〇 ジョルジュ・ベルナノスの本で、最初に読んだのは、この「田舎司祭の日記」でした。人との付き合いをそつなくこなすことが出来ないキャラクターの「田舎司祭」の言葉に、共感できるところが多く、引き込まれました。
引用は「 」で、感想は 〇 で記します。
「(略)ねえ、きみ、妻とは何か、男が聖パウロの忠告にもしたがえんほど愚かなとき、ぜひとも見つけたいと望むような、ほんとうに妻らしい妻とはどんなものか、わかるかね?答えなくてもいいんだ、どうせばかなことしか言いはしないんだから!
いいかね、それは、仕事には我慢強く、それでいて何事も心得ていて、しかも、そうしたことなぞいつでも最後にはまたふりだしにもどるということを知っている、頑丈な女さ。<聖なる教会>がいくら骨折ったところで、このあわれむべき世界を聖体の大祝日の聖体行列の仮祭壇のように変えることはできはせんよ。(略)
ばあさんの間違いは、むろん、不潔と闘ったことではなく、それが可能ででもあるかのように、不潔を絶滅させようとしたことにある。教区というものは、当然不潔なものだ。でもキリスト教世界ともなれば、もっと不潔だろう。最後の審判の日になってみたまえ、天使たちがどんなに聖なる修道院からも、いったいどのようなものをたくさん取り出さねばならぬことになるか ― とんでもない汲み取り作業だろうよ!
そこで、きみ、教会は丈夫な、丈夫で分別のある世話女房でなければならんということになるのさ。わが善良なる修道女は、ほんとうの一家の主婦ではなかった。ほんとうの主婦というのは、家が聖遺物匣でないことを知ってるんだ。それ以外のことはみんな詩人の妄想さ。」
〇 ここでは妻となっていますが、妻だって、夫に同じことを求めたい。妻だけがそうであれ、と求められるのでは理不尽だと思います。
以前元オバマ大統領が演説の中で、「大人であれ」と言ったことがありました。
仕事には我慢強く、それでいて何事も心得ていて、しかも、そうしたことなぞいつでも最後にはまたふりだしにもどるということを知っている、頑丈な人間、
そしてふりだしにもどっても、更にその努力を続けられる人間。
これは、また内田樹氏が言っていた、大人とも重なります。
「コモンの再生」からの引用を載せます。
「「大人」が「子ども」のしりぬぐいをする
政治的理想の実現をこれまで阻んできたのはその非寛容さだと僕は思います。わずかでも自分の意見に反対する人間、同調しない人間に対して理想を語る人間たちが下す激烈な断罪。それが結果的に「人間が暮らしやすい社会」の実現を遠ざけてきた。
僕は別に人間の弱さ、邪悪さを放置しろと言っているわけではありません。そうではなくて、それは処罰や禁圧の対象ではなく、教化と治癒の対象だと申し上げているのです。場合によっては、罰するよりも、抱きしめてあげることによって暴力性や攻撃性は抑制されることがある。
全員が善良でかつ賢明でなければ回らないような社会は制度設計が間違っています。一定数の「大人」がいて、自分勝手なふるまいをする「子ども」たちの分の「しりぬぐい」をする。それが人間たちの社会の「ふつう」です。一方に身銭を切る人たちがいて、他方にそれに甘える人たちがいる。それは仕方のないことなんです。
彼らは悪人であるのではありません。たとえ老人であっても、権力者であっても、大富豪であっても、彼らは「子ども」なのです。全員が利己的にふるまっていては共同体は持たないということがまだわかっていないのです。その幼児性は処罰ではなく、教化と治療の対象なのです。」
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田舎司祭の日記に戻ります。
「司教冠をかぶった大修道院長は、門番の修士に命令するだけですむ。過失があれば、すぐさま牡山羊を追い払えばいい。だがわしはそうはいかん。わしらはあらゆるものに、牡山羊にさえも耐えなければならん。牡山羊であれ牡羊であれ、主はそれぞれをきちんと育てたうえで返すよう望んでおられる。牡山羊を山羊臭くなくしようなどともくろんではならぬ。そんなことをした日には、暇をつぶしたあげく、絶望の淵に叩き込まれるのがおちさ。(略)
わしの考えでは、人間は人間さ、ローマ時代とたいしてかわりはしない。だいいち問題は、人間の価値を知ることではなく、だれが人間を支配するのかを知ることだ。ああ!もし、教会の人間たちにまかせておいてくれたなら!断っておくが、わしは甘党のいう中世なんぞ信じているわけではない。十三世紀の人々が小聖人のほまれ高かったわけでもない。
修道士がそれほどばかではなかったとしたところで、やつらがいまの連中より酒飲みだったことは、誰も否定できん。しかし、きみ、われわれはひとつの帝国を建設しつつあった。それに較べれば、カエサルの帝国なんぞ糞みたいなものだった —― 平和、パックスロマーナ、まことの平和を建設しつつあったのさ。まことのキリスト教の民、それこそわれわれが力をあわせて作ろうとしたものだった。
まことのキリスト教徒は猫かぶりではない。教会は神経がふとい。だから罪などおそれはせん。それどころか、罪をしずかに直視し、わが主の例にならって、それをわが身に引き受けるのだ。腕のいい職人が週の六日間相当に働けば、土曜の夜くらい酔っぱらっても多めに見るわけさ。」
「私は日増しに、実際生活のごく初歩的なこまごました事柄についての自分の無知におどろいている。みんなは、教わらなくとも、一種本能的に知っているような気がするのだが。むろんわたしは、だれかれよりもとくにばかでもなし、簡単におぼえた公式に従う限り、理解したような錯覚をあたえることはできるだろう。
しかし、だれにとっても明確な意味をもっているそうした言葉のひとつひとつが、私には反対にほとんど区別がつかず、その結果、トランプの下手な男がカードを切るように、そのような言葉を手当たりしだい使うことになってしまう。農民金庫についての議論のあいだ、わたしは大人の会話にまぎれこんだ子供ででもあるような気がしていた。(略)」
「(略)やつらの考えは、要するに、ばかげたものとは言えまい。むろん、あいかわらず問題は貧乏人を絶滅するということにある —― イエズス・キリストの証人であり、ユダヤの民の後継者である貧乏人をだ —— ただ、連中を家畜にしたり、殺したりするかわりに、ちっぽけな 年金生活者、いや ——こととしだいによっては —— ちっぽけな官吏にさえしようと想像しているわけだ。これほど従順で几帳面なものはどこにもいないからさ。」
「—— 教えるということは、きみ、おかしなことではないんだよ!
わしの言うのは、うまい口上で切り抜けてゆくような連中のことではない。そういう連中には、君の一生の間にいやというほど出会うだろうし、そいつらとの付き合い方もおぼ出るだろう。
慰めとなる真理、と、そいつらは言う。だが真理は、先ず解き放ち、それから慰める。だいいち、それを慰めとよぶ権利などだれも持っていはせん。(略)
神の言葉!それは真っ赤に灼けた鉄さ。それを教えるというきみが、やけどするのを怖がって、それを火ばさみではさもうとして、両手でつかもうとはしないのか?(略)
つまりわしはただたんにこう言いたいだけさ。主がわしからたまたま霊魂に役立つような言葉を引き出されるようなとき、わしはそれをその言葉がわしに与える苦痛によって感じ取るとね。(略)」
「神は何ものも軽蔑されぬ。要するに、ことがうまくいけば、多分ユダは、療養所や病院や図書館や研究所に補助金を交付しただろう。君も気づいているかもしれが、ユダは、だれでも百万長者になるとそうするように、貧困状態の問題にはやくも興味をよせていた。(略)
わしはわしの貧乏人たちを、イギリスのばあさんどもが棄て猫や闘牛の牛を愛するように愛しているわけではない。それは金持ちのやり方だ。わしは貧しさを、ちょうど子宝にめぐまれた忠実な妻のように、ふかい思慮ある明晰な愛で——対等に——愛している。(略)
わしは貧しさがつつましく、しかも誇り高いことを望み、卑屈であることは望まなかった。(略)だからおまえは、今日、わしの足に非常に高価な香油をそそいだこの女に、そんなふうに憤慨するのだ。(略)そんな風なとき、やつらは酒屋へいくだろう。貧民の腹はパンよりも幻覚をよけいに必要とするからな。(略)
それというのも、つねに金持ちが、いいかえれば、所有よりも権力を求める貪欲で冷酷な人間どもがいるからだ。そういう人間どもは、金持ちの間にも貧乏人の間にもいるし、酔いを小川でさます貧民も、おそらくは緋色の帳のかげで眠るカエサルと同じ夢でみたされるのだ。(略)
わしは弱者の額にわしのしるしをつけた。(略)わしの腕がちょっとでも離れると、わしの憎悪する奴隷制が何とか彼とか名をつけて、ひとりでに甦るにちがいない。(略)」
「たぶんきみは、下手をすると、インテリ、つまり反抗者、精神にもとづかない社会的にすぐれたものを軽蔑する、融通のきかぬ人間になってしまうかもしれないよ。神がわれわれを改革者になることから守ってくださいますように!(略)
だから、ものごとをあるがままに見ることにしよう。さっき商人のことを話した。では国家が収入のうちもっともはっきりした部分をたれから引き出しているというのか?
まさしく、金儲けに汲々として、貧乏人にも自分にも冷酷で蓄財に血眼のあの下層中産階級からではないだろうか?近代社会はその産物なのだ。(略)
しかも使徒たちは……きみぐらいの年だと、えてして絶対的な批判をくだしたがるものですよ。そうした癖に用心なさい。抽象に陥らないようにして、人間を見ることです。(略)
—―すこし荒っぽい口をきいたかもしれませんね、と、ブランジェルモンの首席司祭さんは言葉をついだ。でも、君のためによかれと思ってのことですよ。年をとっていけばわかることです。しかし、生きていかなければなりません。
—―生きていかなければならない、というのが、ぞっとするんです!と、思わず私はこたえた。そうお思いになりませんか?(略)」
「罪についてわれわれは何をしっているのだろう?地質学者はわれわれに、大地がいかにしっかりと安定しているように思えても、実際には、沸騰しようとしている牛乳の上にできる皮のように液状でたえずふるえている、火の海の表面の薄皮にすぎぬことを教えている……罪にはどれほどの厚さがあるのだろうか?紺碧の淵に出会うにはどれほど深く掘り下げなければならないのだろうか?……」
「——あんまり退屈した時にはね、この辺りをひとまわりするといいよ。これは誰にでも言うことじゃない。だがね、トルシーの主任司祭からあんたのことは聞いてるし、あんたの眼が気に入った。忠実な眼、犬の眼さ。わしも犬の眼をしている。これはむしろまれなことだ。トルシーやあんたやわしは、同じ種族じゃよ。(略)
—―どんな種族ですか?と、わたしはたずねた。
—―立っている種族さ。だがどうして立っているのか?それはまさしく誰も知らん。あんたは言うだろう。神のみ恵によってだと。ただ、わしは神を信じておらんよ。(略)
だいいち、ここだけの話だが、みんな天国へ行くんだろう、ええ?十一時間目にやとわれた労働者も、もちろんじゃろ?(略)
第三学年のとき、心霊修行に際して、モンルイユの校長がわしらにめいめい座右の銘をもつようにと言った。わしの選んだのは、わかるかね?「立ち向かう」というのだ。それにしても、十三の小僧っ子が、いったい何に立ち向かうというんだろう!……
—―おそらく、不正にでしょう。
—―不正に?そうでもあるし、そうでもない。わしは正義という言葉だけを口にするようなタイプの人間じゃない。だいいち、誓って言うが、わしはそれを自分のために要求するのじゃない。わしが神を信じない以上、いったいだれに向かってそれを要求しろというのか?
不正に苦しむというのはそもそも死ぬべき人間の条件だ。(略)
彼は、さり気なくわたしを横目で見ながら、頭を掻いた。そして私は、彼が赤くなったのに気づいた。その老いた顔に浮かんだ恥じらいは美しかった。
—―ただ、不正に苦しむのと、それを忍のとでは違う。あいつらはそれを忍。それがあいつらを堕落させるのさ。見てはおれんよ。(略)
多分、種族の問題だろう。わしはケルト人だ。頭のてっぺんから足の先までケルト人だ。わしらの種族は犠牲にされた。失われた大義名分の怒りかもしれん!だいたい、人類は、正義についていだく観念にしたがって二種類にはっきり分けられると思う。一方の種類のものにとって、正義は釣り合いで妥協だ。他方の種類のものにとって……
—―他方の種類のものにとっては、と、私が言った。正義は愛の開花、その勝利の到来です。
先生は、私にとって非常に気づまりな、驚きとためらいの表情を受けべて、しばらく私を見つめていた。その言葉が彼の気に入らなかったのだと思う。事実、それは言葉に過ぎなかった。(略)
キリスト教の二十世紀がすぎたというのなら、もういい加減、貧乏を恥じることがなくなっていいはずだろう。そうならないというのは、あんたがたが、裏切っているからさ、あんたがたのキリストをね!どうしたってそう考えるより他なかろう。(略)
わしは痛い所を抑えているんだ。教皇だってわしを黙らせるわけにはいかん。いいかね、わしの言うことをあんたがたの聖人たちはしているんだぜ。(略)貧乏人や廃疾者や癩患者のまえに跪いているのを、わしらは見ているんだ、あんたがたの聖人がね。奇妙な軍団じゃないか!(略)」
「(略)……思うに、青年期をすぎながら、瀆聖の告解をして自分に罪があるとする信者はほとんどいない。まったく告解をしないというのはきわめてやさしい!しかし、もっと悪い場合がある。良心のまわりに些細な嘘や言い逃れや曖昧さがゆっくりと結晶していく場合だ。その殻は、それがおおい隠しているものの形を漠然と示すにすぎない。(略)たいしたことを隠しているわけではないが、彼らの狡猾な率直さは、何も見分けられぬ散光しか透さない、あのくもりガラスに似るのである。(略)」
「(略)どうやって教会は、神の正統な相続人である<貧者>に、この世のものでない王国を返すのだろうか?教会は<貧者>をたずねて、地上のあらゆる道で呼んでいる。しかも<貧者>はつねにおなじ場所、めくるめくばかりの高山の絶頂にいて、二千年来倦むことなく<天使>のような声で、その崇高な声で、その常ならぬ声で、「汝もし平伏してわれを拝せば、これらのものをことごとく汝にあたえん……」と繰り返す深淵の主と相対している。(略)
<権力>をあたえず<貧者>の権利を回復しようとすることは解決しがたい問題である。もし万一、何百万の密偵や憲兵を使う一団の官吏や専門家や統計学者に支えられた冷酷な独裁制が、世界のあらゆる地点でいっせいに、肉食する智慧、利欲一辺倒の凶暴で狡猾な野獣、人間を食う人間の種族―—なぜなら、そのはてしない金銭欲は、彼らを食らいつくす恐るべき口にするのも恥ずかしい飢餓の、欺瞞的な、おそらくは無意識の形態にすぎぬのだから―—を威圧することに成功したところで、かくて普遍的法則として定立された<黄金の中庸>に対する嫌悪がただちに生まれ、春が立ち戻ったようにいたるところで、自ら求めた貧しい者たちがふたたび花開くに違いない。
どのような社会も<貧者>には打ち勝ち得まい。あるものは他人の愚かさ、虚栄、悪徳によって生きる。だが<貧者>は<愛の施しによって生きる>。なんという崇高な言葉だろう。」
「また家庭訪問をはじめた——運を天にまかせて!トルシーの神父さんの注意は私を慎重にした。つとめて、出来るだけ控え目な——すくなくとも表面——あるふれた質問をごくわずかするのにとどめている。
答えに応じて、対話をいっぺんにではなく少しずつ高め、最後に、できるだけつつましく選んだある真理に一緒に到達するよう努力しているのだ。しかし、中くらいの真理というものはない!いくら用心して神の名を口に出すことを避けていても、その名は突然、その濃い、息詰まるような空気の中に輝き渡るかに見え、そうなると開きかかった人々の表情もたちまち閉ざされてしまう。いや、暗くなり、闇に閉ざされるという方が正しいだろう。(略)」
「神父さんはたしかに、旧友が自殺したのではないかと思っているのだ。先生は、非常に老齢の叔母さんの遺産を最後まであてにしていたのに、その叔母さんが、終身年金の便宜をはからず、全財産を最近S………の司教猊下の代理人である有名な弁護士の手に委ねたので、ひどくがっかりしていたらしい。(略)
「仕方がないよ。あれは損失を少なくしようなんていう男じゃなかった。何度もわしに繰り返しておった。自分が人間の残虐さ、運命の愚劣さと呼んでいるものに対する闘いは、良識を無視して行われるんだ。社会を不正から癒すなんてことはできはしない―—
不正を殺そうとすれば社会も殺してしまうより他ないとね。(略)
要するに、自分は反逆者にすぎない。それ以外の何物でもなく、いってみれば、ずっと以前に消滅してしまった種族―—かりにそういうものが存在したとしてだが——の生き残りだとね。そうして、いく世紀もの間に正当な所有者となった簒奪者に対して、希望もなく仮借ない闘いをつづけるんだというのさ。「わしは復讐している。」よくそう言っていた。つまり、正規軍は信じなかったわけだ。
わかるかね?「不正がたったひとり護衛なしで散歩しているのに出会って弱すぎも強すぎもなく、ちょうど相手に手ごろだとなると、わしは跳びかかっていってそいつの咽喉をしめるのさ。」そうも言っていた。ところがこいつが先生には高くついた。(略)」
「要するに人間は神を象った似姿なんだ。だから、人間が自分に釣り合った秩序を創り出そうとこころみるとき、人間は、神の秩序、つまりまことの秩序を不器用に真似なければならない。金持ちと貧乏人の区別も、何らかの宇宙の大法に応じなければならぬ。金持ちは、教会の眼から見れば、貧乏人の保護者、その兄なんだ!
いいかね、金持は、しばしば心ならずも彼らにいわせれば経済力のたんなる作用で、貧乏人の保護者となる。ひとりの百万長者が破産すれば数千の人々が路頭に迷う。(略)
—―これから言うことをよく覚えておいてくれたまえ。すべての不幸は、おそらく先生が凡人を憎んだことからきたのだ。わしはよく言ったものだ。「きみは凡人を憎んでいる」って。あまり弁解もしなかった。繰り返すけど、先生は正義のひとだったからね。いいかい、気を付けなければいけないよ。凡人は悪鬼の罠だ。凡庸というものは、わしらにはあまりにもこみいっている。それは神の問題だ。(略)
わしはある日のこと質問した。「だが、もしイエズス・キリストが、まさにきみの軽蔑しているようなお人よしの一人の外見を借りてきみを待っているとしたら?なぜって、罪以外、主はわしらのあらゆる惨めさを引き受け霊化されるのだからね。(略)」
「きみはそういうところに主を探さぬくせに、いったい何について苦情を言おうというのだい?主を取り逃がしたのはきみのほうさ。」たぶん先生は、主を取り逃がしたのだ。ほんとうに。」
「トルシーの神父さんは黙った。私は思わず神父さんの顔を見た。(略)
「さあ」と、神父さんはふだんよりいくらか嗄れた声でこう結んだ。もうあんまり考えないがいい。あとひとことだけ君に言っておきたい。ともかく、きみは立派な神父だよ!故人を悪く言うわけではないが、正直のところ……
—―それはもう止めましょう!と、私は言った。
—―そういうのなら止めよう!」
(略)
—―働くんだ、と彼は言った。さしあたり小さなことを一日一日とやっていきたまえ。そればかり心がけてだぞ。困惑しながら筆記帳のうえにかがみこんでいた一年生のころを思い出したまえ。神様がわしらをわしら自身の力にまかせられるとき、神さまの見たいと希われるのはそれだ。
小さなことはつまらんものに見えるが平安をあたえてくれる。それは野の花のようなものだ、わかるかね。匂いもないように思われるが、たくさん集まると香気を放つ。小さなことをするのは無心な祈りだ。小さなこと一つ一つの中には<天使>がいる。ところで君は<天使>に祈るかね?(略)」
〇 ここが心に沁みます。私は図書館で借りた本を読んでいるのですが、
私の前に借りた誰かも、ここに薄く記を付けていました。
でも、この辺りから、何度読み直しても何を言っているのか、わからない所も多くなっていきました。
たとえば、次の引用は、教区の女性とのやり取りですが、全然わかりません…。
「もしも彼女の顔をそれほどよく知らなかったら、それを平静だといったかもしれない。けれども、その口のはしがかすかに顫えているのを私は見逃さなかった。「あなたと取引がしたいんです、と、彼女が言った。あなたがわたくしの考えているようなかたならば…… ——私はまさしくあなたの考えているようなものではありません。あなたはわたしのうちに、鏡を見るようにあなた自身を見ているんです。そしてあなたの運命もね。
—―わたくしはあなたがお母さまと話していらっしゃるとき、窓の下に隠れていました。ふいにお母さまの顔がいかにも……いかにも柔和になったのです!そのとき、わたくしはあなたを憎みました。ええ!わたくしは幽霊だって奇蹟だって、まったく信じません。でもわたくしはお母さまのことなら知っていました、たぶん!
お母さまはうまい口車には乗せられないたちでした。ちょうど、魚が林檎に無関心なように。なぜでしょう。あなたは何か秘宝を心得ていらっしゃるのではありませんか?
—―それはもう失われた秘宝です、と、わたしは答えた。たとえあなたが見つけ出されたとしても、あなたもそれを失ってしまわれるでしょう。そしてあなたのあとでほかの人たちがそれを伝えるでしょう。なぜなら、あなたのような種族の人たちはこの世が続く限り存在するからです。
—―それはいったいどんな種類の人のことなんです?
—―神ご自身が歩かせたもうた人間です。すべてが成就するまで、もはやとどまることのない人たちです。」
〇少なくとも、彼女が自分の中の感情や想いの激しさを持て余し気味になっていて、そのコントロール出来ないやりきれなさを目の前の司祭にぶつけている感じは、伝わってくるような気がしますが…。
また、印象に残った言葉の抜き書きに戻ります。
「(略)だからこそ、主イエズスの憲兵隊みたいなものが出現するだろうという噂が、かつてキリスト教世界全体に拡まったのです……噂なんて、とるにたらぬものかもしれません。それならそれでいい!だがいいですか!「ドン・キホーテ」のような書物の衰えることのない信じられぬほどの成功をよく考えてください。
人類が笑いによってその裏切られた大きな希望の復讐をしようとあいかわらず思い続けているのは、人類がその希望をどれほどながいこと抱き続けてきたか、それがいかに人類の胸中深く入り込んでいるかということを、いやでも理解させずにはおかないでしょう!(略)」
「私の不幸はべつに目新しいものは何もない。今日、おそらく世界中でいく百、いく千の人々が、同じような驚きをもってこうした宣告のくだされるのを聞くだろう。その人々のなかでたぶん私は、最初の衝撃をこらえる力にもっとも欠けている一人であろう。私は自分の弱さを知り過ぎている。
けれども経験によって私は、自分の母から、たぶん同じ血統のほかの多くの哀れな女たちから、結局はほとんど梃でも動かない一種の忍耐力を受け継いでいるのを知っている。彼女たちは苦痛と四つに組もうとはせず、こっそりとその中へはいりこみ、すこしずつそれになじむのだった ——そこにわたしたちの力の源泉がある。
もしもそうでないとしたら、夫や子供たちや近親たちの忘恩や不正をついには消耗させてしまう恐ろしい辛抱強さをもつ、あれほど多くの不幸な女たちの ——おお、みじめな人々の乳母たちよ!生きることへの執念をどうやって説明できるだろう!
ただ口を閉ざすことなのだ。沈黙が可能なかぎり口を閉ざさなければならない。そしてそれは幾週も、幾月も続くかもしれない。(略)
もちろん、私だって、他人の同情が一時的にせよ気持ちをはらしてくれることを知っているし、それをまったく軽蔑したりはしない。しかしそれは霊魂の渇きを癒してはくれない。それはふるいを通すように霊魂の中を流れ去ってしまう。
私たちの苦しみが口から口へ、あわれみからあわれみへと移っていくとき、私たちはもうそれを尊敬することも愛することも出来なくなるような気がする。」
「事実、自殺の趣味は天の賜物というか、第六感というか、何かわかりませんが、とにかく生まれつきのものです。もちろんやるとしたら、私は慎重にやるでしょう。これでもまだ猟をしています。(略)」ああ!一瞬、私は、彼がデルバンド先生の自殺を知っていながら、こうした残忍きわまりない喜劇をやってみせているのだと思った。だが、そうではなかった!彼の眼眸は真剣だった。(略)」
「私に相応なヒロイズムはヒロイズムを持たないことであり、私には力が欠けているのだから、いまでは自分の死が卑小であることを、できるだけ卑小であることを、私の生涯の他の出来事と異なったところのないものであることを望んでいる。
結局のところ、私がトルシーの神父さんのような人の寛容と友情をかちとることができたのは、私の天性の不器用さによるのだ。おそらくそれはそれだけの価値があったのではないか?それは子供の不器用さなのではなかろうか?時として自分をどんなに厳しく裁くことがあるとしても、私は自分が貧しさの心を持っているのをかつて疑ったことはない。子供の心は貧しさの心に似ている。この二つのものは疑いもなくひとつのものなのだ。(略)」
「率直に申し上げて、あなたも顔色があまりよくありませんわね!……それで、もう何もする元気がなくて、胸のわきが酷く痛み、もう立ってもいられないような時には、隅っこに一人で身を隠して——お笑いになるでしょうね——陽気なこと、力づけるようなことを自分に向かって話す代わりに、あたしの知らない、けれどもあたしに似たあの人たちみんなのことを考えるんです
—―地球は広いからたくさんいるんですよ!——雨の中で足踏みしている乞食だとか、家のない子供だとか、病人だとか、月に向かってわめく癲狂院の狂人だとか、それからそれへとね!あたしはそういう人たちの間に紛れ込み、身を縮めるんです。生きている人ばかりじゃありません。いいですか?苦しんで死んだ人たちも、あたしたちのところへ苦しみに生まれてくる人たちも……「なぜだろう?なぜ苦しむんだろう?」ってみんな申します……
あたしもみんなと一緒にそう言っているような気がします。その声が聞こえるようです。あたしには、あたしを寝付かせてくれる大きなつぶやきとも思えます。そういうとき、あたしは自分が百万長者と入れ替わりたいなどとは思いません。自分が幸福なんです。へんでも仕方ありません。われ知らずそうなるので、自分でもなぜだかわからないんです。
あたしは母に似ているんでしょう。「一番運のいいことは、運がないってことさ。その点じゃあ、あたしゃめぐまれているよ!」っていって、母はよく申しておりました。あたしは母が泣き言をいうのをけっして聞いたことがありません。(略)
そんなことはいいとして、「女ほど我慢強いものはないよ、寝るのは死ぬときだけさ」と、よく言っていたものです。(略)」
「彼のために私に何ができるだろうか?トルシーの神父さんに会うことは拒絶するのではないかと思う。そのうえ、トルシーの神父さんは彼の虚栄心をひどく傷つけるだろうし、思い込みにもとづく彼のばかげたやけくそな企てにさらにのめりこませることとなるかもしれない。いや、もちろん、わが老師は結局のところ必ずや彼を説得してくれるだろう。(略)
「お発ちなさい。あの男を、あなたから離れたところで、神と和解させて死なせておあげなさい。」そう言ったと仮定しよう。あの女は出発するだろう。しかし彼女は、そのことを理解もせず、彼女の血統、いく世紀このかた屠殺者のナイフに運命づけられている従順な血統の本能にもういちど従って出発するにすぎない。(略)
もしかしたら、自分が何を施すのかも知らぬ私の手から、神はこの貴重な贈り物を受けられたかもしれぬ。だが私にはその勇気がなかった。トルシーの神父さんなら思いどおりにするだろう。」
〇 このジョルジュ・ベルナノスについて調べると、20世紀フランスの作家、思想家とあります。思想家の言葉に惹かれることが多かったような気がします。
わからない所もたくさんあったので、また時間を置いて読んでみたいと思います。