読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

武士道

「第十七章 武士道の将来

 

ヨーロッパの騎士道と日本の武士道との間におけるごとく適切なる歴史的比較をなしうるものは稀である。しかしてもし歴史が繰り返すものとすれば、後者の運命は必ずや前者の遭遇したるところを繰り返すであろう。(略)

 

 

ヨーロッパの経験と日本の経験との間における一の顕著なる差異は、ヨーロッパにありては騎士道は封建制度から乳離れしたる時、キリスト教会の養うところとなりて新たに寿命を延ばしたるに反し、日本においてはこれを養育するに足るほどの大宗教がなかったことである。

 

 

 

したがって母制度たる封建制の去りたる時、武士道は孤児として遺され、自ら赴くところに委ねられた。現在の整備せる軍隊組織はこれをその保護の下に置き得るであろう、しかし吾人の知るごとく現代の戦争は武士道の絶えざる成長に対して大なる余地を供しない。

 

 

武士道の幼時においてこれを哺育したりし神道は、それ自体すでに老いた。(略)

 

 

もし歴史が吾人に何ものかを教えうるとせば、武徳の上に建てられたる国家は —— スパルタのごとき都市国家にせよ、或いはローマのごとき帝国にせよ、 —— 地上において「恒に保つべき都」たるをえない。

 

 

人の中にある戦いの本能は普遍的かつ自然的であり、また高尚なる感情や男らしき徳性を生むものであるとはいえ、それは人の全体を尽すものではない。戦いの本能の下に、より神聖なる本能が潜んでいる。すなわち愛である。

 

 

 

神道孟子、および王陽明の明白にこれを教えたるは、吾人のすでに見たるところである。しかるに武士道その他すべて武的型態の倫理は、疑いもなく直接の実際的必要ある諸問題に没頭するあまり、往々右の事実に対し正当なる重さを置くを忘れた。

 

 

 

今日吾人の注意を要求しつつあるものは、武人の使命よりもさらに高くさらに広き使命である。拡大せられたる人生観、平民主義の発達、他国民他国家に関する知識の増進と共に、孔子の仁の思想 —— 仏教の慈悲思想もまたこれに付加すべきか —— はキリスト教の愛の観念へと拡大せられるであろう。

 

 

 

人は臣民以上のものとなり、公民の地位にまで発達した。否、彼らは公民以上である —— 人である。戦雲暗く我が水平線上を蔽うといえども、吾人は平和の天使の翼が能くこれを払うことを信ずる。世界の歴史は「柔和なる者は地を嗣がん」との預言を確証する。平和の長子権を売り、しかして産業主義の前線から後退して侵略主義の戦線に移る国民は、まったくつまらない取引をなすものだ!(略)

 

 

 

 

或いは言う、日本が中国との最近の戦争に勝ったのは村田銃とクルップ砲によりてであると。また言う、この勝利は近代的なる学校制度の働きであると。しかしながらこれらは真理の半面たるにも当たらない。

 

 

たといエールバーもしくはスタインウェイの最良の製作にかかるものでも、名音楽家の手によらずして、ピアノそのものがリストのラプソディもしくはベートーヴェンソナタを弾奏し出すことがあるか。

 

 

さらにもし銃砲が戰に勝つものならば、何故ルイ・ナポレオンはそのミトライユーズ式機関銃をもってプロシヤ軍を撃破しなかったのであるか。或いはスペイン人はモーゼル銃をもって、旧式のレミントン銃をもって武装したるに過ぎざりしフィリピン人を破ることをえなかったのであるか。

 

 

活力を与えるものは精神でありそれなくしては最良の器具もほとんど益するところがない、という陳腐の言を繰り返す必要はない。最も進歩せる銃砲も自ら発射せず、最も近代的なる教育制度も臆病者を勇士と成すをえない。否!鴨緑江において朝鮮および満州において戦勝したるものは、我々の手を導き我々の心臓に搏ちつつある我らが祖父の威霊である。

 

 

 

これらの霊、我が武勇なる祖先の魂は死せず、見る目有る者には明らかに見える。最も進んだ思想の日本人にてもその皮に掻痕を付けて見れば、一人の武士が下から現れる。名誉、勇気、その他すべての武徳の偉大なる遺産は、クラム教授の誠に適切に表現したるがごとく、

 

 

「吾人の信託財産たるに過ぎず、死者ならびに将来の子孫より奪うべからざる秩禄」である。しかして現在の命ずるところはこの遺産を護りて古来の精神の一点一画をも害わざることであり、未来の命ずるところはその範囲を拡大して人生のすべての行動および関係に応用するにある。(略)

 

 

日本人の心によって証せられかつ領解せられたるものとしての神の国の種子は、その花を武士道に咲かせた。悲しむべしその十分の成熟を待たずして、今や武士道の日は暮れつつある。しかして吾人はあらゆる方向に向かって美と光明、力と慰藉の他の源泉を求めているが、いまだこれに代わるべきものを見出さないのである。

 

 

功利主義者および唯物主義者の損得哲学は、魂の半分しかない屁理屈屋の好むところとなった。功利主義および唯物主義に拮抗するに足る強力なる倫理体系はキリスト教あるのみであり、これに比すれば武士道は「煙れる亜麻」のごとくであることを告白せざるをえない。(略)

 

 

武士道は一の独立せる倫理の掟としては消ゆるかも知れない、しかしその力は地上より滅びないであろう。その武勇および文徳の教訓は体系としては毀れるかも知れない。しかしその光明その栄光は、これらの廃址を越えて長く活くるであろう。

 

 

 

その象徴(シンボル)とする花のごとく、四方の風に散りたる後もなおその香気をもって人生を豊富にし、人類を祝福するであろう。百世の後その習慣が葬られ、その名さえ忘らるる日到るとも、その香は、「路辺に立ちて眺めやれば」遠き彼方の見えざる丘から風に漂うて来るであろう。 —— この時かのクエイカー詩人の美しき言葉に歌えるごとく、

 

 

 

いずこよりか知らねど近き香気に、

感謝の心を旅人は抱き、

歩みを停め、帽を脱りて

空よりの祝福を受ける。       」

 

 

〇 新渡戸稲造の熱い思いが、伝わって来る本でした。

これで、「武士道」のメモを終わります。

 

 

 

武士道 

「第十六章 武士道はなお生くるか

 

我が国において駸々として進みつつある西洋文明は、すでに古来の訓練のあらゆる痕跡を拭い去ったであろうか。

一国民の魂がかくのごとく早く死滅しうるものとせば、それは悲しむべきことである。外来の影響にかくもたやすく屈服するは貧弱なる魂である。

 

 

国民性を構成する心理的要素の合成体が粘着性を有することは、「魚の鰭、鳥の嘴、肉食動物の歯等、その種族の除くべからざる要素」のごとくである。ル・ボン氏は浅薄なる独断と華美なる概括とに満てる氏の近著において曰く、「知識に基づく発見は人類共有の遺産であるが、性格の長所短所は各国民の専有的遺産である。それは堅き巌のごとく、数世紀にわたり日夜水がこれを洗うても、わずかに外側の圭角を除去しうるに過ぎない」と。これは強き言葉である。(略)

 

 

 

武士道は一の無意識的なるかつ抵抗し難き力として、国民および個人を動かしてきた。新日本の最も輝かしき先駆者の一人たる吉田松陰が刑に就くの前夜詠じたる次の歌は、日本民族の偽らざる告白であった ——

 

かくすればかくなるものと知りながら

    やむにやまれぬ大和魂

 

 

形式をこそ備えざれ、武士道は我が国の活動精神、運動力であったし、また現にそうである。

ランサム氏曰く、「今日三つの別々の日本が相並んで存在している、 —— 旧日本はいまだまったく死滅せず、新日本は漸く精神において誕生したるに過ぎず、しかして過渡的日本は現在その最も危険的なる苦悶を経過しつつある」と。(略)

 

 

王政復古の暴風と国民的維新の旋風との中を我が国船の舵取りし大政治家たちは、武士道以外何らの道徳的教訓を知らざりし人々であった。近頃二、三の著者は新日本の建設に対しキリスト教宣教師が著大なる割合の貢献をなしたということを証明しようと試みた。

 

 

私は名誉の帰すべき者には喜んで名誉を与えるが、しかし右の名誉はいまだ善良なる宣教師たちに授与せられ難きものである。何ら確認すべき証拠のなき要求を持ち出すよりも、互いに名誉を他に帰すべしとの聖書の戒めを守ることこそ、彼らの職務に一層似合うであろう。

 

 

私一個人としては、キリスト教宣教師は日本のために教育、ことに道徳教育の領域において偉大なる事業をなしつつあると信ずる。—— ただし聖霊の活動は確実ではあるが神秘的であって、なお神聖なる秘密の中に隠されている。

 

 

宣教師等の事業はなお間接的高価あるに過ぎない。否、今日までの所キリスト教伝道が新日本の性格形成上貢献したることろはほとんど見られない。否、善かれ悪しかれ吾人を動かしたものは純粋蕪雑の武士道であった。

 

 

現代日本の建設者たる佐久間、西郷、大久保、木戸の伝記、また伊藤、大隈、板垣等現存せる人物の回顧談を繙いて見よ —— しからば彼らの思索および行動は武士道の刺激の下に行われしことを知るである。

 

 

極東を研究し観察したるヘンリー・ノーマン氏は、日本が他の東洋専制国と異なる唯一の点は「従来人類の案出したる名誉の掟の中最も厳格なる、最も高き、最も正確なるものが、その国民の間に支配的勢力を有すること」にあると言明したが、これは新日本の現在を建設しかつその将来の運命を達成せしむべき原動力に触れた言である。(略)

 

 

 

他方、我が国民の欠点短所に対しても武士道が大いに責任あることを承認するは公平である。我が国民が深遠なる哲学を欠くことの原因は —— 我が青年のある者は科学的研究においてすでに世界的名声を博したるにかかわらず、哲学の領域においてはいまだ何らの貢献をなしていない —— 武士道の教育制度において形而上学の訓練を閑却せしことに求められる。

 

 

我が国民の感情に過ぎ、事に激しやすき性質にたいしては、我々の名誉感に責任がある。もしまた外国人によりて往々非難せらるるごとき自負尊大が我が国民にありとすれば、それもまた名誉心の病的結果である。(略)

 

 

 

「忠義」という一語が、微温的と成るに任せらえていたすべての高貴なる感情を復活せしめたのである。或る学校において一教授に対する不満を理由として、一団の乱暴なる青年たちが長く継続して学生ストライキをやっていたが、校長の出した二つの簡単なる質問によって解散した。

 

 

 

それは「諸君の教授は価値ある人物であるか。もししからば、諸君は彼を尊敬して学校に留むべきである。彼は弱き人物であるか。もししからば、倒るる者を突くは男らしくない」と言うのであった。その教授の学力欠乏が騒動の始まりであったのだが、それは校長の暗示したる道徳的問題に比すれば、重要ならざる小問題となってしまったのである。

 

 

かくのごとく武士道によりて涵養せられたる感情を喚起することによって、偉大なる道徳的革新が成就せられうる。

我が国におけるキリスト教伝道事業失敗の一原因は、宣教師の大半が我が国の歴史について全然無知なることにある。(略)

 

 

一国民の歴史を嘲る? —— 彼らはいかなる民族の経歴、何らの記録を所有せざるもっとも遅れたるアフリカ現住民の経歴でさえも、神御自身の手によりて書かれたる人類一般史の一ページをなすものたるを知らないのである。(略)

 

 

一国民の過去の経歴を無視して、宣教師らはキリスト教新宗教だと要求する。しかるに私の考えでは、それは「古き古き物語」であって、もし理解しうべき言葉をもって提供せらるるならば、すなわち一国民がその道徳的発達上熟知する語彙をもって表現せらるるならば、人種もしくは民族のいかんを問わず、その心にたやすく宿りうるものである。(略)

 

 

新信仰の宣伝者たるものは、幹、根、枝を全部根こそぎして、福音の種子を荒地に播くことをなすべきであるか?かくのごとき英雄的方法は —— ハワイでは可能であるかも知れぬ。そこでは戦闘的教会は富そのものの搾取と原住民種族の絶滅とに完全なる成功を収めたと称せられる。

 

 

 

しかしながらかかる方法は日本においては全く断じて不可能である —— 否、それはイエス御自身が地上に彼の王国を建つるにおいて決して採用したまわざるべき方法である。(略)

 

 

 

しかしながら、個人的にはいかなる誤謬が犯されたにもせよ、彼ら宣教師の信ずる宗教の根本的原理は、吾人が武士道の将来を考えるについて計算に入れるを要する一勢力たることは疑いがない。武士道の日はすでに数えられたように思われる。その将来を示す不吉の徴候が空にある。徴候ばかりでなく、巨大なる諸勢力が働いてこれを脅かしつつある。」

 

 

 

 

 

 

武士道

〇 途中になっていた新渡戸稲造著「武士道」のメモを続けます。

 

「第十五章  武士道の感化

 

武士道の徳は我が国民生活の一般的水準より遥かに高きものであるが、吾人はその山脈中さらに頭角を抜いて顕著なる数峯だけを考察したにすぎない。太陽の昇る時まず最高峯の頂をば紅に染め、それから漸次にその光を下の谷に投ずるがごとく、まず武士階級を照らしたる倫理体系は時をふるにしたがい大衆の間からも追随者を惹き付けた。

 

 

平民主義はその指導者として天成の王者を興し、貴族主義は王者的精神を民衆の間に注入する。徳は罪悪に劣らず伝染的である。「仲間の間にただ一人の賢者があればよい、しからばすべてが賢くなる。それほど伝染は速やかである」とエマスンは言う。いかなる社会的階級も道徳的感かの伝播力を拒否しえない。(略)

 

 

ヨーロッパの騎士道の最盛期においても、騎士は数的には人口の一小部分を占めたるにすぎない。しかしながらエマスンの言える如く、「英文学においてサー・フィリップ・シドニーよりサー・ウォルター・スコットに至るまで戯曲の半分と小説の全部とはこの人物(ゼントルマン)を描写した」のである。

 

 

もしシドニーおよびスコットの代りに近松および馬琴の名をもってすれば、日本文学史の主なる特色は一言にして尽されている。

民衆娯楽および民衆教育の無数の道 — 芝居、寄席、講釈、浄瑠璃、小説 — はその主題を武士の物語から取った。農夫は茅屋に炉火を囲んで義経とその忠臣弁慶、もしくは勇ましき曽我兄弟の物語を繰り返して倦まず、色黒き腕白は茫然口を開いて耳を傾け、最後の薪が燃え尽きて余燼が消えても、今聴きし物語によりて心はなお燃え続けた。

 

 

番頭、小僧は一日の仕事を終えて店の雨戸を閉めれば、膝を交えて信長、秀吉の物語に夜を更し、遂に睡魔がその疲れたる眼を襲い、彼らを帳場の辛労より戦場の功名に移すに至る。

 

 

よちよち歩き始めたばかりの幼児でさえ、桃太郎鬼ヶ島征伐の冒険を回らぬ舌で語ることを覚えた。女の児でさえ武士の武勇と徳を慕う心深く、武士の物語を聞くを好むこと、デズデモナのごとくであった。

武士は全民族の善き理想となった。「花は桜木、人は武士」と、俚謡に謳われる。

 

 

武士階級は商業に従事することを禁ぜられたから、直接には商業を助けなかった。しかしながらいかなる人間活動の路も、いかなる思想の道も、ある程度において武士道より刺激を受けざるはなかった。知的ならびに道徳的日本は直接間接に武士道の所産であった。

 

 

 

マロック氏はその勝れて暗示に富む著書「貴族主義と進化」において雄弁に述べて曰く、「社会進化、それが生物進化と異なる限り、偉人の意志よりいでたる無意識的結果なりと定義して可かろう」と。

 

 

また曰く、歴史上の進歩は「社会一般の間における生存競争によるものではなく、むしろ社会の少数者間において大衆をば最善の道において指導し、支配し、使役せんとする競争によって生ずる」と。(略)

 

 

武士道はその最初発生したる社会階級より多様の道を通りて流下し、大衆の間に酵母(ぱんだね)として作用し、全人民に対する道徳的標準を供給した。武士道は最初は選良(エリート)の光栄として始まったが、時をふるにしたがい国民全般の渇仰および霊感となった。

 

 

 

しかして平民は武士の道徳的高さにまでは達しえなかったけれども、「大和魂」は遂に島帝国の民族精神(フォルクスガイスト)を表現するに至った。もし宗教なるものは、マシュー・アーノルドの定義したるごとく「情緒によって感動されたる道徳」に過ぎずとせば、武士道に勝りて宗教の列に加わるべき資格ある倫理体系は稀である。

 

 

本居宣長

 

敷島の大和心を人問はば

  朝日に匂う山桜花

 

と詠じた時、彼は我が国民の無言の言をば表現したのである。

しかり、桜は古来我が国民の愛花であり、我が国民性の表章であった。(略)

我が桜花はその美の下に刃をも毒をも潜めず、自然の召しのままに何時なりとも生を棄て、その色は華麗ならず、その香りは淡くして人を飽かしめない。およそ色彩形態の美は外観に限られる。それは存在の固定せる性質である。

 

 

 

これに反し香気は浮動し、生命の気息(いき)のごとく天にのぼる。この故にすべての宗教上の儀式において、香と没薬は重要なる役割をもつのである。香には霊的なる或る物がある。太陽東より昇ってまず絶東の島嶼を照らし、桜の芳香朝の空気を匂わす時、いわばこの美しき日の気息(いき)そのものを吸い入るるにまさる清澄爽快の感覚はない。(略)

 

 

しからばかく美しくして散りやすく、風のままに吹き去られ、一道の香気を放ちつつ永久に消え去るこの花、この花が大和魂の型(タイプ)であるのか。日本の魂はかくも脆く消えやすきものであるのか。」

 

 

 

ホモ・デウス(下)の感想

〇 後半、頑張ったのですが、時間が足りず、返却日が来てしまいました。続きは、また借りて…ということにしたいと思います。

 

でも、一応最後まで、読むことは読んだので、感想を書いておきたいと

思います。

 

第9章の後、第10章が「意識の大海」第11章が「データ教」となっていて、読んでいても辛くなるような内容でした。

胸の内から、次々と反論したい気持ちが湧きあがり、本当に、人間ってそんなに簡単に了解され、誘導され、コントロールされてしまうようなものだろうか…と思いました。

 

私たち人間は、神聖だとか唯一無二の掛け替えのないものだとか、そんなことをいいたいわけではありません。取るに足らない、つまらない命でも、この私とこの猫の間に生まれたものは、少なくとも、この私にとっては、かけがえのないもの…という感覚を持つのが人間で、その感覚がなくなる時、人間としての何かが欠落する、と感じます。

 

そして、それは、私一人ではなく、それぞれ一人一人がそんな感覚を持って、この社会を作っている、みんなで生きるために、そう思っていました。

 

そんな部分を全く見ず、ただ、大きな魚の群れを外から眺めるように、人間の群れを見ることへの違和感がありました。

 

でも、このやりきれない嫌な感じは、前にも感じたことがある…と思い出したのが、カズオ・イシグロの「私を離さないで」です。

ハラリ氏の主張はむしろ、曖昧に楽観することをやめて、現実を冷たくはっきり見せることで、このまま進んでいいのか?と問いたかったのではないのか?と思いました。

 

そして、多分きっとそうだと、思ったのは、最後の「謝辞」を読んだ時です。

その部分を、メモしておきたいと思います。

 

 

 

 

 

「謝辞

 

以下の人々と動物と機関に心から感謝したい。

ヴィパッサナー瞑想の技法を手ほどきしてくれた恩師サティア・ナラヤン・ゴエンカ(一九二四~二〇一三)。この技法はこれまでずっと、私が現実をあるがままに見て取り、心とこの世界を前よりよく知るのに役立って来た。

 

 

過去一五年にわたってヴィパッサナー瞑想を実践することから得られた集中力と心の平穏と洞察力なしには、本書は書けなかっただろう。

この研究プロジェクトを資金面で支援してくれたイスラエル科学財団(助成金番号26/09)。

ヘブライ大学、とくに、私にとって学術面での本拠である、その歴史学部、そして、これまでに私と学んだ学生全員 — 諸君は、質問や回答や沈黙によってじつに多くを教えてくれた。

 

 

研究アシスタントのイダン・シェレル。チンパンジーであれ、ネアンデルタール人であれ、サイボーグであれ、彼は私がなげかけるありとあらゆるテーマを献身的に処理してくれた。そして、折りに触れて手助けしてくれた、他の三人のアシスタント、ラム・リランとエヤル・ミレルとオムリ・シェフェル・ラヴィヴ。

 

 

本書に賭け、何年にもわたって尽きることのない情熱を傾け、支援を続けてくれた、本書の発行者である、イギリスのペンギン・ランダムハウスのミチャル・シャヴィット、そして、親身になって力を貸してくれたペンギン・ランダムハウスのエリー・スティール、スザンヌ・ディーン、ベサン・ジョーンズ、マリア・ガルバット=ルチェロとその同僚たち。

 

 

原稿を見事に編集し、私の恥ずかしいミスが活字になるのを何か所となく防ぎ、キーボード上では「デリート」がおそらく最も重要なキーであることに気づかせてくれたデイヴィッド・ミルナー

 

 

じつに効率的な広報活動を展開してくれた、ライオット・コミュニケーションズのプリーナ・ガドハー、ティ・ディン、リジャ・クレソワティ。

 

私を信じ、励まし、見識を提供してくれた、ニューヨークのハーバーコリンズの担当発行者ジョナサン・ジャオと同社の前担当発行者クレア・ワクテル。

可能性を認め、貴重なフィードバックと助言を提供してくれたジェムエル・ロズネルとエラン・ジーモラ。

 

 

 

必要不可欠な突破口を開くのを助けてくれたデボラ・ハリス。

念入りに原稿を読み、たっぷり手間と暇をかけて私の誤りを正し、私が別のさまざまな視点から物事を見られるようにしてくれた、アモス・アヴィサル、シロ・デハー、ティルツァ・アイゼンバーグ、ルーク・マシューズ、ラミ・ロソルズ、オーレン・シュリキ。

 

 

神を寛大に扱うように私を説得してくれたイガル・ボロチョフスキー。

見識を教示してくれ、エシュタオルの森をいっしょに散歩してくれたヨラム・ヨヴェル。

資本主義体制に関する私の理解を深めるのを助けてくれたオリ・カッツとジェイ・ボメランツ。

 

 

脳と心についての考えを聞かせてくれたカーメル・ワイズマンとホアキン・ケラーとアントワーヌ・マジエール。

種を蒔き、水をやってくれたベンヤン・z・ケダル。

長年にわたって温かい友情を差し伸べ、冷静な手引きをしてくれたディエゴ・オルシュタイン。

原稿の一部を読み、意見を述べてくれた得フード・アミール、シュキ・ブルック、ミリ・ウォルツェル、蓋・ザスレイヴァキ、ミチャル・コーヘン、ヨシ・モーリー、アミール・スマカイ=フィンク、サライ・アハロニ、アディ・エズラ

 

 

熱意がほとばしる泉であり、どっしりした岩のように安全な避難場所であったエイロナ・アリエル。

金銭面で万事を抜かりなく処理してくれた義母で会計士のハンナ・ヤハヴ。

私を支え、親密に接してくれた祖母のファニー、母のプニーナ、姉のリアットとエイナットをgはじめとする親族や友人。

 

 

 

本書で述べた主要な考えや節の一部に関して犬の視点を提供してくれた、チャンバとペンゴとチリ。

そして今日すでに私の「すべてのモノのインターネット」として提供してくれている、配偶者でマネージャーのイツィク。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ホモ・デウス(下)(第9章 知能と意識の大いなる分離)

「八七パーセントの確率

 

この章の冒頭で、自由主義に対する実際的な脅威をいくつか挙げた。その第一は、人間が軍事的にも経済的にも無用になるというものだ。もちろん、これは予言ではなく、ただの可能性にすぎない。(略)

 

 

 

自由主義が直面する第二の脅威は、経済と政治の制度は将来も依然として人間を必要とするにせよ、個人は必要としないというものだ。人間は作曲をし、物理学を教え、お金を投資し続けるだろうが、経済と政治の制度は、人間自身よりも人間たちのことをよく理解し、重要な決定のほとんどを、人間のために下すだろう。

 

 

それによって経済と政治の制度は個人から権威と自由を奪う。個人主義に対する自由主義の新人は、以前に論じた三つの重要な前提に基づいている。

 

1 私は分割不能の個人である。(略)だが、もし努力してこれらの外殻を剥ぎ取れば、自分の奥深くに単一の内なる声を見つけることができ、それが私の本物の自己だ。

 

2 私の本物の自己は完全に自由である。

 

3 これら二つの前提から、私は自分自身に関して他人には発見しえないことを知りうる。(略)私が本当は何者なのかや、どう感じるかや、何を望んでいるかを、他人は誰一人知り得ないからだ。だからこそ、有権者がいちばんよく知っており、顧客はつねに正しく、美は見る人の目の中にあるのだ。

 

 

 

ところが、生命科学はこれら三つの前提すべてに異議を唱える。生命科学によれば、以下のようになる。

 

1 生き物はアルゴリズムであり、人間は分割不能の個人ではなく、分割可能な存在である。つまり、人間は多くの異なるアルゴリズムの集合で、単一の内なる声や単一の自己などというものはない。

 

2 人間を構成しているアルゴリズムはみな、自由ではない。それらは遺伝子と環境圧によって形作られ、決定論的に、あるいはランダムに決定を下すが、自由に決定を下すことはない。

 

 

3 したがって、外部のアルゴリズムは理論上、私が自分を知り得るよりもはるかによく私を知り得る。アルゴリズムは、私の身体と脳を構成するシステムの一つ一つをモニターしていれば、私が何者なのかや、どう感じているかや、何を望んでいるかを正確に知り得る。

 

 

そのようなアルゴリズムは、いったん開発されれば、有権者や顧客や見る人に取って代わることができる。そうすれば、そのアルゴリズムが一番よく知っており、そのアルゴリズムが常に正しく、美はそのアルゴリズムの計算の中にあることになる。

 

 

それでも一九世紀と二〇世紀の間は、個人主義を信じるのは実際上はとても理に適っていた。現に私を効果的にモニターできる外部のアルゴリズムはなかったからだ。国家も市場もまさにそうしたかったのだろうが、それに必要なテクノロジーを欠いていた。(略)

 

 

医学に関する限り、私たちはすでにそうしている。私たちは病院ではもう個人ではない。あなたが生きている間に、自分の身体と健康についての重大な決定の多くは、IBMのワトソンのようなコンピューターアルゴリズムが下すようになる可能性が非常に高い。(略)

 

 

深刻な病気にかかっていなくても、身につけられるセンサーとコンピューターを使って自分の健康状態と活動をモニターし始めた人は多い。スマートフォンや腕時計から、アームバンドや下着まで、さまざまなものに組み込まれたそれらの装置は、血圧や心拍数など、多様なバイオメトリックデータを記録する。(略)

 

 

より深遠な次元では、遺伝子技術が日常生活に組み込まれ、人々が自分のDNAとしだいに緊密な関係を育むにつれ、単一の自己というものはなおいっそう曖昧になり、本物の内なる声は途絶え、やかましい遺伝子の群れが残るだけかもしれない。だから、厄介なジレンマや意思決定に直面したとき、人は自分の内なる声を探すのをやめ、その代わりに、内なる遺伝子の議会の意見を聞くかも知れない。(略)

 

 

 

人類の健康を増進したいという同様の願望のために、私たちの大半は、自分の私的な空間を守っている防壁を進んで取り払い、国家の官僚制と多国籍企業に自分の内奥へのアクセスを許すだろう。たとえばグーグルが私たちの電子メールを読んだり、活動を追ったりするのを許せば、グーグルは従来の保険医療サービスが気づく前に、感染症が流行しかけていることを私たちに警告できる。(略)

 

 

これは架空の発想ではない。二〇〇八年、グーグルは現に「Google Flu Trends(グーグル・インフルトレンド)」を更改し、グーグルの検索をモニターしてインフルエンザの大流行を追跡している。(略)

 

 

とはいえ、グーグルのような企業は、身に着けられるものよりもずっと深くまで違っている。DNA検査の市場は現在急激に成長している。この市場を牽引する企業の一つが23andMeで、グーグルの共同設立者セルゲイ・ブリンの前妻アン・ウォジツキらが創業した私企業だ。(略)

 

 

もし私たちが全てを結び付け、自分たちのバイオメトリック機器や、DNAスキャンの結果や、医療記録への自由なアクセスを、グーグルやその競争相手に許せば、全知の医療保険サービスが手に入り、それが感染症と戦ってくれるだけではなく、癌や心臓発作やアルツハイマー病からも守ってくれる。

 

 

とはいえ、そのようなデータベースを自由に仕えたら、グーグルははるかに多くのことができるだろう。(略)今日私たちを支配している物語る自己と違い、グーグルはでっち上げた物語に基づいて決定を下すことはないし、認知の近道(ショートカット)やピーク・エンドの法則に欺かれることもない。

 

 

 

グーグルは本当に、私たちの一挙手一投足をすべて覚えているだろう。私たちの多くは、自分の意思決定の過程をそのようなシステムに喜んで委ねるのではないか。(略)

 

 

 

すると、グーグルは答える。「そうですね。あなたのことは生まれた日からずっと知っています。あなたのメールは全部読んできたし、電話もすべて録音してきたし、お気に入りの映画も、DNAも、心臓のバイオメトリックの経歴も全部しっています。(略)

 

 

お望みなら、ジョンあるいはポールとしたデートのどれについても、心拍数と血圧と血糖値を秒単位で示すグラフをお見せすることもできます。(略)

 

 

これらいっさいの情報と、私の優秀なアルゴリズムと、何百万もの人間関係に関する数十年分の統計に基づくと、ジョンを選ぶことをお勧めします。長期的には、彼の方が、より満足できる確率が八七パーセントありますから。

 

 

それどころか、私はあなたを本当によく知っているので、この答えが気に入ってもらえないことも承知しています。ポールはジョンよりずっとハンサムですし、あなたは外見をあまりに重視するので、私に「ポール」と言ってもらいたいと、こっそり思っていましたね。(略)」

 

 

自由主義は物語る自己を神聖視し、投票所やスーパーマーケットや結婚市場でその自己が投票するのを許す。これは何世紀もの間、理に適っていた。物語る自己はとあらゆる種類の虚構や幻想を信じていたとはいえ、この自己よりも本人のことを良く知っているシステムは他になかったからであ。ところが、物語る自己以上に本人のことを本当によく知るシステムがいったん手に入れば、物語る自己の意権限を委ねたままにするのは無謀ということになる。(略)

 

 

ヨーロッパの帝国主義の全盛期には、征服者や商人は、色のついたガラス玉と引き換えに、島や国をまるごと手に入れた。二一世紀には、おそらく個人データこそが、人間が依然として提供できる最も貴重な資源であり、私たちはそれを電子メールのサービスや面白おかしい猫の動画と引き換えに、巨大なテクノロジー企業に差し出しているのだ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

ホモ・デウス(下)(第9章 知能と意識の大いなる分離)

「そのようなアルゴリズムが人間の資本家よりも優れた実績を一貫して残せば、アルゴリズムから成る上流階級がこの惑星のほとんどを所有するという結果になりかねない。これはありえないようにおもえるかもしれないが、あっさり切り捨てる前に思い出してほしい。地球のほとんどはすでに、人間ではない共同主観的なもの、すなわち国家と企業に合法的に所有されている。

 

 

実際、五〇〇年前、シュメールの多くは、エンキやイナンナのような想像上の神々に所有されていた。もし神々が土地を所有し、人々を雇えるのなら、どうしてアルゴリズムにそれができないことがあるだろうか?

 

 

では、人々はどうするのか?芸術は私たちの究極の(そして、人間ならではの)聖域を提供してくれるとよく言われる。コンピューターが医師や運転手、教師、はては家主にまで取って代わった世界では、誰もが芸術家になるのだろうか?(略)」

 

アルゴリズムという言葉が、うまくイメージできません。かなり話に付いていけなくなっています。

 

「作曲でコンピューターがけっして人間を越えられないと、私たちはどうしてそれほど自信を持っているのか?(略)

コープは、協奏曲や合唱曲、交響曲、オペラを作曲するコンピュータープログラムを書いて来た。(略)このプログラムは、書くのには七年かかったが、一旦出来上がると、たった一日でバッハ風の合唱曲を五〇〇〇も作曲した。

 

 

コープはそのうち選りすぐりの数曲をサンタクルーズで開かれる、ある音楽フェスティバルで演奏するように手配した。聴衆のなかには熱狂的な反応を見せる人々もいて、感動的な演奏として褒め称え、その音楽が心の琴線に触れたと興奮した様子で語った。(略)

 

 

 

二〇三〇年や四〇年に求人市場がどうなっているか私たちにはわからないので、今日すでに、子どもたちに何を教えればいいのか見当もつかない。現在子どもたちが学校で習うことの大半は、彼らが四〇歳の誕生日を迎えるころにはおそらく時代遅れになっているだろう。

 

 

従来、人生は二つの主要な部分に分かれており、まず学ぶ時期があって、それに働く時期が続いていた。いくらもしないうちに、この伝統的なモデルは完全に廃れ、人間が取り残されないためには、一生を通じて学び続け、繰り返し自分を作り替えるしかなくなるだろう。大多数とは言わないまでも、多くの人間が、そうできないかもしれない。

 

 

 

やがてテクノロジーが途方もない豊かさをもたらし、そうした無用の大衆がたとえまったく努力しなくても、おそらく食べ物や支援を受けられるようになるだろう。だが、彼らには何をやらせて満足させておけばいいのか?人は何かする必要がある。することがないと、頭がおかしくなる。彼らは一日中、何をすればいいのか?

 

 

 

薬物とコンピューターゲームというのが一つの答えかも知れない。必要とされない人々は、3Dのバーチャルリアリティの世界でしだいに多くの時間を費やすようになるかもしれない。その世界は他の単調な現実の世界よりもよほど刺激的で、そこではるかに強い感情を持って物事に関われるだろう。

 

 

とはいえ、そのような展開は、人間の人生と経験は神聖であるという自由主義の信念に致命的な一撃を見舞うことになる。夢の国で人工的な経験を貪って日々を送る無用の怠け者たちの、どこがそれほど神聖だというのか?」

 

〇 食べるために働く必要がなくなったら、趣味に生きる、ということで、

いいのでは?と思うのですが。それでは、ダメなのかな…。

 

 

 

 

 

 

ホモ・デウス(下)(第9章 知能と意識の大いなる分離)

「生身の兵士は予測不能の面を持ち、恐れや飢えや疲労に影響されやすいことに加えて、しだいに不適切な時間スケールで考えたり行動したりするようになっている。バビロニアネブカドネザルの時代からイラクサダム・フセインの時代まで、無数のテクノロジー上の進歩があったにも関わらず、戦争は生物の時間スケールで行われてきた。

 

 

議論は何時間も続き、戦いには何日もかかり、戦争は何年も長引いた。ところが、サイバー戦争は数分で終わりうる。サイバー司令部の当直の中尉が、何か異常なことが起っているのに気づくと、士官に電話し、上官はただちにホワイトハウスに通報する。

 

 

残念ながら、大統領がホットラインの送受話器に手を伸ばした時には、すでに戦争で敗北している。十分に高度なサイバー攻撃を行なえば、数秒のうちにアメリカの送電網は遮断され、各地の航空管制センターは麻痺し、原子力発電所や化学施設では多数の産業事故が発生し、警察と軍と諜報機関のコミュニケーションネットワークが不通になり、財務記録が消し去られて何兆ドルものお金が跡形もなく消え、誰がどれだけ持っていたかがわからなくなりかねない。

 

 

 

一般大衆がかろうじてヒステリーを起こさずに済むとすれば、それは、インターネットもテレビもラジオも使えなくなり、人々がこの災難の規模の大きさに気づかないからだろう。(略)

 

 

経済の領域でも、ハンマーを握ったりボタンを押したりする能力は以前に比べて価値が落ちており、それが自由主義と資本主義の重要な提携を危険にさらしている。二〇世紀には、私たちは倫理と経済のどちらかを選ばなくていいと自由主義者は説明した。人権と自由を守るのは、道徳的な義務であると同時に経済成長のカギでもあった。

 

 

イギリスとフランスとアメリカが繁栄したのは、これら三国が自国の経済と社会を自由化したからで、トルコやブラジルや中国が同じぐらい繁栄したければ、同じことをしなければならないとされていた。すべてではないにせよ、ほとんどの場合、専制君主やクーデター後の軍事政権が自由主義化する気になったのは、道徳的理由ではなく経済的理由からだった。

 

 

 

二一世紀には、自由主義者は自らを売り込むのがずっと難しくなるだろう。一般大衆が経済的重要性を失った時、道徳的理由だけで人権と自由が守れるだろうか?エリート層と政府は、経済的な見返りがなくなったときにさえ、一人ひとりの人間を尊重し続けるだろうか?(略)

 

 

そこで、今までにない疑問が出てくる。知能と意識では、どちらの方が本当に重要なのか?両者が結びついていた時には、総体的な価値を議論するのは哲学者の愉快な気晴らしにすぎなかった。

 

 

だが、これは二一世紀には、切迫した政治的、経済的な問題になっている。そして、その答えを知ったら、ぎょっとするだろう。少なくとも軍と企業にとっては答えは単純明快で、知能は必須だが意識はオプションにすぎない、なのだ。

 

 

 

軍と企業は知能が高い行動主体なしでは機能できないが、意識や主観的経験は必要としない。生身のタクシー運転手の意識的経験は、自動運転車の経験よりも計り知れないほど豊かだ。自動運転車は何一つ感じないからだ。(略)

 

 

 

だが、交通システムはタクシー運転手にはそこまで要求しない。乗客をA地点からB地点までなるべく速く、安全に、安く運べさえすればいいのだ。そして、自動運転車は間もなくそれを人間よりもはるかにうまくやれるようになる。音楽を楽しんだり、万物の神秘に対する畏敬の念に打たれたりすることはないが。(略)

 

 

 

能力を強化されていない人間は、遅かれ早かれ完全に無用になると予測する経済学者もいる。シャツの製造などでは、手作業をする労働者はすでにロボットや3Dプリンターに取って代わられつつあるし、ホワイトカラーも非常に知能の高いアルゴリズムに道を譲るだろう。

 

 

銀行員や旅行業者は、ほんの少し前まで自動化の波に対して安全だと思われたのに、今や絶滅危惧種になった。スマートフォンを使ってアルゴリズムから飛行機のチケットを買えるときに、旅行業者がいったいどれだけ必要だろう?(略)

 

 

今度はIBMの有名なワトソンのことを考えてほしい。二〇一一年に過去のチャンピオン二人を破ってテレビのクイズ番組「ジェパディ!」で優勝したAIシステムが。ワトソンは現在、もっと重要な仕事、特に病気の診断をするために準備を重ねている。

 

 

ワトソンのようなAIには、人間の医師をはるかに凌ぐ潜在能力がある。第一に、AIは自分のデータバンクに、歴史上知られているすべての病気と薬についての情報を保存しておける。そうしておいて、新しい研究の成果だけではなく、接続している世界中のありとあらゆるクリニックや病菌から集めた医学的統計を組み込み、このデータバンクを毎日アップデートできる。

 

 

第二に、ワトソンは私のゲノム全体と日々の健康状態や病歴を詳しく知っているだけでなく、私の親や兄弟姉妹、親戚、隣人、友人のゲノムと健康状態や病歴も知り尽している。ワトソンは私が最近、熱帯の国を訪れたかどうかや、再発性のウィルス性胃腸炎にかかっているかどうか、身内に大腸や小腸の癌になった人がいるかどうか、町中の人が今朝、下痢の症状を訴えているかどうかを瞬時に知る。(略)

 

 

医師に当てはまることは、薬剤師にはなおさらよく当てはまる。二〇一一年、ロボットがたった一台で応対する調剤薬局がサンフランシスコで開業した。人間がその薬局にやってくると、数秒のうちにロボットが処方箋を全部受け取るとともに、その人が服用している他の薬や、抱えているかも知れないアレルギーについての詳しい情報も入手する。(略)

 

 

 

開業から一年で、このロボット薬剤師は処方箋に従って二〇〇万回の調剤を行なったが、一度としてミスは犯さなかった。生身の人間の薬剤師は、平均するとすべての調剤のうち一・七パーセントで間違える。これはアメリカだけでも、なんと、毎年五〇〇〇万回の調剤ミスに相当する。(略)

 

 

無用者階級

 

二一世紀の経済にとって最も重要な疑問はおそらく、厖大な数の余剰人員をいったいどうするか、だろう。ほとんど何でも人間よりも上手にこなす、知能が高くて意識を持たないアルゴリズムが登場したら、意識のある人間たちはどうすればいいのか?

 

 

歴史を通して求人市場は三つの部門に分かれていた。農業、工業、サービス業だ。一八〇〇年頃までは、大半の人は農業に従事しており、工業をサービス業で働く人はほんのわずかだった。その後、産業革命の間に、先進国の人々は農地や家畜から離れた。大多数は工業の分野で働き始めたが、サービス部門で仕事に就く人もしだいに増えて行った。

 

 

過去数十年間に、先進国は新しい革命を経験した。工業の仕事が消え、サービス部門が拡大したのだ。アメリカでは二〇一〇年には、農業で暮らしを立てる人はわずか二パーセント、工業部門で働く人は二〇パーセントだったのに対して、七八パーセントの人は、教師や医師やウェブページデザイナーなどの職に就いていた。

 

 

 

心を持たないアルゴリズムが人間より上手に教えたり、診断を下したり、デザインをしたりできるようになったら、私たちはどうしたらいいのか?

これは真新しい疑問ではない。産業革命が勃発して以来、人々は機械化のせいで大量の失業者が出ることを恐れて来た。

 

 

ところが、そういうことにはならなかった。昔ながらの職業が時代遅れになるなかで、新しい職業が誕生してきたし、機械よりも人間の方がうまくこなせることがつねにあったからだ。とはいえ、これは自然の摂理ではなく、今後もその状態が続くという保証はまったくない。(略)

 

 

意識をももたないアルゴリズムに手の届かない無類の能力を人間がいつまでも持ち続けるというのは、希望的観測にすぎない。この幻想に対する現在の科学的な答えは、以下の三つの単純な原理に要約できる。

 

 

1 生き物はアルゴリズムである。ホモ・サピエンスも含め、あらゆる動物は膨大な歳月をかけた進化を通して自然選択によって形作られた有機的なアルゴリズムの集合である。

 

2 アルゴリズムの計算は計算機の材料には影響されない。算盤は木でいていようが、鉄でできていようが、プラスティックで出来ていようが、二つの珠と二つの珠を合わせれば四つの珠になる。

 

 

3 したがって、有機的なアルゴリズムにできることで、非有機的なアルゴリズムにはけっして再現したり優ったりできないことがあると考える理由はまったくない。計算が有効であるかぎり、アルゴリズムが炭素の形を取っていようとシリコンの形を取っていようと関係ないではないか。

 

 

たしかに現時点では、有機的なアルゴリズムのほうが非有機的なアルゴリズムよりも上手にできることがとてもたくさんあるし、非有機的なアルゴリズムには「永遠に」けっして手の届かないこともあると専門家たちは繰り返し宣言してきた。

 

 

だがいざ蓋を開けて見ると、「永遠に」というのが実は一〇ねんか二〇年にすぎないことがしばしばある。(略)

 

 

彼らはコンピューターにはけっしてチェスで人間を打ち負かすことはできないと信じていた。ところが一九九六年二月一〇日、IBMのコンピュータ―、ディープ・ブルーがチェスの世界チャンピオンのガルリ・カスパロフを破り、人間の優位に関するこの主張を葬り去った。(略)

 

 

 

実際、時が流れるとともに、人間をコンピューターアルゴリズムに置き換えるのは、ますます簡単になっている。それは、アルゴリズムが利口になっているからだけではなく、人間が専門化しているからでもある。

 

 

太古の狩猟採集民は、生き延びるためにじつにさまざまな技能を身に着けた。だから、ロボットの狩猟採集民を設計するのは途方もなく難しいだろう。(略)

ところが過去数千年の間、私たち人間はずっと専門化を進めて来た。タクシー運転手や心臓専門医は、狩猟採集民と比べて得意な分野が非常に限られているので、AIに置き換えやすいのだ。(略)

 

 

アルゴリズムが人間を求人市場から押しのけていけば、富と権力は全能のアルゴリズムを所有する。ほんのわずかなエリート層の手に集中して、空前の社会的・政治的不平等を生み出すかもしれない。今日、何百万というタクシーやバスやトラックの運転手は、強い経済的・政治的影響力を持っており、それぞれが輸送市場を少しずつ占有している。

 

 

もし彼らの集団的利益が脅かされたら、連合してストライキを始め、ボイコットを展開し、強力な投票者集団を形成する。ところが、何百万もの人間の運転手たちが単一のアルゴリズムにいったん取って代わられてしまえば、彼らの富と権力はすべて、そのアルゴリズムを所有する企業と、その企業を所有する一握りの大富豪たちに独占されてしまうだろう。(略)」