読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

論語の読み方 ― いま活かすべきこの人間知の宝庫 ―

「(略)

以上は、中島敦が「弟子」で描いた孔子である。おそらく孔子は、ここに描かれた像とあまり違わない人であったろう。この孔子は紀元前五五二年か一年に、中国のいまの山東省内の小都市国家「魯」の国に生まれた。

 

 

いわばソクラテスのように都市国家の出身であり、また同じように王朝国家へと移行する 過渡期に生きた。出生伝説らしいものはなく、生まれたときシャカのように「天上天下唯我独尊」と言ったとも、イエスのように、大工の子として馬屋で生まれたとき、星に導かれて東方の三博士が貢物を持ってやってきたとも記されていない。(略)

 

したがって母親は顔徴在、幼くして父を失い、この母に育てられているが、若くして母も失ったという伝説もある。いずれにせよ、幼児時代の家庭は必ずしも恵まれたものではなかったらしい。」

 

 

「(略)

この精神的秩序と社会的秩序の一体化、それも一種の「美的一体化」とでもいいたい方向に孔子が進んだことの背後には、強い美的感受性があったものと思われる。いわゆる「儒者」とか「道学先生」とかいわれた人たちは、孔子がまことに度外れた音楽好きであった点を見逃している。

 

 

孔子は斉(せい)にいるとき、(しょう)の音楽を聞いた。感動のあまり長い間、肉の味がわからなかった。そして言った。「思いもよらなかった、音楽にここまで熱中してしまうとは」と」

 

「子、斉に在りて(しょう)を聞く。三月、肉の味を知らず。曰く、図らざりき、楽をなすことのここに至らんとは」(述而第七161)

 

そして「子、(しょう)をいわく、美を尽くせり。また善を尽くせり。武をいわく、美をつくせり、未だ善を尽くさず」(八佾第三65)。

 

 

 

(しょう)は聖天子とされた舜の音楽、武とは周の武王の音楽だが、孔子は(しょう)においてはじめて、美と善とが一致するとしている。この場合の「善」とは大体「倫理的価値」と受け取ってよいであろう。孔子はそれを聞いて、いたく感動したわけである。

 

 

 

当時の音楽は、現代では孔子の編纂を経て伝わっている「詩経」を音楽の伴奏で歌ったもので、それは楽師の家に伝承されていた。孔子はこれを学び、その一部が宴席などで歌われると、

 

 

「子、人と歌って善しとすれば必ずこれを反せしめ(繰り返させ)、而る後、これに和す(いっしょに歌う)」(述而第七179)のを常とした。では、最高の音楽とは何なのか。

「「詩経」に三百篇あるが、一言でいえば、心に邪念がない、といえる」

「子曰く、詩三百、一言にしてこれを蔽えば、曰く、思い邪なし」(為政第二18)であって、彼は人間の自然な感情の流露の中に、美と善の調和を見たのである。

 

 

 

したがって、孔子が教育を「詩ではじまり、礼で外的規範を正し、音楽で調和的完成に至る」

「子曰く、詩に興り、礼に立ち、楽に成る」(泰伯第八193)という順序だと考えて不思議でない。そして、この「詩・礼・楽」は戦後の受験教育では、ほぼ完全に無視されている。(略)」