読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

論語の読み方 ― いま活かすべきこの人間知の宝庫 ―

「「秩序の基本」は「徳」にある

「政治的・社会的救済」となれば、それは当然に、「政治・社会はいかにあるべきか」「それを構成する個人はいかにあるべきか」に問題は集中する。

そして、その前提として「秩序の基本」は何かということになる。孔子はこれを「徳」に置いた。

 

「政を行うに徳をもってすれば、ちょうど北極星が自分の場所にじっとしており、多くの星がその方に向かって挨拶しているように、人心は為政者に帰服する」

「子曰く、政を為すには徳を以てす。譬えば北辰の其所に居りて、衆星の之に共うが如きなり」(為政第二17)

 

これが「為政以徳の章」で、しばしば徳治主義の基本と言われる言葉である。では、「徳」があれば何もしなくてよいのか。

 

 

「何もしないでいて、天下を治めた人は、あの舜(理想的天子)だろうか。彼は何をしたのか。姿勢を正しくして天子の南面の座にすわっていただけだ」

「子曰く、無為にして治まる者は、其れ舜なるか。夫れ何を為さんや。己を恭しくして正しく南面するのみ」(衛霊公第十五383)(略)

 

 

これらの言葉には、「徳治主義」なるものの基本的な考え方が表れているであろう。

そしてこれは、以後の中国の、また日本の、「秩序とは何か」の基本的発想となっている。孔子が乱世の人で「秩序」を探求したのなら、おもしろいことに「旧約聖書」のモーセも、またそうである。

 

 

 

彼も「出エジプト」をした烏合の衆に「秩序」を与えることが基本的な命題であった。

しかし、「秩序」の基本を何に求めるかとなると、モーセ孔子とはまったく違って、それを「契約」すなわち絶対者との契約に求めた。したがってそれから出てきた宗教は契約宗教であり、そこから出てきた社会は契約社会であった。(略)」

 

 

 

論語の読み方 ― いま活かすべきこの人間知の宝庫 ―

「いずれの国、いずれの時代、いずれの体制であれ、秩序は常に形を伴う。

いわばこれが「礼」である。それは共産圏であれ同じであって、だれかがレーニン廟の上に立って私これを共産党政権が如何とも出来ないなら、その体制は完全に崩壊したと見てよい。」

 

〇 ここを読みながら、先日の安倍元首相の国葬儀のことを思い出し、次のように読み替えていました。

 

民主主義国家において、首相は国葬にすべきではないという判断を、長年受け継いできているにも関わらず、更にその時点でも、多くの国民が反対しているにも関わらず、閣議決定で、それを強行し、これを国民が如何とも出来ないなら、民主主義体制は、完全に崩壊したと見てよい。 …と。

 

ある意味、棚から牡丹餅的に、形だけ体裁を整えていた民主主義体制を、本当の民主主義体制にするには、私たち一人一人が本気で闘い続けなければならないのだと、今、ヒシヒシと感じています。

 

「七十三歳の孔子には、これはショックであったであろう。その翌年、前四七九年、七十四歳で世を去った。しかし、曲阜の孔子の学園はつづいた。その弟子と孫弟子とが編纂したのが「論語」であり、これは一言でいえば、孔子学園における師と弟子との対話集・対論集だといえる。

 

 

 

そしてこの「論語」は中国の長い歴史の間に延々と読み継がれ、また、中国文化圏といえる世界で読み継がれた。日本もその一国である。この対話・対論集の歴史の長さと影響力は、西欧におけるプラトンの「対話篇」以上だといえる。(略)

 

 

この意味では、孔子はけっして「貴族趣味」ではなく、庶民の中から教育によって社会的責任を荷える人を養成しようとしたのだと言える。(略)」

 

 

「晩年の孔子は、いわば「孔子学園」の学長だから、「論語」を強いて分類すれば「教育書」に入れられるであろう。(略)

 

「人は教育によって善とも悪ともなるのであって、人間の種類に善・悪があるわけではない」

「子曰く、教有りて類無し」(衛霊公第十五417)

(略)

 

 

日本人は大体において、教育によって人は善くも悪くもなると考えており、この考え方は徳川時代に深く広く浸透した。徳川時代には「識字率五割」という、同時代の世界ではおそらく最高の水準と思われる教育が普及したが、この背後には「有教無類」があったであろう。と同時に儒教は「生涯教育」であり、「秘伝を授ける」とか「奥義を伝授する」とかいった考え方、同時に「それで卒業」という考え方がなかったことも影響していると思われる。

 

これが神道と違う点だということを、山崎闇斎(江戸時代の儒者)の弟子の佐藤直方は次のように述べている。(略)」

 

「生まれつき道を知る者がいれば最上。学んでそれを知るのが次。行き詰って必要を感じてから学ぶのがその次。そうなっても平気で学ぼうとしないものは最低」

 

孔子曰く、生まれながらにしてこれを知る者は上なり。学びてこれを知る者は次なり。(くる)しみてこれを学ぶはまたその次なり。(くる)しみて学ばざるは、民これを下となすと」(季氏第十六429)

 

〇「学ぶ」=「学問」と考えると、それぞれの分野の学者は、貴重な専門的知識をもっているわけで、その知識をしっかり伝えてもらい、社会に活かしてもらうことは、

多くの人間が「学ぶ」ことに繋がると思います。逆にそれをしないことは、真理に目を瞑ることになり、「下」「最低」になると思います。安倍・菅政権が何故、学術会議を

潰そうとしたのか。「道」を学ぼうとする真摯な勢力が、自分たちの行う、道から外れた政治の邪魔になるから、と考えたのだと思います。下で最低の人々です。

 

「(略)

そしてこのことは、「論語」の中の「学ぶ」を追っていけば自ずから明らかになる。そして「学ぶ」ことへの孔子の態度は「論語」の冒頭の、

 

「子曰く、学びて時にこれを習う、亦説ばしからずや。朋、遠方より来る有り、亦楽しからずや。人知らずして慍みず、亦君子ならずや」(学而第一1)

 

「学んだことを常に復習し、実習すると見につく。なんとうれしいことではないか。そうしていると遠方から同学の士が訪ねて来てくれる。それと話し合うのはなんと楽しいことではないか。そして世人が自分を認めてくれなくても、不平不満を抱かない。なんと立派な人間ではないか」

 

に集約されている。(略)

 

 

「(略)

このように見て行くと、孔子とは学問一点張りで、無学なものを軽蔑していたかのように誤解されやすい。だが孔子は、たとえ学問はしなくとも立派な社会人は立派と見、そういう人は学ばずとも学ある人と見ていた。

 

 

これでみると孔子の「下愚」とは、けっして学問のない者の意味ではないし、孔子の言う「学問をした人」は、けっして「高学歴の人」の意味ではない。(略)

 

 

「「易(とかげ)の色は賢々として周囲に応じて変わるもの、という古語がある。これは人間が、父母に仕える時には(孝子となって)その力のある限りを尽くし、君に仕える時には(忠臣となって)その身命すらも捧げ、朋友と交わる時には(親友となって)言ったことには責任を持つ事の譬である。

 

 

 

このような人は、もし学問をしたことがないと世間から見なされていても、私ならば、そういう実践こそが学問で、この古語の意味を真にわきまえた人だと断言して憚らない」

これは子夏の言であるが、世間の一般通念として学問をしたと言えない人でも、その行為が道に叶っていれば、それこそ学問したと言えるという、この発想はきわめて論語的な発想である。

 

 

まことにこれは孔子思想の最も鮮やかな特色であって、論語の中で随所にそれが見られる。実はこのような伝統的な、何気ない言葉に新しい解釈を吹き込んで教え、同じように、人生の目的、人間の生き方にも、この新しい言葉の概念によって指標を示したところに儒教が誕生したのであった」

以上の言葉は、孔子の次の言葉に対応するであろう。

 

 

「(修行中の)若者は、家庭では孝行、社会に出ては奉仕につとめ、注意深くして約束を守り、多くの人々と親睦する中でも誠実な人を選んで昵懇にし、実践した上の余禄をもって、教養を高めるが良い」(宮崎市定訳)

 

「子曰く、弟子、入りては即ち孝、出でては即ち悌、謹しみて信あり、汎く衆を愛して仁に親しみ、行って余力あれば即ち以て文を学べ」(学而第一6)(略)

 

「無学歴の立派な社会人に会い、一方で学歴社会である現代の日本を思うと、この孔子の言葉は様々な意味でわれわれに迫ってくる。おそらくわれわれは「社会人としての学問」について何か誤っているのであり、それは孔子の考えた「教育」が消えてしまったことを意味している。(略)

 

 

孔子にとって「学ぶこと」は象牙の塔にこもることでなく、学んだことを社会に生かすことだから、就職は当然であった。」

 

「だが、この「有教無類」は前述のように、「一律平等教育」だということではない。

孔子の弟子には様々な人がおり、孔子はその一人ひとりをよく見ていた。

 

「柴(子羔)は馬鹿正直で融通性がない。参(曾子)は少々鈍で呑み込みが遅い。師(子張)は片寄ったところがあって誠実さが足りない。由(子路)は無骨もので雅がない」と。

 

「柴や愚なり。参や魯なり。師や辟なり。由や喭なり」(先進第十一271)

 

そこでそれぞれの特徴に従って教育するから、極端な例を挙げると、孔子は弟子によってまったく反対のことを言っている場合がある。

(略)

 

 

いわば、相手に応じてそれぞれに教えることが孔子の教育であった。これが本当の平等教育であろう。いわば、各人にちょうどいい靴を与えるのが平等であって、靴を固定して、昔の日本軍のように「靴に足を合わせろ」は平等ではない。いまの日本の平等教育なるものは、孔子から見れば、ひどい不平等教育であろう。」

 

「どうしたらいいか、どうしたらいいかと自ら解決を求めない者は、私もどうしたらよいかわからない」

「子曰く、これを如何せん、これを如何せんと言わざる者は、われこれを如何ともすること未きのみ」(衛霊公第十五394)— これはおそらく弟子への激励の言であろう。と同時にそれが、自ら「啓発」を拒否し、一生それを続けてきた原壌への怒りとなっているのであろう。こうなると「下愚」とは「自ら意識的に啓発を拒否しているすねもの」の意味になってくる。(略)」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

論語の読み方 ― いま活かすべきこの人間知の宝庫 ―

「(略)

以上は、中島敦が「弟子」で描いた孔子である。おそらく孔子は、ここに描かれた像とあまり違わない人であったろう。この孔子は紀元前五五二年か一年に、中国のいまの山東省内の小都市国家「魯」の国に生まれた。

 

 

いわばソクラテスのように都市国家の出身であり、また同じように王朝国家へと移行する 過渡期に生きた。出生伝説らしいものはなく、生まれたときシャカのように「天上天下唯我独尊」と言ったとも、イエスのように、大工の子として馬屋で生まれたとき、星に導かれて東方の三博士が貢物を持ってやってきたとも記されていない。(略)

 

したがって母親は顔徴在、幼くして父を失い、この母に育てられているが、若くして母も失ったという伝説もある。いずれにせよ、幼児時代の家庭は必ずしも恵まれたものではなかったらしい。」

 

 

「(略)

この精神的秩序と社会的秩序の一体化、それも一種の「美的一体化」とでもいいたい方向に孔子が進んだことの背後には、強い美的感受性があったものと思われる。いわゆる「儒者」とか「道学先生」とかいわれた人たちは、孔子がまことに度外れた音楽好きであった点を見逃している。

 

 

孔子は斉(せい)にいるとき、(しょう)の音楽を聞いた。感動のあまり長い間、肉の味がわからなかった。そして言った。「思いもよらなかった、音楽にここまで熱中してしまうとは」と」

 

「子、斉に在りて(しょう)を聞く。三月、肉の味を知らず。曰く、図らざりき、楽をなすことのここに至らんとは」(述而第七161)

 

そして「子、(しょう)をいわく、美を尽くせり。また善を尽くせり。武をいわく、美をつくせり、未だ善を尽くさず」(八佾第三65)。

 

 

 

(しょう)は聖天子とされた舜の音楽、武とは周の武王の音楽だが、孔子は(しょう)においてはじめて、美と善とが一致するとしている。この場合の「善」とは大体「倫理的価値」と受け取ってよいであろう。孔子はそれを聞いて、いたく感動したわけである。

 

 

 

当時の音楽は、現代では孔子の編纂を経て伝わっている「詩経」を音楽の伴奏で歌ったもので、それは楽師の家に伝承されていた。孔子はこれを学び、その一部が宴席などで歌われると、

 

 

「子、人と歌って善しとすれば必ずこれを反せしめ(繰り返させ)、而る後、これに和す(いっしょに歌う)」(述而第七179)のを常とした。では、最高の音楽とは何なのか。

「「詩経」に三百篇あるが、一言でいえば、心に邪念がない、といえる」

「子曰く、詩三百、一言にしてこれを蔽えば、曰く、思い邪なし」(為政第二18)であって、彼は人間の自然な感情の流露の中に、美と善の調和を見たのである。

 

 

 

したがって、孔子が教育を「詩ではじまり、礼で外的規範を正し、音楽で調和的完成に至る」

「子曰く、詩に興り、礼に立ち、楽に成る」(泰伯第八193)という順序だと考えて不思議でない。そして、この「詩・礼・楽」は戦後の受験教育では、ほぼ完全に無視されている。(略)」

 

 

 

 

論語の読み方 ― いま活かすべきこの人間知の宝庫 ―

〇 2章以降の内容を載せます。

「2章 偉大なるリアリスト —孔子の素顔

  — 乱世にひたすら秩序を求め続けた「偉人」の生涯

 

 3章 「有教無類」 —生涯学び続ける精神

  — 実人生を豊かにする知恵こそ「学問・教育」の本当の目的

 

 4章 「礼楽」 — 人間社会繁栄の方法

  — 社会と個人を共に律する「秩序」の在り方

 

 5章 「信」 —人間性を見抜く基準

  — 二千五百年来不変、孔子の説く「社会人失格」の条件とは

 

 6章 「下学」 — 人間を創り上げる基礎

  — 「集団」に自己を活かす秘訣と品性を高める心構え

 

 7章 「上達」 — 人望を得るための条件

  — 社会のリーダーとして信用される人物像とは

 

 8章 「仁」 — 人それぞれの歩むべき道

  — 自己を完成さす「生涯教育」の方法は、いかにあるべきか

 

 <おわりに>「論語の読み方」 —その歴史と変遷  」

 

となっています。

 

2章以降は、あまり文章の流れに拘らず、気になった文章を抜き出し、感想などを書いて行こうと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

論語の読み方 ― いま活かすべきこの人間知の宝庫 ― (1章 いま、なぜ「論語」なのか)

「< 共通の古典の存在こそ、教育のバックボーン>

(略)

このように見ていくと、戦後とは一見、古典的素養に基く自律性皆無の膨大な「無規範人間」を生み出したように見えるし、この傾向が皆無とはいえない。(略)

 

<なぜ、戦後の「論語批判」が的はずれか>

(略)

だが、明治の場合と同じく「論語」だけは読みつがれていた。

私たちが戦前に読んだのは、昭和六年版(一九三一年)の簡野道明著「論語解義・増訂版」である。初版はその二十年前だから明治四十四年(一九一一年)である。

私はこの本を焼失したが、戦後に神田の古本屋で同じ本を見つけた。

 

懐かしさのあまり買って奥付を見て驚いた。「昭和三十二年増訂五十一版」となっている。戦前戦後という激変の時代には、また多くの話題を提供した本が泡沫のように時代の流れの中に消え失せていった時代に、この「論語解義」は静かに生き続けていたわけである。

これが、その民族の古典というものであろう。(略)

 

 

私は戦後の食糧不足のころ、しばらく闘病生活をしていたが、病中のつれづれに読んだ雑誌の一文を、遠い昔に何かで読んだような気がした。何であるかしばらく思いつかなかったが、ふと「論語」のあの句ではないかと思い、思い当たるところを開いてみた。

 

 

 

そこには、政治のあり方を弟子の子貢に問われた孔子が「食糧備蓄、軍備の充実、民の信頼」を挙げ、さらに、この三つが保持できない場合、まず何を捨て去るかを問われ、真っ先に「軍備」を挙げ、次に食糧備蓄を挙げ、何よりも大切なのは人民の信頼で、これを失ったら一切の政治はないと説いているのである。

 

「子貢、政を問う。子曰く「食を足らし、兵を足らし、民之を信ず」。子貢曰く「必ず己むことを得ずして去てば、この三者に於て何を先にせん」。曰く「兵を去てん」。子貢曰く「必ず己むことを得ずして去てば、この二者に於て何をか先にせん」。曰く「食を去てん。古より皆死あり。民信なくば立たず」」(顔淵第十二286)(略)」

 

〇 このように、訳文が先にあって、その後に、漢文の読み下し文のようなもの?があるのが、とてもわかりやすく、助かります。

「民信なくば立たず」という文章は何度も聞いたことがあり、なんとなくわかっているような気がしていましたが、このような文脈の中で言われた言葉だとは、知りませんでした。

 

「<共通の規範がなければ、信頼感は生まれない>

(略)

そして孔子は、「政治への信頼をかちえることはできる」と言い、「民信なくば立たず」(顔淵第十二286)、すなわち「人民の信用をなくしたら、それはもう政治ではない」と言うわけで、これはまさに、現代への最も正しい政治認識と言えるであろう。もちろん、このことは経営者にも言えるし、管理職にも言える。

 

 

では一体、どのようにすれば、この「信」を得ることができるのか。(略)

そして政治・経済・個人の不信が極限までいけば、社会そのものが崩壊してしまう。社会そのものが信なくば立たずである。では一体、「信」とは何なのか。

それは互いに同じ規範を持っているという信頼感であり、これを培ってきたのが伝統である。それが崩壊した社会は、現代では少しも珍しくないから、その恐ろしさはすでに多くの人が語っているし、私もそれを経験している。(略)

 

 

 

<現実からの逃避は、無規範社会の肯定に同じ>

「(略)

子路は去って二人の言葉を孔子に告げた。孔子は二人が自分の考えていることの真意を喩(さと)らないのを惜しみ、憮然として嘆息して言う。「彼は、世を避ける士に従うほうがよい、と言うけれども、われわれは人類なのだから、いかに世を避けたからといって、まったく人と交わらないで鳥獣と共に群れを同じくすることはできない。

 

 

人類とともに群れを同じくするのでかくて誰と群れを同じくできよう。それゆえ、世を避け人と絶つことがどうしてできよう。彼は、天下に道がないから、一体だれとともにこれを易(か)えようとするのか、と言うけれども、もし天下に道があるならば、わたしも治に安んじて易(か)えようとはしない。今、天下に道がないからこそ、道を行なってこれを易(か)えようとしているのに」」(微子第十八466)

(略)

 

 

 

いわば、「世俗から超然としているように見える人間は、実は、世俗をそのまま肯定している結果になるのであり、しかも現実には、孔子の時代ですら完全に社会から断絶して超然としていることはできない。まして現代では、「世捨人」のような顔をしているヒッピーなどは、近代化・工業化社会に寄生して生きていながら、それを無視しているような顔をしているだけである。

 

 

このことは神学者ティリッヒが指摘して批判しているから、洋の東西を問わず、昔から今に至るまで同じような考え方が常に存在していることを示している。孔子はこの逃避的な発想を容認しない。(略)

といって「乱におもむき悪に走る」無規範社会を批判し、呪いつつ、実はそのままどっぷりつかって生きているなら、自らもその社会を構成している一人にすぎない。その中にいて、なお、人間の相互信頼を回復できる共通の規範を打ち立てようというのが孔子の生き方であろう。

(略)

 

 

 

いわば孔子が求めたのは「世俗社会の秩序の哲学」であって、けっして「隠遁者の神学」ではない。そして「論語」は、伝説によれば日本に渡来した最初の書籍であり、それは徐々に浸透し、日本が西欧の影響を受ける明治の直前ともなると、前述のように、一介の農民でも少し富裕なものは「四書・五経」を読み、それを自己の規範とし、子どもを教育し、また子どもを叱り諭すにも、それらからの引用で行うまでになっていた。(略)

 

 

 

 

ここで問題にしたいのは、その父が子を訓戒するために用いている「思不レ出ニ其位一」という言葉である。これが何からの引用か、今では「大学出」のインテリに聞いても答えられないであろう。

 

 

これは「易経」および「論語」の「憲問第十四361」からの引用で、「君子はその立場に忠実であると同時に、人の領域を犯さない。自分の位置、職責には使命感をもって徹するが、人のことにむやみに手を出し口をはさむことを慎む」の意味だが、渋沢栄一の父はこのように、けっして「オレがダメだと言ったらダメだ」と言っているのではなく、聖人の教えによれば、そうしてはならないがゆえに、そうしてはならないと言っている。

 

 

これが「共通の古典を持つがゆえに成り立つ親子の対話」であり、富裕とはいえ彼の父は一介の農民だが、その農民でも「四書・五経」を自由に引用している。こういう人が「論語」を完全に暗記していても不思議ではない。」

 

〇この「論語を読み方 ―いま活かすべきこの人間知の宝庫—」という本は、

1986年(昭和61年)に出版されています。「…まして現代では…」という文章を読みながら、今やこの時代よりも更に「無規範社会」の問題は大きくなってしまったと感じます。

 

 

「(略)

今では、自分がいかなる規範に従い、社会にどのような共通の規範があるのかわからなくなっているから自分の子どもを叱るにも、何が「親子を共に律する規範」で、何が社会一般に共通している規範なのかわからなくなっている。そのため渋沢の父のような態度がとれる人間はきわめて稀になってしまった。

 

 

それでいて「親子の断絶」を嘆いてもはじまらない。「…どっちの教養が本物かといえば、昔の人たちのほうだ」 — 確かにそういう家庭なら、子どもが金属バットで両親を撲殺したり、娘が、新婚旅行の途次に、他の男との間の嬰児の殺害死体を棄てたりするようなことは起こすまい。(略)

 

 

 

当時のさまざまな事件を挙げていけば、暗殺・虐殺・裏切り・兄妹相姦・スワッピング等々のスキャンダルがあり、これが、けっして現代の特徴でもなければ、近代化・工業化・都市化のために起こった現象でもないことを示している。

 

 

社会の崩壊とともに生ずる無規範の歴史も、長くかつ根深い。では、それは克服できないのか。一体これに、どう対処すればよいのか。

こういう無規範状態は、法律を厳しくし、警察権力を量的にも質的にも拡大し、いわば警察国家を作って徹底的に取り締まれば脱却できるであろうか。(略)

 

 

 

というのは、そういう時代には警察官も内的規範を喪失しているから、無規範状態の克服は余計にむずかしくなるだけである。

孔子は次のように言っている。「之を導くに政を以てし、之を斉(ととの)うるに刑を以てすれば、民免れて恥なし」と。

 

 

いわば「法律いってんばりの政治のもとにあっては、一般の道徳感情が地に落ちる。つまり人民は、法律に触れさえしなければ、何をしてもいいと考え、ついには法にひっかからねば、どんな悪事を犯そうと、恥じることを知らない人間ができあがる」という状態、すなわち「民免れて恥なし」となり、弁護士だけがやたらに多くなり、かつ繁昌するという社会になってしまう。

 

 

そうではなく、この逆を行なえば、すなわち「之を導くに徳を以てし、これを斉(ととの)うるに礼を以てすれば、恥ありて且つ格(ただ)し」(為政第二19)となるのである。(略)

 

 

 

「世の中をよくするために悪党を全部殺したら、などと考えるのは大きな間違いである。政治の目的は人民を生かすことにあるのだから。治者の徳性は風であり、人民の徳性は草である。善道の風を送れば、民は必ずこれに従って善道になびく」

「季康子、政を孔子に問うて曰く、kもし無道を殺して有道を就(な)さば如何。

孔子対(こた)えて曰く、子、政を為すに焉(いずく)んぞ殺を用いん。子、善を欲すれば民善なり。君子の徳は風にして、小人の徳は草なり。草はこれに風を上(くわ)うれば必ず偃(ふ)す」(顔淵第十二298)」

 

 

「<「怪・力・乱・神」を語らず「古(いにしえ)」を好む>

これが孔子の基本的な考えである。では、この「道」とは何なのか。一体それを孔子はどのように説いたのか。これを知るには、まず孔子が何を説かなかったかを考えねばならない。

 

 

「子、怪・力・乱・神を語らず」(述而第七168)

孔子は奇怪なこと、力をたのむこと、世の乱れや人の道を乱すこと、神怪のことなどは、口にし、説明しない。常に当たり前のことを説いた」

これは諸橋轍次氏の注だが、この「当たり前のこと」とは何なのか。簡単にいえば、それが「論語」の内容なのである。(略)

 

 

 

「子曰く、私は生まれながらに知識をもっていたわけではない。古代の理想社会を慕い、こまめに知識を追求した結果なのだ」

「子曰く、我は生まれながらにしてこれを知るものに非ず。古を好み、敏にして以てこれを求めし者なり」(述而第七167)や、

 

 

 

「古典に習熟して、そのうえでそこに新しい意義を見出し、その新しい解釈のもとに、現実問題に適用できるようにして、はじめて人に教える師となることができる」

「子曰く、故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知れば、以て師と為るべし」(為政第二27)もそれを示す。(略)

 

 

 

 

おもしろいことにユダヤ人の学習法もまたこれと同じなのである。いわば、旧約聖書とタルムード(ユダヤ教の口伝に基く法と生活規範)を徹底的に学び、それを基にしつつ、同時にその中にない新しいものを求めていき、それを余白に記す。(略)

 

 

 

そしてそれをやってみると、まさに「日の下に新しきものなし」(旧約聖書伝道の書)を思い知らされる。そこで、なにやら新しいことを言っているつもりの愚者にならないですむ。それを踏まえて孔子は次のようにも言った。」

 

 

「<思いて学ばざる」ことの悲劇>

(略)

 

「子曰く、学びて思わざれば、即ち罔(くら)し、思いて学ばざれば即ち殆(あやう)し」(為政第二31)

という非常に有名な一句に集約されているであろう。

「学ぶだけで思索しなければ心がくらくても何も知り得ない。自分で考えるだけで学ばなければ落とし穴に落ちる」の意味で、吉川幸次郎氏は「思索ばかりで本を読まない者はハッタリになる」といったような意味とされる。(略)」

 

 

 

「<理想社会の出現を信じない徹底したリアリスト>

(略)

 

あらゆる意味で孔子は徹底したリアリストであり、同時に理想を持ったリアリストであった。

「いま、なぜ「論語」なのか」と問われれば、「科学」という名の「空想」に基づく「思いて学ばざれば則ち殆し」といった「戦後主義」の風潮にとって、孔子とはまさにその対極の人だからである。彼は、理想を抱きつつなお、あらゆる意味で、人間を「浮き上がった」存在にしなかった。

 

 

そして現代、その視点から「論語」を読むことこそ、「故きを温ねて新しきを知れば…」ということであろう。だが、以上のように見てくると、私には、このような人が紀元前六世紀にいたということの方が、むしろ奇跡的に思えてくるのである。

では一体、孔子とはどのような人であったのであろうか。「論語」を念頭に置きつつ、まず、彼の生涯を振り返ってみよう。」

 

〇ここで、1章が終わっています。

ここでは、昔は庶民階級も論語を読み、親は子を育てる時の、共通の規範としていた、となっていますが、少なくとも私レベルの「庶民」(戦後生まれ)は、生活の中で論語を意識したことは全くありませんでした。

 

ただ、温故知新や巧言令色鮮し仁という言葉は、折に触れて耳にした記憶があります。

私の印象としては、私よりも年上の「偉い人」たちがそのような知識を持っていて、

時々それを引き合いに出す、というように見えていました。

戦後の学校教育では、思想・信条・宗教にはタッチできない(それらの自由を保障するために)ということだったから、規範らしきものを知る環境は、家庭と地域社会のみだったのだなぁ、とわかりました。

 

また、「故きを温ねる」というやり方は、ユダヤ人の学習法にもある、と聞いて、

以前、ハンナ・アーレントの「精神の生活」を読んだ時に、彼女は確かにそうしていた、と思い出しました。

 

(以下「精神の生活」よりの引用)

「そして我々がこういう状況の中でせいぜいできる事は、これまでの世代が神秘的な「初めに」[創世の物語]をなんとか把握するために伝統的に理解の手がかりとしてきた伝説にたちもどることである。

 
 
私は創設の伝説のことを指している。それは明らかに、あやゆる統治支配の形式やそれを動かす一定の原理よりもその先にある時間にかかわることである。」
 
 
 
〇 そして、この時にも思ったのですが、私たち日本人がその「創世の物語」にたちもどるとは、どういうことなのだろう、と。
私たちには、そこにたちもどって、勇気やモチベーションを取り戻すような「創世の物語」があるんだろうか、と。
やっぱり「天皇」になってしまうしかないのか…。
 
でも、そこに「共通の規範」はあるのか、と。
 
これは、私の想像ですが、
だからこそ、この山本氏は「論語」を挙げてこれを共通の規範にしませんか、と提案したのではないかと思いました。
 

 

 

 

 

    

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

 

論語の読み方 ― いま活かすべきこの人間知の宝庫 ―

 〇 しばらく「楽しい本」だけを読んでいました。

また少しずつ頭の体操をして行きたいと思います。

山本七平著「論語の読み方」を読んでいます。

 

山本七平は、敗戦の理由として、様々な問題を取り上げていました。

これまでメモした中にも、もう一度読み直して見るべき箇所がたくさんあるのですが、とりあえず、一か所だけ、ここに載せてみます。

 

日本はなぜ敗れるのか」の中の一部です。

 

従ってその実体は最後には、だれにも把握できなくなってしまう。(略)そして激烈な”軍国主義”が軍事力とされてしまうから本当の軍事力はなく、”精兵主義”が精兵とされるがゆえに精兵がいない、という状態を招来し、首脳部は自らの実情すら把握できなくなってしまうのである。」

 

多くの人命を預かっているはずの陸軍の参謀たちがどれほど愚かで、「反知性的」であったかが語られています。

 

でも、私たちはドキュメンタリー番組などで、驚くほど知性的で勇敢な戦い方をした日本人がいたことも、知っています。

 

問題は、何故私たちの国では、知性的で良心的で勇敢な人々が権力を持ったリーダーにならないのか、ということなのだと思います。

今もまさにそうです。知性的で良心的な人々が居ないわけではない。

なのに、私たちの国の政治家は、カルト教団に依存し、国会で平然と見え透いた恥ずかしい嘘を付き、居眠りをする。人として最も軽蔑する人々が、その政権与党にいて、それを誰にもどうにも出来ないのです。

 

私はそれが何故なのかを知りたくて、山本七平の本を読んでいたような気がします。

 

まえがきから少しメモします。

 

「まえがき

教育問題は、さまざまな形で戦後一貫して論じ続けられてきた。その議論のあとをたどっていくと、常に一つの問題が出てくる。それが「徳育」である。教育の専門家に「教育とは何か」と質問すると、判で押したように「教育とは知育・徳育・体育」で、いわば知・徳・体の健全な発育を目指すものである」という返事が返って来る。(略)

 

 

 

多くの社会人が、教育の場から巣立った新社会人をみると、「何かが欠けている」と次第に強く感ずるようになったからであろう。(略)」

 

 

「戦後は民主主義の時代であり、その原則の一つが「思想・信条・表現・出版の自由」であることは言うまでもない。この言葉は、政府は各人の持つ思想や信条に一切干渉してはならないということであり、政府が、戦前の「教育勅語」のように、一定の道徳ないしは徳目を国民に強制することがないということ、言い換えれば、政府が法律をもって拘束するのは、その人間の外に現れた行為だけであって、内面には一切干渉しないということである。(略)

 

 

 

この点では法は無力であり、それにストップをかけうるのは本人の内的規範だけだが、政府はそれには一切タッチしない。われわれが生きているのは、それを原則とする社会だから、各人には強固で自律的な内的規範が要請される。それがなくなれば社会は完全な無規範(アノミー)となって崩壊してしまう。これが本当の民主主義の危機であり、その点を早くから警告していたのが小林秀雄だった。

 

 

 

氏は福沢諭吉の「私立」について論じた時、民主主義のもとでは外から「私立」が侵されることはないが、内から腐る恐れのあることを指摘している。(略)」

 

 

 

 

 

 

 

風と共に去りぬ

〇 風と共に去りぬを読みました。

最初に読んだのは、中学に入ってすぐの頃でした。

とても引き込まれ夢中になりました。

河出書房 キャンパス版世界の文学18 大久保康雄 竹内道之助訳。

今回で3度目です。

 

子育てで気持ちに余裕がなかった時期が過ぎ、

35~6歳の頃に読んだのが2度目です。

その頃、いい加減で不真面目なクリスチャンでいることに、迷いが生じ、

こんな中途半端なクリスチャンなら、いっそきっぱりやめてしまおう、と思いました。

 

 

そんな状態で読んだのが、この物語だったので、

この本は、まさにそれがテーマでは?と思えるほど、

聖書の言葉を具現化した物語に感じられました。

 

メラニーの存在感が増し、その言動の意味をあれこれ考えました。

もう細かなことは憶えていないのですが、2~3か月、この本のことばかり考えていた記憶があります。

 

今回は、大久保訳ではなく、鴻巣友希子訳で読んだのですが、

あの赤毛のアンが、村岡花子掛川恭子とではずいぶん違っていた(掛川訳は完訳だったので、当然ですが)のに比べると、その違いはあまり感じませんでした。

 

ただ、以前よりも更にメラニーとレットの言動が印象深く感じられました。

メラニーは誰もが認める立派な貴婦人。

レットは誰もが認めるわかりやすい悪党。

でも、子供に対する態度は不思議なほど似ていて、

いわゆる律法的ではなく、

その子供の想いや気持ちを汲んだ対応になっています。

 

そのやり方が、スカーレットに対する対応にもなっているのかな…などと思いました。

メラニーとレットは大人。

アシュレとスカーレットは子供。

スカーレットとメラニーは似ていて、

レットとアシュレも似ている。

違う部分と似ている部分が入り組んでいるので、

あれこれ考えてしまう仕掛けになっているようです。

 

今回も考えてしまったのは、メラニーはスカーレットとアシュレの気持ちを

全てわかっていた……ということは、どういうことなのか…。

わかっていて、それでもスカーレットに頼るしかなかったから、気付かないふりをしていた?

じゃあ、逆にメラニーはスカーレットを利用していたということになるのでは?

等々…。

 

そして、読むたびに考えてしまうのは、ラストシーンです。

もう本当にレットの心は取り戻せないのか。

最初に読んだ時も、二度目に読んだ時も、そこが一番気になりながら、

散々あれこれ考えた挙句、最後には、やはりこれはもうどうにもならないのだろうな、と思いました。

 

 

今回も、やっぱり読んだ直後はそう思いました。

どうにもならない…と思わせるような書き方です。

でも、実は、最近になって、少し違うのではないか、と思い始めました。

 

 

大切な人を次々と失い、心細さの中で、スカーレットは、「レットさえいれば、もう一度貧しくなってもかまわない。寒くても、それどころか、ひもじい思いをしたってかまわない。」とまで思います。これは、あの敗戦の中で「もう二度と餓えない!」と決意した強烈な体験を上書きするような体験だと思います。

 

 

スカーレットは、メラニー亡き後、アシュリの面倒を見ていく、という義務を負いました。レットから見れば、スカーレットには必ずアシュリが「くっ付いている」状況になるわけで、そんな状況で、スカーレットと一緒にいたくない、という気持ちはとてもわかります。

 

 

タラに戻り、鋭気を養い、ここから先、スカーレットはどうするのか。

 

「レットの胸中を思うと、急に胸が痛んだ。自分の悲嘆も、レットの言葉の真意は何かという不安も吹き消してしまうような、欠くところのない思いやりだった。軽蔑の気持ちの混じらない思いやりを、スカーレットは生まれて初めて抱いた。それは、初めて他人を理解しようとしたことから湧いてきたものだった。

 

しかもレットのぬかりない周到な言動も、自分にそっくりでよく理解できたし、かたくななプライドから拒絶を恐れて愛情を隠していたというのも理解出来た。」

 

〇レットとの「闘い」の中で、スカーレットは少しずつ大人になっているように見えます。

レットはもう45歳ということで、一気に老け込んだような描写になっていますが、

世間体を憚って、これからもちょくちょく帰って来る、と言ってますし、

壊れた愛はそのままに、違う「仲良し」になればいいのでは?と思います。

もし、スカーレットの中に生まれたレットへの想いが本当であれば、きっとそうなっていくのでは、と思いました。

 

3度目にして、やっとそう思えるようになりました。