読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

国体論 ー菊と星条旗—

「3 再び「お言葉」をめぐって

▼7歴史の転換と「天皇の言葉」

本書で見てきた「戦後の国体」の崩壊過程における危機という文脈は、第一章で論じた、今上天皇による異例のメッセージ、「お言葉」が発せられた文脈でもある。だからこそ、あのメッセージを見聞きした時、筆者は衝撃を受けた。

 

 

それが発せられた文脈と、そこに込められた意図を丹念に追ってゆくならば、「お言葉」は、この国の歴史に何度か刻印されている、天皇が発する、歴史の転換を画する言葉となりうるものであると、筆者は受け取った。つまり、「お言葉」は、古くは後醍醐天皇による倒幕の綸旨や、より新しくは孝明天皇による攘夷決行の命令、明治天皇による五箇条の御誓文、そして昭和天皇玉音放送といった系譜に連なるものである。そのような言葉を自分の耳で聞くことがあろうとは、それまで夢にも思わなかった。

 

 

 

しかし同時に、すでに述べたように、この思い切った行為の必然性は、それまで筆者が考えてきたことから、明らかであった。腐朽した「戦後の国体」が国家と社会、そして国民の精神をも破綻へと導きつつある時、本来ならば国体の中心にいると観念されてきた存在=天皇が、その流れに待ったをかける行為に出たのである。

 

 

 

この事態が逆説的に見えるのは、起きた出来事は「天皇による天皇制批判」であるからだ。「象徴」による国民統合作用が繰り返し言及されたことによって、われわれは自問せざるを得なくなったのである。すなわち、アメリカを事実上の天皇と仰ぐ国体において、日本人は霊的一体性を本当に保つことができるのか、という問いをである。もし仮に、日本人の答えが「それでいいのだ」というものであるのなら、それは天皇の祈りは無用であるとの宣告にほかならない。われわれがそう答えるならば、天皇(および想定される地位継承者たち)はその地位と職務を全うする義務を自らに課しつづけるであろうか。それは甚だ疑問である。

 

 

 

▼「お言葉」をどう受け止めるか

さて、以上のような「お言葉」の解釈は、その内容に政治的意義を読み取ることによって「天皇の政治利用」につながるとの批判を招くことが予想される。またあるいは、天皇の発言に霊性に関わる次元を読み込むことは、「天皇権威主義的な神格化」につながるという批判も予想される。

 

 

 

筆者は、自らの展開してきた「お言葉」の解釈が、現実政治にあからさまに関係するという意味で政治的であること、また「お言葉」にある種の霊的権威を認めていることを決して否定はしない。

しかしながら同時に、筆者は「尊王絶対」や「承詔必謹」を口にする気はさらさらない。なぜなら、かかる解釈をあえて公表する最大の動機は、今上天皇の今回の決断に対する人間としてんぼ共感と敬意であるからだ。

 

 

 

その共感とは、政治を越えた、あるいは政治以前の次元のものであり、天皇の「私は象徴天皇とはかくあるべきものと考え、実践してきました。皆さんにもよく考えて欲しいと思います」という呼び掛けに対して応答することを筆者に促すもんぼである。応答せねばならないと感じたのは、先にも述べた通り、「お言葉」を読み上げたあの常のごとく穏やかな姿には、同時に烈しさが滲み出ていたからである。

 

 

それは、闘う人間の烈しさだ。「この人は、何かと闘っており、その闘いには義がある」— そう確信した時、不条理と闘うすべての人に対して筆者が懐く敬意から、黙って通り過ぎることはできないと感じた。ならば、筆者がそこに立ち止まって出来ることは、その「何か」を能う限り明確に提示することであった。

 

 

 

「お言葉」が歴史の転換を画するものでありうるということは、その可能性を持つということ、言い換えれば、潜在的にそうであるにすぎない。その潜在性・可能性を現実態に転化することができるのは、民衆の力だけである。

 

 

民主主義とは、その力の発動に与えられた名前である。」

 

〇 ここで、この「国体論」は終わっています。

著者がこの本を書いた動機について、

「不条理と闘うすべての人に対して筆者が懐く敬意から、黙って通り過ぎることはできないと感じた。ならば、筆者がそこに立ち止まって出来ることは、その「何か」を能う限り明確に提示することであった」

 と説明している個所を読み、胸が熱くなりました。

 

 

そして、「民主主義」という言葉を聞く時、いつもこのエピソードを思い出します。

以前取り上げた、河合隼雄母性社会日本の病理」の中にあった河合氏自身の体験談です。

「大切なことはこのようなアレンジメントが存在すること。そして、それにかかわった人たちがアレンジするものとしてではなく、渦中において精一杯自己を主張し、正直に行動することによってのみ、そこに一つのアレンジメントが構成され、その「意味」を行為を通じて把握し得るということであろう。」

 

 

〇 あと、もう一点。

この本を読みながら、ずっと引っかかっているモヤモヤがあります。それは、アメリカの「属国」のようになっている私たちの国を、私はどうしたいのだろう…という問いです。

本来なら、一刻も早く属国であることから脱し、自分たちの国の問題を自分たちで解決する能力と態勢を持ちたい。誇り高い日本を取り戻したい。と願うのが本当だろうとは思います。

 

でも、以前も書きましたが、あの太平洋戦争で負けたことで、今の民主主義国日本が

あるのです。戦争で負けなければ、おそらく戦時中のように、今の北朝鮮のように、一部の特権階級の人々(いまだ人間を幸福にしない日本というシステムの「管理者」たち)が、自分たちに都合の良い国家にしていたと思います。

 

アメリカが支配して、その顔色を伺う属国だったからこそ、今の「日本会議」のような勢力は、大っぴらには活動できなかったのだと思います。それを思うと、本当にアメリカの属国から脱した時、どんな国になってしまうのが、恐ろしくもなります。

 

本当に情けないことだと思います。

 

でも、私たちには、あの安倍政権も今の菅政権も変えることが出来なかった、出来ない、という現実があります。あれほどの犯罪を犯している総理大臣を引きずり下ろすことが出来ない、こんな情けないコロナ対策しかしない菅政権しか持てない私たち日本国民なのです。

 

こんな私たちに、真っ当な民主主義を作り上げられるでしょうか。

だとしたら、下々の人間、(少なくとも私のような一般庶民は)せめてアメリカの属国で、例え建前だけでも、民主主義が掲げられている国の方がマシだ、と感じるのですが。

 

これは、私の妄想ですが、あの昭和天皇だって、おそらく私たちの国の中の、

今の「日本会議」のような勢力、話が通じない議論も出来ないような人々には、アメリカが押さえつけてくれる以外、どうにもならない、と思ったのではないでしょうか。