読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

日本人とは何か。

「3 律令制の成立

◎”科挙抜き律令制”の導入

(略)

「では天皇は日本人の教皇(ポープ)なのか」。この質問には少々弱った。後にイエズス会の東洋宗教研究所(当時)トマス・インモース師から、キリシタン宣教師が「天皇教皇に、足利将軍を実権なき神聖ローマ帝国皇帝に、分国大名をその帝国の大諸侯になぞらえている」と聞いた時、「ウーム、あのときこれを知っていれば、もっとうまい答えようがあったものを」と思ったが、あとの祭りだった。(略)

 

 

「帝権と教権」とか「教皇の俗権停止」とか言った言葉は、西洋史にしばしば登場する。(略)

 

 

 

中国の場合は、皇帝が聖人で、官僚が君子、そして律令が順守されれば、孔子が理想とした「王道」の国すなわち理想社会ができるはずであった。(略)

では、中国へ行って律令制を知った七世紀の日本の留学生は、果たして以上の基本的な考え方を正確に把握して帰国したのであろうか。七世紀の留学生が何を考えていたか現在ではわからないが、日本に移植された律令の運命を見ると、この基本には余り関心を持たなかったと思われる。(略)

 

 

 

というのは日本の律令制は「科挙抜き」であった。もっとも実施してみた、あるいは実施しようとしたらしい形跡はあるが、科挙で選抜された者が国政を担当するという体制はついに実現しなかった。(略)

 

 

 

しかしいずれにせよ「科挙抜き律令制」とは「選挙抜き民主制」のようなものである。

というのは中国では官職の世襲は許されず、同時に全中国人に科挙の受験資格があり、合格した者のみが官職につきうる。これは選挙で当選した者のみが国会議員になり、首相にもなりうるのと似た意味を持ち、もしここに「官職の世襲」が入ってきたら、律令制の基本精神は崩れて、文字通り、似て非なるものになってしまう。

 

 

 

中国はこの体制を完成させていったが、日本は別の道を歩んでいった。というのも、この律令制を導入するのは、当時の日本に要請されている政治目的に合わせてこれを利用することが目的であったし、またそれだけが可能であったからである。」

 

 

※ この本、上巻だけは一応読みました。難しく、古文書が載せられている部分は、

理解できない所も多く、それでも興味深く読んでいたのですが、ここで一旦やめます。またやる気が出た時には、続きを載せたいと思います。(12月1日)

 

 

 

日本人とは何か。

「かな文字文化完成への苦戦

だが、一つの文字文化 ―― それはその文化の基本を形成するものだが ―― を、何の模範も前例もなく、文字通り創出しようとするものは、常に苦闘を強いられた。日本人が「かな」の完成へと苦闘する三千年以上も昔に、セム族のアッカド人も同じような苦闘をしていた。

 

 

彼らはシュメール人楔形文字を採用したが、これも漢字と同じく表意文字だった。だがシュメール語とアッカド語は、中国語と日本語が同じでないようにやはり同じでない。

さらにシュメール人は、彼らの表意文字をそのまま音節文字にも流用していた。たとえばan=天空は、天空とは関係なく音節anとしても使用されたし、mu=名前もまた単に音節muにも使用されていた。(略)

 

 

 

さてこうなると、一個の文字が何を表しているのかわからなくなって、まことに「戦慄すべき楔形文字」となった。だが彼らはあらゆる工夫をしてこの混乱から脱出していった。それは日本人が「かな」へと脱却していったのと方向が違ったとはいえ、最終的にはラッ・シャムラの楔形文字アルファベットへと進んでいったわけである。

 

 

 

こうして見ていくと、日本人がやってきたことは、多くの創造的な民族がやってきたことで、その点において日本人もまた例外ではなかった。その意味で「かな」の創造は一種、普遍的な現象であったといえるが、日本人の出発は ―― 他の多くもそうだが ―― 彼らの出発よりはるかにおそかった。しかし、「かな」への脱却はきわめて早かったといえる。(略)

 

 

 

 

◎日本文学の独自性・普遍性

そして「戦慄すべき楔形文字」を連想させる万葉仮名が「いろは歌」のような形で「かな」として成立すると、日本人は、百花繚乱ともいいたい古典文学の世界を生み出した。「古事記」、「万葉集」「源氏物語」「古今和歌集」「平家物語」といった著名な作品だけでなく、ドナルド・キーン博士が「日本人の日記」の中で取り上げた膨大な日記文学にいたるまで、そこには、自国語を漢文の拘束から解放し、自由自在に自国の文字で語っていける喜びと豊饒さが現れている。

 

 

 

私は韓国に、このような自国語の古典文学がないことを知った時、一種の衝撃を感じた。もっとも「三代記」という「万葉集」のような歌集があったらしいが、それは失われ、はるか後代の十二、三世紀の「三国遺事」の中にその一部が漢字で集録されていることを知った時、一体なぜそのようになったのか、小林秀雄が「本居宣長」の中で記しているように「文化の中枢が漢文で圧死させられた」のか、との何ともいえぬ不思議な感じに打たれた。

 

 

 

万葉集という歌集は、とにかくわれわれが、無条件に楽しめる文化遺産である」(岩波版日本古典文学大系「解説」の冒頭)といえる遺産をもつわれわれは幸福である。万葉集は今も生き続けている。

 

暇無く人の眉根をいたづらに掻かしめつつも逢はぬ妹かも

 

こういった歌を読むと、なんとなく私は最近流行の「サラダ記念日」的な歌を連想し、こういう伝統は消えそうで消えず、民族の心の底に見えぬ流れとなって流れつづけ、時々、噴水のように噴き出してくるような感じをうける。(略)

 

 

自らの文字を造ると、いきなりその文字で自らの言葉の自らの文学を創作した民族は珍しい。自らの文学を創作するにあたって、ローマ人は長い間ギリシア語を用い、ヨーロッパ人は長い間ラテン語を用いても、自国語は用いなかった。この点では自国の文学をあくまで漢文で記そうとした韓国人の方が普通なのかもしれない。(略)

 

 

 

いわば日本人は「かな」による自国語の世界に生きつつ、同時に漢字という当時の東アジアの「世界文字」につながって生きていた。そしてこのように独自性と普遍性を併せ持つことで日本の文化は形成されていった。(略)

そして明治のはじめに日本人が英語に接したとき、これを漢文のように受け取り、そのため英語を「読めるが、話せない」人々が輩出した。これは「漢文は読めるが中国語は話せない」という伝統の現代版である。だが他国の文化を摂取するのはそれで充分な一時期があり、日本人がそれをまことに能率的に活用したこともまた否定できない。

 

 

 

この点ではインド人や中国人の学び方と全く違う。伝統とは実に根強いものである。(略)

日本文化とは何か。それは一言でいえば「かな文化」であり、この創出がなければ日本は存在しなかった。さらに、近代化・工業化にも多大の困難を伴ったであろう。そしてその文字を創出していく期間、いわば、「戦慄すべき万葉がな」の期間は、同時に律令制が出現へと向かって行く期間だったのである。日本人はまことに能率的に、文字と文学と中央集権的統一国家とを併行して形成していった。」

 

 

 

 

日本人とは何か。

「◎「かな」はだれが造ったのか

では一体、日本文化を決定したといえる「かな」はだれがつくったのであろう。(略)

漢字をそのまま表音文字に用いた「万葉仮名」が「かな」の基本であることは言うまでもないが、「万葉集」自体が5世紀前半から天平宝字三年(七五九年)正月一日まで、約四百年間にわたる四千五百首ほどの歌の集録(二十巻)で、「万葉集」自体が「一漢字→一かな」とはなっていないから、だれの創作かは、はじめから不明である。

 

 

 

 

 

これが余りに複雑なため、平安時代にすでに難解となり、そこで天暦年間(九四七~九五七年)に宮中で源順ら五人が「万葉集」にひらがなで読みを添えた。これが「古点」、これを付したのが「古点本」といわれ、現代の「万葉集」の原本になっている。

このように複雑なものを簡単に説明するのは難しいが、源為憲「口遊」(天禄元年=九七〇年)を見るとその原則が理解しやすいので、次に記そう。(略)

 

 

以上のように四十七字になる。このほかにもさまざまな「いろは歌」があったらしいが、もし万葉仮名と現代のかなとの関係が上記のようにすっきりしていたなら、「古事記」の解読などはたいしてむずかしい問題ではなかったであろう。(略)

 

 

 

 

一例として「く」を取り上げてみよう。推古期には「久」だが、古事記・万葉では「久玖九鳩君群口苦丘来」で、これが日本書紀では「久玖区苦句 窶屨衢」となっている。なぜこのように複雑になったのであろうか。

まずその期間が四百年にわたること、また「万葉集」では多く地方の歌も集められたこと、記紀ではおそらく、中国にならって同一の漢字の反復を避けたためなどの理由があると思われる。(略)

 

 

 

まことに混沌とした感じだが、これは自分の心の中にある歌を、何とかして、その当時の日本の周辺世界にあった唯一の文字で書き表そうという苦闘の結果だった。(略)

そこにあった苦闘は、漢字に圧倒されて日本語を殺すか、漢字をてなずけて日本語の文字にしてしまうかという苦闘だった。そしてもしそれができなければ最初に生命を失うのは詩と歌だったはずである。

 

 

 

和歌を漢文にすれば死んでしまう、それはもう歌ではない。この点ロドリーゲスがかなの使用で「韻文や詩の書物を書く」のに用いると記しているのは、正確な記述というべきであろう。」

 

 

 

 

日本人とは何か。

「2 文字の創造

◎ 日本文化の源「かな」

(略)

もちろん文字なき文化はあるし、言葉なき思想もありうる。だが「古事記」「万葉集」から「竹取物語」や「源氏物語」「伊勢物語」「平家物語」、さらに歌集・日記類から随筆「徒然草」に至る膨大な「かな古典文学」ともいえるものが創造されなかったら、現代の日本文化は無かったといってよい。

 

 

日本人は「かな」をつくり「かな」が日本文化をつくった。この意味で日本を考える場合、「かなの創造」は、忘れることのできない画期的事件、「かなの創造」がそれ以後の日本に与えた影響は計り知れない。(略)

 

 

 

ヨーロッパ人で「かな」に関心を持ち、それについて最初に記したのはキリシタン宣教師パードレ、バルタザール・カーゴで、彼は書簡の中で漢字とかなの一部を例示し、日本人は漢字を基にして、はるかに理解しやすい便利な文字を創作し、これが一般人に使われ、重立った人々がその上に漢字を知ろうとしていると記している。(略)

 

 

ロドリーゲスがこの膨大な著作を完成したのは、一六三〇年ごろであろうか。ロドリーゲスの著作は、いま読んでも見事なもので、情報化社会などといわれる現代でも、これだけ詳しく日本のことを知っている外国人が果たして何人いるであろうか、と思わせるものである。そこで前記の彼の著作の一章の一部を次に引用させていただこう(岩波版大航海時代叢書 ジョアン・ロドリーゲス「日本教会史・下」による)。

 

 

彼はまず中国人がなぜあのように難しい漢字の学習に専念するかを述べる。それは科挙に合格するためで、「これらの(合格した)人々だけが王国の文治を掌り、王家に属するあらゆる職務と任務および王国の官吏(マジストラード)の仕事を行なうことができる」からであり、そして、「それによって得られる利益と名誉のため」に漢字を一心に学ぶのだが、日本人はそうではないので、「諸宗派の学者を除けば、普通には、俗人の貴族と一般大衆が、シナ人のように大いに精励して文字を学ぶことに専念することはない」。ここに基本的な違いがあると述べている。この「科挙」の有無という日中両文化の基本的な違いは後述しよう。(略)

 

 

 

そして彼が当時の「世俗の書翰や覚書、その他この種のもの」がほとんどひらがなだけであったように記しているのは、正確な観察である。というのは祐筆に書かせた公式書簡などば別だが、私的な手紙では、信長も秀吉も家康も、まるで「かな文字論者」の手紙のようにかなが多いからである。ただ当時は濁点を打たず、漢字は「当て字」だから現代人には相当に読みづらい。(略)

 

 

 

以上は、織豊時代から徳川時代にかけての手紙だが、幕末になっても私的な手紙はほぼ同じようなかな書きで、これは渋沢栄一の千代夫人への手紙にも現れている。ただ女性向けの手紙(前記の家康の手紙はおかち・あちゃ両局宛)は特にかなが多かったといえるが、正式の文書でない内示もまたかなが多い。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本人とは何か。

「◎「骨(かばね)の代」の氏族体制

一体「骨(かばね)」とは何であろうか。それは大体氏族の首長もしくは中心的人物をいうと定義してよいであろう。これは韓国語の「骨」の用法を用いたと見るのが定説で、韓国では「真骨」もしくは「第一骨」といえば王族のこと、「第二骨」といえば貴族のこと、これが日本に伝わり、たとえば「武烈天皇紀」に「百済国守之骨族」という語が見える。(略)

 

 

 

 

そしてこの氏族が土地・人民を所有して半独立国のようになっており、時にはそれらが相争って「倭国の内乱」となるわけだが、その中のおそらく最大に氏族が天皇であり、他の氏族と違う点はおそらく祭儀権を持っていたことであろう。(略)

 

 

そして祭儀権者が亡くなり、この連合が崩壊すると混乱して内乱状態となる。こういう場合、中国から張政のような者が来て、祭儀権者の後盾となって混乱を収束させたものと思われる。この、女帝が祭儀権をもち、皇太子その他が統治権を行使するといった形態は、推古女帝と聖徳太子、皇極女帝と中大兄皇子、その他の例に見られる。(略)

 

 

 

前述のように日本人は元来は姓がなかったと思われる。この点では東南アジアを連想させるが、やがてこの職業その他が姓になっていく。たとえば地方官の国造・県主は和気・君・稲置・村主等の姓となり、また職業・技術・地名等も姓となった。(略)

 

 

 

 

中央の朝廷にはこの種の部が数多くあり、その長が姓を有し、その仕事は世襲であった。日本人の姓が何によって生じたかといえば大体以上がその起源だが、その姓が今まで継承されているわけではない。日本では養子が自由だから、よい世襲権をもつ家に養子に行くこともある。さらにこの氏族の人数が増加すると、苗字が生じてくる。

 

 

元来は、苗字と姓は同じではなく、分家に対する称号で、たとえば藤原家が近衛・一条・二条・九条・鷹司等の苗字を持つようなもの、この場合、正確に言えば「姓は藤原、苗字は近衛」となるが、しだいに苗字が姓のかわりになってしまう。そして武家時代になると各人勝手に姓を名乗る。元来無かったのだから、それらは自由自在で、足利末期には下層民が上層貴族の苗字を名乗るに至る。

 

 

 

話は先に進み過ぎたが、以上のような氏族制は、次第に崩壊せざるを得なかった。(略)

そしてこの弱点が最も強く露呈してきたのは、再び国内を統一し、強力な帝国となった隋・唐が、その勢力を朝鮮半島にのばしてきて、百済から援軍を要請されたときであった。

 

 

 

救援の日本軍は白村江で惨敗して百済は亡びる。次は日本の番ではないかという恐怖は、北九州の防備を厳重にしたことに現れている。(略)

 

 

 

だが六朝の影響の下で、政治より文化を優先させていたこと、そして詩や歌をつくることに大きな価値を置いていたことは、決して無駄ではなかった。「かな」を生み出す、大きな要因になったと思われるからである。」

 

 

 

日本人とは何か。

◎ 津田左右吉博士の卓説

(略)

津田博士は「日本書紀」や「古事記」は「歴史的事件」の記述ではないが、「歴史的事実」を現わしているといわれ、この二つの関連を「源氏物語」を例に説明されている。「源氏物語」は小説で登場人物も事件もすべてフィクションだから「歴史的事件」の記録ではない。

 

 

 

しかしそれは平安朝の貴族の「社会及び思想」がなければ存在し得ない。すなわちこの小説の背後にある「社会及び思想」という「歴史的事実」が示されている。そしてこの関係は「日本書紀」「古事記」も同じだが小説でなく「説話」であると津田博士は主張する。

 

 

ではその背後にどのような「歴史的事実」があったのであろうか。膨大な公判記録の中から、津田博士が指摘している点を箇条書きにしてみよう(一部は要約し、前後の関係を見て敷衍した)。

 

(一) 日本民族のこの島に於いて生活してきた歴史が非常に長いということを考えなければならない。そこで日本民族のこの島に移住して来たのは非常に古い時代であるということ。今日われわれに知られている限りに於いては、日本民族と同じ人種のもの、同じ言語を使っている民族は他にないということ、これだけは事実として明らかなことであります。

 

 

(二) 日本の民族性を考え、また上代の歴史を考えるに最も必要なことが一つあると思います。それは、日本人が遊牧生活をしたことがないということ(と同時に、遊牧民文化・砂漠の文化から影響を受けた形跡はない。日本には家畜はあっても、牧畜と言えるものはなかったらしい)。

 

 

 

(三) どうして生活をしたかと申しまするに、その程度は幼稚でありましょうけれども農業生活をして居ったと考えられます(もちろん狩猟・漁撈・採集は併用された)。文化の程度は上代に於いては無論低いのであります。(いわば生産性が低いので)一定のところに安んじて仕事をしなければ衣食することができないのであります。

 

 

(四)(以上のほかに)なお日本が島国であるということが一つの大きな事実であります。(言うまでもないが太古に於いては海を越えての大挙移動は不可能)したがって異民族との争闘ということがありませんでした。(略)

 

 

 

上代の人間に於いて語り草となっていることは、やはり戦争であります。子供が戦争の話を喜ぶと同じように、上代人の一番面白く思うことはやはり戦争の話であります。

ですから、どこの民族の上代の歴史を見ましても、あるいは叙事詩のような文学上の作品を見ましても、その大部分は戦争の話であります。

戦争の話ならば多くの人が面白くそれを語り伝えるのであります。

 

 

 

上代人に於いては何か変わった事件でなくては語り伝えるということは少ないのであります。

ところが、わが国の上代に於いては余り語り伝えることがないのであります。

ないということは、平和であるということであります。昔のことがわからなくなったということは、何であるかというと、平和な生活をして来たということ、戦争が少なかったということであります。

 

 

 

皇室がいかにして国家を統一遊ばされたかということの話が余り伝わらなかったということも、やはり武力をもって、すなわち戦争の手段を以て圧伏をせらるるということもなかった。平和な上代に於いて、しだいしだいに皇室の御威徳が拡がっていった、こういう状態であるとしますれば、語り伝えるべき著しい異変というものがありませぬ。

 

 

異変がないということは、すなわち極めて平和の間にそういう国家の統一が行われたということになるのであります。

このことは日本の上代史、日本の国家の起源を考えるに当たって極めて重要なことと考えます。」(略)

 

 

 

では大和朝廷はこういった政治的小勢力を次々に打倒して日本を統一国家にしたのであろうか。そうは考えられず、何らかの文化的優位性をもって、他の政治的小勢力を服属させて行ったのであろうと津田博士はいわれる。それは「骨の代」の体制にそのまま現れている。(略)

 

 

以上のことは小戦闘がなかったということではない。しかし韓国の成立史と明らかに違う。(略)

六世紀末に隋が高句麗の征討をはじめ、ついで唐もこれを行なったが共に失敗した。ついで唐は新羅と協力して六六〇年に百済を滅し、つづいて六六八年に高句麗を滅したが、両国が滅びると新羅は唐と戦って百済高句麗の故地を占領し、ここに半島を統一した国家が形成された。

 

 

津田左右吉博士がいわれているのは、このような「国家形成史」がなかったということ、それが「制なき時代」が出現する前提であったろう。

以上のようにして、ゆるやかな文化的統合体としての日本が形成され、それがそのまま統治体制となったのが「骨の代」であろう。」

 

 

 

 

 

 

 

日本人とは何か。

「◎人類史を駆け抜けてきた民族

「日本人」—— 外国人はこの名称を付された民族に、「何か理解しかねるものがある」という感じを持つことがあるらしい。その感じから出たらしい質問に接した場合、私は大体、次のように答える。

 

 

「日本人は東アジアの最後進民族です。先進・後進を何によって決めるか、どのような尺度を採用するかは相当にむずかしい問題でしょうが、たとえば数学ですね。中国人は偉大な民族で、西暦紀元ゼロ年ごろ、すでに代数の初歩を解いていたのですが、当時の日本人ときたら、やっと水稲栽培の技術が全国的に広がったらしいという段階、まだ自らの文字も持たず、統一国家も形成しておらず、どうやら石器時代から脱却したらしい状態です。

 

 

 

 

この水稲栽培すなわち農業に不可欠なのが正確な暦ですが、ヨーロッパがメトン法(十九年閏の法)を発見したのが紀元前四三二年、一方中国人は紀元前六〇〇年ごろにすでにこれを発見していました。中国人は当時の超先進民族です。そのころの日本ですか?縄文後期でまだ石器時代、もちろん農業も知りません。(略)

 

 

 

 

ではこの縄文人とはいかなる民族なのか。この問いには長い間、解答がなかったが、多くの人は中国人・韓国人と同じ祖先をもつ民族だと考えていた。(略)

ところが最近、京大名誉教授日沼頼夫博士が興味深い説を提唱した。氏は生物学者で京大ウイルス研究所の前所長、歴史学者でも考古学者でもない。

 

 

 

日沼教授はATLウイルスのキャリアが、東アジアでは日本人にしかいないこと、日本以外では沿岸州からサハリンに分散している少数民族に発見されているにすぎず、中国・韓国にはいかに調査しても全くいないことを発見した。

 

 

 

ATLウイルスあどのようなウイルスかの説明は省く。そしてこれは母から子へと一〇〇パーセント伝わるわけでなく、大体四〇パーセントぐらいしか伝わらない。そこで人口が増えればキャリアの数はしだいに少なくなるわけだが、近親部族外婚による混血が進めば、ますます減少していく。

 

 

白人は今までの調査ではゼロ、中国・韓国もゼロとすると、東アジアではなぜ日本人にだけATLウイルスのキャリアがいるのか、これは日本人の先祖を考える場合、興味深い問題である。(略)」

 

 

 

◎ 中国の史書に現れた日本

(略)

紀元五七年から二六六年までの約二百年間に、中国にわずかに記録をとどめている当時の日本人はどのような生活をしていたのであろうか。それがある程度わかるのが樋口清之博士の発掘された「登呂遺跡」である。この遺跡の年代について細かい点では諸説あるが、中国の記録に日本が登場する前記の二百年かそれ以前であることは、ほぼまちがいないと言ってよい。

(略)

 

 

 

 

樋口博士は、ここに日本文化の原点があると次のように言われる。「……結局、水田というものは、急に一人が思いついて鍬や鋤一本でできるものでなく、大勢の共同労働と。その共通技術と、統一組織の中ではじめて成功するもので、日本が早く水稲栽培の文化で国家成立に成功したのは、これが出来得たためだと強調したいのである。

 

 

 

そのためには社会的に共同体をいじできる組織とその組織を機能させる指導力が生育していて、共通目的で共通労働が営まれなければならないわけである」と。

いわば共同体を形成して生きる以外に、生きる方法がない。そこで祭祀もまた「共同体の村落共同祭祀として個人の行事ではなく村落や地域の行事となって行った」。そういう共同体は共通の利害で連合する。これは後述する後代の惣村が与郷として団結するのに似た形かもしれない。

 

 

 

 

それら与郷が利害を異にして争う場合もあるであろうが、卑弥呼のようなシャーマンを中心に宗教連合的にゆるやかな統一を保っているのが普通の状態であったと見るべきであろう。稲作民族は定着して動かないのが普通であり、遊牧民族のモンゴルのような大帝国を建てた例は、史上にその例がない。(略)

 

 

 

伊勢神宮の内宮は「日本書紀」によれば垂仁天皇のとき現在の地に遷宮がなされたといわれる。興味深いのはこの神宮が、毎朝、火鑽具で火を起こしているが、この形式は登呂遺跡で発掘されたものと同じだということである。そして自らの田を三丁歩ほど持ち、これに稲を植え、穂刈をして高床式の倉におさめ、毎朝これをうすで脱穀する。

 

 

 

米は現在の日本で用いられているような「改良品種」ではなく、黒米・赤米がまじっている。また塩も自らの塩田で、「万葉集」に出てくるような堅塩をつくる。そして神饌を盛る土器も昔の通りに造られている。

この神饌の基本は御飯と塩と水、鰹節、鯛(夏は干物)、昆布、荒布などの海産物と野菜・果物、そして酒で、朝夕二回捧げられる。

 

 

 

簡単にいうと一部のものを除くと殆ど自給自足で古代のままである。これを大宮司以下が行っており、彼らが行っているのは祭祀であって「営農」ではない。そこでこの人たちの用いる農具や工具さらに生活用器は、みな祭儀用器だということになる。

 

 

 

しかしそれは、決して、年に一回か二回、「お祭りの時」だけに用いられているのでなく、毎日のように行われているのである。(略)

おそらく伊勢神宮で現在行われている以上に、当時の農民の日々の生活と密接に関連した作業であったであろう。そしてそれを行ないつつ祈念することによって、自己の支配下の水田に豊饒がもたらされると信じられていたのであろう。(略)

 

 

 

ここで一つの疑問が生ずる。それほど呉と関係が深いならなぜ「呉志」に「倭人伝」がなく、北方の「魏志」にのみあるのか、と。言うまでもなく当時は「三国志」の時代、魏・呉・蜀の君主みな皇帝と称していたが、魏はもちろんそれは認めなかった。魏は蜀漢を降伏させ(二六三年)、ついで魏にかわった晋が呉を滅ぼすと(二八〇年)、倭人が呉に朝貢したという記録はすべて削除したのではないかといわれる。(略)」