読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

国体論 ー菊と星条旗—

「2 異様さを増す対米従属

▼ 収奪攻勢としてのグローバリゼーション

(略)

これらすべては、「グローバリゼーションへの対応・推進」の名の下に、アメリカに本拠地を持つ場合の多いグローバル企業が日本の企業へ参入する道筋をつくるものだった。(略)

つまり、国民生活の安定や安全に寄与するための規制や制度すべてが、論理上、この「障壁」にカテゴライズされ得るのである。この延長線上で今日懸念されているのは、たとえば、日本の国民皆保険制度に対する攻撃である。(略)

 

 

 

しかし、日本の場合、際立っているのは、こうした動向に対する批判の声があまりにも小さいことである。たとえば、大手新聞メディアにしても、TPPをアメリカあるいはグローバル企業による新たな収奪攻勢としてとらえるという論調は、ほとんど見られなかった。(略)

 

 

そしてその挙句に、アーミテージ=ナイ・レポートのごとき、公然たる内政干渉が大した違和感もなく通用する(政権の政策と一体化する)という状況が、二〇〇〇年代以降通常のものとなった。

 

 

 

▼ 対米従属の逆説的昂進

ひとことで言えば、「異様なる隷属」である。再びアリギを参照するならば、こうした状況に至る前には、次のような段階があった。

 

 

親米的な自民党政権のもとでさえも、日本はアメリカの命令に従う理由をみつけるのが、ますます困難になっていた。(略)

 

 

だが、アリギも見通せなかった驚くべきことは、紆余曲折を経ながらも、結局のところ、自民党を中核とする日本の政治権力は、「アメリカの命令に従う理由をみつける」ことに狂奔し、それに成功してきた、ということだ。(略)

 

 

 

そして、脱対米従属を志向した鳩山民主党政権の成立は、その過程における例外的な事例であったが、結果としてそれは、対米従属をこれまでになく露骨に強化する激しい反動を呼び起こすこととなった。

 

 

 

▼ 軍事的従属

なぜこうした異様な事態が生じるのか。頻繁に口にされる標準的な答えは、軍事的従属のためというものである。(略)

 

 

 

イラクのごとき重要な産油国が石油取引の通貨をドルから切り替えることは、この制度に対する挑戦を意味し、ドルの基軸通貨としての地位を脅かす。アメリカの官民の負債が増え続けるなかで、米ドルの価値が崩壊するのではないか、という懸念はすでに長い間ささやかれてきた。この憂いを絶つために、アメリカはイラク戦争を決行してフセイン政権を打倒した、と見られているわけである。

 

 

 

この見方が正しいとすれば、アメリカの巨大な軍事力は、常に財政状況を圧迫する火種であると同時に、アメリカにヘゲモニー国家としての地位を保たせている究極の要因である。」

 

 

 

国体論 ー菊と星条旗—

「▼なぜアメリカから日本にヘゲモニー交代が起きなかったのか

問題は、この過程がどのように日本の「戦後の国体」に作用してきたのか、そして逆に日本の存在がこの過程にどのように作用してきたのか、ということである。

 

 

 

ウォーラースティンを筆頭とする世界システム論者は一時、アメリカの衰退と日本経済の上昇によって、世界資本主義の歴史におけるヘゲモニー国の交代が、アメリカから日本へというかたちで起こる可能性を指摘していた。しかし、現実にはそれは起こらず、彼らは今日ではそうした見解を事実上完全に取り下げている。(略)

 

 

 

ジャパン・アズ・ナンバーワン」とまで言われ、日本の経済的優位が絶頂を迎え、日本からアメリカへの資本移動が盛んにおこなわれた一九八〇年代に関して、アリギは次のように述べている。

 

 

(略)

第一次、第二次世界大戦中のアメリカの対英経済支援と、第二次冷戦期の日本の対米金融支援の最大の違いは、その結果にある。アメリカは膨大な利益を獲得したが、日本の場合、そうはいかなかった。

 

 

ふたつの世界大戦を通じて起きたイギリスからアメリカへのヘゲモニー国の交代においては、「アメリカの金融資本は最後まで、崩壊しつつあったイギリス世界市場システムを守ろうとした」にもかかわらず、アメリカで生まれた組織化におけるイノベーションの産物である「垂直統合官僚主義的経営・多単位構成型の企業体」が、世界中の私情で覇権を握り、莫大な利益を上げるようになった。

 

 

 

これに対して、アメリカから日本へのヘゲモニー交代が起こらなかった最大の理由を、アリギは一九八五年九月のプラザ合意以降のドル価値の切り下げに見出している。レーガン政権は、財政が悪化するなかで減税と軍拡を行なったが、それを大量の米国債購入によってファイナンスしたのは日本だった。

 

 

そして、「強いドル」政策は放棄され、ドル価値は下落する。プラザ合意当時、一ドル=二四〇円であった為替レートは、一九八七年二月には、一ドル=一四〇円台に到達した。つまり、為替レートの変動を通じて、アメリカの借金は棒引きされたのである。

 

 

 

▼経済的敗戦

アリギはさらに、日本の資本が対米進出した際に直面した文化的および政治的困難に言及している。(略)

これらの過程は、日本では「マネー敗戦」(吉川元忠の著書タイトル)として九〇年代末に大衆的な注目を集めた。(略)

 

 

▼「日本のアメリカ」という倒錯

異常なのは、日本の資本が利益を追求しなかったことだけではない。日本の政治も経済も、単に利益を上げることに失敗しただけでなく、戦後日本の政治経済的利益を支えてきた構造を自ら進んで破壊したと言える。

 

 

 

その構造とはもちろん東西冷戦構造であり、レーガン政権による冷戦再燃政策は、ソ連を再び軍拡競争へと引き込み、崩壊へと導いたが、その財政的なお膳立てをしたのはほかならぬ日本だったからである。(略)

 

 

 

 

つまり、「偉大なアメリカの回復」という観念を四〇年間近くにわたってアメリカが弄ぶことを可能にした要因 ― 少なくともその一部 ―は、日本の自己犠牲的な献身であった。

 

 

 

われわれはここに、「国体の弁証法」を見ることができるだろう。

「戦前の国体」は「天皇の国民」から「天皇なき国民」を経て「国民の天皇」という観念に至ったが、同様に、「戦後の国体」は、「アメリカの日本」から「アメリカなき日本」を経て「日本のアメリカ」へと至った。すなわち、「日本の助けによって偉大であり続けるアメリカ」を生み出した。

 

 

 

そして、「戦前の国体」が「国民の天皇」という概念によって支えられることによって自己矛盾に陥り、崩壊したのと同じように、「日本のアメリカ」もまた自己矛盾を深めて来たのである。」

 

 

 

国体論 ー菊と星条旗—

「第八章「日本のアメリカ」 ― 「戦後の国体」の終着点

      (戦後レジーム:相対的安定期~崩壊期)

1 衰退するアメリカ、偉大なるアメリ

▼ 衰退するアメリカとヘゲモニー維持の謎

世界システム論の論客に、経済史家のジョヴァンニ・アリギがいる。彼の主著「長い20世紀」は、ルネサンス時代以来の近代資本主義において、政治権力がどのように資本と結合し、あるいは分離してきたのか、またその二者の関係が歴史的にいかにして展開してきたのかを追ったものであり、より具体的には、軍事大国スペインを財政的に支えたジェノヴァ、オランダ、イギリス、アメリカという順でヘゲモニー国が遷移して行った歴史過程とそのん内的論理を追跡している。(略)

 

 

 

 

アメリカがふたつの世界大戦を通じて確立したヘゲモニーは、一九七〇年前後に、明白に揺らぎを露呈し始めた。それは三つの分野で現れた。(略)

 

 

軍事的に、米国はベトナムで深刻な状態に陥った。財政的には、アメリ連邦準備制度理事会は、ブレトン・ウッズで確立した世界資金の生産と規制の様式を維持していくのが難しくなり、次いでは不可能となった。イデオロギー的には、アメリカ政府の反共十字軍が国内外で正統性を失い始めた。(略)

 

 

 

アメリカ内の支配者集団は、もはや自分たちで世界を統治出来ないから、世界は自主管理でいって欲しいといっているかのようであった。その結果、まだ戦後の世界秩序で残っていたものまでもが、いっそう不安定となった。(略)

 

 

本書で論じてきた日本の近代後半の第一期(国体の形成期)から第二期(国体の相対的安定期)への転換は、実にアリギの記した右の文脈において生じた出来事であった。(略)

このように、いまからすでに四〇年以上も前からアメリカの超大国としての地位がはっきりと揺らぎ始めていたにもかかわらず、その地位がいまだに決定的には失われてはいないことは、あらためて驚くべき事実である。

 

 

 

▼ アメリカが日本に与えたもの

そして、そのアメリカのヘゲモニー維持の理由のひとつが、ほかならぬ日本である。(略)

対ソ戦略に加え、「中国封じ込め政策」という大方針があったからこそ、戦後日本に対してアメリカは寛大な保護の庇を政治経済の両面で積極的に差し出した。アリギは言う。(略)

 

 

 

このようにして、日本はアメリカの覇権下で、経済的背地を何のコストも払わずに獲得した。この後背地は、二〇世紀の前半に日本が領土の拡大で獲得することを目的とし、そのためにあれほど懸命に戦ったものであるが、最終的に第二次世界大戦での惨敗で失ったものである。

 

 

戦後の日本にとって生じたことはきわめて逆説的であったとアリギは指摘している。つまり、あの戦争での勝利を通じて獲得ないし防衛しようとしたものを、戦争に負けることによって獲得した。アメリカが戦後日本に与えたのは、民主主義のみではなかった。(略)

 

 

 

アメリカの反共主義政策の展開は、大枠で言えば、一九六〇年代に深刻化した中ソ論争を機として中国への接近を図ることで、中ソの離反を促進し、ソ連への圧力を高め、その延長線上で一九八九年以降のソ連軍東欧圏の崩壊を導いた。米中国交正常化は、このプロセスの始まりを印すものだった。

このプロセスの進展に伴って、アメリカが日本の寛大な保護者の役割を果たす具体的理由が失われてゆく。

 

 

 

▼「偉大なアメリカの回復」

かくして、アメリカにとっての一九七〇年代は衰退の雰囲気が濃厚な暗い時代となったが、この延長線上に今日のトランプ政権の「偉大なアメリカを取り戻す」のスローガンも理解されるべきだろう。(略)

 

 

 

かくして、結局のところ、経済軸で言えば、製造業の競争力回復ではなく、資本主義の金融資本主義化が「偉大なアメリカの回復」の手段となった。(略)

ネオコン派によって支配され、キリスト教原理主義者勢力によって支持された子ブッシュ政権の「先制攻撃ドクトリン」と、それに基づくイラク戦争アメリカの国際的信頼性を著しく棄損するなかで、金融資本主義化はその矛盾を露呈し、二〇〇八年のリーマン・ショックを引き起こす。(略)

 

 

 

それは、「アメリカの偉大さ」が現に失われていることに対する痛切な意識がアメリカ国内に広まっていることを物語っているし、「アメリカの偉大さ」に翳りが見え始めた一九七〇年から五〇年近く経とうとしているにもかかわらず、この観念はいまだに見捨てられていないことをもまた、物語っている。」

 

 

国体論 ー菊と星条旗—

「▼ 磯部浅一における国体

青年将校のうちで北一輝の理論を最も強く信奉していたと見られる磯部浅一は、天皇が自分たちに共感するどころか激怒していることを知り、「獄中手記」

に、天皇への激しい呪詛の言葉を書き連ねることとなる。(略)

 

 

磯部浅一が遺した猛り狂ったテクストは、後に三島由紀夫をも魅了することとなる。

三島が言うには、磯部の「最も忠良なる天皇の臣」から「国体への叛逆者」への転身は、国体概念そのものに含まれた二重性がもたらしたものだった。

その二重性とは、ほかならぬ本書で論じてきた、明治憲法における「天皇機関説の国体」と「天皇主権説の国体」である。(略)

 

 

 

 

その結果、あらためて神聖化された国体は、「道義」の名において(大東亜共栄圏、八紘一宇)、無謀極まる戦争を決行し破滅する。

 

 

▼「国民の天皇」が挫折し、「天皇の国民」に回帰する

北一輝の「国体論及び純正社会主義」は、これとは全く逆の「密教による顕教征伐」の試みにほかならなかった。してみれば、北=磯部において、天皇信仰が「近代的民主国日本の完成」の大義に勝るはずがなかった。

 

 

しかし、三島の見るところ、天皇が「変革のシンボル」たりうるのは、天皇が「国家機関としての天皇」として現れる時ではもちろんなく、「道義国家」の首領として現れる時である。この時にこそ、「天皇信仰自体が永遠の現実否定」たりうるのであり、その近い起源は幕末の尊皇攘夷イデオロギーにあるという。

 

 

 

つまり、まとめるならば、北=磯部の抱え込んだアポリアとは、機関説的天皇(国民の天皇)を実現するためには、「神聖にして侵すべからざる」天皇を奉じなければならないという矛盾であった。(略)

 

 

 

生命を賭けた磯部らの行動は、無論「道義」によって動機づけられていた。そして、その動機の調達先は「天皇信仰」という「土人部落」のイデオロギーであるほかなく、天皇への「恋闕」の情を燃料として、天皇自身による国体の変革を期待した行動へと踏み出した。

 

 

 

ここにおいて、北=磯部は「近代的民主国日本」を実現するという「道義」と、天皇が天壌無窮に統治する国であることそのものが「道義」である、という実際は別物である二つの道議を強引に結合させた。

 

 

 

後者の道義は当然内容的には無であり、実質的には天皇との距離が道義の所在を決めることとなる。体現する道義が実質的に優れているから天皇を獲得できるのではなく、「玉を握っている」ことそのものが道義の究極的根拠となるのである。(略)

 

 

 

▼ 昭和天皇は何に激怒したのか

それにしても、二・二六事件の時、昭和天皇は一体何に対して激怒したのであろうか。

天皇は、事件を指して「日本もロシヤのようになりましたね」と側近に語ったと伝えられるが、それは本質を衝いていた。(略)

 

 

 

逆に言えば、「朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス」の言葉に明瞭に表されているように、天皇にとっては、自らに距離の近い者を害することが、その理由の如何を問わず、絶対に許し得ないことだった。

したがって、「天皇との距離の近さ」が国体の「道義」の源泉なのである。(略)

 

 

 

しかし、時によっては、「忠義」の名のもとに、国民は天皇のあずかり知らない所で「道義」を打ち立て、それに基づいて行動する。言い換えれば、主体性を持ってしまう可能性があることを、二・二六事件は示した。

天皇が激しく嫌悪し、避けようとしたのは、まさにそのような事態だったのではないか。(略)

 

 

拒否権の発動はより悪い結果をもたらしたに違いないという推論は、当たっているのかもしれない。それは賢明な認識であったとすら言えるのかもしれない。

しかし、仮にこの推論が正しかったとすれば、一体、この天皇の帝国はどんな国だったというのだろうか。そこには天皇にしか道義がない、生身の天皇の他にどこにも道義があることを期待できない、そんな虚しい国であったことを、天皇自身が証ししているのではないのか。(略)

 

 

敗戦後に太宰治はこう書いている。「東條の背後に、何かあるのかと思ったら、格別のものもなかった。からっぽであった。怪談に似ている」。その空っぽの場所は、埋められることを待っていた。「青い目の大君」が―すでに見たように、まさに天皇との距離を縮めることによって―それを果たしたのである。」

 

 

 

 

国体論 ー菊と星条旗—

「5 北一輝と「国民の天皇

北一輝明治維新観と天皇制論

天皇制=絶対主義という講座派の図式と、明治維新=市民革命という労農派の図式が対立するはるか以前に、労農派的な明治維新把握をきわめて徹底したやり方で打ち立てていた人物がいる。北一輝である。(略)

 

 

 

しかも、驚くべきは、北がこの理論の骨格を、大著「国体論及び純正社会主義」によって完全に打ち立てたのは、一九〇六年、北がわずか二三歳の時であった。(略)

 

 

「公民国家」とは、つまり近代国家であり、国家自体の独立自存のために君主も国民もその一員として行動する国家である。そこにおいては、「君主をも国家の一員として抱合せるを以て法律上の人格なることは論なく、従で君主は中世の如く国家の外に立ちて国家を所有する家長にあらず、国家の一員として機関たることは明らかなり」。ここから分かるように、北は徹底した天皇機関説論者であった。

 

 

 

北に言わせれば、明治維新による封建制の廃止から大日本帝国憲法の制定に至る過程を経て、日本の国体は紛れもない「公民国家」となったのであり、それにもかかわらず、万世一系の標語によって、あたかも日本の国土を天皇の所有物であるかの如くに論じる国体論は、人類の発展史に逆行する「復古的革命主義」なのであった。

 

 

このような北の明治維新観と社会進化論は、政治的にラディカルな含意を持つ。すなわち、国家が「公民国家」的状態を成立させ、さらにそれが一層高度化することによって、貧困が撲滅され、社会的平等が実現し、犯罪はなくなるという。さらには、このように解放された人間が個性を全面発達させて真善美を加え、ついには「人類は消滅して「神類」の世となる」、という希代の奇想家シャルル・フーリエを思わせる壮大なヴィジョンが語られる。(略)

 

 

▼「国体論及び純正社会主義」への反響

国体論及び純正社会主義」は、発刊五日後に発禁処分を受けるが、河上肇や福田徳三らから熱い注目を浴びる。(略)

こうした高い評価にもかかわらず、というよりむしろそれゆえに、北は要注意人物となり、社会主義者たちとの交流の為に、大逆事件でも逮捕される(後に釈放)。

 

 

 

超国家主義運動のバイブル

その前後から北一輝は、中国革命同盟会に加わり、釈放後には中国へ渡って辛亥革命に身を投じる。(略)

北は、日中の板挟みに苦悩するなかで、一九一九年、上海にて「国家改造案原理大綱」を執筆し、翌年帰国する。(略)

 

 

 

帰国後の北は、大川周明らとともに国家改造運動に携わり数々の陰謀に関与するが、その一方で、一九二三年に「日本改造法案大綱」と改題のうえ出版された「大綱」は、超国家主義運動のバイブルとなり、とりわけ陸軍皇道派青年将校たちを惹きつける。

 

 

その果てに起きたのが、一九三六年の二・二六事件であった。北一輝は、純然たる民間人であり、このクーデターには何らの具体的な関与をしていなかったにもかかわらず、逮捕され軍法会議にかけられ、翌年処刑された。

 

 

二・二六事件の「理念」

つとに指摘されるように、日本の昭和期ファシズムは、ドイツならびにイタリアのそれとは、相当に内実を異とする。最重要の相違は、明確なファシズム革命のようなものがなく、既存の国体イデオロギーがそのまま強化されるかたちで、超国家主義へと展開したという点にある。ゆえにそれは、「いわばなしくずしの超国家主義化」であったとしばしば評される。(略)

 

 

 

彼らの言う「妖雲」とは、いわゆる「君側の奸」、天皇の本来の徳政が実行されるのを私利私欲のために邪魔している重臣政党政治家・財閥・軍閥等々である。(略)

それは、大日本帝国の「天皇の存在を統合原理とする」という原則、もっと言えば「天皇だけが統治の正統性を担いうる」という国体の掟を侵さないかたちで―その掟と正面対決したコミュニストたちは挫折した―、統合の原理を実質的に変更しようとする試みであった。(略)

 

 

しかしながら、この心情に対する天皇の反応は、彼らにとってあまりに過酷なものだった。クーデターに対し、最も非妥協的で決然たる態度をとったのは、昭和天皇その人だった。(略)

 

 

昭和天皇が、その長い生涯においてこの時ほど強く怒りを表に出したことはおそらくなかった。」

 

 

 

 

 

 

 

(略)

 

 

国体論 ー菊と星条旗—

「4 天皇制とマルクス主義

▼急進化する大正デモクラシー治安維持法

(略)

一九二二年には堺利彦・山川均・荒畑寒村ら古参の社会主義者たちによって日本共産党が地下組織として結成されるが、その背景には、一九一九年にコミンテルン第三インターナショナル)のソヴィエト連邦の後ろ盾による形成があった。社会主義は、ごく一部の先鋭なインテリのみによる、確たる社会的基礎を持たない運動ではなくなったのである。

 

 

 

そしてその運動に、本来、天皇制国家の中核を担うべき存在であるはずの東大法学部の若者たちが雪崩を打つように身を投じてゆく。このことが国家支配層をどれほど恐怖せしめたかは、後代の想像を絶するものがあったであろう。一九二五年の男子普通選挙の実現と抱き合わせでなされた治安維持法の制定は、この恐怖の表現であった。(略)

 

 

 

コミンテルン国体

他方、コミンテルンでニコライ・ブハーリンが起草した一九二二年の日本共産党の党綱領草案には、「君主制の廃止」が盛られていた。そして、社会主義者共産主義者にとって、天皇制との対決は、コミンテルンから発せされるテーゼ(闘争方針の指令)と絡んで、複雑な問題となってゆく。(略)

 

 

とりわけ政治戦術論上の主要敵とされたのは、古参の社会主義者として強い影響力を持っていた山川均であったが、山川の組織論によれば、共産党は無産者階級のうちで最も先進的な分子を中核として遅れている大衆の意識を引き上げるものでなければならない、とされた。この山川理論を福本は否定し、前衛党たる共産党は、一旦大衆から分離して、「階級意識」を純化した後に大衆と結合しなければならないとする「分離ー結合」論を唱えて支持を得た。

 

 

 

しかし、一九二七年にはコミンテルンから新たなテーゼが発せられ、そのなかで福本イズムは、セクト主義であり「レーニン主義の漫画」であると酷評されてしまう。結果、福本和夫は党指導部を追われる。(略)

 

 

 

三二年テーゼの見方によれば、明治維新は市民革命的性格を全く欠いている、あるいは無視しうるほどわずかにしか含まず、維新が実現したのは絶対王政であった、ということになる。(略)

 

 

これに対して、三一年のテーゼ草案の見方によれば、明治維新以降の日本は曲りなりにも近代的原理によって支配された体制であるという現状認識が得られ、来るべき革命はプロレタリア革命である、ということになる。

 

 

このように重大な見解の変化が短期間になされた背景には、ソ連内部での権力闘争、つまり日本の実情とは何の関係もない事情があったと目されるが、日本共産党は三二年テーゼを受け入れることとなる。

 

 

 

福本イズム以来の共産党は、西洋直輸入の「最先端の理論」とコミンテルンからの指令に右往左往する事大主義をさらけ出したが、それは共産党が本来立ち向かうべきものだったはずの明治以降の「国体」と同様の表層的近代性という罠に、自らがとらわれることにほかならなかった。

 

 

 

▼日本資本主義論争 ― 国体の「基礎」とは何なのか

とはいえ、このような混乱から学術的に高度な論争が生まれることとなる。

(略)

また、この論争は「封建論争」とも別称される。なぜなら、一面で植民地帝国を築き高度に発達した資本主義社会となりながら、他面では原始宗教じみた天皇崇拝や地主ー小作関係において、封建社会に見られる経済外的強制に類似した関係性が残存するという日本資本主義の特殊性を、「封建遺制」としてとらえようとしたからであった。(略)

 

 

(略)

 

 

 

▼第二の自然と闘う困難と意味

ここには、現代にも通じる「天皇制と闘う」ことの困難が全面的に現れ出ている。なぜなら、天皇制もまた、福本の言う「階級意識」がありのままの無産者階級には存在しないのと同じ意味で、実存しないからである。(略)

 

 

その視点から見れば、天皇は「いかにも上品な、何やらありがたい存在」にほかならない。革命とは、個々の被搾取者が自らの境遇を相対的に改善することに満足せず、敵対性の根源を掴んでそれを絶つことである。ゆえに、革命を呼び掛けるマルクス主義が要求したのは、まさにこの実在性次元にある日常的な視線を捨てて、日本社会に内在する敵対性の根源を把握することであり、その把握から、派生的な個別の敵対性・搾取構造を位置づけることが展望されたのである。

 

 

 

その時、敵対性の根源として、すなわち搾取の構造全体を成立たしめる存在として、マルクス主義が名指ししたものが天皇制であった。(略)

 

 

つまりそれは、支配であることを否認する支配なのである。

かつ、論じてきたように、天皇制は、偏在するがゆえに不可視化されたシステムとして念入りに形作られ、圧倒的多数の日本人にとってほとんど「第二の自然」と化していた。

 

(略)

 

 

この視線にとっては対米従属の問題を声高に語る者は「異常な陰謀論者」に映る一方、対米従属の問題を諸々の問題を貫く矛盾の核心と見る者は、日常的な視線の次元にとどまる者たちを「寝ぼけた哀れな連中」と見なすこととなる。

筆者の議論がどちらの陣営に属するものであるかは言うまでもなかろう。(略)

 

ゆえに、喫緊の課題は、「敵対性の根源」「矛盾の核心」という観念を堅持しつつ、それを支配/従属の構造の全領域に偏在するものとして、把握することなのである。そこから、新たな集団的主体性が生まれうる。

 

 

▼国体に抱擁された転向者

「第二の自然」と化した天皇制に対して正面からの戦いを挑むという戦前共産党の戦術判断は、結果として、徹底的な失敗に終わった。

第一にそれは、治安維持法による過酷な弾圧を正面から受けることとなった。第二にそれは大衆への浸透力を全く持たなかった。

 

 

そして、その結果として第三に、獄中の指導者、佐野学と鍋山貞親が一九三三年に転向声明を発表し、この闘いは外側から崩されただけでなく、内側からも崩れ去ることとなる。(略)

 

 

 

そして、次のように言う時、佐野・鍋山は、公式の国体イデオロギーの前に屈したのであった。

(略)

 

 

戦後に吉本隆明が「転向論」で論じるように、彼らは、自覚的に自らをそこから引き離したはずの「大衆の実感」へと回帰した。公式イデオロギーが大衆の実感を作り出し、大衆の実感が公式イデオロギーを支えるという国体の循環構造から離脱し、それを切断すること― それが孤立を覚悟しなければならないものであったことは当然だった―こそ、コミュニストたることであったはずが、自らその循環構造へと巻き込まれ、国体によって抱擁されるに至った。(略)

 

 

 

党の最高指導部の態度変更は当然影響が大きく、獄中の党員たちは次々と追随する。ここに大逆事件以来の「国体 vs 社会主義」の対決は、国体の勝利によってひとまず決着された。

 

▼なぜコミュニストたちは国体に負けたのか

経済学者・青木孝平は、日本資本主義論争における国家論・天皇制論を総括して、次のように述べている。

 

 

〔講座派と労農派の]いずれも、大衆の反資本主義的怨恨(ルサンチマン)と軍部の疑似革命的エネルギーに支えられた天皇ファシズム固有の権力構造は、まったく解明の外にあったといわねばならない。

 

 

 

つまり、日本の天皇制を西洋史における絶対主義王政と同一視し、その正面からの打倒を呼び掛けた講座派は、なぜその「絶対主義」が外見的な超階級性を保持し、国民大衆からの支持を取り付けることができていたのかを解明することが出来なかった。

 

 

他方、労農派は、明治維新西洋史における市民革命と事実上同一視することによって、国体の特殊性を考察の埒外に置くこととなった。その結果が、来るべき天皇ファシズムを解明するに際しての両派の無力であったと、青木は結論している。(略)」

 

〇 なぜ天皇による「絶対主義王政」が大衆の支持を得ていたのか、について私が単純に、こうじゃないかな、と思った感想を、書いてみます。

 

日本において、天皇は「王」であり「神」であるからだと思います。

西洋では、王の上に神があります。

だから、王が「絶対主義的」だと、神の国を求めている国民は、王にそのやり方は間違っている、と言うことが出来ます。神の国を作るべきリーダーである王が、そうしない時、国民が力を合わせて、王を倒すのは、正しいということになります。

これは、「歴史の中のイエス像」で見た通りです。

 

でも、日本では、王であり神なので、その天皇にそのやり方は間違っていると言える人間は、どこにもいない、となります。

その天皇の「性質」を利用して、日本は政治をやってきた。

天皇だけが国民統合のシンボルということになれば、「科学」も「倫理」も「正義」も「人権」も天皇の下に置かれます。

 

政治家にとって、こんな都合の良いものはない、と思います。

 

 

では、何故、日本人は天皇を神だと思うのか。

本気で意思的に神だと信じている人はいないと思います。でも、これは、私の「感じ」なのですが、人間は本当に追いつめられると、「誰か…神様…仏様…」となにかを求め、すがる精神を持っているのでは?と思います。

 

 

その時に、その「何か」にイメージを被せてしまう…。

だから、宗教が出来上がる。

日本では、神社やお寺でその何かに手を合わせます。

科学的じゃない、論理的じゃない、そんな態度は間違っている、と言って見ても、

そんな風に物語を求めるのが、人間。その物語が人々を結び付け、信じ合う力を培い、社会が出来上がったと、あの「サピエンス全史」にもありました。

 

その物語を、天皇に被せて、王であり神であるという曖昧なイメージを持っているのが、私たち日本人なのではないか、と感じます。

突き詰めて、論じ合うことはしない。突き詰めたり論じ合ったりすると、多分、信仰は崩れる。論じるのを拒否する人が多いので、ハッキリとした教義はない。

 

「第二の自然」にまでなってしまっているものを間違っていると言って見ても、どうにもならない。そういう文化の国だ、というのが、事実だと思います。

 

 

その点、真実や正義や愛を神の国と結びつけ、「神が死んだ」後も、そのイメージは今も、持ち続けている国、民主主義を生み出した国とは、まるで違います。

 

だからこそ、政治家は、天皇を自分の都合で利用してはいけない、と考える良識を持っていてほしいのですが、かなり難しいことだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

国体論 ー菊と星条旗—

「▼ 匿名の人間による「デモクラティックな暗殺」

橋川文三は、朝日の遺書を分析してこの暗殺事件の質的な新しさを指摘している。

(略)

 

 

 

ここに例示されている紀尾井坂の変(大久保利通暗殺)の実行者は、旧武士階級という身分を代表して大久保を斬った。あるいは、より近い時代の伊藤博文暗殺事件(一九〇九年)においては、安重根朝鮮民族を代表して伊藤を討った。

しかるに、朝日平吾は、当時の日本国内のいかなる特定の社会集団のアイデンティティに依拠するわけでもなく、「真正の日本人」という抽象的立場の自覚を徹底することによって、言い換えれば、米騒動において蜂起した無名の怒れる大衆と同様の「匿名の人間」として、テロを実行したのである。

 

 

 

朝日の凶行は、言うなれば「デモクラティックな暗殺」であったのだ。

明治の「理想の時代」の終焉以降の時期において、実存的飢餓感を痛切に感じた煩悶青年が苦悩からの解脱を志向して政治テロに至るという道筋の原型がここにあると橋川は見ているが、こうした成り行きの典型が、カリスマ的宗教者であった井上日召が率いた、後の血盟団事件、および五・一五事件である。(略)

 

 

 

▼「国民の天皇」の演出

そして、ここにおいて注目すべき最大の要因は、「天皇が伝統のシンボルよりも、変革のシンボルと見られ始めたところに」こそあるだろう。(略)

近年進んできた大正天皇研究によれば、大正天皇は、かつて定説的に考えられてきたような生来の精神薄弱だったのではなく、病弱ではあったものの、即位以後のストレスを主要原因として体調を悪化させたと推論されている。(略)

 

 

 

皇太子、後の昭和天皇には、国体の統括者たり得ない大正天皇に代わって、明治天皇の再来としての役回りが政治的に期待されていたのである。(略)

第一次世界大戦を契機としてヨーロッパ諸国で起こった君主制の没落・廃絶は、国民国家の統合装置であったはずの君主が、逆に統合を破壊する張本人として名指しされたために生じた事態であった。(略)

 

 

してみれば、君主制を国民統合の装置として再編成するために、「国民の天皇」を演出する方向へと、支配権力の側は舵を切る外なかった。(略)

それは、「国民の天皇」もまた国体の新たな時代に即した存在様態であったのだから、止揚し得ない矛盾であり、それは二・二六事件において爆発することとなる。」