読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

国体論 ー菊と星条旗—

「▼ 昭和天皇の「言葉のアヤ」発言

(略)

あまりに重い戦争責任の問題を「言葉のアヤ」と呼んだことには、ある種の過剰性が感じられる。(略)

なぜなら、国体護持のために日米合作でつくられた物語は、「天皇に戦争責任はない」と政治的に決めたのである。(略)

 

 

「国体は護持されたという物語を諸君も欲しがったからこそ、私はその物語に忠実に振舞ってきた。この物語の<ゲームのルール>に乗っかりながら(物語を成り立たしめる協力者として振舞ってきながら)、突然それをなかったことにするのか」 ― 歴史的事実に照らして天皇の本音を推測すれば、そのような思いがあったはずである。

 

 

ゆえに、戦争責任をめぐる問いには、回答しようがない。「そういう問題についてはお答えが出来かねます」。この強い言葉には、天皇自身が知悉していた国体護持の虚構性とそれについて知らないふりをする者へのいら立ちが滲み出ている。

 

▼ 権威と権力の構造

カール・マルクス箴言にいわく、「人間は自分自身の歴史をつくるが、自分が選んだ状況下で思うように歴史をつくるのではなく、手近にある、与えられ、過去から伝えられた状況下でそうするのである。死滅したすべての世代の伝統が、生きている者たちの脳髄に夢魔のようにのしかかっているのだ」(「ルイ・ボナパルトブリュメール一八日」)。(略)

 

 

日本人の歴史意識からとらえられたマッカーサー征夷大将軍であったとすれば、それは「不変の権威=天皇」(国体)/ 「現実的権力=マッカーサーGHQ」(政体)という伝統的な認識図式に収まる。(略)

 

 

 

そして、マッカーサーが瞬く間に「救世主」として日本国民から受け入れらえれたことも、これまた「死滅したすべての世代の伝統が、生きている者たちの脳髄に夢魔のようにのしかかっ」たことの一例ではなかったか。(略)

 

 

「さらには、マッカーサーが解任され本国へ帰還する際(一九五一年)には、マッカーサー神社を建立しようという計画が持ち上がり、発起人には、秩父の宮夫妻、田中耕太郎(最高裁長官)、金森徳次郎国立国会図書館長)、野村吉三郎(開戦時駐米大使)、本田親男(毎日新聞社長)、長谷部忠(朝日新聞社長)ら、錚々たる有力者が名を連ねた。(略)

 

 

 

坂口安吾が衝いた「天皇崇拝者」の二重意識

あの戦争において膨大な人々を殺した天皇制が、敗戦にもかかわらず再建される過程を目の前で見ながら、坂口安吾は次のような激しい天皇制批判、より正確には天皇制を作り出し維持する日本人への批判を書きつけた。

 

 

天皇制というものは日本歴史を貫く一つの制度ではあったけれども、天皇の尊厳というものは常に利用者の道具にすぎず、真に実在したためしはなかった。

(略)

その天皇の号令とは天皇自身の意志ではなく、実は彼らの号令であり、彼らは自分の欲するところを天皇の名に於いて行い、自分がまっさきにその号令に服してみせる、自分が天皇に服す範を人民に押し付けることによって、自分の号令を押しつけるのである。

 

 

 

自分自らを神と称し絶対の尊厳を人民に要求することは不可能だ。だが、自分が天皇にぬかずくことによって天皇を神たらしめ、それを人民に押しつけることは可能なのである。(略)

 

 

 

それは遠い歴史の藤原氏武家のみの物語ではないのだ。見給え。この戦争がそうではないか。(中略)何たる軍部の専断横行であるか。しかもその軍人たるや、かくの如くに天皇をないがしろにし、根柢的に天皇を冒瀆しながら、盲目的に天皇を崇拝しているのである。ナンセンス!ああナンセンス極まれり。しかもこれが日本歴史を一貫する天皇制の真実の相であり、日本史の偽らざる実体なのである。

 

 

 

まさにこれは「藤原氏武家のみの物語ではない」のであった。(略)

アメリカは、天皇制の「カラクリ」と安吾が呼んだものに進んで搦めとられることを自国の国益の実現に適うものと認識して、実際に行動したと言える。(略)

 

 

これらの「天皇崇拝者」の二重意識を安吾は衝いていた。いわく、彼らは「根柢的に天皇を冒瀆しながら、盲目的に天皇を崇拝している」。

アメリカは、国体護持の神話の成立に協力しながら(天皇崇拝)、それが自己利益のためであること(天皇冒瀆)を隠蔽する。他方、民主主義者に転向した日本人は、アメリカン・デモクラシーを熱烈に支持しながら(天皇アメリカ)崇拝)、その実態がすでに見たように国民主権とはかけ離れたイカモノにすぎない事実を見ようとはしない(天皇アメリカ)冒瀆)。(略)

 

 

それは、この二重意識自体が意識されているか否かの違いである。安吾は言う。

 

 

藤原氏の昔から、最も天皇を冒瀆する者が最も天皇を崇拝していた。彼らは真に骨の髄から盲目的に崇拝し、同時に天皇をもてあそび、わが身の便利の道具とし、冒瀆の限りをつくしていた。現代に至るまで、そして、現在も尚、代議士諸公は天皇の尊厳を云々し、国民は又、概ねそれを支持している。

 

 

 

戦後のいわゆる親米保守支配層は、ここに言われる「藤原氏」の末裔である。彼らは、対米従属レジーム=安保国体を天壌無窮のものとして護持することを欲するが、それはアメリカン・デモクラシーの理念への心服ゆえではなく、そこに彼らの現実的利益が懸かっているからである。

 

 

たとえば、頻繁に文書の隠蔽を行ない、民主主義の根幹をなす公開性の原則を蔑ろにする外務省が、平気で「価値外交」なるスローガンを掲げるという茶番には、かかる分裂に対する認識、それに伴う葛藤を見出すことはできない。(略)

 

 

▼ 冷戦の終焉=権威と権力の分立の終焉

(略)

そもそもポーズにすぎなかった、日本人が懐く国体をめぐるファンタジーへの、アメリカのお付き合いは終わる。共産主義の脅威なき後、アメリカが天皇ないし日本のために「征夷」する動機はなく、慈恵的君主として自ら君臨する動機もないからである。つまり、安保国体は、現実的基盤を喪う。

 

 

 

してみれば、われわれが直面しているのは、権威と権力の両方を兼ね備えたアメリカを受け入れるのか ― 自民党政権に代表される親米保守支配勢力の考えによれば、「この道しかない!」のだそうだ ― 権威としてのアメリカを拒否し、現実的権力としてのアメリカと現実的な付き合いをするのか、という岐路なのである。」