読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

いまだ人間を幸福にしない日本というシステム

「自動操縦状態に戻る日本

 

いまこの困難な時期に、日本はまたしても自動操縦状態へと舞い戻ろうとしている。それは飛行を続ける空域にどんな大きな変化が起きようと、まったく心配しない飛行機のようなものだ。財務省があくまで消費税増税にこだわり続けたのも、この自動操縦状態に依存している証拠である。(略)

 

 

アメリカとの取り決めは沖縄の激しい反抗を招きかねないが、キャリア官僚たちはそれでも徐々にゴリ押しする以外に方法がないと考えているようだ。日本のエネルギーをいかに安全に確保するかという長期的な問題に対する答えとして、原子力村の影響力に屈してしまうというのもまた、日本の政策決定が自動操縦にまかされていることを示すもうひとつの証左である。

 

 

 

自民党による半世紀にもおよぶ一党支配を終わらせたとき、民主党はこんなことを計画していたのではなかった。悲しいことに、本来の計画は無視され、それはやがて、民主党内にあって党を出世のための梯子あつかいするばかりで、官僚と対決する心積もりなどないメンバーの手で、完全に阻止されてしまったのであった。(略)

 

 

 

民主党をまとめ、二〇〇九年の選挙での勝利へとみちびいた人物が次の首相になるものと、大半の人々は期待していた。私が話したジャーナリストを含む日本人の友人たちはみな、そうなって当然と見ていた。

 

 

しかし二〇〇九年の初めの時点で、私はそう簡単にはいかないだろうと思っていた。何故なら既存の体制を維持できるかどうかに目を光らせる官僚たちが、それを黙って見過ごすはずがない、と思われたからである。そしてまさに彼らは伝統的なやり方にしたがった。

 

 

小沢のスタッフが政治資金規正法に違反したという理由で、行動を起こしたのだ。これは司法官僚が現体制を維持するために利用する常套手段である。

 

 

しかし日本のこの法律は文言が意図的に曖昧にされており、変化を望む野心が強すぎると睨んだ政治家を引きずり下ろすため、検察の自由裁量で、気ままに適用することが出来るのだ。ある自民党の国会議員など、もし、検察が同じ基準をあらゆる政治家に当てはめたなら、国会の半分以上が空っぽになってしまうだろうと述べていたほどである。

 

 

不正を働いたという理由で政治家が標的になれば、日本の大新聞も社説で政治家の不正をいきどおり、またこれに関連する記事をほぼ連日のように一面に掲載するなど、一緒になって攻撃を加える。(略)

 

 

 

金の移転についての報告が遅れた、という点を検察は避難したわけだが、それは民主主義が機能しているほかの国であれば、せいぜい行政上の軽罪として罰金を支払えば済むような、恐らく関心を持つ人間はいないと思われる出来事だ。ところが日本ではこの問題は立ち消えになるどころか、当局は日本を一大犯罪から守ろうとしているのではあるまいか、と世間が思うほどの、大騒ぎへと煽り立てられた。(略)

 

 

 

小沢を起訴するのに必要な証拠は挙げられなかったが、司法当局は新しい手口を思いついた。これは法的プロセスへの一般の人々の参与を促そうとする最近の改正法に基づいていた。

 

 

司法プロセスにさらに民主的な意味合いを加えるものとされてはいても、それに参加する一般市民は司法官僚たちにどうすべきかを指示されるので、彼らの中立性が保証されるわけではない。実のところはきわめて疑わしい。

 

 

この法律自体はアメリカの占領軍によって導入されたものであった。戦後、日本の法務省に民主主義をもたらそうとしたアメリカの法律の専門家たちは、日本の司法官僚たちが申し分なく民主的だとは考えず、日本の有力な政治家が犯罪をおかしても起訴されないのではないかと懸念していた。(略)

 

 

しかし交通違反やそのほかの軽犯罪を除いて、これが利用されることはほとんどなかった。

ところが法が改正されると新しい制度が導入された。新しい武器を得た司法官僚たちは、これを証拠が見つからない人間に用いたのだった。(略)

 

 

小沢が検察審査会の基礎議決後に、無罪判決を言い渡されても、それでこの一件が決着を見たわけではなかった。なぜなら検察官役の指定弁護士が控訴したからである。これは実に信じがたいことであった。(略)

 

 

この件に関して人々が興味を持っているのは、官僚たちがどれだけ長期にわたって小沢と対決し続けられるかということだ。(略)

 

 

二〇一二年一一月一九日、東京高裁が一審の無罪判決を支持し、控訴棄却をした後で、検察官役の指定弁護士が上告を断念したために、小沢の無罪は確定した。このケースがいかに正義を揶揄するようなものであったかを、日本の国民は理解すべきであった。

 

 

そして本書の第一部で論じたように、日本の政治家が腐敗しているとのありもしない偽りの現実を作り出し、日本の命運を決定するうえで、官僚たちがいかに絶大な力を持っているかに気づくべきだったのだ。

 

 

勿論背後ではメディアが官僚たちを支援している。(略)

日本では、偽りの現実の背後に隠された真実を市民に示す為、事実をただそうとするのはいくつかの雑誌のみである。新聞はそうした役割をみずからが演じていることを恥とすら感じてはいないらしい。(略)

 

 

 

読者の中には、私が小沢の政界での価値を誇張していると感じる人もいるだろう。それほど重要な政治家などいるわけがない、と思うかも知れない。しかしそれは全く違う。日本で真に実効を生むような政治家になるためには、並外れた手腕が必要である。

 

 

出世のための梯子を上るのではなく、国に舵取りが必要だと考える政治家はどこの国であろうと、大変なスタミナと絶えず変化する権力関係や周囲の気運を察知するすぐれた直感をそなえていなければならない。

 

 

だが梯子を上る日本の政治家に必要なのは、おもに、熱心な講演会と幅広い人脈、それからたくさんの金だ。それはすぐれた政策を決定するためというより、再選に必要なものばかりだ。

 

 

世界のどこであっても、新しい問題を正確に明らかにし、それを解決する方法を考え、その実行のために人々の同意やコンセンサスをとりつけることのできる、真にすぐれた政策決定のできる政治家というのはきわめて少ない。

 

 

これをやるにはとてつもないエネルギーと忍耐力、適度にせっかちであること、そして侮辱され無視されても、それを受け止める一方でやり過ごせること、そしてつねに未解決の問題を抱えながらも、それに対応する能力が求められる。(略)

 

 

 

国の舵取りが急務とされるときに、それができるすぐれた日本の政治家は、官僚に支配されることなく、彼らの協力をとりつけるのに長けていなければならない。それには訓練が必要である。

 

 

また自信に加えて、官僚の持てる知識と経験を尊重できると同時に、専門的な手腕を持つ官僚を味方につけられるような豊富な経験と力量がなければならない。こうした必要な能力がバランスよく備わっていることが大切なのである。(略)

 

 

 

小沢を脇に追いやっておこうとする、日本で現体制を維持するガーディアンたちは、自分たちがなにをしているかをよくわかっている。今述べたような資質に加え、実例を挙げてそうした資質を将来偉大なリーダーになれそうな優秀な若手政治家たちに伝授できる能力こそ、思うがままに権力をふるう官僚たちにとっての最大の脅威だからだ。(略)

 

 

 

小沢を政治という舞台の脇に追いやることこそが、現体制を守るガーディアンたちにとっての優先課題であった。それは、いやゆる「人物破壊」という今なお続くキャンペーンの一環として、検察に主流派メディアが協力して為し遂げられた。(略)」

 

 

〇 安倍首相の犯罪的な行為は今まで、さんざんとり上げられながらも、

きちんと裁かれたことがありません。

その周辺の「おともだち」も同じように裁かれません。

今も、「桜を見る会」のありかたが公私混同で、税金が不正に使われたと、

批判されています。

公文書はどんどん破棄され、保存する義務すらありません。

 

www.daily.co.jp

以前読んだ「人間にとって法とは何か」から、何か所か、振り返ってみます。

 

「法律とは中国では、統治の手段であり、端的に言って、支配者(皇帝)の人民に対する命令です。神との契約という考え方とは、大変に違います。
支配者の人民に対する命令ですから、支配者の都合で出されるわけで、人民はそれに従わなければなりませんが、支配者は必ずしも従う必要はない。(人間にとって法とは何か)」

 

公と民

 

〇権力者が人民を自分の都合の良いように統治する、安倍政権の姿勢はまさにこれです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いまだ人間を幸福にしない日本というシステム

アメリカの庇護を取り除く

 

アメリカが日本を保護するという、かつての偏った関係が日本にメリットをもたらすという時代は終わった。すべての読者はこのことをしっかりと心に留めておいてほしい。いまなおアメリカが日本を保護しているとみなすことはばかげている。現実はその逆だと述べた方が説得力がある。

 

 

 

アメリカが戦争にかかわっているために、そして将来的にはさらにそうした傾向が強まると思われる為に、日本はいっそう危険な立場に追い込まれることだろう。(略)

 

 

小沢はボーイング七四七機二機分に相当する大勢の芸術家や作家、文化人や政治家たちを引き連れて、党間の、そして国民同士の関係改善のために中国におもむいたが、アメリカにはこれがまったく気に入らなかったらしい。

 

 

また鳩山首相に対しては、ドナルド・ラムズフェルド国防長官当時の自民党に無理矢理承諾させた、沖縄県アメリ海兵隊の新基地計画を支持しなかったというだけで、アメリカ人は彼がとんでもない過ちをおかしたかのように解釈した。

 

 

小沢も鳩山も、日米関係では不文律となっていたことを破ったのである。そしてアメリカ側からすれば自らの同意なしに、日本の姿勢や世界に対する将来の政策が大きく変化するなど、到底許されないことなのであった。(略)

 

 

 

ところがアメリカ政府は、外交チャンネルではなく、報道官による、日本の主張を見下すようなおおっぴらな発言を通じて、その要請を拒絶した。アメリカの有力紙はこれに関する論評の中で、日本担当の役人たちのコメントを取り上げ、日本の首相をさほどまじめにとり合う必要はないと強調していた。(略)

 

 

 

そしてアメリカ政府高官がオバマ大統領に、どこかの国際会議で出くわしたとしても、日本の首相に一五分以上の時間を与えないようにと助言した。という話がメディアにリークされた。(略)

 

 

日本のあらゆる主流派メディアの反応はこれに関してもっと重要な意味があった。日本の有力新聞のベテラン編集者たちが、既存の権力システムを維持しようと、官僚たちと協力していることを、私はよく知っているが、それでもアメリカの役人たちのみならず、日本のジャーナリストや評論家たちまでもが、露骨に最初の民主党内閣の首相を侮辱するのには驚かされた。

 

 

 

日本の記者たちは、アメリカの役人や社説執筆者たちの言葉をオウム返しに伝えるばかりで、日本が置かれた状況がいかに深刻で厳しいものであるかがまったくわからないのだ、と私は感じた。

 

 

二〇〇九年一二月、政権発足からわずか五カ月後、私はすでに、アメリカ政府が民主党の最初の内閣をくつがえそうとしていることを確信していた。

 

 

官僚と新聞が手を組んで、小沢が民主党政権の最初の首相になれないよう、とりはからったときと同様、それは火を見るよりも明らかであった。

 

 

菅直人は、鳩山の二の舞にはなるまいと、首相就任直後からアメリカの意向に反するようなことは決してしないという姿勢を見せた。野田もまた官僚の誠実なしもべとして、アメリカに懸念を起こさせないよう、なにごとも変えまいと注意していた。(略)

 

 

 

そのひとつはアメリカが日本にTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)に加入するよう要請していることである。これは表向きは参加国間の貿易振興を目的としているが、実際にはアメリカで最強の企業に対し、日本国内の統治やその体制にまで影響を与えられるような、いっそう多くの権限を与えるものでしかない。だが恐らくそれ以上に重大なのは、TPPがロシアと中国の経済的な孤立をさらに深めようとする、アメリカの新しい封じ込め政策の一環だという事実だろう。

 

 

 

もうひとつの罠は、ペンタゴンが沖縄でのアメリ海兵隊基地をめぐる要求を日本が受け入れるよう、日本の政治システム全体にいやがらせを加えているにもかかわらず、日本がそれに抵抗しないことである。

 

 

 

消費税増税でさえ、アメリカ政府がひそかに日本に働きかけた事柄のひとつである。

アメリカの対日政策担当者たちが、日本政府の官僚と政治家の従来の関係が変わること等まったく望んでいないというのは、疑いのない事実だ。彼らにとっては日本の官僚機構全てが自動操縦装置まかせにしていてくれた方が好都合なのである。

 

 

 

アメリカの変貌

アメリカの対日姿勢の背後には、アメリカが大きく変貌を遂げたという一連の事情がある。悲劇と称するしかないこの変化が起きたのは、冷戦が終わり、また近年ではもっとも成功をおさめた政治運動がよからぬ影響を及ぼしたからだ。(略)

 

 

ジョージ・W・ブッシュが無用な戦争を始める前すでに、アメリカ政府は自分の命令にすぐに従おうとしなかった諸国に対しいやがらせをするようになっていた。それは国際経済機構の問題に絡んで特に顕著だった。(略)

 

 

私が先ほどの述べた、近年でもっとも成功した政治運動は、一般的に「アメリ保守主義」と呼ばれている。だがこの命名は間違っている。というのも、これがいままでにない全く新しい運動であるためで、むしろ「急進右派」と表現すべきものである。

 

 

 

この急進右派が突如として登場したのは、アメリカが同時多発テロという、一九四一年の日本による真珠湾攻撃以来の手痛い打撃を受けた時であ。この事件後、無能な大統領ジョージ・W・ブッシュは「テロとの戦争」を宣言した。

 

 

しかし現実にはそのような戦争などやりようがない。なぜなら「テロリズム」はともに席について和平交渉が出来るような相手でもなければ、警察に犯罪を根絶できないのと同様に、テロリズムを根絶することも不可能だからだ。言い換えるならば、外国とそのような戦争を始めたら最後、それは恒常的な状態になりかねない。

 

 

ところがアメリカは「テロとの戦争」を口実に、正当化しようもない戦争をはじめた。(略)

 

 

日本やヨーロッパ諸国には過激化するアメリカに追随する流れはない。つまりアメリカに共鳴し、この国を支持する日本人にも、ヨーロッパ人にも、アメリカ政府の政治の優先課題がなんであるか全く理解できないうことだ。

 

 

アメリカとEUでの金融部門の役割は変化し、そこから金融政治が生まれた。大富豪たちの富と政治力が、選挙などの既存の民主的制度よりも、はるかに政府に大きな影響力をおよぼすようになっているのだ。こうした金権政治ソ連が世界の確固たるプレーヤーとして存在していたときには生じ得なかっただろう。これもまた冷戦後に生じた悲惨な変化のひとつである。(略)

 

 

 

ここでもう一度言っておくが、アメリカは第二次世界大戦後に日本を占領した当時とはまるで変ってしまった。国連を通じて平和な世界を築きたいと尽力し、戦後の日本の経済復興に手を貸し、あるいは野望を持つ共産主義世界が世界に食指を伸ばさぬよう抑え込んだかつてのアメリカはもはや存在しないのである。

 

 

いまのアメリカは恒久的に続くであろう戦争にかかわっている。しかもなにかを守り、あるいは防衛するために必要だから戦争をしているのではなく、国内の右派政治勢力や重要な産業部門の要請でそうしているのである。(略)

 

 

なぜいまのような事態になってしまったのかについて、もう一度繰り返し主張しても無駄ではあるまい。ソ連を恐れる気持ちから、アメリカの評論家たちが「安全保障国家」と称した国がつくられた。

 

 

その中では安全保障やスパイ機構、さらに軍部が本来の目的を超えて増殖していった。こうした機構は実行可能な政策を離れて、生命体さながらに独り歩きをはじめた。アイゼンハワー大統領はこれを「軍産複合体」と命名した。だがその後、この軍産複合体アイゼンハワー時代をはるかに上回る規模へと膨れ上がっていった。

 

その実態を正確に理解するには、この巨大機構の本来の存在理由であったソ連が消滅後、これがさらに膨張を続けている事実に目を向ければ事足りる。いやまこうした機構は毎年、一兆ドル以上(軍事予算に加え、さまざまな異なる名目で配分される予算を含む)を呑み込んでいるのである。

 

 

 

日本や世界全般にとっての大きな問題は、この制御不能となった機構が常に敵を必要としていることだろう。(略)

 

 

 

いまの世界の現実の中で重要な意味があるのは、国家アメリカの基本をなすふたつの要因にもはや政治支配が効かなくなった、という事実である。ふたつの要因とは、軍事機構とアメリカの金融システムだ。

 

 

このふたつはすでに長いこと独り歩きをしているため、その活動は本来の目的からも、また政治における本来の位置づけからも大きく逸脱している。つまり、アメリカ大統領も、議会もあるいはアメリカ国民の利益を代表するいかなる制度をもってしても、この二つの要因がアメリカや世界に多大なダメージを与えるのを食い止めることはできない、ということだ。

 

 

 

それがはっきりと示されたのは、二〇〇八年の秋、これまで我々が知る戦後世界の資本主義は存続できるのだろうか、と右派評論家でさえも危ぶんだ金融危機に際してだった。(略)

 

 

アメリカの海外での活動は、自国に安全をもたらしはしない。遠く離れた地域で、大抵はロボットのような軍用機を通じて、人間を殺しては、各地の人々の深い憎しみを買っているのだから。そしてある時点で、その憎しみがアメリカの敵側のエネルギーとなれば、彼らはどんな手段を使ってでもアメリカを攻撃しようとするだろう。

 

 

テロの防止を掲げてはじまった「テロとの戦い」は長期的に見れば、さらなるテロを生み出すものでしかない。(略)

 

 

 

こうしたことを考えると、アメリカには本当の意味での戦略というものがない、という結論にいたる。なぜなら少なくとも建前上は実行可能な目標をそなえていなければ、戦略とは言えないからだ。

 

私はこれに関して別の著書のなかで、今のアメリカを一九三〇年代から一九四五年にかけて、日本の軍国主義者たちがもたらした状況と比較したことがある。日本の軍人たちが打ち出した作戦は非常にすぐれたものではあったが、戦略としてはおそまつだった。そして結局、彼らが勝利をおさめることはできなかった。

 

 

 

日本とそのほかの諸国を仲立ちする官僚たちが、十分に、そして真剣に注意すべきなのは、すでに述べたように、アメリカが国内政治上の理由から、長期にわたる敵を必要としている、という事実だ。いまこれを執筆している時点で、その最有力候補は中国とロシアである。

 

 

これら両国は日本にとってもっとも重要な隣人である。そしてこうした諸国との関係改善をはかり、相互にとって有益なものとし、ひいては世界の安全性を高めるために、日本が働きかけることが、日本の国民にとっても、そして世界の全ての人々にとっても望ましいことは明らかだ。

(略)

 

 

アメリカ政府は、民主党が政権党となって最初の数カ月にはっきりと態度で示したように、日本が中国に対して以前より友好的になってほしくないのである。そしてすでに述べたが、TPP構想とは、中国とロシアを孤立させようとする、アメリカの新しい封じ込め政策の一環でしかないことを理解すべきだ。

 

 

今述べたことが、本書の改訂版が出版される時点での状況である。(略)

 

 

日本のもうひとつの大きな国内問題は、原子力という危険な技術によるエネルギー生産にあくまで固執するグループが有する力である。日本のすべての科学者たちが原子力発電所は安全であると宣言したとしても、いまの日本の国民はそれを決して信じないだろう。

 

 

政府がはっきりした形で原子力行政と決別する姿勢を示さないかぎり、政府は国民との間に信頼関係を築くことはできないだろう。日本の人々は毎週のように終戦直後以降では最大規模の抗議デモを繰り広げ、そのことをはっきりと示しているのである。」

 

 

 

いまだ人間を幸福にしない日本というシステム

「第二章 不確かな日本の新時代

 

本書ではたびたび二〇一一年三月一一日の大震災に言及し、これが日本にとって未知の状況をもたらす歴史の節目だと述べて来た。そしてそのような状況に直面して、日本の現職の官僚も、そしてもっと幅広い政治エリート全般も、市民の政府への信頼に応えるような手腕や知性を発揮するにはいたっていない。

 

 

福島第一原子力発電所の事故はなおも大勢の日本人たちを苦しめている。その苦しみは深刻である。なぜならこれほど決定的な形で日本の子どもたちや、彼らの未来に影響を及ぼすものはないからだ。

 

 

それなのに電力供給を引き続き原子力に依存しようとした野田政権、そしてそれに反対しての大規模な市民の抗議行動を重く見ようとしない

官僚や政治家、そして有力紙の姿勢は、日本の支配者階級が国民の感情にまったくお構いなしである事実を物語っている。

 

 

 

こうしたことすべてを理由として、私が第一部と第二部で論じて来た日本の政治的な欠陥について理解することがいまなによりも重要なのである。これについてはっきりさせておこう。(略)

 

 

つまり日本の政治エリートたちがこの国の政治システムの欠陥に、もっと効果的に対処できないはずがない、ということだ。日本の国民のなかにはそうした手腕をそなえた人々がいるのだから、この国の全ての人々のために、彼らにそれを発揮するチャンを与えなければならない。(略)

 

日本は自分に敵意を抱く国々に囲まれていて、基本的には孤立していると、政治エリートも一般国民も考えている。そして安全を切望するからこそ政治エリートたちは、日本人の生活レベルを改善するための、もっと望ましい政策を採用できたはずなのに、それを犠牲にして、絶え間ない産業発展という国家目標を追求してきたのだ。(略)

 

 

恐らく読者の中には、もはや日本は、アメリカが守ってくれるという幻想によりかかっている場合ではないと、はっきりわかっている人もいるだろう。このことは数年以内に、もっと大勢の人々にもはっきりと理解できるようになるだろう。だがまだほかにも心配するべき事柄はある。

ここで一歩退いて、それがなにかを考えてみよう。

 

 

 

急激な歴史の流れ

 

歴史は生き物ではない。そこには欲望もなければ、計画もなく、有機物の成長に匹敵するようなものもなければ、そのなかに「いっそう深い意味」が含まれているわけでもない。(略)

 

 

 

歴史はときどきなんの前触れもなく突然、流れを速めることがある。何十年もさざめき流れていたのが、まるでそれまでのゆっくりとした動きにしびれを切らしたかのように、急流に変化したり、滝のようになだれ落ちたりするのだ。そしてそれは渦を巻きながら旋回することもある。(略)

 

 

ソ連が崩壊し、冷戦が過去のものとなった。この重大な展開の影響によって生じた一連の出来事は、我々が生きる世界を変えてしまった。

その原因はアメリカが変貌したことだった。第二次世界大戦後に国連や国際機構を設立する立役者となり、二〇世紀後半には、平和で安定した愛秩序の維持に多大な貢献をしたのがアメリカだった。

 

 

それなのに、いまのアメリカは混乱を引き起こす国になってしまった。この国はまったく必要のない戦争をし、他国を占領し、しかもごく一握りの政治エリートたちが有利と見れば、どこにでも扮装を仕掛けるようになった。(略)

 

 

本書で繰り返し説いたように、真の意味での政治的な中枢が日本に欠如えいる状態が、日本が異常なまでにアメリカに依存するというこの両国関係にきわめて大きな影響を及ぼしていることが、私にも次第にわかって来たのだ。つまり政治の中枢が欠如しているから、日本はアメリカにンし続けている、ということなのだ。(略)

 

 

 

言い換えるならば、アメリカに頼らず、普通なら国家が考えるべき事柄、たとえば軍事安全保障や、日本社会への負担を覚悟のうえで世界への貢献を目指す外交を、みずから考えなければならなくなったはずだ、ということだ。

 

 

だがそうならなかったため、日本はごく身近な近隣諸国と政治的にも外交的にも折り合う必要がなかった。だからこそ官僚が日本をほぼ自動操縦にまかせて動かしているだけでも、十分であるかに見えたのである。(略)

 

 

 

日本の国連安全保障理事会常任理事国入りに反対した国があったのは、日本が加わってもアメリカの支持票が増すだけだと考えたからだろう。(略)

 

 

自民党のトップにある者たちも、外務省の官僚たちも、日本が国際社会のなかで政治的にも重要な大国になることが急務であるとは考えていなかった。世界という舞台で大した政治的な役割を与えられていないことは、実際にはとても居心地がよかった。(略)」

 

〇 「真の意味の政治的な中枢が欠如しているために異常なまでに

アメリカに依存するようになっている」という指摘は、その通りだと

感じます。そして、何故「中枢が欠如しているのか」について、

以前読んだ「中空構造日本の深層」の文章を再度読み直してみたいと

思います。

 

 

「中心が空であることは、善悪、正邪の判断を相対化する。統合を行なうためには、統合に必要な原理や力を必要とし、絶対化された中心は、相容れぬものを周辺部に追いやってしまうのである。


空を中心とするとき、統合するものを決定すべき、決定的な戦いを避けることができる。それは対立するものの共存を許すモデルである。」

 

「たとえば、上山春平氏は「思想の日本的特質」という興味深い論文において、日本の思想史を一貫している特色として、「ラジカルな哲学否定」があると述べている。

そして、その「哲学否定」とは「思想における徹底した受動性もしくは消極性に他ならなかった。体系的な理論の形で積極的に主張(テーゼ)を押し立てて行くことをしない態度」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

少し感想

〇 「なぜ議論をしないのか」「なぜ政治に拘るのは良くないことだと考えるのか」「なぜ公的領域(市民たちが互いに意見を言い合う場)がないのか」
この類の問いを聞くたびに、私は徳川政権の「弾圧」のせいだけではない、それ以前の私たち日本人の気質的なものに関係があるのではないかと感じて
しまいます。

私自身を題材に、具体的に考えてみます。

例えば、私たちの社会にある、祝儀不祝儀に幾ら包むか…という問題ですが、
私は、昔からそのようなことに疎く、若い頃は、かなり非常識な
行動をとっていました。

非常識な人を人はどう見るか…
1.非常識な人だ。でも、特に悪意があるわけではないだろう、と考え、
  今まで通りに付き合ってくれる。

2. 非常識な人は、許せない。不快感が生じる、陰口悪口の対象にし、付き合わない。

3.そもそもそのような形式的なことは、気にしない。

「非常識な私」から見ると、人間は大きくこの三種類に分かれます。
今、目の前にいるAさんは、このうちのどれ?
Bさんは?Cさんは? ニコニコ笑ってるけど、心のうちではどう考えてる?
などと考え、そう簡単に信じるなんてできません。


何を言いたいかと言うと、社会にはこうすべきという型があって、
その型から外れることは悪とされてしまうことが多いので
型どおりに出来ない人は、なにかと誤解されるし、自分自身でも、
微妙な罪悪感や劣等感を持ちながら生きるしかないところに
追いつめられる、ということを言いたいのです。

ここでは、「祝儀不祝儀」を例にあげましたが、
実際、私たちの社会には、様々な問題でそのようなことがあると
感じます。



「意見を言う」ということは、自分とは違う意見の人に
どのように受け取られるかわからないという、リスクを冒すことになります。

頭の中に、様々な思惑が、生まれます。
目立とうとしている。カッコつけている。偉そうにしている。
本来の「議論」から外れて、そう言われることも多い社会ですから、
かなりの鬱陶しさを乗り越えられる強さがなければ、
なかなか発言できません。

そのような「発言しない」という態度を、為政者は、集団に黙って従う民族なのです、と理解するのでしょう。

人は様々なことを考えますし、性格も能力も様々です。

そのような人間が誰一人、存在を否定されることなく、表現の自由が保障されている、というのは、キリスト教的な価値観からきていると思うのですが、キリスト教的価値観を持たない、私たちの社会では、人権という言葉は掲げられていても、ものの考え方の中には、根づいていないのだと思います。

 

だからこそ、違うことや型破りを悪と見る考え方があり、それは、間違っている、と思いながらも、もし「空気の流れ」が「違うことは悪だ」と流れている場合には、「そんなのおかしい!」と思いながらも、黙ってそれに関わらない様に、見ないようにして、自分を守るのが、弱い人間の生き方だったのです。

 

この「おかしいなぁと思いながらも、黙って逆らわない」というこの態度は、小学校から高校まで続きます。かなり年季の入った熟練された態度です。そしていまや、大人になっても、しっかり「様子見をし」「空気を読んで」行動しているのです。

 

あえて言います。

共通の価値観を持たない人間同士は、信頼し合えません。

価値観については議論せず、システムだけで、しっかりとした社会を築こうとしてきたのが、これまでの日本ではないかと思いますが、

信頼し合えない人間同士の社会は、大丈夫なのでしょうか…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いまだ人間を幸福にしない日本というシステム

「「調和」から抜け出せない日本人

 

大勢の人々が体制を変えたがっているのに、それがほとんどなんの変化もなく続いているのはなぜかという疑問に対する答えはいくつかある。その中でも重要な意味を持つのは、政党が国民の不満を政策に反映させるという役目を果たしていないことだろう。

 

 

もうひとつは、日本では公的領域が発達しなかったことだ。

公的領域とは市民たちが互いに意見を述べ合えるような場所、人々に共通の懸念を表現し、それを伝える場所である。新聞の論説もそのひとつだ。これは政治システムの一部ではあっても、政府とは関係がない。

 

 

公的領域の欠如をある程度、埋め合わせようと、日本の人々は抗議デモや抗議集会を通じて存在感を示し、自分たちという政治勢力を表現してきた。こうした行動には多大な時間とエネルギーを要するばかりでなく、絶えず失望を味わわされることにもなる。(略)

 

 

ここで読者が一歩退いて、遠くから日本の政治システムを眺めてみるとき、日本社会にはいつの時代にも、どんな形であれ政治にかかわるのはよくないという根強い見方があったことがわかるだろう。(略)

 

 

既存の社会体制を改善しようのないものに見せかけるのは、古今東西を問わず、支配者たちの常套手段だった。しかしこの点で徳川幕府は圧倒的に有利だった。なぜなら、もっと暮らし向きをよくすることができるはずだと、それに反論する外国人が周囲にひとりもいなかったからだ。日本人自身も国外に出ることを禁じられていた。国外に出ようとして捕えられれば死罪になった。

 

 

しかしこの江戸時代にも徳川家の将軍やその侍たちが生み出したのは最高の社会であるなどと、考えようとしない思想家たちがいたことを我々は知っている。その一人が安藤昌益である。(略)

 

 

みずからの権力維持をはかろうと、明治の当局者たちが講じたやり方は、目的の達成に効果的だったばかりでなく、現在まで続く日本の政治をほぼ決定づけた。彼らは完璧な秩序を一層明確に打ち出したのだ。そのために「調和」と「たぐいまれさ」という考えにもとづく、巧みなイデオロギーを生み出した。

 

 

 

これは徳川という権力構造の正当化のために書かれた、体制側の著作者の作品を下敷きとしてはいたが、その大半は明治時代の政治家たちの創意工夫が生み出したものだった。

 

 

すなわち「国体」「天皇を中心とした秩序」として知られるに至るイデオロギーである。(略)

 

 

一九四五年以降、日本はたてまえのうえでは国体思想を捨てたことになっている。アメリカの占領当局はそのようにとりはからった。しかし日本を独自の存在見なす傾向や、均質な社会といった、国体思想にまつわる多くの考え方は国民すべての脳裡に確固と刻まれたまま、受け継がれていった。そしてそのことを疑いもしない教師たちによって子どもたちに伝えられていった。(略)

 

 

そうした考え方のひとつに、日本人はいちいち言葉にしなくても相手の言わんとすることがわかる、というものがある。それを一番顕著に表現するのが「腹芸」だ。日本人に固有とされるこの能力は、ほとんどテレパシーに近いのではないか、と思えるほどだ。日本人にはすぐれた知的能力があると信じるからこそ、日本人同士なら相手の感情や考えが察知できる、などと言えるのだろう。(略)

 

 

ところが予期せぬ事態に直面した場合、他者を理解しようと大いに苦労する点では日本人も他諸国の人々と何ら変わりはない。(略)

 

 

しかしヨーロッパといった国々と比較して見ると、日本人同士が特に似通っているとは思えない。そう主張したのでは、朝鮮やアイヌ民族被差別部落の人々、帰化した日本人、そして日本人との国際結婚で生まれた子どもたちなど、日本に

少数グループの存在を無視することになる。

 

 

それに北海道出身の人と、東京出身の人、あるいは私が良く知る茨城県北部の村の人々と、たとえば大阪の人を比べた時に、彼らの間によく似ていると感じさせるようなものは見当たらない。(略)

 

 

それから日本人は生まれつきみな自分たちが所属する集団の命令に喜んで従おうとする、という主張がある。しかし私はそう思ったことは一瞬たりともない。日本人も人間である。ほかのあらゆる人々がそうであるように、日本人も集団に加わることを嬉しいと感じることもあれば、運が悪いと思うこともあるだろう。(略)

 

 

 

日本の集団、いわゆる集団の倫理や集団生活は、個々の日本人に人為的で不快な力を加え、彼らを束縛する。その心理的影響は日本であろうとヨーロッパ、あるいはどこであろうと変わらない。

 

 

私は八つの異なる社会で暮らしたことがある。そして長年日本に暮らした私は、日本人の方がこれに関して他国の人々に比べてましだなどと言えないことを知っている。

 

 

事実、日本社会の一番大きな問題のひとつは、見知らぬ人々同士が互いに本当の意味で信頼し合えないことだ。このことは特に政治エリートに当てはまる。お互いに信頼できないのであれば、真の意味の社会の調和が生まれるはずはない。(略)

 

 

 

徳川幕府の当局者は戦闘やだれの目にもそれとわかる深刻な紛争を最小限にとどめるにはどうしたらいいかが、よくわかっていた。だれかが対立すれば、即座に両当事者に非があるとされたのである。

 

 

このようなあつかいをした徳川政権下の日本社会が平和だったと見なされるのは当然だろう。しかしそのような見方は適切ではない。なぜなら当局に対する反乱は何度も起きていたからだ。

 

 

もし普通の状態にあれば、人々はそんな簡単に互いに争い合ったりはしないものだ。なぜなら徳川政権下では苦痛を受けた側も罰せられることになっていたからだ。こうした制度があったからこそ、弱い人々は強者にすぐに屈するようになったのである。」

 

 

いまだ人間を幸福にしない日本というシステム

「しかし一九八〇年代半ばまでは、彼らが国の運営にいかに無能であるか、誰もが気づくほどにはっきりしていたわけではなかった。一九五〇年代以降の日本は冷戦を背景に、アメリカの手厚い保護を受けていた。

 

 

しかし舵取りが必要な局面を迎えたいま、日本を動かす財務官僚たちはそれができずにいる。(略)

国内需要を刺激するために、金が人々のもとに流れ込むようにしなければならないのに、彼らは消費税や電気・ガスなどの料金を上げようと躍起になっているのだ。(略)

 

 

日本にとっての無気力の害の二番目の原因とは、普通の人々が政治に無関心になっていることである。組織を危うくする最たるものがこの無関心だ。政治がうまくいっていない国々についても同じことが当てはまる。(略)

 

 

しかし積極的に政治活動をしても、結局は失望するだけだ、という事例が周囲にあふれる日本では、大半の人々はそんなことをしても意味がないと感じている。

 

 

官僚や新聞の紙面編集者たちが大衆のエネルギーを、戦争や戦後の再建といった、官僚主導による国家プロジェクトに動員すべきだと考える場合を除いて、日本の人々は無関心でいるように仕向けられている。日本の無気力の害が続いてきたのは、結局のところ、奇妙なまでに強力で、根深く、しかも普遍的に広がる無関心のせいだったのだ。

 

 

政治的な無関心さは自然に生じるものではない。これは人間の遺伝子に組み込まれているわけでも、人間の知性や感情に刻み込まれているわけでもない。それどころかまったく正反対である。

 

 

我々は外の世界と積極的にかかわろうとし、社会や力の使われ方に知的にんも感情面でも関心を持とうとし、またそうする能力を生まれながらにそなえている。自分たちの社会・政治システムがどんなものかに日本人が無関心なのは、人為的な理由からだ。(略)

 

 

 

そこには根の深い歴史的な理由がある。徳川政権時代の日本には、一般の人々が積極的な政治活動をするような余地は全くなかった。日本が開国し、国家をつくり変えようという有史以来もっとも野心的なプロジェクトをはじめると民主主義が手に負えなくなることを非常に恐れた。

 

 

事実上のクーデターによって政権掌握した彼らが近代化に着手すると、海外から厖大な思想や方法論がどっと日本になだれ込んできた。そのひとつが民主主義であった。

明治時代、彼らは民主主義の危険性を最小限にとどめようとイデオロギーを生み出した。(略)

 

 

なぜなら日本という調和溢れる国に、生まれながらに慈悲深い天皇がいて、さらに天皇に仕える私心のない官僚たちがいて、その彼らが国民を絶えず気遣い、最前のやり方で面倒を見てくれているから、というわけである。

 

 

国内で生み出された日本社会に関するたくさんの思考が、日本の政治をゆがめてしまったと言っても過言ではない。政治とは権力であり、それがどのように配分され、だれがそれを行使し、それをいかに抑制すべきか、という問題である。

 

 

ところが権力など行使されてはいない、というふりを誰もがしたのでは、これについて建設的な議論ができるはずもない。古今東西を問わず、トップの地位にあった人々の間では、手強い反対勢力をかわすには、権力など握っていないふりをすればいいというのが常識であった。日本の官僚もつねにそのようにふるまってきた。(略)

 

 

強力な統一国家づくりのために生み出されたのが、日本社会はことのほか調和のとれた特別な存在、とするイデオロギーだった。政治には競争や反対、必要とあらば武力行使までもがかかわってくる。つまり調和とは相容れないものばかりなのだ。

 

 

徳川幕府の支配者たちは、完全で自然な秩序ある社会という見せかけの背後に姿を隠していた。明治の当局者たちは完璧な慈悲深さを備えた天皇を中心に、自発的に生まれたすばらしい家族国家の陰に潜んでいた。そして権力の行使について語る者はだれもいなかった。

 

 

 

政府省庁の官僚たち、あるいは経済団体や大企業というヒエラルキーのトップを占める、この国でもっとも強力な人々もまた、連綿と続いて来た伝統にしたがって、権力など所有していないふりをし続けている。(略)

 

 

 

またこうした伝統を受け継ぐいまの日本にも、権力行使に強く反対する人間はいない。しかも実験を握っていたとしても、その権力が公式のものでなければいっそう行使しやすくなる。つまり政治家という公式の権力者、しかし現実には大した権力を行使できない人々の背後でそれを行使するのは、政治の可能性を否定するのと同じだ。

 

 

言い換えるならば、権力を否定すれば、偽りを現実に見せかけるよりずっと現体制の維持には効果がある、ということだ。」

 

 

 

いまだ人間を幸福にしない日本というシステム

「日本政治における真の闘い

 

しかし日本の一般の人々はいま私が述べたような見方をしない。それは現体制を維持しようと、日本の管理者たちが利用する偽りの現実がまんまと功を奏しているからである。

 

 

その中で一番弊害が大きいのは、日本のいまの政治とは、単に政治家たちが世界の政治家と同様に、みずからの党を支配しようと、権力と地位を求めて互いに争い合うことに過ぎない、とするとらえ方である。(略)

 

 

現実には政治家とキャリア官僚とが闘っているのである。そして政治家を自らに従わせるのはキャリア官僚であり、自分の利益を追い求めるのは政治家ではない。政治家は、融通のきかない官僚的な思考が生み出した政策をやめさせようとしている。なぜならそのような政策は日本にとって有害だからだ。(略)

 

 

これに関して、これ以外にはあり得ないといった絶対的な選択をする必要などないことくらい、どんな人にもすぐ理解できるはずだ。政治家も官僚もともに協力しながら変化する状況に応じて、もっとも適した政策とはなにかを明らかにしていくべきなのだ。

 

 

その際、大前提となるのは、すぐれた政治家の想像力を、従来のように官僚に妨害させてはならない、ということだ。日本の政治家の中には官僚の言いなりにならず、しかもうまく仕事のできる者が居る。小沢はそんなひとりだと私は思う。一方、野田は違った。

 

 

 

いまの民主党の内部分裂にかっかりするあまり、まともな政治システムを日本に実現させるのは無理なのかもしれない、と政治意識の高い多くの日本人は考えがちだ。ここで言うまともな政治システムとは、選ばれた政治家が国のために重要な優先事項を決定すべく、力を発揮できるような体制である。

 

 

日本の状況に関心を抱き、またよく知る海外の人々は、またしても日本の政治家が全てを台無しにしたと見ている。だがこうした外国人たち、そして日本を観察する多くの人々は、徹底した妨害をするのは、偽りの政治的現実を生み出す者たちである、という事実に目を向けようとしない。この事実はこれまで書かれることがなかったため、ほとんどまったく知られていない。

 

 

 

日本の政治記事の中では、政治家によってめざすものがまったく違うという事実が、ほとんど見過ごされてきた。これを具体的に理解するには、梯子と舵とりについて考えてもらうとわかりやすいだろう。

 

 

梯子は高い所に上る時に利用するものだ。そして舵取りをするのは、自分が進む方向をコントロールしたり、コースを変更するためだ。

一九六〇年代のある時点を境に、自民党の政治家たちの大半は党を梯子代わりに利用するようになった。

 

 

自民党に属していれば、副大臣や大臣、あるいは首相など、多くの栄誉と特権を与えてくれるポジションに上り詰めることができたからだ。しかも国の運営は官僚任せにできた彼らには、地位獲得のための党内派閥時に関心を集中させる余裕があった。

 

 

たしかに特定の政治家たちが打ち出した政策について論じる記事や論説は多く、稀に舵取りをすることで変化をもたらした大臣もいた。しかしそれも官僚たちがすでに決定した路線に従ってやったか、省庁間の官僚の間で意見の食い違いがあった場合がおとんで、そんなときに自民党の政治家は仲介役となって調整することが出来たのである。(略)

 

 

結局、日本の有権者は、民主党が政治の新しい方向をめざして針路を変更すると掲げ、選挙戦に打って出た二〇〇九年まで、待たなければならなかった。同党は、実際に政策を打ち出す前に、なにを優先課題とすべきかを真剣に討議し、比較検討し、意思決定の中枢となるような内閣をつくろうとした。民主党による、政治の舵取りを生み出す本格的な試みは、一九五〇年代の終わり以降では初めてだった。(略)

 

 

 

無関心と無能さについて

日本の政治エリートとして頂点に立つ者を含めて、大勢の人々が、官僚ではなkじゅ、政治家が日本の政策を決定できるよう、彼らの地位を引き揚げるために、この国には抜本的な改革が必要だと考えている。

 

 

ところがそれにも関わらず、日本ではいまなおおかしな状況が続いている。そこでここで一歩退いて、その理由を検証してみようと思う。

民主的な先進大国のなかにあって、根本的な改革を望む機運が、何度も蒸し返されるのは日本だけである。少なくとも私には日本以外にそうしたはっきりした傾向を持つ国はほかに思い浮かばない。

 

 

だれもが望みながら、しかしそれは一向に実現しそうにない。改革のチャンスが訪れるたびに、なぜ日本は取り逃がしてしまうのだろうか?

 

 

民主党が政権の座に就いた時が、絶好のチャンスであった。すでに述べたように、チャンスを逃したのはもちろん妨害されたからだ。あらゆるあ規格の試みを阻止する手段を有する管理者たち、キャリア官僚たちには、舵取り機能を奪い返そうとする政治家たちを打ち負かせるのである。

だが理由はそれだけだろうか?(略)

 

 

奇跡の成長を成し遂げた日本には、その後も産業力がさらに向上するという見通しがあったのだから、どこに向かえばいいかはたやすく思い描けたはずだ。という意見は多い。(略)

 

 

個人としての日本人と、政治システムとしての日本を比較する時、そこに矛盾があることがわかる。しかもなぜ矛盾しているかがわからないので困惑させられてしまう。日本人一人ひとりは怠慢とは対極の勤勉な人々であるのに、、政治機構としての日本は無気力そのものなのだ。(略)

 

 

内部にいる人々が組織の状態が悪化していることに気づいても、内部崩壊を食い止めようとしない状態を、無気力の害と呼ぶことにしよう。関係者がおかしいと十分に気づかなければ、しかもこのような陰鬱な流れを阻止しようとする強力な人物もあらわれなければ、こうした事態は起きる。

 

 

 

なぜ無気力の害が生じるのだろうか?大災害などを通じて、そうした姿勢をなんとしてでも変えるべきであるという事実がはっきりしてなお、なぜ現状を放置したままにできるのだろうか?

 

 

みずから自滅の道を突き進む様々な機構を観察した私は、そこにはふたつの原因があることに気づいた。ひとつは根本的に無関心だからであり、二番目は無能だからである。

 

 

 

同じことが国についても言える。もちろん日本が専門団体かなにかのように消滅することはないだろう。だがこの国をむしばむ無気力の害は国民にもおよんでいる。その原因は無関心と無能さにある。

 

 

 

ちなみに国や組織は、ふたつのグループに分けることができる。一方は状況を取り仕切ろうとの責任感をそなえたグループであり、他方は積極的に行動しようとはしないが、事態を切りまわすグループを眺めながら、このグループのやり方がまずければ介入しようとするグループである。

 

 

 

一国の中ではこのふたつのグループをまとめて、通常、政治エリートと呼ぶ。そして無気力の害は最初のグループの無能さと、第二グループの無関心さから生まれる。

 

 

ところで日本の官僚を無能だなどと言えるのだろうか?彼らは戦後日本の驚異の復興と、大変な経済的な成功を生んだ、社会・政治・経済マシーンを確立するうえで、重要な役割を果たしたのではなかったか?もちろnそうだ。

 

 

しかしすでに述べたように、当時の官僚たちには、自分たちの方向性を思い描くことができた。だがいまの彼らにはそれができない。(略)

 

 

有能かそうではないかは、やるべきことや、期待されることをやるかやらないかで判断される。(略)

 

 

もちろん我々は日本の官僚たちを、同じように判断する。(略)

大蔵省の官僚たちは世界でもっとも有能な部類に属するだろう。彼らは「バブル経済」の収縮をコントロールし続けた。そしてバブル後に銀行やほかの金融機関が実際には破綻していたにもかかわらず、世間にほとんど気づかれないまま、こうした機関をみちびき続けたのだから、彼らはたしかに称賛に値する。だが彼らは無能でもある。彼らは一番重要な取り組みに関して無能なのである。

 

 

 

大蔵省の役人たちは、日本にとってもっとも重要な活動でおもな意思決定をなす立場へと自分たちを押し上げた。しかし日本が直面する問題が変化したにも関わらず、それに政治的に的確な対抗ができないまま、彼らはいまだに自分たちの役割を見直そうとはしない。

 

 

つまり管や野田ら首相を洗脳したことからも明らかなように、彼らはいまなお日本を運営しようとしている、ということだ。(略)」