって戦争狂の軍人たちから救われた」という感覚は、実際に、私の中にもあります。そして、現代においても、全く道理の通らない状況の中で、オリンピックを止めると決断できない政権から、助けてくれる「力」がどこかにあるとしたら、それは、外国の「世論」ではないかと、思うしかない気持ちがあります。それほどまでに、私たちの国には、真っ当な論理を積み上げ議論を重ね、合意に導く習慣や風土がないと、思い知らされています。

情けないと思います。そんなはずはない、と希望を持ちたかった…。でも、あれほどまでに、酷い政治家、自民党公明党が支持されているということは、国民のレベルが、それほどまでに酷いと思うしかありません。この国の人間には、自治能力がないと思わざるを得ません。絶望的な気持ちになります。

 

 

「▼どちらが主人なのか

(略)

こうした「日付のポリティクス」によって、GHQは「どちらが主人なのか」を度々思い起こさせようとしたわけだが、意思の強要という点で最も重要かつ際立っていたのは、昭和天皇に退位を許さなかったことであろう。(略)

 

 

しかしそれが実行されなかった理由は、究極的にはアメリカの意思であった。なぜマッカーサーが退位を強硬に禁じたのか、現在でも不明な点が多いが、退位は「平和主義者である天皇に戦争責任は一切ない」という物語に対して害を及ぼしかねないという判断や、「アメリカが天皇を辞めさせた」という印象を日本人に対して与えることを避けた、といった事情が推論可能であろう。」