読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

悪魔の陽のもとに

ジョルジュ・ベルナノス著「悪魔の陽のもとに」を読みました。

この作家を知ったのは、私がまだ二十代の頃、知り合いの牧師が雑談の折に、「田舎司祭の日記」という本を話題にしたことが印象に残っていました。

少し前にこの本を読み、ジョルジュ・ベルナノスに興味を持ちました。

 

カトリックの信仰がテーマになっていることもあり、わからないことや眠くなることも多かったのですが、「ムーシェットの物語」「絶望の誘惑」は、心に響く言葉も多く、読んで良かったと思いました。

 

でも、最後の「ランブルの聖者」は、読み終えるのに時間がかかり、最後はもうやめようかとも思いました。

 

心に引っ掛かった言葉を、少しだけメモしておきたいと思います。

抜き書きは「 」で、感想は〇で記します。

 

「「お前の生涯は、どれもこれも似通った、おまえたちの家畜が餌を食む秣桶とまさにおなじように低い、平板に生きられた他のもろもろの生涯の繰り返しなのだ。そうだ!

おまえの行為の一つ一つは、おまえが血を亨けた者たち、卑劣で、吝嗇で、卑猥で、嘘つきな人間たちのしるしなのだ。

 

 

私には彼らの姿が眼に見える。神がそれを見ることをお許しになったからだ。嘘偽りなく、私は彼らのうちにお前を見、おまえのうちに彼らを見た。おお!私たちがこの世で占める場所はなんと危険に満ち、なんと小さく、また私たちの通る道はなんと狭いことだろう!」(略)

 

 

マロルティ家、ブリソー家、ポリー家、ピション家などの人々の名が挙がった。

それらは、非の打ちどころのない商人たち、りっぱな主婦たち、おのれの財産を愛し、遺言を残さずには決して死なず、商工会議所や公証人事務所の誉とうたわれた、先祖の男たちや女たちであった。(おまえの叔母のシュザンヌは、おまえの叔父のアンリは、おまえの祖母のアデールとマルヴィナ、あるいはセシルは……)

 

 

しかし、その声が抑揚のない調子で語ったことは、ほとんどの人々の耳が聞いたことがなかったことだった。それは内側からとらえられた物語、完全に隠蔽され、秘密にされてきた物語であり、原因と結果、意図と行為とのもつれのなかに組み込まれたありのままの物語ではけっしてなく、根源的ないくつかの事実と母胎である過誤とに関連付けられた物語だった。(略)

 

 

 

何十人という男女が同じ癌の繊維で結ばれ、その怖ろしい縛めは、まるで断ち切られた蛸の脚のように、ついにはその怪物の中核そのものにまで、すなわち、誰にも気づかれずに、子どもの心の中にもひそんでいる原初の罪にまで収縮していった。そしてムーシェットは、彼女の自尊心が打ち砕かれたかの瞬間をも含めて、いまだかつて見たことがないようなかたちで自己自身を見たのである。(略)

 

 

彼女は血縁の者たちのうちにおのれの姿を認め、錯乱の極においては、もはや彼らの群れからおのれを区別することはできなかった。なんということだ!彼女の生涯のただひとつの行為といえども、ほかにその分身をもたぬものはないというのか?ただひとつの思念も彼女自身のものではなく、ただひとつの身振りも、久しい以前にすでになされなかったものはないというのか?似ているものはなかったにもかかわらず、それらはすべて同一だった。繰り返されたものはなかったにもかかわらず、それらはすべて一つのものだった。

 

彼女は自分を破壊しつくした明証のどれをも理解できる言葉で跡づけることはできなかったが、おのれの惨めな短い生涯のうちに、測り知れない瞞着と、瞞着する者の計り知れない哄笑とを感じ取っていた。どれも変わりばえのしない恥辱にまみれた、唾棄すべきそれらの先祖のひとりひとりが、彼女のうちに自分の財産の分け前を認め、嗅ぎつけて、それを要求しにやってきた。

 

 

彼女はいっさいを投げ与えた。いっさいを引き渡した。まるでそれらの人々の群れは、彼女の手の中から彼ら自身の生命を喰いにやってきたようだった。(略)」

 

 

「(略)われわれはもはや、奇跡を云々する時代には生きていない。むしろ、みんな奇跡を怖れているようだ。公共の秩序と関係があるんでね。行政機関はわたしたちをやりこめようと、その口実だけをうかがっている。そのうえ、彼らの言い草によれば _ 神経学とかいう科学が流行だ。書物を読むように人間の魂を読み取るなんていうおめでたい司祭 ……… いいかね、こんなのは病院行きだよ。(略)」

 

「(略)きみは、未経験で熱意が勝ちすぎたこと以外になんの罪も犯してはいないからだ。(略)」

 

「彼らは内的生活というものをどう処理してしまっているのか?本能の陰気な戦場としてだ。道徳は?感覚の衛生学としてだ。聖寵とはもはや、知性の興味をそそる合理的な推論にすぎないし、誘惑はそれを呼び寄せようとする肉体の欲望にすぎない。彼らはせいぜい、そんなふうに、われわれのうちでおこなわれている烈しい戦いのもっとも卑俗な挿話を説明するだけだ。

 

 

人間は快いもの、役に立つものしか追求せず、良心がその選択を導くものと考えられている。書物の中の抽象的人間、どこでも出会うはずのない平均的人間とかいうものが相手ならそれでもかまわない!だが、そのような子供だましではなにも説明できんよ。感覚と推理だけをそなえた動物どもの世界の中には、聖人のための余地はない。

 

 

ないしは、狂気のせいだと言いくるめておかねばならん。かならずそういう羽目になる。まちがいなしだ。だが、問題はそんなけちなことでは解決しない。われわれはだれでも —— いいかね、旧友の言う言葉をおぼえておいてくれたまえ! ―— かわるがわる、ある意味で犯罪人になったり聖人になったりするのだ。

 

ある時は、利益を正確に評価したうえではなく、全存在の飛躍、苦悩と放棄とを願望の目的とする愛の横溢によって、はっきりと独自なかたちで善のほうに運ばれるし、あるときは、堕落と、灰の味わいのする逸楽への謎めいた好み、動物性へのめまい、その不可解な郷愁によって責め苛まれるのだ。何世紀にもわたって積み上げられてきた道徳生活の経験などなにものでもない。

 

多くのあわれな罪びとたちや彼らの悲嘆の実例など何者でもない!いいかね、よくおぼえておきたまえ。悪は善とおなじように、そのもの自体のゆえに愛され、奉仕されるものなのだ。」

 

 

「文学の大学教授資格者でアカデミーの視学官であるロヨレ氏は、世間で評判になっているランブルの聖者に会いたいと思った。彼は娘と夫人を連れて、ひそかに聖者を訪ねた。彼は若干感動した。そして言った。「わたしは、物腰が上品で礼儀作法をわきまえた、いわば堂々とした人物を想像していた。しかし、あの司祭には品位がなかった。

 

 

彼は乞食のように大道でものを食べる……」さらにこうも言った。「あのような人間が悪魔を信じているとは、いかにも残念なことだ!」(略)

 

 

「魂の不可解な敵、強力で下劣な敵、壮大で下劣な敵が住まっている古い人間の心。その敵とは、否認された暁の星、リュシフェール、またの名は偽りの夜明けだ……

 

 

ランブルの貧しい主任司祭は多くのことを知っている!ソルボンヌが知らないことを知っている。書き留められもせず、ほとんど口にもされず、ふさがった傷口から引きむしられるように無理矢理に告白させた多くのこと—― 実に多くのことを!そしてまた、人間がなんであるかも知っている。

 

 

それは悪徳と倦怠に満ちた大きな子供にほかならない。

この老いた司祭が学ぶべき新しいなにがあろうか?彼はどれも似たり寄ったりの無数の生涯を生きたのだ。もはや彼はけっして驚くことはないだろう。彼はもう死んでもよい。まったく新しい道徳というものはあるが、罪を新しくすることはできないだろう。

 

はじめて彼は、神ではなく人間を疑っていた。(略)

世にあってはいかにも雄弁な多くの偽りの反逆者が、笑止千万にも彼の足元にひれ伏すのを彼は見てきたのだ。秘密をいだいて腐ってゆく多くの驕慢な心!怖るべき子供たちにも似た多くの老人たち!

 

 

そして、これらすべての者たちのうえに、冷たいまなざしで世を眺め、けっしてひとを赦そうとしない若い吝嗇漢たち。(略)」

 

〇 死刑制度について考える時、私はいつもこのことを思います。

私たちは誰も皆、大きな血筋の流れの中の一部分であり、状況によって、悪人にも善人にもなるのだろうと。

 

「われわれはだれでも —— いいかね、旧友の言う言葉をおぼえておいてくれたまえ! ―— かわるがわる、ある意味で犯罪人になったり聖人になったりするのだ。」

 

そんな「動物」でしかない私たちが、たまたま置かれた状況が幸運で、犯罪人にならなかったからといって、不運で犯罪人になった人間を殺せ!と言えるのだろうか、と。

 

もし、本当に本当にその犯罪を憎むのであれば、その不運な状況を変えることに尽力する方がずっと公正なのではないか、と。

 

 

「彼の最後の言葉は発せられなかった……。無数の槍に突き刺されたこの老闘技者は、弱い者たちのために証言し、裏切りと裏切り者の名を告げている……。ああ!相手たる悪魔は、言うまでもなく、狡猾でみごとな嘘つきであり、栄光を失ったあとも頑迷なこの反逆の天使は、うなだれてもの思う人間の群れを軽蔑し、その奸策のすべてをつくして、彼らを思うままにけしかけたり、繋ぎ止めたりしている。

 

 

だが、彼のつつましい敵はそれに立ち向かい、怖ろしい嘲罵の叫びの中でも頑強に頭を振っている。どのような哄笑と叫喚の嵐とをもって、勝ち誇った地獄は、ほとんど理解できぬ無邪気な言葉、芸のない混乱したそんお弁論を迎えることだろうか!だが、それがなにになろう!天空が永遠に覆い隠すことのないその声をもうひとりのお方がきいておられるのだから!

 

 

 

主よ、わたしどもがあなたを呪詛したというのはまことではございません。どうか、かの嘘つき、かの偽りの商人、かの取るにたらぬあなたの競争者がむしろ滅びさりますように!(略)

 

 

わたしどもの知性は鈍く、凡庸で、わたしどもの盲信は限りありませんが、その反面、かの狡猾な誘惑者は金の舌を持っております……。かの者の口にかかると、ありふれた言葉も彼の好む意味を帯び、世にも見事なその言葉はますますわたしどもを踏み迷わせるのです。(略)

 

 

人間という種族がみずからを表現しうるのは、ただその苦悩の叫びを通じて、途方もない努力によってその腹から絞り出される悲嘆を通じてにほかなりません。あなたはわたしどもを、パン種のように深いところに投げ入れられました。

 

 

罪ゆえに私どもから奪い取られた世界、それをわたしどもは一歩一歩奪い返し、世の最初の創造の朝、秩序と聖性のうちに受けたまま姿で、あなたの手にお返しするでしょう。主よ私どもに対しては時を計りませんように!わたしどもの注意はながつづきせず、私どもの精神は、たちまちあらぬ方にそれてしまうのです!

 

 

たえず眼は、右や左に不可能な出口をうかがい、たえずあなたの働き手のだれかれは、道具を打ち捨てて立ち去ります。しかし、あなたの憐れみはけっして倦むことはありませんし、いたるところあなたは、剣の切先をわたしどもに突き付けられるのです。逃げ去った者はふたたび仕事に戻るか、さもなければ孤独のなかで滅び去ります…。

 

 

ああ!あれほど多くのことを知っているかの敵もこのあなたの憐れみだけは知らないでしょう。人間のうちもっとも卑しいものも、おのれとともに一つの秘密、浄化作用としての有効な苦しみの秘密を宿しているのです……。なぜなら悪魔よ、おまえの苦しみは不毛だからだ!(略)

 

 

おまえはわたしと共に苦しみ、わたしと共に祈っていた。ああ、考えるだに怖ろしいことだ!あの奇跡さえも…。だがそれがなんだろう!それがなんだろう!わたしを裸にするがよい!わたしからなにも残さぬがよい!

 

 

だが、わたしのあとにひとり、そしてまたひとり、年々、だれかが十字架をいだきながが同じ叫びをあげるのだ…。わたしたちは、善男善女たちが絵の中で眺め、哲学者たちでさえその雄弁と頑健さとを羨むといった、金色の髭を生やした赭ら顔の聖人ではない。私たちの分け前は世の人たちが想像しているようなものではないのだ。その苦しみに比べたら、天才の苦しみなどつまらぬ遊びにすぎない。

 

 

主よ、みごとな生涯はすべて、あなたの証です。しかし、聖人の証は、いわば剣によってえぐり取られたものなのです。

 

 

 

おそらく、この地上において、ランブルの主任司祭が審判者なる神に向かって発した最後の訴え、そして彼の愛に満ちた糾問はこのようなものだっただろう。(略)」

 

 

〇 途中何度も眠くなりながらも、一応最後まで読みました。

でも、カトリックキリスト教文化の中で育っていない私には、最後まで違和感があったのが、何故このランブルの主任司祭が聖人とされたのか、ということです。

それが知りたくて読んでいた部分もあったのですが、全くわかりませんでした。

 

 

また、いつか読み直してみたいと思います。