読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

コモンの再生

「「情理を尽くして語る」態度の欠如

 

祇園精舎の鐘の声」は「盛者必衰の理をあらわす」と言います。どれほど権勢を誇る政治家でもいつかは衰運の秋を迎えます。安倍政権も最終的には政策的な失敗によってというよりは、その「態度の悪さ」で国民的な支持を失ったのだと思います。

 

 

官邸前のデモに取材に行った方たちの話を聞くと、「怒りのあまり」デモに来たという人たちがずいぶん多かったそうです。不出来な法案や不適切な外交については「批判的になる」ことはありますけれど、感情的な「怒り」として表現されることはありません。

 

 

人が本気で怒るのは「人として許せない」という感じがしたときです。今の政権への国民の「怒り」は個別的な出来事に対してというものよりも、それを取り扱うときの政治家や官僚たちの「態度の悪さ」に対するものだと思います。なかなかこちらの立場や言い分を先方にご理解頂けないという場合、僕たちはふつう「情理を尽くして語る」ということをします。できる限りわかりやすく、論理的で、筋の通った話をしようとする。

 

 

でも、今の政権周りの人たちはこの「まことにわかりにくい話」を国民にわかってもらわなければならない立場にありながら、「情理を尽くして語る」という態度をとっていない。むしろ、木で鼻をくくったような無作法な態度に終始し、説明の手間を惜しみ、前後のつじつまの合わない話を平然と垂れ流している。

 

 

それは「そういう態度」をとっても誰からも叱責されない、誰からも処罰されないと思っているからです。たしかに、そういうことが5年間続きました。彼らの経験則は「腰を低くしたら相手がつけ上がる、だから、あくまで自分にはまったく非が鳴く、説明責任もないという態度で押し通した方がいい」と教えています。これまではそうやってうまく行った。だから、今回もそうする、と。(略)」

 

〇 内田氏は「態度の悪さ」と言っていますが、

平然と嘘をつき、ルールを守らず、ズルをする。更にその悪事を隠すためには何でもする。

人として最低です。一般人が、こんな態度をとれば、もうどんな仕事も続けられないと思います。私なら、こんな信用できない人とは、係り合いになりたくありません。

 

ところが、そんな人が総理大臣だというのです。

「情理を尽くして語る」ことで、なんとか国民に説明しようとしても、

犯罪者の言い訳にしかなりません。だから、説明から逃げるしかないのだと思います。

 

 

最初は安倍氏一人の問題かと思っていました。

ところが、菅氏もほとんど変わりませんでした。そして、岸田氏も安倍政権のやり方をしっかり踏襲しています。

安倍氏を護るために、周りの人々や組織全てが、「嘘をつき、ルールを破り、ズルをし、それを隠すためには何でもする」というやり方になっています。

しかも、絶望的なのは、そんなやり方が嫌だと思う真っ当な人は、このような組織の中には、居られないでしょう。

 

そうなると、私たちの国は、愚かな人々(大人の判断が出来ない人)がかじ取りをする国ということになります。この先のことを思うと、心配でたまらなくなります。

 

「(略)北朝鮮が瓦解した場合の最初の問題は難民です。でも、難民は寝る所を提供し、飯が食えれば、とりあえずは落ち着かせることができる。怖いのは軍人です。朝鮮人民軍は現役が120万人、予備役が570万人います。兵器が使える人間、人殺しの訓練をしてきた人間がそれだけいるということです。

 

 

イラクでは、サダム・フセインに忠誠を誓った共和国防衛隊の軍人たちをアメリカが排除したために、彼らはその後 IS(イスラム国)に入ってその主力を形成しました。共和国防衛隊は7万人。朝鮮人民軍は120万人、その中には数万の特殊部隊員がふくまれます。

 

 

テロと謀略の専門家を野放しにした場合の治安リスクの大きさは比較になりません。(略)

ですから、リビアイラクがそうでしたけれど、どんなろくでもない独裁者でも、国内を統治できているだけ、無秩序よりは「まだまし」と考えるべきなのだと思います。

今のところ国際社会もそういう考えのようです。とりあえずは南北が一国二制度へじりじりと向かってゆくプロセスをこまめに支援するというのが、「北朝鮮というリスク」を軽減するさしあたっての一番現実的な解ではないかと僕も思います。(2017年9月29日)」

 

「「大人」が「子ども」のしりぬぐいをする

 

政治的理想の実現をこれまで阻んできたのはその非寛容さだと僕は思います。わずかでも自分の意見に反対する人間、同調しない人間に対して理想を語る人間たちが下す激烈な断罪。それが結果的に「人間が暮らしやすい社会」の実現を遠ざけてきた。

 

僕は別に人間の弱さ、邪悪さを放置しろと言っているわけではありません。そうではなくて、それは処罰や禁圧の対象ではなく、教化と治癒の対象だと申し上げているのです。場合によっては、罰するよりも、抱きしめてあげることによって暴力性や攻撃性は抑制されることがある。

 

 

全員が善良でかつ賢明でなければ回らないような社会は制度設計が間違っています。一定数の「大人」がいて、自分勝手なふるまいをする「子ども」たちの分の「しりぬぐい」をする。それが人間たちの社会の「ふつう」です。一方に身銭を切る人たちがいて、他方にそれに甘える人たちがいる。それは仕方のないことなんです。

 

 

彼らは悪人であるのではありません。たとえ老人であっても、権力者であっても、大富豪であっても、彼らは「子ども」なのです。全員が利己的にふるまっていては共同体は持たないということがまだわかっていないのです。その幼児性は処罰ではなく、教化と治療の対象なのです。

 

 

じゃあ、そのn「身銭を切る人」はどうやって担保するのか、と気色ばむ人がいると思います。おっしゃるとおりです。「大人」の確保を制度的に担保することはできません。(略)

できるのは、「大人」が愉快に、気分良くその「身銭を切る仕事」をしている様子を「子ども」たちに見せることだけです。それを見て「あれ、たのしそうだな」と思った「子ども」たちの中から次の「大人」が出てくるのを待つしかない。(略)

(2017年4月22日)」

 

〇 大人が子どもの尻ぬぐいをする社会については、同感したくなりました。

自分自身のことを振り返って見ても、子どもの部分はたくさんあり、今まで本当にたくさんの人に、その尻拭いをしてもらってきました。

悪意はなくても、結果として悪いことをしてしまったということは、

ありましたし、これからもあると思います。

 

でも、この具体例として、考えてしまったのが、安倍氏のことです。

安倍さんは、子どもだった。だから、平気で嘘をつき、ルール破りをし、それを誤魔化すためにはどんな汚い手も使った。

多分、実際に安倍氏は「子ども」だったのではないかと思います。

それほど、愚かしく見える。

 

でも、その尻拭いを、私たち国民が「大人になって」する、っていうのは、

どうなんだろう?と思います。

 

やはり、ここには、「正しいこと」と「間違っていること」を指摘し、判定する基準がなければならないと思います。それが本来は法や公序良俗の感覚だと思うのですが、その法まで子どもの愚かさで歪めてしまったのが、安倍氏です。

 

厳格に正義を振りかざし、追いつめるやり方が良くない、と内田氏は言います。

でも、正義はきちんとなければならないと思います。

それは、単なる言葉や規則のようなものではなく、もともとは、人の身になって考える想像力の行きついた先にあるものではないかと思います。

 

例えば私は以前、「シーラという子」の本から引用したことがあるのですが、

その後も、このシーンを何度も思い出します。

 

 

「「ピータ、あなたが人から臭いっていわれたらどんな気がする?」
「だって、この子ほんとにすごい臭いんだもん」ピーターは言い返した。
「そういうことをきいているんじゃないわ。人からそういうことをいわれたらどういう気がするってきいてるのよ」」


「「そうね。いい気持ちがする人は誰もいないと思うわ。じゃあこの問題を解決するのにもっといい方法って何かしら?」
「トリイが、誰もいないときに、臭いよってそっといってあげればいいんだよ」ウィリアムがいった。


「そうすればあの子ははずかしい思いをしなくてすむよ」
「臭くないようにすればいいって教えてあげれば」とギレアモー。」

 

〇こんな風に、「あなたが、△△△されたら、どんな気がする?」と自分の問題として考えて想像する「授業」が学校の中でもっともっとあるべきではないかと思います。

そうすれば、「あなたが、殺されたらどんな気がする?」という質問に対し、自分事として想像し、「殺人がなぜ悪いか?」についての答えも出るのではないでしょうか。

 

 

 

「「代わる人」が出てくる制度設計

 

それでも、フランスの場合は、最小限の「公共」は制度的に担保されています。基礎自治体としてコミューンというものが存在するからです。サイズは数十万人から数十人までさまざまですが、コミューンごとに市議会があり、市長がいる。なぜ面積も人口も違う行政単位が同格の基礎自治体になりうるかというと、それがカトリックの教区に基づいているからです。街の真ん中に教会があり、教会の前に広場があり、向かいに市庁舎があるというつくりはどのコミューンにも共通です。性的権威と世俗的権威が向き合っている。権力の古層と権力の新層が目に見えるかたちでそこに拮抗している。

 

 

日本の行政単位にはそのような文化的な支えがありません。明治政府の官僚たちが適当に境界線を引いて作った「机上の空論」だからです。

 

 

幕末に藩なるものは国内に276ありました。これを統廃合して、明治4年に1使3府302県に再編されました。そのわずか4か月後に今度は1使3府72県に縮減され、それでも多いというので、38府県にまで減らされ、明治21年にだいたい今のかたちに落ち着きました。(略)

 

 

 

幕末に「四賢侯」と呼ばれた藩主たちがいました。福井の松平慶永宇和島伊達宗城、土佐の山内容堂、薩摩の島津斉彬です。4人ともすぐに将軍に代わって日本を統治できるだけの実力と見識があった。藩は人材育成システムとしても、リスクヘッジ・システムとしてもきわめてすぐれたものだったということです。だから、明治維新のあと短期間に近代化することが出来たのです。

 

 

今の日本には、コミューンや藩のようなしっかりした自治単位がなく、権限は中央政府に集中しています。だから、中央でどれほど失政が続いても、「代わる人がいない」という理由で30%の国民が内閣を支持している。でも、「代わる人がいない」というのは制度設計が間違っているということです。(略)

 

 

地方自治体は中央政府に対して強い独立性を持つべきだと僕は思います。(略)でも、その目的は何よりも「公共に対する信認」を育てることです。周りの人たちを「同胞」と感じることができ、その人たちのためだったら「身銭を切ってもいい」と思えるような、そういう手触りの温かい共同体はどうやったら立ち上げることが出来るのか。この問いが今ほど切実になったことはありません。(2017年11月1日)」