「「秩序の基本」は「徳」にある
「政治的・社会的救済」となれば、それは当然に、「政治・社会はいかにあるべきか」「それを構成する個人はいかにあるべきか」に問題は集中する。
そして、その前提として「秩序の基本」は何かということになる。孔子はこれを「徳」に置いた。
「政を行うに徳をもってすれば、ちょうど北極星が自分の場所にじっとしており、多くの星がその方に向かって挨拶しているように、人心は為政者に帰服する」
「子曰く、政を為すには徳を以てす。譬えば北辰の其所に居りて、衆星の之に共うが如きなり」(為政第二17)
これが「為政以徳の章」で、しばしば徳治主義の基本と言われる言葉である。では、「徳」があれば何もしなくてよいのか。
「何もしないでいて、天下を治めた人は、あの舜(理想的天子)だろうか。彼は何をしたのか。姿勢を正しくして天子の南面の座にすわっていただけだ」
「子曰く、無為にして治まる者は、其れ舜なるか。夫れ何を為さんや。己を恭しくして正しく南面するのみ」(衛霊公第十五383)(略)
これらの言葉には、「徳治主義」なるものの基本的な考え方が表れているであろう。
そしてこれは、以後の中国の、また日本の、「秩序とは何か」の基本的発想となっている。孔子が乱世の人で「秩序」を探求したのなら、おもしろいことに「旧約聖書」のモーセも、またそうである。
彼も「出エジプト」をした烏合の衆に「秩序」を与えることが基本的な命題であった。
しかし、「秩序」の基本を何に求めるかとなると、モーセは孔子とはまったく違って、それを「契約」すなわち絶対者との契約に求めた。したがってそれから出てきた宗教は契約宗教であり、そこから出てきた社会は契約社会であった。(略)」