読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

田舎司祭の日記

〇 ジョルジュ・ベルナノスの本で、最初に読んだのは、この「田舎司祭の日記」でした。人との付き合いをそつなくこなすことが出来ないキャラクターの「田舎司祭」の言葉に、共感できるところが多く、引き込まれました。

 

引用は「 」で、感想は 〇 で記します。

 

「(略)ねえ、きみ、妻とは何か、男が聖パウロの忠告にもしたがえんほど愚かなとき、ぜひとも見つけたいと望むような、ほんとうに妻らしい妻とはどんなものか、わかるかね?答えなくてもいいんだ、どうせばかなことしか言いはしないんだから!

 

 

いいかね、それは、仕事には我慢強く、それでいて何事も心得ていて、しかも、そうしたことなぞいつでも最後にはまたふりだしにもどるということを知っている、頑丈な女さ。<聖なる教会>がいくら骨折ったところで、このあわれむべき世界を聖体の大祝日の聖体行列の仮祭壇のように変えることはできはせんよ。(略)

 

 

ばあさんの間違いは、むろん、不潔と闘ったことではなく、それが可能ででもあるかのように、不潔を絶滅させようとしたことにある。教区というものは、当然不潔なものだ。でもキリスト教世界ともなれば、もっと不潔だろう。最後の審判の日になってみたまえ、天使たちがどんなに聖なる修道院からも、いったいどのようなものをたくさん取り出さねばならぬことになるか ― とんでもない汲み取り作業だろうよ!

 

 

そこで、きみ、教会は丈夫な、丈夫で分別のある世話女房でなければならんということになるのさ。わが善良なる修道女は、ほんとうの一家の主婦ではなかった。ほんとうの主婦というのは、家が聖遺物匣でないことを知ってるんだ。それ以外のことはみんな詩人の妄想さ。」

 

〇 ここでは妻となっていますが、妻だって、夫に同じことを求めたい。妻だけがそうであれ、と求められるのでは理不尽だと思います。

以前元オバマ大統領が演説の中で、「大人であれ」と言ったことがありました。

仕事には我慢強く、それでいて何事も心得ていて、しかも、そうしたことなぞいつでも最後にはまたふりだしにもどるということを知っている、頑丈な人間、

そしてふりだしにもどっても、更にその努力を続けられる人間。

 

 

これは、また内田樹氏が言っていた、大人とも重なります。

 

コモンの再生」からの引用を載せます。

「「大人」が「子ども」のしりぬぐいをする

 

政治的理想の実現をこれまで阻んできたのはその非寛容さだと僕は思います。わずかでも自分の意見に反対する人間、同調しない人間に対して理想を語る人間たちが下す激烈な断罪。それが結果的に「人間が暮らしやすい社会」の実現を遠ざけてきた。

 

僕は別に人間の弱さ、邪悪さを放置しろと言っているわけではありません。そうではなくて、それは処罰や禁圧の対象ではなく、教化と治癒の対象だと申し上げているのです。場合によっては、罰するよりも、抱きしめてあげることによって暴力性や攻撃性は抑制されることがある。

 

 

全員が善良でかつ賢明でなければ回らないような社会は制度設計が間違っています。一定数の「大人」がいて、自分勝手なふるまいをする「子ども」たちの分の「しりぬぐい」をする。それが人間たちの社会の「ふつう」です。一方に身銭を切る人たちがいて、他方にそれに甘える人たちがいる。それは仕方のないことなんです。

 

 

彼らは悪人であるのではありません。たとえ老人であっても、権力者であっても、大富豪であっても、彼らは「子ども」なのです。全員が利己的にふるまっていては共同体は持たないということがまだわかっていないのです。その幼児性は処罰ではなく、教化と治療の対象なのです。」

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田舎司祭の日記に戻ります。

 

「司教冠をかぶった大修道院長は、門番の修士に命令するだけですむ。過失があれば、すぐさま牡山羊を追い払えばいい。だがわしはそうはいかん。わしらはあらゆるものに、牡山羊にさえも耐えなければならん。牡山羊であれ牡羊であれ、主はそれぞれをきちんと育てたうえで返すよう望んでおられる。牡山羊を山羊臭くなくしようなどともくろんではならぬ。そんなことをした日には、暇をつぶしたあげく、絶望の淵に叩き込まれるのがおちさ。(略)

 

 

わしの考えでは、人間は人間さ、ローマ時代とたいしてかわりはしない。だいいち問題は、人間の価値を知ることではなく、だれが人間を支配するのかを知ることだ。ああ!もし、教会の人間たちにまかせておいてくれたなら!断っておくが、わしは甘党のいう中世なんぞ信じているわけではない。十三世紀の人々が小聖人のほまれ高かったわけでもない。

 

修道士がそれほどばかではなかったとしたところで、やつらがいまの連中より酒飲みだったことは、誰も否定できん。しかし、きみ、われわれはひとつの帝国を建設しつつあった。それに較べれば、カエサルの帝国なんぞ糞みたいなものだった —― 平和、パックスロマーナ、まことの平和を建設しつつあったのさ。まことのキリスト教の民、それこそわれわれが力をあわせて作ろうとしたものだった。

 

まことのキリスト教徒は猫かぶりではない。教会は神経がふとい。だから罪などおそれはせん。それどころか、罪をしずかに直視し、わが主の例にならって、それをわが身に引き受けるのだ。腕のいい職人が週の六日間相当に働けば、土曜の夜くらい酔っぱらっても多めに見るわけさ。」

 

「私は日増しに、実際生活のごく初歩的なこまごました事柄についての自分の無知におどろいている。みんなは、教わらなくとも、一種本能的に知っているような気がするのだが。むろんわたしは、だれかれよりもとくにばかでもなし、簡単におぼえた公式に従う限り、理解したような錯覚をあたえることはできるだろう。

 

 

しかし、だれにとっても明確な意味をもっているそうした言葉のひとつひとつが、私には反対にほとんど区別がつかず、その結果、トランプの下手な男がカードを切るように、そのような言葉を手当たりしだい使うことになってしまう。農民金庫についての議論のあいだ、わたしは大人の会話にまぎれこんだ子供ででもあるような気がしていた。(略)」

 

 

 

 

「(略)やつらの考えは、要するに、ばかげたものとは言えまい。むろん、あいかわらず問題は貧乏人を絶滅するということにある —― イエズス・キリストの証人であり、ユダヤの民の後継者である貧乏人をだ —— ただ、連中を家畜にしたり、殺したりするかわりに、ちっぽけな 年金生活者、いや ——こととしだいによっては —— ちっぽけな官吏にさえしようと想像しているわけだ。これほど従順で几帳面なものはどこにもいないからさ。」

 

 

「—— 教えるということは、きみ、おかしなことではないんだよ!

わしの言うのは、うまい口上で切り抜けてゆくような連中のことではない。そういう連中には、君の一生の間にいやというほど出会うだろうし、そいつらとの付き合い方もおぼ出るだろう。

 

 

慰めとなる真理、と、そいつらは言う。だが真理は、先ず解き放ち、それから慰める。だいいち、それを慰めとよぶ権利などだれも持っていはせん。(略)

神の言葉!それは真っ赤に灼けた鉄さ。それを教えるというきみが、やけどするのを怖がって、それを火ばさみではさもうとして、両手でつかもうとはしないのか?(略)

 

 

つまりわしはただたんにこう言いたいだけさ。主がわしからたまたま霊魂に役立つような言葉を引き出されるようなとき、わしはそれをその言葉がわしに与える苦痛によって感じ取るとね。(略)」

 

 

「神は何ものも軽蔑されぬ。要するに、ことがうまくいけば、多分ユダは、療養所や病院や図書館や研究所に補助金を交付しただろう。君も気づいているかもしれが、ユダは、だれでも百万長者になるとそうするように、貧困状態の問題にはやくも興味をよせていた。(略)

 

 

わしはわしの貧乏人たちを、イギリスのばあさんどもが棄て猫や闘牛の牛を愛するように愛しているわけではない。それは金持ちのやり方だ。わしは貧しさを、ちょうど子宝にめぐまれた忠実な妻のように、ふかい思慮ある明晰な愛で——対等に——愛している。(略)

 

 

わしは貧しさがつつましく、しかも誇り高いことを望み、卑屈であることは望まなかった。(略)だからおまえは、今日、わしの足に非常に高価な香油をそそいだこの女に、そんなふうに憤慨するのだ。(略)そんな風なとき、やつらは酒屋へいくだろう。貧民の腹はパンよりも幻覚をよけいに必要とするからな。(略)

 

 

それというのも、つねに金持ちが、いいかえれば、所有よりも権力を求める貪欲で冷酷な人間どもがいるからだ。そういう人間どもは、金持ちの間にも貧乏人の間にもいるし、酔いを小川でさます貧民も、おそらくは緋色の帳のかげで眠るカエサルと同じ夢でみたされるのだ。(略)

 

 

わしは弱者の額にわしのしるしをつけた。(略)わしの腕がちょっとでも離れると、わしの憎悪する奴隷制が何とか彼とか名をつけて、ひとりでに甦るにちがいない。(略)」

 

 

「たぶんきみは、下手をすると、インテリ、つまり反抗者、精神にもとづかない社会的にすぐれたものを軽蔑する、融通のきかぬ人間になってしまうかもしれないよ。神がわれわれを改革者になることから守ってくださいますように!(略)

 

 

だから、ものごとをあるがままに見ることにしよう。さっき商人のことを話した。では国家が収入のうちもっともはっきりした部分をたれから引き出しているというのか?

まさしく、金儲けに汲々として、貧乏人にも自分にも冷酷で蓄財に血眼のあの下層中産階級からではないだろうか?近代社会はその産物なのだ。(略)

 

 

しかも使徒たちは……きみぐらいの年だと、えてして絶対的な批判をくだしたがるものですよ。そうした癖に用心なさい。抽象に陥らないようにして、人間を見ることです。(略)

 

 

—―すこし荒っぽい口をきいたかもしれませんね、と、ブランジェルモンの首席司祭さんは言葉をついだ。でも、君のためによかれと思ってのことですよ。年をとっていけばわかることです。しかし、生きていかなければなりません。

—―生きていかなければならない、というのが、ぞっとするんです!と、思わず私はこたえた。そうお思いになりませんか?(略)」

 

 

 

「罪についてわれわれは何をしっているのだろう?地質学者はわれわれに、大地がいかにしっかりと安定しているように思えても、実際には、沸騰しようとしている牛乳の上にできる皮のように液状でたえずふるえている、火の海の表面の薄皮にすぎぬことを教えている……罪にはどれほどの厚さがあるのだろうか?紺碧の淵に出会うにはどれほど深く掘り下げなければならないのだろうか?……」

 

 

 

「——あんまり退屈した時にはね、この辺りをひとまわりするといいよ。これは誰にでも言うことじゃない。だがね、トルシーの主任司祭からあんたのことは聞いてるし、あんたの眼が気に入った。忠実な眼、犬の眼さ。わしも犬の眼をしている。これはむしろまれなことだ。トルシーやあんたやわしは、同じ種族じゃよ。(略)

 

 

 

—―どんな種族ですか?と、わたしはたずねた。

—―立っている種族さ。だがどうして立っているのか?それはまさしく誰も知らん。あんたは言うだろう。神のみ恵によってだと。ただ、わしは神を信じておらんよ。(略)

だいいち、ここだけの話だが、みんな天国へ行くんだろう、ええ?十一時間目にやとわれた労働者も、もちろんじゃろ?(略)

 

 

第三学年のとき、心霊修行に際して、モンルイユの校長がわしらにめいめい座右の銘をもつようにと言った。わしの選んだのは、わかるかね?「立ち向かう」というのだ。それにしても、十三の小僧っ子が、いったい何に立ち向かうというんだろう!……

 

 

—―おそらく、不正にでしょう。

—―不正に?そうでもあるし、そうでもない。わしは正義という言葉だけを口にするようなタイプの人間じゃない。だいいち、誓って言うが、わしはそれを自分のために要求するのじゃない。わしが神を信じない以上、いったいだれに向かってそれを要求しろというのか?

 

 

不正に苦しむというのはそもそも死ぬべき人間の条件だ。(略)

彼は、さり気なくわたしを横目で見ながら、頭を掻いた。そして私は、彼が赤くなったのに気づいた。その老いた顔に浮かんだ恥じらいは美しかった。

—―ただ、不正に苦しむのと、それを忍のとでは違う。あいつらはそれを忍。それがあいつらを堕落させるのさ。見てはおれんよ。(略)

 

 

多分、種族の問題だろう。わしはケルト人だ。頭のてっぺんから足の先までケルト人だ。わしらの種族は犠牲にされた。失われた大義名分の怒りかもしれん!だいたい、人類は、正義についていだく観念にしたがって二種類にはっきり分けられると思う。一方の種類のものにとって、正義は釣り合いで妥協だ。他方の種類のものにとって……

 

 

—―他方の種類のものにとっては、と、私が言った。正義は愛の開花、その勝利の到来です。

先生は、私にとって非常に気づまりな、驚きとためらいの表情を受けべて、しばらく私を見つめていた。その言葉が彼の気に入らなかったのだと思う。事実、それは言葉に過ぎなかった。(略)

 

 

キリスト教の二十世紀がすぎたというのなら、もういい加減、貧乏を恥じることがなくなっていいはずだろう。そうならないというのは、あんたがたが、裏切っているからさ、あんたがたのキリストをね!どうしたってそう考えるより他なかろう。(略)

 

 

わしは痛い所を抑えているんだ。教皇だってわしを黙らせるわけにはいかん。いいかね、わしの言うことをあんたがたの聖人たちはしているんだぜ。(略)貧乏人や廃疾者や癩患者のまえに跪いているのを、わしらは見ているんだ、あんたがたの聖人がね。奇妙な軍団じゃないか!(略)」

 

 

「(略)……思うに、青年期をすぎながら、瀆聖の告解をして自分に罪があるとする信者はほとんどいない。まったく告解をしないというのはきわめてやさしい!しかし、もっと悪い場合がある。良心のまわりに些細な嘘や言い逃れや曖昧さがゆっくりと結晶していく場合だ。その殻は、それがおおい隠しているものの形を漠然と示すにすぎない。(略)たいしたことを隠しているわけではないが、彼らの狡猾な率直さは、何も見分けられぬ散光しか透さない、あのくもりガラスに似るのである。(略)」

 

「(略)どうやって教会は、神の正統な相続人である<貧者>に、この世のものでない王国を返すのだろうか?教会は<貧者>をたずねて、地上のあらゆる道で呼んでいる。しかも<貧者>はつねにおなじ場所、めくるめくばかりの高山の絶頂にいて、二千年来倦むことなく<天使>のような声で、その崇高な声で、その常ならぬ声で、「汝もし平伏してわれを拝せば、これらのものをことごとく汝にあたえん……」と繰り返す深淵の主と相対している。(略)

 

 

<権力>をあたえず<貧者>の権利を回復しようとすることは解決しがたい問題である。もし万一、何百万の密偵憲兵を使う一団の官吏や専門家や統計学者に支えられた冷酷な独裁制が、世界のあらゆる地点でいっせいに、肉食する智慧、利欲一辺倒の凶暴で狡猾な野獣、人間を食う人間の種族―—なぜなら、そのはてしない金銭欲は、彼らを食らいつくす恐るべき口にするのも恥ずかしい飢餓の、欺瞞的な、おそらくは無意識の形態にすぎぬのだから―—を威圧することに成功したところで、かくて普遍的法則として定立された<黄金の中庸>に対する嫌悪がただちに生まれ、春が立ち戻ったようにいたるところで、自ら求めた貧しい者たちがふたたび花開くに違いない。

 

 

どのような社会も<貧者>には打ち勝ち得まい。あるものは他人の愚かさ、虚栄、悪徳によって生きる。だが<貧者>は<愛の施しによって生きる>。なんという崇高な言葉だろう。」

 

 

「また家庭訪問をはじめた——運を天にまかせて!トルシーの神父さんの注意は私を慎重にした。つとめて、出来るだけ控え目な——すくなくとも表面——あるふれた質問をごくわずかするのにとどめている。

 

 

答えに応じて、対話をいっぺんにではなく少しずつ高め、最後に、できるだけつつましく選んだある真理に一緒に到達するよう努力しているのだ。しかし、中くらいの真理というものはない!いくら用心して神の名を口に出すことを避けていても、その名は突然、その濃い、息詰まるような空気の中に輝き渡るかに見え、そうなると開きかかった人々の表情もたちまち閉ざされてしまう。いや、暗くなり、闇に閉ざされるという方が正しいだろう。(略)」

 

 

 

「神父さんはたしかに、旧友が自殺したのではないかと思っているのだ。先生は、非常に老齢の叔母さんの遺産を最後まであてにしていたのに、その叔母さんが、終身年金の便宜をはからず、全財産を最近S………の司教猊下代理人である有名な弁護士の手に委ねたので、ひどくがっかりしていたらしい。(略)

 

 

「仕方がないよ。あれは損失を少なくしようなんていう男じゃなかった。何度もわしに繰り返しておった。自分が人間の残虐さ、運命の愚劣さと呼んでいるものに対する闘いは、良識を無視して行われるんだ。社会を不正から癒すなんてことはできはしない―—

不正を殺そうとすれば社会も殺してしまうより他ないとね。(略)

 

 

要するに、自分は反逆者にすぎない。それ以外の何物でもなく、いってみれば、ずっと以前に消滅してしまった種族―—かりにそういうものが存在したとしてだが——の生き残りだとね。そうして、いく世紀もの間に正当な所有者となった簒奪者に対して、希望もなく仮借ない闘いをつづけるんだというのさ。「わしは復讐している。」よくそう言っていた。つまり、正規軍は信じなかったわけだ。

 

 

わかるかね?「不正がたったひとり護衛なしで散歩しているのに出会って弱すぎも強すぎもなく、ちょうど相手に手ごろだとなると、わしは跳びかかっていってそいつの咽喉をしめるのさ。」そうも言っていた。ところがこいつが先生には高くついた。(略)」

 

 

「要するに人間は神を象った似姿なんだ。だから、人間が自分に釣り合った秩序を創り出そうとこころみるとき、人間は、神の秩序、つまりまことの秩序を不器用に真似なければならない。金持ちと貧乏人の区別も、何らかの宇宙の大法に応じなければならぬ。金持ちは、教会の眼から見れば、貧乏人の保護者、その兄なんだ!

 

 

いいかね、金持は、しばしば心ならずも彼らにいわせれば経済力のたんなる作用で、貧乏人の保護者となる。ひとりの百万長者が破産すれば数千の人々が路頭に迷う。(略)

 

 

—―これから言うことをよく覚えておいてくれたまえ。すべての不幸は、おそらく先生が凡人を憎んだことからきたのだ。わしはよく言ったものだ。「きみは凡人を憎んでいる」って。あまり弁解もしなかった。繰り返すけど、先生は正義のひとだったからね。いいかい、気を付けなければいけないよ。凡人は悪鬼の罠だ。凡庸というものは、わしらにはあまりにもこみいっている。それは神の問題だ。(略)

 

 

わしはある日のこと質問した。「だが、もしイエズス・キリストが、まさにきみの軽蔑しているようなお人よしの一人の外見を借りてきみを待っているとしたら?なぜって、罪以外、主はわしらのあらゆる惨めさを引き受け霊化されるのだからね。(略)」

 

 

 

「きみはそういうところに主を探さぬくせに、いったい何について苦情を言おうというのだい?主を取り逃がしたのはきみのほうさ。」たぶん先生は、主を取り逃がしたのだ。ほんとうに。」

 

「トルシーの神父さんは黙った。私は思わず神父さんの顔を見た。(略)

「さあ」と、神父さんはふだんよりいくらか嗄れた声でこう結んだ。もうあんまり考えないがいい。あとひとことだけ君に言っておきたい。ともかく、きみは立派な神父だよ!故人を悪く言うわけではないが、正直のところ……

 

 

—―それはもう止めましょう!と、私は言った。

—―そういうのなら止めよう!」

(略)

 

 

—―働くんだ、と彼は言った。さしあたり小さなことを一日一日とやっていきたまえ。そればかり心がけてだぞ。困惑しながら筆記帳のうえにかがみこんでいた一年生のころを思い出したまえ。神様がわしらをわしら自身の力にまかせられるとき、神さまの見たいと希われるのはそれだ。

 

 

小さなことはつまらんものに見えるが平安をあたえてくれる。それは野の花のようなものだ、わかるかね。匂いもないように思われるが、たくさん集まると香気を放つ。小さなことをするのは無心な祈りだ。小さなこと一つ一つの中には<天使>がいる。ところで君は<天使>に祈るかね?(略)」

 

〇 ここが心に沁みます。私は図書館で借りた本を読んでいるのですが、

私の前に借りた誰かも、ここに薄く記を付けていました。

 

でも、この辺りから、何度読み直しても何を言っているのか、わからない所も多くなっていきました。

たとえば、次の引用は、教区の女性とのやり取りですが、全然わかりません…。

 

「もしも彼女の顔をそれほどよく知らなかったら、それを平静だといったかもしれない。けれども、その口のはしがかすかに顫えているのを私は見逃さなかった。「あなたと取引がしたいんです、と、彼女が言った。あなたがわたくしの考えているようなかたならば……  ——私はまさしくあなたの考えているようなものではありません。あなたはわたしのうちに、鏡を見るようにあなた自身を見ているんです。そしてあなたの運命もね。

 

 

—―わたくしはあなたがお母さまと話していらっしゃるとき、窓の下に隠れていました。ふいにお母さまの顔がいかにも……いかにも柔和になったのです!そのとき、わたくしはあなたを憎みました。ええ!わたくしは幽霊だって奇蹟だって、まったく信じません。でもわたくしはお母さまのことなら知っていました、たぶん!

 

 

お母さまはうまい口車には乗せられないたちでした。ちょうど、魚が林檎に無関心なように。なぜでしょう。あなたは何か秘宝を心得ていらっしゃるのではありませんか?

 

 

—―それはもう失われた秘宝です、と、わたしは答えた。たとえあなたが見つけ出されたとしても、あなたもそれを失ってしまわれるでしょう。そしてあなたのあとでほかの人たちがそれを伝えるでしょう。なぜなら、あなたのような種族の人たちはこの世が続く限り存在するからです。

 

 

—―それはいったいどんな種類の人のことなんです?

—―神ご自身が歩かせたもうた人間です。すべてが成就するまで、もはやとどまることのない人たちです。」

 

〇少なくとも、彼女が自分の中の感情や想いの激しさを持て余し気味になっていて、そのコントロール出来ないやりきれなさを目の前の司祭にぶつけている感じは、伝わってくるような気がしますが…。

 

また、印象に残った言葉の抜き書きに戻ります。

 

 

「(略)だからこそ、主イエズスの憲兵隊みたいなものが出現するだろうという噂が、かつてキリスト教世界全体に拡まったのです……噂なんて、とるにたらぬものかもしれません。それならそれでいい!だがいいですか!「ドン・キホーテ」のような書物の衰えることのない信じられぬほどの成功をよく考えてください。

 

 

人類が笑いによってその裏切られた大きな希望の復讐をしようとあいかわらず思い続けているのは、人類がその希望をどれほどながいこと抱き続けてきたか、それがいかに人類の胸中深く入り込んでいるかということを、いやでも理解させずにはおかないでしょう!(略)」

 

 

「私の不幸はべつに目新しいものは何もない。今日、おそらく世界中でいく百、いく千の人々が、同じような驚きをもってこうした宣告のくだされるのを聞くだろう。その人々のなかでたぶん私は、最初の衝撃をこらえる力にもっとも欠けている一人であろう。私は自分の弱さを知り過ぎている。

 

 

けれども経験によって私は、自分の母から、たぶん同じ血統のほかの多くの哀れな女たちから、結局はほとんど梃でも動かない一種の忍耐力を受け継いでいるのを知っている。彼女たちは苦痛と四つに組もうとはせず、こっそりとその中へはいりこみ、すこしずつそれになじむのだった ——そこにわたしたちの力の源泉がある。

 

もしもそうでないとしたら、夫や子供たちや近親たちの忘恩や不正をついには消耗させてしまう恐ろしい辛抱強さをもつ、あれほど多くの不幸な女たちの ——おお、みじめな人々の乳母たちよ!生きることへの執念をどうやって説明できるだろう!

 

 

ただ口を閉ざすことなのだ。沈黙が可能なかぎり口を閉ざさなければならない。そしてそれは幾週も、幾月も続くかもしれない。(略)

もちろん、私だって、他人の同情が一時的にせよ気持ちをはらしてくれることを知っているし、それをまったく軽蔑したりはしない。しかしそれは霊魂の渇きを癒してはくれない。それはふるいを通すように霊魂の中を流れ去ってしまう。

 

私たちの苦しみが口から口へ、あわれみからあわれみへと移っていくとき、私たちはもうそれを尊敬することも愛することも出来なくなるような気がする。」

 

 

「事実、自殺の趣味は天の賜物というか、第六感というか、何かわかりませんが、とにかく生まれつきのものです。もちろんやるとしたら、私は慎重にやるでしょう。これでもまだ猟をしています。(略)」ああ!一瞬、私は、彼がデルバンド先生の自殺を知っていながら、こうした残忍きわまりない喜劇をやってみせているのだと思った。だが、そうではなかった!彼の眼眸は真剣だった。(略)」

 

 

「私に相応なヒロイズムはヒロイズムを持たないことであり、私には力が欠けているのだから、いまでは自分の死が卑小であることを、できるだけ卑小であることを、私の生涯の他の出来事と異なったところのないものであることを望んでいる。

 

 

結局のところ、私がトルシーの神父さんのような人の寛容と友情をかちとることができたのは、私の天性の不器用さによるのだ。おそらくそれはそれだけの価値があったのではないか?それは子供の不器用さなのではなかろうか?時として自分をどんなに厳しく裁くことがあるとしても、私は自分が貧しさの心を持っているのをかつて疑ったことはない。子供の心は貧しさの心に似ている。この二つのものは疑いもなくひとつのものなのだ。(略)」

 

「率直に申し上げて、あなたも顔色があまりよくありませんわね!……それで、もう何もする元気がなくて、胸のわきが酷く痛み、もう立ってもいられないような時には、隅っこに一人で身を隠して——お笑いになるでしょうね——陽気なこと、力づけるようなことを自分に向かって話す代わりに、あたしの知らない、けれどもあたしに似たあの人たちみんなのことを考えるんです

 

 

—―地球は広いからたくさんいるんですよ!——雨の中で足踏みしている乞食だとか、家のない子供だとか、病人だとか、月に向かってわめく癲狂院の狂人だとか、それからそれへとね!あたしはそういう人たちの間に紛れ込み、身を縮めるんです。生きている人ばかりじゃありません。いいですか?苦しんで死んだ人たちも、あたしたちのところへ苦しみに生まれてくる人たちも……「なぜだろう?なぜ苦しむんだろう?」ってみんな申します……

 

 

あたしもみんなと一緒にそう言っているような気がします。その声が聞こえるようです。あたしには、あたしを寝付かせてくれる大きなつぶやきとも思えます。そういうとき、あたしは自分が百万長者と入れ替わりたいなどとは思いません。自分が幸福なんです。へんでも仕方ありません。われ知らずそうなるので、自分でもなぜだかわからないんです。

 

 

あたしは母に似ているんでしょう。「一番運のいいことは、運がないってことさ。その点じゃあ、あたしゃめぐまれているよ!」っていって、母はよく申しておりました。あたしは母が泣き言をいうのをけっして聞いたことがありません。(略)

 

 

そんなことはいいとして、「女ほど我慢強いものはないよ、寝るのは死ぬときだけさ」と、よく言っていたものです。(略)」

 

 

「彼のために私に何ができるだろうか?トルシーの神父さんに会うことは拒絶するのではないかと思う。そのうえ、トルシーの神父さんは彼の虚栄心をひどく傷つけるだろうし、思い込みにもとづく彼のばかげたやけくそな企てにさらにのめりこませることとなるかもしれない。いや、もちろん、わが老師は結局のところ必ずや彼を説得してくれるだろう。(略)

 

 

「お発ちなさい。あの男を、あなたから離れたところで、神と和解させて死なせておあげなさい。」そう言ったと仮定しよう。あの女は出発するだろう。しかし彼女は、そのことを理解もせず、彼女の血統、いく世紀このかた屠殺者のナイフに運命づけられている従順な血統の本能にもういちど従って出発するにすぎない。(略)

 

 

 

もしかしたら、自分が何を施すのかも知らぬ私の手から、神はこの貴重な贈り物を受けられたかもしれぬ。だが私にはその勇気がなかった。トルシーの神父さんなら思いどおりにするだろう。」

 

〇 このジョルジュ・ベルナノスについて調べると、20世紀フランスの作家、思想家とあります。思想家の言葉に惹かれることが多かったような気がします。

わからない所もたくさんあったので、また時間を置いて読んでみたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

悪魔の陽のもとに

ジョルジュ・ベルナノス著「悪魔の陽のもとに」を読みました。

この作家を知ったのは、私がまだ二十代の頃、知り合いの牧師が雑談の折に、「田舎司祭の日記」という本を話題にしたことが印象に残っていました。

少し前にこの本を読み、ジョルジュ・ベルナノスに興味を持ちました。

 

カトリックの信仰がテーマになっていることもあり、わからないことや眠くなることも多かったのですが、「ムーシェットの物語」「絶望の誘惑」は、心に響く言葉も多く、読んで良かったと思いました。

 

でも、最後の「ランブルの聖者」は、読み終えるのに時間がかかり、最後はもうやめようかとも思いました。

 

心に引っ掛かった言葉を、少しだけメモしておきたいと思います。

抜き書きは「 」で、感想は〇で記します。

 

「「お前の生涯は、どれもこれも似通った、おまえたちの家畜が餌を食む秣桶とまさにおなじように低い、平板に生きられた他のもろもろの生涯の繰り返しなのだ。そうだ!

おまえの行為の一つ一つは、おまえが血を亨けた者たち、卑劣で、吝嗇で、卑猥で、嘘つきな人間たちのしるしなのだ。

 

 

私には彼らの姿が眼に見える。神がそれを見ることをお許しになったからだ。嘘偽りなく、私は彼らのうちにお前を見、おまえのうちに彼らを見た。おお!私たちがこの世で占める場所はなんと危険に満ち、なんと小さく、また私たちの通る道はなんと狭いことだろう!」(略)

 

 

マロルティ家、ブリソー家、ポリー家、ピション家などの人々の名が挙がった。

それらは、非の打ちどころのない商人たち、りっぱな主婦たち、おのれの財産を愛し、遺言を残さずには決して死なず、商工会議所や公証人事務所の誉とうたわれた、先祖の男たちや女たちであった。(おまえの叔母のシュザンヌは、おまえの叔父のアンリは、おまえの祖母のアデールとマルヴィナ、あるいはセシルは……)

 

 

しかし、その声が抑揚のない調子で語ったことは、ほとんどの人々の耳が聞いたことがなかったことだった。それは内側からとらえられた物語、完全に隠蔽され、秘密にされてきた物語であり、原因と結果、意図と行為とのもつれのなかに組み込まれたありのままの物語ではけっしてなく、根源的ないくつかの事実と母胎である過誤とに関連付けられた物語だった。(略)

 

 

 

何十人という男女が同じ癌の繊維で結ばれ、その怖ろしい縛めは、まるで断ち切られた蛸の脚のように、ついにはその怪物の中核そのものにまで、すなわち、誰にも気づかれずに、子どもの心の中にもひそんでいる原初の罪にまで収縮していった。そしてムーシェットは、彼女の自尊心が打ち砕かれたかの瞬間をも含めて、いまだかつて見たことがないようなかたちで自己自身を見たのである。(略)

 

 

彼女は血縁の者たちのうちにおのれの姿を認め、錯乱の極においては、もはや彼らの群れからおのれを区別することはできなかった。なんということだ!彼女の生涯のただひとつの行為といえども、ほかにその分身をもたぬものはないというのか?ただひとつの思念も彼女自身のものではなく、ただひとつの身振りも、久しい以前にすでになされなかったものはないというのか?似ているものはなかったにもかかわらず、それらはすべて同一だった。繰り返されたものはなかったにもかかわらず、それらはすべて一つのものだった。

 

彼女は自分を破壊しつくした明証のどれをも理解できる言葉で跡づけることはできなかったが、おのれの惨めな短い生涯のうちに、測り知れない瞞着と、瞞着する者の計り知れない哄笑とを感じ取っていた。どれも変わりばえのしない恥辱にまみれた、唾棄すべきそれらの先祖のひとりひとりが、彼女のうちに自分の財産の分け前を認め、嗅ぎつけて、それを要求しにやってきた。

 

 

彼女はいっさいを投げ与えた。いっさいを引き渡した。まるでそれらの人々の群れは、彼女の手の中から彼ら自身の生命を喰いにやってきたようだった。(略)」

 

 

「(略)われわれはもはや、奇跡を云々する時代には生きていない。むしろ、みんな奇跡を怖れているようだ。公共の秩序と関係があるんでね。行政機関はわたしたちをやりこめようと、その口実だけをうかがっている。そのうえ、彼らの言い草によれば _ 神経学とかいう科学が流行だ。書物を読むように人間の魂を読み取るなんていうおめでたい司祭 ……… いいかね、こんなのは病院行きだよ。(略)」

 

「(略)きみは、未経験で熱意が勝ちすぎたこと以外になんの罪も犯してはいないからだ。(略)」

 

「彼らは内的生活というものをどう処理してしまっているのか?本能の陰気な戦場としてだ。道徳は?感覚の衛生学としてだ。聖寵とはもはや、知性の興味をそそる合理的な推論にすぎないし、誘惑はそれを呼び寄せようとする肉体の欲望にすぎない。彼らはせいぜい、そんなふうに、われわれのうちでおこなわれている烈しい戦いのもっとも卑俗な挿話を説明するだけだ。

 

 

人間は快いもの、役に立つものしか追求せず、良心がその選択を導くものと考えられている。書物の中の抽象的人間、どこでも出会うはずのない平均的人間とかいうものが相手ならそれでもかまわない!だが、そのような子供だましではなにも説明できんよ。感覚と推理だけをそなえた動物どもの世界の中には、聖人のための余地はない。

 

 

ないしは、狂気のせいだと言いくるめておかねばならん。かならずそういう羽目になる。まちがいなしだ。だが、問題はそんなけちなことでは解決しない。われわれはだれでも —— いいかね、旧友の言う言葉をおぼえておいてくれたまえ! ―— かわるがわる、ある意味で犯罪人になったり聖人になったりするのだ。

 

ある時は、利益を正確に評価したうえではなく、全存在の飛躍、苦悩と放棄とを願望の目的とする愛の横溢によって、はっきりと独自なかたちで善のほうに運ばれるし、あるときは、堕落と、灰の味わいのする逸楽への謎めいた好み、動物性へのめまい、その不可解な郷愁によって責め苛まれるのだ。何世紀にもわたって積み上げられてきた道徳生活の経験などなにものでもない。

 

多くのあわれな罪びとたちや彼らの悲嘆の実例など何者でもない!いいかね、よくおぼえておきたまえ。悪は善とおなじように、そのもの自体のゆえに愛され、奉仕されるものなのだ。」

 

 

「文学の大学教授資格者でアカデミーの視学官であるロヨレ氏は、世間で評判になっているランブルの聖者に会いたいと思った。彼は娘と夫人を連れて、ひそかに聖者を訪ねた。彼は若干感動した。そして言った。「わたしは、物腰が上品で礼儀作法をわきまえた、いわば堂々とした人物を想像していた。しかし、あの司祭には品位がなかった。

 

 

彼は乞食のように大道でものを食べる……」さらにこうも言った。「あのような人間が悪魔を信じているとは、いかにも残念なことだ!」(略)

 

 

「魂の不可解な敵、強力で下劣な敵、壮大で下劣な敵が住まっている古い人間の心。その敵とは、否認された暁の星、リュシフェール、またの名は偽りの夜明けだ……

 

 

ランブルの貧しい主任司祭は多くのことを知っている!ソルボンヌが知らないことを知っている。書き留められもせず、ほとんど口にもされず、ふさがった傷口から引きむしられるように無理矢理に告白させた多くのこと—― 実に多くのことを!そしてまた、人間がなんであるかも知っている。

 

 

それは悪徳と倦怠に満ちた大きな子供にほかならない。

この老いた司祭が学ぶべき新しいなにがあろうか?彼はどれも似たり寄ったりの無数の生涯を生きたのだ。もはや彼はけっして驚くことはないだろう。彼はもう死んでもよい。まったく新しい道徳というものはあるが、罪を新しくすることはできないだろう。

 

はじめて彼は、神ではなく人間を疑っていた。(略)

世にあってはいかにも雄弁な多くの偽りの反逆者が、笑止千万にも彼の足元にひれ伏すのを彼は見てきたのだ。秘密をいだいて腐ってゆく多くの驕慢な心!怖るべき子供たちにも似た多くの老人たち!

 

 

そして、これらすべての者たちのうえに、冷たいまなざしで世を眺め、けっしてひとを赦そうとしない若い吝嗇漢たち。(略)」

 

〇 死刑制度について考える時、私はいつもこのことを思います。

私たちは誰も皆、大きな血筋の流れの中の一部分であり、状況によって、悪人にも善人にもなるのだろうと。

 

「われわれはだれでも —— いいかね、旧友の言う言葉をおぼえておいてくれたまえ! ―— かわるがわる、ある意味で犯罪人になったり聖人になったりするのだ。」

 

そんな「動物」でしかない私たちが、たまたま置かれた状況が幸運で、犯罪人にならなかったからといって、不運で犯罪人になった人間を殺せ!と言えるのだろうか、と。

 

もし、本当に本当にその犯罪を憎むのであれば、その不運な状況を変えることに尽力する方がずっと公正なのではないか、と。

 

 

「彼の最後の言葉は発せられなかった……。無数の槍に突き刺されたこの老闘技者は、弱い者たちのために証言し、裏切りと裏切り者の名を告げている……。ああ!相手たる悪魔は、言うまでもなく、狡猾でみごとな嘘つきであり、栄光を失ったあとも頑迷なこの反逆の天使は、うなだれてもの思う人間の群れを軽蔑し、その奸策のすべてをつくして、彼らを思うままにけしかけたり、繋ぎ止めたりしている。

 

 

だが、彼のつつましい敵はそれに立ち向かい、怖ろしい嘲罵の叫びの中でも頑強に頭を振っている。どのような哄笑と叫喚の嵐とをもって、勝ち誇った地獄は、ほとんど理解できぬ無邪気な言葉、芸のない混乱したそんお弁論を迎えることだろうか!だが、それがなにになろう!天空が永遠に覆い隠すことのないその声をもうひとりのお方がきいておられるのだから!

 

 

 

主よ、わたしどもがあなたを呪詛したというのはまことではございません。どうか、かの嘘つき、かの偽りの商人、かの取るにたらぬあなたの競争者がむしろ滅びさりますように!(略)

 

 

わたしどもの知性は鈍く、凡庸で、わたしどもの盲信は限りありませんが、その反面、かの狡猾な誘惑者は金の舌を持っております……。かの者の口にかかると、ありふれた言葉も彼の好む意味を帯び、世にも見事なその言葉はますますわたしどもを踏み迷わせるのです。(略)

 

 

人間という種族がみずからを表現しうるのは、ただその苦悩の叫びを通じて、途方もない努力によってその腹から絞り出される悲嘆を通じてにほかなりません。あなたはわたしどもを、パン種のように深いところに投げ入れられました。

 

 

罪ゆえに私どもから奪い取られた世界、それをわたしどもは一歩一歩奪い返し、世の最初の創造の朝、秩序と聖性のうちに受けたまま姿で、あなたの手にお返しするでしょう。主よ私どもに対しては時を計りませんように!わたしどもの注意はながつづきせず、私どもの精神は、たちまちあらぬ方にそれてしまうのです!

 

 

たえず眼は、右や左に不可能な出口をうかがい、たえずあなたの働き手のだれかれは、道具を打ち捨てて立ち去ります。しかし、あなたの憐れみはけっして倦むことはありませんし、いたるところあなたは、剣の切先をわたしどもに突き付けられるのです。逃げ去った者はふたたび仕事に戻るか、さもなければ孤独のなかで滅び去ります…。

 

 

ああ!あれほど多くのことを知っているかの敵もこのあなたの憐れみだけは知らないでしょう。人間のうちもっとも卑しいものも、おのれとともに一つの秘密、浄化作用としての有効な苦しみの秘密を宿しているのです……。なぜなら悪魔よ、おまえの苦しみは不毛だからだ!(略)

 

 

おまえはわたしと共に苦しみ、わたしと共に祈っていた。ああ、考えるだに怖ろしいことだ!あの奇跡さえも…。だがそれがなんだろう!それがなんだろう!わたしを裸にするがよい!わたしからなにも残さぬがよい!

 

 

だが、わたしのあとにひとり、そしてまたひとり、年々、だれかが十字架をいだきながが同じ叫びをあげるのだ…。わたしたちは、善男善女たちが絵の中で眺め、哲学者たちでさえその雄弁と頑健さとを羨むといった、金色の髭を生やした赭ら顔の聖人ではない。私たちの分け前は世の人たちが想像しているようなものではないのだ。その苦しみに比べたら、天才の苦しみなどつまらぬ遊びにすぎない。

 

 

主よ、みごとな生涯はすべて、あなたの証です。しかし、聖人の証は、いわば剣によってえぐり取られたものなのです。

 

 

 

おそらく、この地上において、ランブルの主任司祭が審判者なる神に向かって発した最後の訴え、そして彼の愛に満ちた糾問はこのようなものだっただろう。(略)」

 

 

〇 途中何度も眠くなりながらも、一応最後まで読みました。

でも、カトリックキリスト教文化の中で育っていない私には、最後まで違和感があったのが、何故このランブルの主任司祭が聖人とされたのか、ということです。

それが知りたくて読んでいた部分もあったのですが、全くわかりませんでした。

 

 

また、いつか読み直してみたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コモンの再生

「「情理を尽くして語る」態度の欠如

 

祇園精舎の鐘の声」は「盛者必衰の理をあらわす」と言います。どれほど権勢を誇る政治家でもいつかは衰運の秋を迎えます。安倍政権も最終的には政策的な失敗によってというよりは、その「態度の悪さ」で国民的な支持を失ったのだと思います。

 

 

官邸前のデモに取材に行った方たちの話を聞くと、「怒りのあまり」デモに来たという人たちがずいぶん多かったそうです。不出来な法案や不適切な外交については「批判的になる」ことはありますけれど、感情的な「怒り」として表現されることはありません。

 

 

人が本気で怒るのは「人として許せない」という感じがしたときです。今の政権への国民の「怒り」は個別的な出来事に対してというものよりも、それを取り扱うときの政治家や官僚たちの「態度の悪さ」に対するものだと思います。なかなかこちらの立場や言い分を先方にご理解頂けないという場合、僕たちはふつう「情理を尽くして語る」ということをします。できる限りわかりやすく、論理的で、筋の通った話をしようとする。

 

 

でも、今の政権周りの人たちはこの「まことにわかりにくい話」を国民にわかってもらわなければならない立場にありながら、「情理を尽くして語る」という態度をとっていない。むしろ、木で鼻をくくったような無作法な態度に終始し、説明の手間を惜しみ、前後のつじつまの合わない話を平然と垂れ流している。

 

 

それは「そういう態度」をとっても誰からも叱責されない、誰からも処罰されないと思っているからです。たしかに、そういうことが5年間続きました。彼らの経験則は「腰を低くしたら相手がつけ上がる、だから、あくまで自分にはまったく非が鳴く、説明責任もないという態度で押し通した方がいい」と教えています。これまではそうやってうまく行った。だから、今回もそうする、と。(略)」

 

〇 内田氏は「態度の悪さ」と言っていますが、

平然と嘘をつき、ルールを守らず、ズルをする。更にその悪事を隠すためには何でもする。

人として最低です。一般人が、こんな態度をとれば、もうどんな仕事も続けられないと思います。私なら、こんな信用できない人とは、係り合いになりたくありません。

 

ところが、そんな人が総理大臣だというのです。

「情理を尽くして語る」ことで、なんとか国民に説明しようとしても、

犯罪者の言い訳にしかなりません。だから、説明から逃げるしかないのだと思います。

 

 

最初は安倍氏一人の問題かと思っていました。

ところが、菅氏もほとんど変わりませんでした。そして、岸田氏も安倍政権のやり方をしっかり踏襲しています。

安倍氏を護るために、周りの人々や組織全てが、「嘘をつき、ルールを破り、ズルをし、それを隠すためには何でもする」というやり方になっています。

しかも、絶望的なのは、そんなやり方が嫌だと思う真っ当な人は、このような組織の中には、居られないでしょう。

 

そうなると、私たちの国は、愚かな人々(大人の判断が出来ない人)がかじ取りをする国ということになります。この先のことを思うと、心配でたまらなくなります。

 

「(略)北朝鮮が瓦解した場合の最初の問題は難民です。でも、難民は寝る所を提供し、飯が食えれば、とりあえずは落ち着かせることができる。怖いのは軍人です。朝鮮人民軍は現役が120万人、予備役が570万人います。兵器が使える人間、人殺しの訓練をしてきた人間がそれだけいるということです。

 

 

イラクでは、サダム・フセインに忠誠を誓った共和国防衛隊の軍人たちをアメリカが排除したために、彼らはその後 IS(イスラム国)に入ってその主力を形成しました。共和国防衛隊は7万人。朝鮮人民軍は120万人、その中には数万の特殊部隊員がふくまれます。

 

 

テロと謀略の専門家を野放しにした場合の治安リスクの大きさは比較になりません。(略)

ですから、リビアイラクがそうでしたけれど、どんなろくでもない独裁者でも、国内を統治できているだけ、無秩序よりは「まだまし」と考えるべきなのだと思います。

今のところ国際社会もそういう考えのようです。とりあえずは南北が一国二制度へじりじりと向かってゆくプロセスをこまめに支援するというのが、「北朝鮮というリスク」を軽減するさしあたっての一番現実的な解ではないかと僕も思います。(2017年9月29日)」

 

「「大人」が「子ども」のしりぬぐいをする

 

政治的理想の実現をこれまで阻んできたのはその非寛容さだと僕は思います。わずかでも自分の意見に反対する人間、同調しない人間に対して理想を語る人間たちが下す激烈な断罪。それが結果的に「人間が暮らしやすい社会」の実現を遠ざけてきた。

 

僕は別に人間の弱さ、邪悪さを放置しろと言っているわけではありません。そうではなくて、それは処罰や禁圧の対象ではなく、教化と治癒の対象だと申し上げているのです。場合によっては、罰するよりも、抱きしめてあげることによって暴力性や攻撃性は抑制されることがある。

 

 

全員が善良でかつ賢明でなければ回らないような社会は制度設計が間違っています。一定数の「大人」がいて、自分勝手なふるまいをする「子ども」たちの分の「しりぬぐい」をする。それが人間たちの社会の「ふつう」です。一方に身銭を切る人たちがいて、他方にそれに甘える人たちがいる。それは仕方のないことなんです。

 

 

彼らは悪人であるのではありません。たとえ老人であっても、権力者であっても、大富豪であっても、彼らは「子ども」なのです。全員が利己的にふるまっていては共同体は持たないということがまだわかっていないのです。その幼児性は処罰ではなく、教化と治療の対象なのです。

 

 

じゃあ、そのn「身銭を切る人」はどうやって担保するのか、と気色ばむ人がいると思います。おっしゃるとおりです。「大人」の確保を制度的に担保することはできません。(略)

できるのは、「大人」が愉快に、気分良くその「身銭を切る仕事」をしている様子を「子ども」たちに見せることだけです。それを見て「あれ、たのしそうだな」と思った「子ども」たちの中から次の「大人」が出てくるのを待つしかない。(略)

(2017年4月22日)」

 

〇 大人が子どもの尻ぬぐいをする社会については、同感したくなりました。

自分自身のことを振り返って見ても、子どもの部分はたくさんあり、今まで本当にたくさんの人に、その尻拭いをしてもらってきました。

悪意はなくても、結果として悪いことをしてしまったということは、

ありましたし、これからもあると思います。

 

でも、この具体例として、考えてしまったのが、安倍氏のことです。

安倍さんは、子どもだった。だから、平気で嘘をつき、ルール破りをし、それを誤魔化すためにはどんな汚い手も使った。

多分、実際に安倍氏は「子ども」だったのではないかと思います。

それほど、愚かしく見える。

 

でも、その尻拭いを、私たち国民が「大人になって」する、っていうのは、

どうなんだろう?と思います。

 

やはり、ここには、「正しいこと」と「間違っていること」を指摘し、判定する基準がなければならないと思います。それが本来は法や公序良俗の感覚だと思うのですが、その法まで子どもの愚かさで歪めてしまったのが、安倍氏です。

 

厳格に正義を振りかざし、追いつめるやり方が良くない、と内田氏は言います。

でも、正義はきちんとなければならないと思います。

それは、単なる言葉や規則のようなものではなく、もともとは、人の身になって考える想像力の行きついた先にあるものではないかと思います。

 

例えば私は以前、「シーラという子」の本から引用したことがあるのですが、

その後も、このシーンを何度も思い出します。

 

 

「「ピータ、あなたが人から臭いっていわれたらどんな気がする?」
「だって、この子ほんとにすごい臭いんだもん」ピーターは言い返した。
「そういうことをきいているんじゃないわ。人からそういうことをいわれたらどういう気がするってきいてるのよ」」


「「そうね。いい気持ちがする人は誰もいないと思うわ。じゃあこの問題を解決するのにもっといい方法って何かしら?」
「トリイが、誰もいないときに、臭いよってそっといってあげればいいんだよ」ウィリアムがいった。


「そうすればあの子ははずかしい思いをしなくてすむよ」
「臭くないようにすればいいって教えてあげれば」とギレアモー。」

 

〇こんな風に、「あなたが、△△△されたら、どんな気がする?」と自分の問題として考えて想像する「授業」が学校の中でもっともっとあるべきではないかと思います。

そうすれば、「あなたが、殺されたらどんな気がする?」という質問に対し、自分事として想像し、「殺人がなぜ悪いか?」についての答えも出るのではないでしょうか。

 

 

 

「「代わる人」が出てくる制度設計

 

それでも、フランスの場合は、最小限の「公共」は制度的に担保されています。基礎自治体としてコミューンというものが存在するからです。サイズは数十万人から数十人までさまざまですが、コミューンごとに市議会があり、市長がいる。なぜ面積も人口も違う行政単位が同格の基礎自治体になりうるかというと、それがカトリックの教区に基づいているからです。街の真ん中に教会があり、教会の前に広場があり、向かいに市庁舎があるというつくりはどのコミューンにも共通です。性的権威と世俗的権威が向き合っている。権力の古層と権力の新層が目に見えるかたちでそこに拮抗している。

 

 

日本の行政単位にはそのような文化的な支えがありません。明治政府の官僚たちが適当に境界線を引いて作った「机上の空論」だからです。

 

 

幕末に藩なるものは国内に276ありました。これを統廃合して、明治4年に1使3府302県に再編されました。そのわずか4か月後に今度は1使3府72県に縮減され、それでも多いというので、38府県にまで減らされ、明治21年にだいたい今のかたちに落ち着きました。(略)

 

 

 

幕末に「四賢侯」と呼ばれた藩主たちがいました。福井の松平慶永宇和島伊達宗城、土佐の山内容堂、薩摩の島津斉彬です。4人ともすぐに将軍に代わって日本を統治できるだけの実力と見識があった。藩は人材育成システムとしても、リスクヘッジ・システムとしてもきわめてすぐれたものだったということです。だから、明治維新のあと短期間に近代化することが出来たのです。

 

 

今の日本には、コミューンや藩のようなしっかりした自治単位がなく、権限は中央政府に集中しています。だから、中央でどれほど失政が続いても、「代わる人がいない」という理由で30%の国民が内閣を支持している。でも、「代わる人がいない」というのは制度設計が間違っているということです。(略)

 

 

地方自治体は中央政府に対して強い独立性を持つべきだと僕は思います。(略)でも、その目的は何よりも「公共に対する信認」を育てることです。周りの人たちを「同胞」と感じることができ、その人たちのためだったら「身銭を切ってもいい」と思えるような、そういう手触りの温かい共同体はどうやったら立ち上げることが出来るのか。この問いが今ほど切実になったことはありません。(2017年11月1日)」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コモンの再生

〇 内田樹著 「コモンの再生」を読みました。

難しくてわからない部分も多く、私は知らないことがあまりにも

たくさんある、と思い知りながら読みました。

借りて読んだ読んだ本なので、印象に残った所をメモしておきたいと思います。

 

感想は〇で、引用は「 」で記します。

 

「(略)イギリスの福祉制度は戦後すぐから今日まで「ばらまき」と「引き締め」を無原則に繰り返してきました。そこに政策的な一貫性を見ることはできません。でも、一つだけ確かなことがある。それは、この政策的ダッチロールの過程で、生活保護なしでは暮らしていけない最貧困層が差別と排除の対象となり、社会の底辺に吹き溜まり、閉ざされた集団と化したことです。

 

 

 

祖父母の代から3代続いて生活保護受給者というような人たちの場合、彼らの周囲には就労経験のある人がもういません。「働いてお金を稼ぐ」ということの意味がよくわからない。だから、勤労者の常識を知らない。朝決まった時間に起きるとか、見苦しくない服装をするとか、人に会ったら挨拶するとか、そういう基本的なことさえ学習するチャンスがない。

 

 

服装はジャージー、頭はスキンヘッド、全身にタトゥー、朝から酒を飲み、ドラッグをやり、就学せず、10代で子を産んでシングルマザーになる……そういう生活をしている人たちがある地域に集住している。そのような環境で育った子どもにはもう社会的上昇の機会はほとんどありません。

 

 

でも、徒食と怠惰を許さないとして、生活保護を打ち切っても(実際に保守党のキャメロン首相の時代に社会保障費は大幅に削減されました)、彼らの就労意欲を活気づけることはできませんでした(就労したくても、その技能がないのですから)。

 

 

そして、まっさきに社会福祉予算縮減の犠牲になったのは子どもたちでした。親たちに生活力のない家庭の子どもたちの給食や託児所での公的なケアが打ち切られたのです。子どもたちは社会的訓練の機会を奪われるどころか、餓死のリスクにさえさらされることになりました。

 

 

これがイギリスの戦後の福祉をめぐる現状です。社会福祉制度の効果というのは、その恩恵をこうむった世代のさらに子ども世代を見ないと、その成否がわかりません。

戦後の高福祉制度はビートルズストーンズやロンドン・ファッションを作り出した。サッチャリズムは「アンダークラス」を作り出した。でも、高福祉制度は財政破綻をもたらして国民の支持を失い、サッチャーの自己責任論は国民的に圧倒的に支持された。

 

 

英国の有権者たちは自分たちに利益をもたらす政策を嫌い、自分たちをリスクにさらす政策を選好した。「貧困は自己責任だ」と言い放つということにはそれなりの爽快感があるということなのでしょう。そういう人は日本にもたくさんいます。

 

自分自身がいつ貧困の境遇に陥るかわからないにもかかわらず、「貧困は自己責任だ。公費による扶養を許すな」と主張している人がたくさんいる。今の政権与党の支持者たちの多くはそうです。これまでその理由が僕にはよくわかりませんでしたが、「チャヴ」を読んで、「公費で扶養される人間」に対する嫌悪と憎悪というのは、国境を越えて根深いものだということを知りました。(略)

 

 

ベーシック・インカムが制度として成功するかどうかを決めるのは制度そのものの合理性ではありません。その制度を導入する社会そのものがどれほど開放的か、どれほど流動的か、どれほど他者に対して寛容か、どれほど温かいか、それにかかっていると思います。」

 

「(略)

権力者がその権力を誇示する最も効果的な方法は「無意味な作業をさせること」です。合理的な根拠に基づいて、合理的な判断を下し、合理的なタスクを課す機関に対しては誰も畏怖の念も持たないし、おもねることもしません。

 

 

でも、何の合理的根拠もなしに、理不尽な命令を強制し、服従しないと処罰する機関に対して、人々は恐怖を感じるし、つい顔色を窺ってしまう。

 

 

今の日本の権力者たちは他の点では多くの問題を抱えておりますけれど、「マウンティング」技法にには熟達しています。

今回わかったことは、検定制度とは、無意味なクレームをつけて無意味な修正をさせることによって教科書の作成者たちに無力感を与え、権力に反抗することは不可能だということを教え込むための制度だということです。」

 

「抑止力は現に働いている

 

ただし、9条2項と自衛隊の「つじつま合わせ」という複雑なシステムを操作するためには高度な政治技術が必要でした。ですから、そのような複雑な操作ができる「大人の政治家」が日本では久しく国政を担当してきたということです。

 

 

今の改憲論者が主張しているのは、平たく言えば、「大人の政治家がいなくなったので、そういう複雑な操作はもうできなくなりました」ということです。三権分立両院制も「そういう複雑なことはわからないから、話を簡単にしてくれ」と訴えるような人たちですから、改憲論がでてくるのも当然です。

 

 

でも、自分には複雑な政治技術を運用できないから、システムそのものを「自分のレベル」に合わせてほしいというのは、いくらなんでも虫が良すぎるのではないかと僕は思います。

 

 

もちろんシステムが簡単であるというのは一般的には「よいこと」です。でも、「複雑だが今のところうまく機能しているシステム」をあえて廃絶して、「単純な室てむ」に切り替えるという場合、今のシステムで確保できているアドバンテージについては引き続き確保できる保証が必要です。でも、残念ながら「それは保証します」と言ってくれる人は改憲論者にはいません。(略)」

 

〇 自衛隊をどう考えるかについては、私も若かったころには、「違憲」だと

思っていました。ただ年を重ねるにつれ、国防のための軍隊を持たずに主権を主張できるのか等、疑問も生じ、だんだんわからなくなっていきました。

又、天皇制についても、天皇の名のもとに戦争を起こした国が、敗戦後もなおそのシステムを続けているということに、モヤモヤしたものを感じていました。

でも、結果として、なんとか今までは平和にやってこられたわけで、そこには、様々な幸運もあったのでしょうけれど、「大人のやりくり」が働いていたのは確かなのだろうと、思います。

戦争をしない。国民を護る。

裏に原発村や統一教会の存在があったにせよ、少なくとも、その基本を守ろうとした政治家は、居たのだろうと思います。

 

「9条を空洞化するメリットとは?

 

それどころか、安全保障関連法案を強行採決した後、2016年度のスクランブル回数は1168回、堂々の戦後最多を記録しました。スクランブル回数の多さが「抑止力が効いていない証拠」であるという安倍首相の説明を信じるなら、この法整備によって日本の抑止力は大きく減殺されたことになります。でも、これについて納得のゆく説明を僕は政府からもメディアからも、聞いた覚えがありません。

 

 

実践的な問題は安全保障です。抑止力を高めることは国防の必須です。でも、抑止力というものの働きについても、それはどうやって計測するものかも「よくわかっていない」という政治家が、次は抑止力を高めるために改憲すると言っても、僕は簡単に同意することができません。

 

 

僕が首相にお聞きしたいのは、9条を空洞化するとどういう安全保障上のメリットがあると考えているのか、その「メリット」は何をもって考量できると思っているのか、それだけです。(略)

 

 

中国が日本に侵略してくると本気で思っているのなら、それに対応する政策を考えればいい。平時にできる最も効果的な抑止は「日本と軍事的に対立するより、友好的な関係を保ち続ける方が中国にとってメリットがある」という状況を創り出すことです。

 

現に中国と緊密な経済的交流があり、文化交流があり、観光客の行き来がある。ならば、「日本といい関係を保持したい」という中国人の数を一人でも多くしてゆくことこそ「最大の抑止力」ではないでしょうか。

 

北朝鮮のミサイルが飛来すると本気で思っているのなら、まず日本海岸の原発を直ちに停止するのが安全保障上の最優先課題でしょう。でも、そんな様子はない。どうやら国防より「目先の銭金」の方が優先しているように見える。国民の命について真剣に考える習慣のない人たちに安全保障については語ってほしくない。僕が言いたいのは、それだけです。」

 

〇 いちいち全く同感!!と思いながら読みました。

戦争については、「戦争は始まると止められない。だから始めてはいけない。」という話をよく聞きました。今、ウクライナイスラエルの戦争を見ながら、本当に心からそう思います。

9条は単なる理想や夢の話ではなく、まさに苦しみの中で死んでいった多くの人々の命が言葉になっているのだと、最近はそう思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

畏れ入谷の彼女の柘榴

〇 舞上王太郎著 「畏れ入谷の彼女の柘榴」を読みました。

この著作については、ずっと気になっていたのですが、やっと読むことができました。

 

そして読みながら、この作者との出会いを喜びました。

 

もともと、読書量が少なくものの考え方も、かなり狭い。

そんな私が、この作者に出会えたのは、全くの偶然でした。

 

私の場合、読書が苦手というほどではないのですが、

引き付けられない文章は、読み続けることができないのです。

努力して読む、ということが出来ないので、すんなり引き込んでくれる

舞上王太郎には、いつも感謝してしまいます。

 

この物語は、ファンタジーなのか、それともSFものなのか?と思い始めた頃、

話は急展開しました。

 

ここが、なんとも清々しくて、気分がスッキリしました。

すごいなぁ、と思います。

 

感想は〇で、引用文は「 」で、記ます。

 

「千鶴は瞳に穴が空いたみたいに見える程ぽかんとしている。

俺は続ける。

子供ができることはおめでたいことや。自分で作ったならな。でもそうでなかったら全然別の話や。人に押し付けるおめでたが相手に迷惑になるなんて普通にありえるやろ?

 

 

それチヅわかってるはずやろ?ほやかって今、まさしくその例を並べてくれたもんな」

「…………」

「千鶴が親としてふさわしくない、有害やって言うてるのはそういうところや」

「……どういう……」

 

 

 

「わかってるはずのことを自分に都合よくわからんふりするところ。そんでそのわからんふりしていることも誤魔化そうとするところ。誤魔化すために嘘をつくことも平気なところ」

「………!」

追い打ちをかけ続ける。そう決めている。

 

 

 

「さっきチヅ言うたが?「子供の親を軽んじるな」って。俺は親と親であることを決して軽んじてない。敬意を払うからこそ今はっきり言うわ。チヅには親は無理や。向いてないどころの話でない。資格がないわ。

 

 

「悪いところがあったら直すで……」

「直せるところでない。もともとないわ。悪いところって言うても何が悪いかもわからんやろ?」

「……教えてや」

 

 

「いいで?根本や。チヅは命を大事にできんのよ。ほやでいろんな人に気楽におめでた押し付けたりできるんよ。新しく生まれる命の話だけでない。

もうすでにある命のことも全然適当やもんな。(略)」

 

 

 

「わかってないって。まあわかってもらえると思って言うてないけど、チヅにはわからんのや。反省ってのは、何が悪いかわかってからでないとできんことや。それがわからんチヅにはできんって」(略)

 

 

 

「「ちゃんと追い込むって決めてるでな。俺は今回チヅには滅茶滅茶ボロボロになってもらうつもりなんよ」

 

「なんで?」

「言うたやろ? 親として敬意を払ってるんや」

(略)

「びっくりした?自分のことが大事で自分自分優先でやってきたつもりやったんやろ?

違う違う。自分のことが大事な人間は周りのこと大事にするもん。それができるもんや。人のこと大事にできんやつは、誰に嫌われてもどうでもいいと思ってるやつで、それはつまり自分のことどんなに酷い目に遭ってもいいと思っているんよ」

 

 

千鶴がいよいよそこから消えてなくなったみたいにして愕然としている。

千鶴の根幹を潰してしまったのかもしれない。

 

 

ほんの数か月前までは何も問題なく一緒に暮らし、確かに愛していた相手をここまで追いつめるなんて……と俺自身がどこかで悲鳴をあげるけれど、いいんだ、と俺はそれを削ぎ落す。

 

繰り返した通りだ。

親としての敬意を持って、俺はこれをやってるんだ。ここに欺瞞はない。やり込めてスッキリとかも全然ない。

気持ちはひたすら重い。

俺はこの人のことが好きだったのだ。

こんな人のことが好きになっていたのだ。

でもこの人が好きになったおかげで今の全てがある。

 

 

 

「……チヅは、どうなってもどうやっても、何が何でもナオくんの母親や。でも、親としては失格や。それわかるやろ?」

俺は書類を出す。

離婚届。

 

子供の親権の欄は俺が書き込んである。

「これ、書いてくれや。他はいろんなこと、フェアにやるさけ」

 

 

千鶴は動かない。

動けない?それも当然だろう。

でも俺は待つ。

今日終わらせないと、千鶴がまた何をトボけて誤魔化して嘘をついてくるのか

わからない。(略)」

 

 

「真面目な葛藤や計算をこなした後にしても、確かにまあいいや、ままよ、どうにかなるさ、みたいなところがあるかもしれない。それが根本になるからこその迷いだったのかもしれない。

 

が、生きることに軽やかさを持ち込むことと命を軽んじることは違うはずだ。

でもそのことを説明してもわかってもらえないだろうしわかってもらう必要もないから俺も何も言わない。

 

黙った俺を見て千鶴が

「ごめん、忘れて」

と言うけれど、本当にこいつは……としか思えない。(略)」

 

 

 

「でもやらかした罪の償いには全くなっていない。

それにはおそらく何をしても届かない。

現実問題としては、内心において、この世のいろんなことと同様折り合いをつけるしかない。

 

 

 

その上で願う。バカの使った言葉だが、それに頼る他はない。

おめでたい出来事がおめでたいことになりますように。

どのようなバカにも存在意義があって、この世の幸福につながるチャンスがそれなりに

あるんだという俺の祈りが叶いますように。

 

尚登の指はもう光らないし、光らせ方を忘れちゃったと言う。

あああ、あああああああ、そういうことが、たくさん起こりますように。」

 

〇 ファンタジーでもSFでもありませんでした。

この文章…

 

「わかってるはずのことを自分に都合よくわからんふりするところ。そんでそのわからんふりしていることも誤魔化そうとするところ。誤魔化すために嘘をつくことも平気なところ」

 

「…チヅには親は無理や。向いてないどころの話でない。資格がないわ。」

 

これは、まさに今の盛山文科相を評するのにぴったりの言葉です。

更に、もう随分前から、自民党の多くの政治家も同じような態度で、国民に対応しています。

 

「政治家は無理。向いてないところの話ではない。資格がない。」

 

なのに、それをしっかり「追い込む」ジャーナリストや検察官はいない。

国民までも、こんな噓つきで、何が悪いのかもわからない自民党公明党を支持しているのですから、本当に気持ち悪くてしょうがありません。

 

おそらく、この著者には、そんな意図はないのでしょうけれど、私はついそんなことを思いながら、読んでいました。

そして…

 

「…どのようなバカにも存在意義があって、この世の幸福につながるチャンスがそれなりにあるんだという俺の祈りが叶いますように。」

 

私も、心からそう思いました。

わからない人には、わからない。

そういう国民性なのだと思うしかないほどに、絶望的になってしまう。

 

でも、そんな私たちにも、「それなりに幸福につながるチャンスはあるように」と

祈りたいと…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「家族」という名の孤独

「子どもは、親の輝く顔を見たい一心で生きている。そんなふうには見えない子どもでもそうであることは、自分の子ども時代を想い出せばわかるはずなのに、親という役割にとらわれた人は、このことを忘れてしまっている。

 

 

子どもに親の期待を雨あられと浴びせかけ、期待の視線で縛り上げるということが、この少子化時代に普遍的な親の子ども虐待である。(略)

 

 

そんなとき、親にラーメンをぶっかける子は、かけない子よりましなのである。頭にかかった熱いラーメンは、親の頭を冷やすだろう。ここから自然の理にかなった親子関係がはじまるかもしれない。

 

残念なのは、この期に及んでなお、親の「虐待」に逆らえない子が圧倒的に多いことである。そして、こんなのが「健全な親子関係」と呼ばれているからお笑いだ。健全な母たちは子どもに献身することによって子どもたちを追いつめ、夫に献身することによって、男たちを過労死の淵に追い立てている。

 

 

この種の献身は「共依存」である。この概念については第二章でもふれたが、ここでもう一度、その意味を掘り下げてみよう。」

 

 

「(略)

親密な人間関係とは、このような不安と支配欲から解脱した関係である。それは流動的なプロセス(過程)であって、共依存のように恒常性を持った状態ではない。親密性が制度や組織というものと相性が悪いのは、一つはそのためである。(略)」

 

 

 

共依存と親密性の外見が似ているのは、共依存者が偽の親密性を装う名人だからである。共依存者の利他主義は、実は記述のような自己中心性から発するという矛盾を抱えているのだが、われわれの文化は共依存的な権力使用を親密性の衣装のもとに覆い隠そうとする企みに満ちている。

 

 

共依存者は親密でない人の前ではニコニコ仮面を被って、親密な関係を装う。そして真に自分が

関わりたいと思う人には抑うつ的な自己を表現し、深いため息をつく。(略)」

 

 

「ある程度、男性に従っていかれる人、男性をたてられる人、自分はバカなんだと思える人でないと、とても結婚生活に耐えられないでしょう。私のように何の取り柄もない女は、結婚してもどうにかやっていけるでしょうけれど」

とその女性はある文集に書いた。

三人の男の子を育てながら、夫の実父母と同居して世話してきたという専業主婦である。(略)」

 

 

 

「ロボットのように機能的な良妻賢母は、このようにして息子を殺した。はたから見ると冷酷無残に見えるかもしれないが、この母はやさしい母である。自分が犯罪者になるのもいとわず、彼女は息子の将来の人生を神のように判定し、これを絶つことによって息子の苦衷を救ったのだから。自分の人生に侵入され、将来を勝手に断たれたほうはたまったものではないが。」

 

 

「この有名な事件を取材対象とした本に、「仮面の家」(共同通信社)というのがある。著者の横川和夫氏は共同通信社の記者で、以前から取材を介して面識があった。(略)」

 

 

 

「弁護士さんの冒頭陳述を聞いておりまして、ああ、私の知らないところで、ずいぶん長いあいだ、妻は苦しんでいたんだなあ、と感じました」

と息子を殺害した父親は言った。「殺さなければならない」と考えたわりには、この男性は息子に接していなかったわけである。

 

 

息子殺しを提案するほどに妻が悩んでいると知ったなら、なぜ妻に代わって息子に終日向き合うことをしなかったのだろう。

現にそのようにした男たちを、私は何人も知っている。仕事なんかしている場合ではなかったのだが、この男は息子殺しの当日まで、職場に出かけていた。(略)

 

 

 

仕事三昧に生きて、その余のことを念頭に置かないでいることを、仕事依存という。日本の中年男たちのほとんどが仕事依存者であるという意味では、この男も「健全な」生活をしていたわけである。(略)」

 

 

 

 

 

 

 

「家族」という名の孤独

「同世代のグループが欲しいから、学校みたいなところへ行きたいというのなら、そうしたところを用意すればいい。フリースクールでもオルターナティブ・スクールでも結構ではないか。

 

 

ただし、どんなにフリーであろうと、オルターナティブであろうと、それがグループである以上、そして、思春期が思春期である以上、そこには過酷な競争が待っている。(略)」

 

「したがって精神療法の仕事とは、主体の症状を要求に転換する過程ということができる。

怠学、非行、薬物乱用など青春期の男女にありがちな逸脱行動の一部は要求であり、愁訴であり、ある部分は症状である。これらが一つの問題行動に混在しており、しかも明確な要求と見えたものが実は症状であったりするのが、この領域の精神障害の特徴なのである。(略)」

 

 

「こうした一連の過程の中で、乱用生徒の口からは「助けて」の言葉は出てこない。口をついて出るのは、反抗的な強がりと「金をくれ」、「ほっといてくれ」などの要求だけである。口で「助けて」が言えるような子なら、薬物乱用などという危険で面倒なルートへと迷い込むこともないのである。」

 

 

「今のところ、精神科医も精神療法家も彼女と言葉を交わせない。母親には、赤ん坊として甘えるだけ。E子が年齢相応の精神機能を表現する相手は唯一、シンナー乱用の仲間だけである。

 

小学校五年のとき、あれほどに級友と担任教師へのコミュニケーションを求めて手紙を書き続けた少女の現在が、これである。」

 

 

「私がそういう立場にいるせいなのだろうか、こうした形の学校不適応にたびたび出くわす。活発で口が達者な子、清潔そうで利発げな子、そして子どもを大切にする家の子が増えるに従って、その逆の印象を与えてしまう少数の子どもたちがクラスから疎外されていっているような印象を受ける。」

 

 

 

「今の時代の子どもたちにとって、学校でうまくやっていけないとなると、話は深刻だ。彼らにとって学校以外の日常がないのだから、学校が駄目なら日中を生きて過ごす場所がないからである。

 

こういうふうにしてしまったのは、教師を含めた大人たちである。すべての子どもが公的に制度化された学校で、一律の教育を受けながら日中を過ごすように定められていて、そのことの是非を疑ってかかることもしないようになってから、学校生活を除いた子どもたちの生活は、極めて貧弱なものになってしまった。

 

 

学校でしくじって学校嫌いになった子どもは、今や病気を自称して日中を寝て過ごすか、犯罪者のように「摘発」を恐れながら世間の目を逃れて暮らすしかない。こうした「学校嫌い犯罪」を犯すことの恐怖にかられながら、今の子どもたちは必死で学校へ通っているように思われる。

 

学校はそれ自体、子どもたちにとって最大のストレスであるという現実を、われわれはもう少し受け入れた方がよいのではないか。学校という共同社会が子どもたちにとってストレスであり続けるのは仕方がないとして、ストレスを限度以内に押さえる方向への努力が大人たちに要請されているのではないだろうか。

 

 

現在のような状況が続く限り、ここからは一定数の子どもたちが犠牲の野羊としてドロップアウトしていく。(略)」

 

 

 

「今、学校には行内の人間関係から独立した精神保健の専門家が必要だろう。(略)」

 

 

〇 おそらく大昔にも、「表沙汰」にはならないたくさんの問題があったのではないかと思います。

でも、一時は、「資源のない私たちの国の唯一の資源は人間」と言われていました。

その私たちの国で今、結婚したくない人が増え、子どもを持ちたくない人が増えています。更には、この国の未来には、希望が持てないと、国外で生きることを選択する人の話も聞きます。

 

「頭の良い人々」が「熱心に教育」した結果が、今の状況を作り出しているように

見えてなりません。

何か一番肝心なところで、間違っているような気がしてしまいます。