読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

論語の読み方 ― いま活かすべきこの人間知の宝庫 ―

「いずれの国、いずれの時代、いずれの体制であれ、秩序は常に形を伴う。

いわばこれが「礼」である。それは共産圏であれ同じであって、だれかがレーニン廟の上に立って私これを共産党政権が如何とも出来ないなら、その体制は完全に崩壊したと見てよい。」

 

〇 ここを読みながら、先日の安倍元首相の国葬儀のことを思い出し、次のように読み替えていました。

 

民主主義国家において、首相は国葬にすべきではないという判断を、長年受け継いできているにも関わらず、更にその時点でも、多くの国民が反対しているにも関わらず、閣議決定で、それを強行し、これを国民が如何とも出来ないなら、民主主義体制は、完全に崩壊したと見てよい。 …と。

 

ある意味、棚から牡丹餅的に、形だけ体裁を整えていた民主主義体制を、本当の民主主義体制にするには、私たち一人一人が本気で闘い続けなければならないのだと、今、ヒシヒシと感じています。

 

「七十三歳の孔子には、これはショックであったであろう。その翌年、前四七九年、七十四歳で世を去った。しかし、曲阜の孔子の学園はつづいた。その弟子と孫弟子とが編纂したのが「論語」であり、これは一言でいえば、孔子学園における師と弟子との対話集・対論集だといえる。

 

 

 

そしてこの「論語」は中国の長い歴史の間に延々と読み継がれ、また、中国文化圏といえる世界で読み継がれた。日本もその一国である。この対話・対論集の歴史の長さと影響力は、西欧におけるプラトンの「対話篇」以上だといえる。(略)

 

 

この意味では、孔子はけっして「貴族趣味」ではなく、庶民の中から教育によって社会的責任を荷える人を養成しようとしたのだと言える。(略)」

 

 

「晩年の孔子は、いわば「孔子学園」の学長だから、「論語」を強いて分類すれば「教育書」に入れられるであろう。(略)

 

「人は教育によって善とも悪ともなるのであって、人間の種類に善・悪があるわけではない」

「子曰く、教有りて類無し」(衛霊公第十五417)

(略)

 

 

日本人は大体において、教育によって人は善くも悪くもなると考えており、この考え方は徳川時代に深く広く浸透した。徳川時代には「識字率五割」という、同時代の世界ではおそらく最高の水準と思われる教育が普及したが、この背後には「有教無類」があったであろう。と同時に儒教は「生涯教育」であり、「秘伝を授ける」とか「奥義を伝授する」とかいった考え方、同時に「それで卒業」という考え方がなかったことも影響していると思われる。

 

これが神道と違う点だということを、山崎闇斎(江戸時代の儒者)の弟子の佐藤直方は次のように述べている。(略)」

 

「生まれつき道を知る者がいれば最上。学んでそれを知るのが次。行き詰って必要を感じてから学ぶのがその次。そうなっても平気で学ぼうとしないものは最低」

 

孔子曰く、生まれながらにしてこれを知る者は上なり。学びてこれを知る者は次なり。(くる)しみてこれを学ぶはまたその次なり。(くる)しみて学ばざるは、民これを下となすと」(季氏第十六429)

 

〇「学ぶ」=「学問」と考えると、それぞれの分野の学者は、貴重な専門的知識をもっているわけで、その知識をしっかり伝えてもらい、社会に活かしてもらうことは、

多くの人間が「学ぶ」ことに繋がると思います。逆にそれをしないことは、真理に目を瞑ることになり、「下」「最低」になると思います。安倍・菅政権が何故、学術会議を

潰そうとしたのか。「道」を学ぼうとする真摯な勢力が、自分たちの行う、道から外れた政治の邪魔になるから、と考えたのだと思います。下で最低の人々です。

 

「(略)

そしてこのことは、「論語」の中の「学ぶ」を追っていけば自ずから明らかになる。そして「学ぶ」ことへの孔子の態度は「論語」の冒頭の、

 

「子曰く、学びて時にこれを習う、亦説ばしからずや。朋、遠方より来る有り、亦楽しからずや。人知らずして慍みず、亦君子ならずや」(学而第一1)

 

「学んだことを常に復習し、実習すると見につく。なんとうれしいことではないか。そうしていると遠方から同学の士が訪ねて来てくれる。それと話し合うのはなんと楽しいことではないか。そして世人が自分を認めてくれなくても、不平不満を抱かない。なんと立派な人間ではないか」

 

に集約されている。(略)

 

 

「(略)

このように見て行くと、孔子とは学問一点張りで、無学なものを軽蔑していたかのように誤解されやすい。だが孔子は、たとえ学問はしなくとも立派な社会人は立派と見、そういう人は学ばずとも学ある人と見ていた。

 

 

これでみると孔子の「下愚」とは、けっして学問のない者の意味ではないし、孔子の言う「学問をした人」は、けっして「高学歴の人」の意味ではない。(略)

 

 

「「易(とかげ)の色は賢々として周囲に応じて変わるもの、という古語がある。これは人間が、父母に仕える時には(孝子となって)その力のある限りを尽くし、君に仕える時には(忠臣となって)その身命すらも捧げ、朋友と交わる時には(親友となって)言ったことには責任を持つ事の譬である。

 

 

 

このような人は、もし学問をしたことがないと世間から見なされていても、私ならば、そういう実践こそが学問で、この古語の意味を真にわきまえた人だと断言して憚らない」

これは子夏の言であるが、世間の一般通念として学問をしたと言えない人でも、その行為が道に叶っていれば、それこそ学問したと言えるという、この発想はきわめて論語的な発想である。

 

 

まことにこれは孔子思想の最も鮮やかな特色であって、論語の中で随所にそれが見られる。実はこのような伝統的な、何気ない言葉に新しい解釈を吹き込んで教え、同じように、人生の目的、人間の生き方にも、この新しい言葉の概念によって指標を示したところに儒教が誕生したのであった」

以上の言葉は、孔子の次の言葉に対応するであろう。

 

 

「(修行中の)若者は、家庭では孝行、社会に出ては奉仕につとめ、注意深くして約束を守り、多くの人々と親睦する中でも誠実な人を選んで昵懇にし、実践した上の余禄をもって、教養を高めるが良い」(宮崎市定訳)

 

「子曰く、弟子、入りては即ち孝、出でては即ち悌、謹しみて信あり、汎く衆を愛して仁に親しみ、行って余力あれば即ち以て文を学べ」(学而第一6)(略)

 

「無学歴の立派な社会人に会い、一方で学歴社会である現代の日本を思うと、この孔子の言葉は様々な意味でわれわれに迫ってくる。おそらくわれわれは「社会人としての学問」について何か誤っているのであり、それは孔子の考えた「教育」が消えてしまったことを意味している。(略)

 

 

孔子にとって「学ぶこと」は象牙の塔にこもることでなく、学んだことを社会に生かすことだから、就職は当然であった。」

 

「だが、この「有教無類」は前述のように、「一律平等教育」だということではない。

孔子の弟子には様々な人がおり、孔子はその一人ひとりをよく見ていた。

 

「柴(子羔)は馬鹿正直で融通性がない。参(曾子)は少々鈍で呑み込みが遅い。師(子張)は片寄ったところがあって誠実さが足りない。由(子路)は無骨もので雅がない」と。

 

「柴や愚なり。参や魯なり。師や辟なり。由や喭なり」(先進第十一271)

 

そこでそれぞれの特徴に従って教育するから、極端な例を挙げると、孔子は弟子によってまったく反対のことを言っている場合がある。

(略)

 

 

いわば、相手に応じてそれぞれに教えることが孔子の教育であった。これが本当の平等教育であろう。いわば、各人にちょうどいい靴を与えるのが平等であって、靴を固定して、昔の日本軍のように「靴に足を合わせろ」は平等ではない。いまの日本の平等教育なるものは、孔子から見れば、ひどい不平等教育であろう。」

 

「どうしたらいいか、どうしたらいいかと自ら解決を求めない者は、私もどうしたらよいかわからない」

「子曰く、これを如何せん、これを如何せんと言わざる者は、われこれを如何ともすること未きのみ」(衛霊公第十五394)— これはおそらく弟子への激励の言であろう。と同時にそれが、自ら「啓発」を拒否し、一生それを続けてきた原壌への怒りとなっているのであろう。こうなると「下愚」とは「自ら意識的に啓発を拒否しているすねもの」の意味になってくる。(略)」