読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る(十四章 天皇の”功罪”)

〇中断していた「昭和天皇の研究」のメモを続けます。

十三章のつづきです。)

 

「十四章  = そして「戦争責任」をどう考えるか

 

歴史的”功罪”を論ずることのむずかしさ

 

歴史上の功罪の評価は、非常にむずかしい問題である。というのは、「功」は裏返せば「罪」となり、「罪」は裏返せば「功」となるからである。(略)

大体、江戸時代が評価されるようになったのは、最近のこと、私が資料を集めたころは、全く無価値で文字通り紙屑の値段だった。(略)

 

少々杉浦重剛のまねになるが、五代目といえば徳川綱吉の時代、元禄時代(一六八八 ― 一七〇四年)はそのまま彼の治世に入る。だが、多少は江戸時代が復権しても、綱吉の功罪などを論ずる者はいないであろう。彼は「犬公方」「犬将軍」の一言で否定される。

 

 

たとえ柳沢吉保(綱吉時代の老中)が「憲廟実録」で、

「常に宣いしは、国家の制度、神祖の宏謨(大いなる企て)より出で、その後歴朝相議して潤色を尽くせり。いま一事の増損すべきなし。ただ教道立たたざるゆえ、義理明らかならず、戦国の旧俗大夫の道となり、残刻を認めて武とし、意気を以て義とし、世人不仁の所為多くして、人道の本意に背くこと、これによって聖人の道を尊崇ましまし……」

とベタホメしても、「この側用人あがりのゴマスリめが」で終わりになる。

 

 

彼がやや評価されるようになったのは、皮肉なことに明治になってからだが、同時代の人では、オランダ商館医師ケンペルがいる。

「ケンペルは、鎖国下の「元禄時代の日本」を、別世界のパラダイスのように見ている」、という批判は当然にあり得るであろうが、当時のヨーロッパと比べれば平穏無事な平和郷であったであろう。

 

 

日本が鎖国の間にヨーロッパが繰り返した戦乱を見ると、「西欧元禄」の到来は、夢想も出来ない。

なぜこのような平和な時代が来たのであろうか。

 

 

 

「憲廟実録」が書いているように、国家の制度は家康がその基本を樹立し、その後、代々補足して、制度的にはすでに平和体制が出来上がっている。

しかし、「戦国の旧俗」がまだ「士大夫の道」であり、これがあらたまっていない。事実、戦国時代を見れば、相手を殺してその首を取れば初めて認められる。

 

 

五つ首を取って「首供養」をすれば抜擢される。いわば人を殺すことで出世出来る社会である。制度は変わっても、この「戦国の旧俗」は簡単に変わらない。戦国以来という当時の日本の「歴史的実体」と「幕藩体制下の平和という青写真」との乖離である。

 

そしてこの気風を一変させ、「乖離」をなくそうとしたのが、綱吉の徹底した文治主義、それを庶民に否応なく教え込んだのが、「生類憐愍令」だと彼は言う。

いわば、人を殺せば認められる世界から、犬を殺しても死刑になる世界への転換、いわば価値観の徹底的な転換である。

 

 

確かに弊害はあった。これが「罪」である。しかし、「価値観の徹底的な転換」、これは「功」であり、この暴力なき平和な社会が元禄時代を生み出すのである。

 

 

私が西洋史を読んで少々驚いたのは、決闘の半ば公然なる黙認が、第一次大戦ころまであったことである。代表的なのは、第一次大戦のときの仏首相クレマンソーだが、彼は「虎」と仇名され、生涯、数え切れぬほどの決闘を行ったという。

 

 

民主主義の言論の自由と、この決闘の公認を、どう解すべきなのか、少々戸惑うが、同時代の原敬首相が決闘をしたなどという話は聞かない。確かに戊辰戦争はあが、観戦武官として普仏戦争(一八七〇年)を見た大巌彌助は、猛牛が激突するようなそのものすごさに呆れ、維新の戦いなどは、しょせん「鶏の蹴り合い」のようなものだと記している。

 

 

 

そして明治が過ぎ、大正ともなると「元禄的風潮」にまた戻る。昭和の戦後は言うまでもない。そしてこの意識の大転換を行ったのが綱吉である。もっとも、津田宗吉博士の指摘する「建国の事情」(271ページ参照)がその根底に流れてであろうが —。

しかし、いまこれを「綱吉の功績」と考えるものがいるであろうか。その状態が当然となれば、それを招来した「功」は忘れられ、「生類憐愍令」その他の「罪」だけが記憶されている。(略)

 

 

以上は、ただ「守成」の「功」の評価がどれくらい難しいかの一例である。そしてこれが「守成」を担当した者の運命であろう。

その点では昭和天皇の「功」を連想させる。柳沢吉保的に言えば「国家の制度、憲法の公布は、明治天皇の宏謨より出で、その後、大正時代に重臣相議してその運用を尽くせり。

 

 

いま一事の増損すべきなし」であるが、「憲政」とはなにかは、いまだ定着していない。

憲政の「教道」がいかに定着していなかったかは、当時の記録を見れば分かる。確かに「憲政」を定着させようと努力した人々、簡単に言えば「憲政の伝道師」は、確かにいた。その代表のように尾崎行雄を挙げたが、もちろん、その努力をしたのは彼だけではない。」

 

 

〇 野良猫や野良犬が「大量に」殺されている状況の中で、そのことを少しも考えずに暮らしている自分を含めた大勢の日本人を思う時、犬公方とバカにされていた綱吉のような権力者が出てきて、「殺すな!」と命じてくれればどんなに良いだろう…、と思ったことがあります。

 

そして、ひょっとしたら「犬公方」はもっと大きな視野で「生類憐みの令」を出したのかも…と妄想を膨らませたことはあります。本来、命の大切さを説きたかったのに、その失脚を狙う「抵抗勢力」が、「バカ殿説」を流布し、権力を嘲笑うのが好きな庶民がそれに乗っかったのかな…というような…。

 

でも、結局は、「権力」が上からの押し付けで、命の大切さを強制しても、「犬を殺せば死刑にする」などという本末転倒の矛盾した話になり、

いわゆる「普遍的な」教えには、ならなかったのだろうな、と思いました。

 

 

また、「憲政」が今に至っても定着していないということを思い知る時、上から押し付け、強制して定着させようとするこの日本的な体質に問題があるのでは?と思えてきます。これをやっている限り、どこまで行っても、民主主義や、憲政は定着しないのでは?と。

 

というのも、今とても心配なのは、地方自治体で、政治家のなり手がない、ということです。また、町内会などの担い手も居なくなっています。子供から青少年になり、壮年になる…その過程で、本来は社会的な働きを担う訓練が必要だと思います。

 

私などは、社交的ではないので、とても苦手なのですが、だからこそ、もっと自発的に関わりやすい、社会的なつながりの中で育つ枠組みを作っていかなければ、日本の社会はどうなってしまうんだろう、と心配になります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ホモ・デウス(下) (訳者 あとがき)

〇 「ホモ・デウス(下)」の謝辞のあとに、「訳者あとがき」がありました。

「ホモ・デウス(下)」は、連なる言葉を単純に読んでいくと、イメージの中に悲しい未来の光景が広がり、悲観的な気持ちになってしまいます。

 

でも、この「訳者あとがき」を読むと、ハラリ氏の意図がわかりやすく解説されていて、なるほどそういうことなのか、と少しホットします。

 

そこで、訳者あとがきから一部をメモしておきます。

 

「(略)「サピエンス全史」では、認知革命、農業革命、科学革命という三つの革命を重大な転機と位置づけ、虚構や幸福をはじめとする斬新な観点を持ち込みながら過去を振り返り、私たちが抱きがちな近視眼的歴史観や先入観や固定観念を揺るがせてくれた。

 

 

そして最終章では未来に目を転じて、サピエンスの終焉と超人誕生の筋書き、及び、それに伴う問題を簡潔に提示した。それを受けた本作の重点は、その未来にある。

 

 

サピエンスは自らをアップグレードし、神のような力を持つホモ・デウス(「デウス」は「神」の意)となることを目指すが、かえって墓穴を掘る結果になるというのが、著者が提示する一つの予測だ。(略)

 

 

そして、本書が秀逸なのは、大きな歴史の流れをしっかりと踏まえて、何がどういう理由でその未来につながるのか、その過程がどのような意味を持つのかについて、俯瞰的・論理的で説得力ある説を明確に提示している点にある。

 

 

したがって本書は、ひたすら未来の予測を語るのではなく、まずは過去を見遣り、なぜ人間はホモ・デウスになること、すなわち不死と至福と神のような力の獲得(本書では、これを神性の獲得という概念に集約している)を必然的に目指す道をたどるのかという理由を解き明かす。

 

 

 

第一の理由は、従来の課題を達成したことだ。古来、サピエンスは基金と疫病と戦争に悩まされてきたが、これらの問題は三つとも二一世紀初頭までにほぼ克服された。

 

 

第二に、歴史は空白を許さず、サピエンスを待ち受けているのは「充足ではなく更なる渇望」であり、「成功は野心を生」み、そこに「科学界の主流の動態(ダイナミクス)」と「資本主義経済の必要性」が加わると、新しい課題の追及が始まる。

 

 

そして第三の理由が、過去三〇〇年にわかって世界を支配してきた人間至上主義(ヒューマニズム)だった。「人間至上主義は、ホモ・サピエンスの生命と幸福と力を神聖視する。不死と至福と神性を獲得しようとする試みは、人間至上主義者の積年の理想を突き詰めていった場合の、論理上必然の結論にすぎない」のだ。(略)

 

 

その実現を可能にしうるのが科学とテクノロジーの進歩であり、「サピエンス全史」の最終章でも示されていた三つの道筋、すなわち自然選択の法則を打ち破り、生物学的に定められた限界を突破する、生物工学、サイボーグ工学、非有機的生命工学だ。

 

 

その背景には二つの流れがある。一つは、生き物はアルゴリズムであり、生命は他処理であるという、あらゆる生物を網羅する考え方で、これは科学界の定説だという。もう一つは、意識というものの解明はいっこうに進まないとはいえ、知能を意識から分離し、AI(人工知能)の形で急速に発展させる動きだ。

 

 

 

ただし、科学は万能ではないことも著者は明示する。科学には、人間がどう行動するべきかを決めることができない。科学も含め、社会が機能するには倫理的判断や価値判断が欠かせず、そうした判断を下すためには、何らかの宗教あるいはイデオロギーが必要となる。

 

 

そして著者は近代以降の歴史を、科学と特定の宗教(人間至上主義)が手を組み、「人間の経験が宇宙に意味を与える」と信じながら、力を手に入れていくプロセスと捉える。そして、神性の獲得もその延長線上にある。

 

 

さて、神性の獲得を目指すと、なぜサピエンスは終焉を迎えるのか?AIが進歩し、ほとんどの 分野で人間に取って代わり、人間について、本人よりもよく知るようにえば、大多数の人は存在価値を失い、巨大な無用者階級を成し、人間の人生と経験は神聖であるという人間至上主義の信念が崩れる。(略)

 

 

そのモデルに従えば、こうなる。「自動車が馬車に取って代わった時、私たちは馬をアップグレードしたりせず、引退させた。ホモ・サピエンスについても同じことをする時が来ているのかもしれない」

 

〇 ……と、ここまでは、「ホモ・デウス」の要約になります。

でも、ここから先に、訳者 柴田裕之氏の解説が始まります。

 

「では、サピエンスの未来に希望はないのか?断じて違う。著者は楽観してはいないが、絶望もしていない。絶望していたら、この作品を書いただろうか?本書には二つの希望が見える。まず、結びの問いかけを読めばわかるように、現在の科学の教義が正しくないと考える余地が残っている点だ。

 

 

生き物はただのアルゴリズムではない可能性、生命はデータ処理だけではない可能性と、意識が知能よりも重要である可能性は今後も真剣に研究・検討していく価値がある。

 

 

そして、もう一つ。本書の予測が、予測のための予測ではなく、未来は変えられるという前提で思考や行動を促す提言である点だ。

 

「この予測は、予言というよりも現在の選択肢を考察する方便という色合いが濃い。この考察によって私たちの選択が変わり、その結果、予測が外れたなら、考察した甲斐があったというものだ。予測を立てても、それで何一つ変えられないとしたら、どんな意味があるというのか」。

 

 

「本書の随所に見られる予測は、今日私たちが直面しているジレンマを考察する試みと、未来を変えようという提案にすぎない」。

 

「新しいテクノロジーの使用に関してある程度の選択肢があるからこそ、今何が起こっているのかを理解して、自ら決断を下し、今後の展開のなすがままになるのを避けるべきなのだ」。

 

 

「本書で概説した筋書きはみな、予言ではなく可能性として捉えるべきだ。こうした可能性のなかに気に入らないものがあるなら、その可能性を実現させないように、ぜひ従来とは違う形で考えて行動してほしい」

 

そして、この言葉の背後には、歴史を学ぶことの意義に関する確固たる信念があり、著者はそれを切々と訴えてくる。

 

 

「歴史の研究は、私たちが通常なら考えない可能性に気付くように仕向けることを何にもまして目指している。歴史学者が過去を研究するのは、過去を繰り返すえではなく、過去から解放されるためなのだ」。

 

「歴史を学ぶ目的は、私たちを押さえつける過去の手から逃れることにある。歴史を学べば、私たちはあちらへ、こちらへと顔を向け、祖先には想像できなかった可能性や祖先が私たちに想像してほしくなかった可能性に気づき始めることができる。

 

 

私たちをここまで導いてきた偶然の出来事の連鎖を目にすれば、自分が抱いている考えや夢がどのように形を取ったかに気付き、違う考えや夢を抱けるようになる。歴史を学んでも、何を選ぶべきかはわからないだろうが、少なくとも、選択肢は増える」。

 

 

「歴史を学ぶ最高の理由がここにある。すなわち、未来を予測するのではなく、過去から自らを解放し、他のさまざまな運命を想像するためだ。もちろん、それは全面的な自由ではない。私たちは過去に縛られることは避けられないが、少しでも自由があるほうが、まったく自由がないよりも優る」。

 

 

これは歴史に限らず、何であれ学ぶとき、さらに言えば、何であれ、物事を見たり考えたりするときにも当てはまるのではないか?

 

 

「とはいえ、新たな形で行動するのは容易ではない。なぜなら私たちの思考や行動はたいてい、今日のイデオロギーや社会制度の制約を受けているからだ。本書あ、その制約を緩め、私たちが行動を変え、人類の未来についてはるかに想像力富んだ考え方ができるようになるために、今日私たちが受けている条件付けの源泉をたどってきた。単一の明確な筋書きを予測して私たちの視野を挟めるのではなく、地平を拡げ、ずっと幅広い、さまざまな選択肢に気づいてもらうことが本書の目的だ」

 

 

最後に著者の主張のカギを握る「虚構(架空の事物や物語)」についても述べておきたい。著者はサピエンスがこれほど大きな力を獲得することを可能にした、サピエンスならではの能力として、前作でも本書でも、大勢が柔軟に協力する能力を挙げ、その能力は誰もが信じる虚構(共同主観的現実)に支えられているとしている。

 

 

サピエンスの成功や繁栄に虚構は必要だが、虚構は客観的事実ではなく、物語は道具にすぎない。ところが、虚構は現実を変え、現実との違いをあやふやにし、サピエンスの目標を決め、サピエンスを利用する嫌いがある。

 

 

「私たちは二一世紀にはこれまでのどんな時代にも見られなかったほど強力な虚構と全体主義的な宗教を生み出すだろう。そうした宗教はバイオテクノロジーとコンピューターアルゴリズムの助けを借り、私たちの生活を絶え間なく支配するだけでなく、私たちの体や脳や心を形作ったり、天国も地獄も備わったバーチャル世界をそっくり創造したりすることも出来るようになるだろう。

 

 

したがって、虚構と現実、宗教と科学を区別するのはいよいよ難しくなるが、その能力はかつてないほど重要になる」

 

 

「二一世紀の間に、歴史学と生物学の境界は曖昧になるだろうが、それは歴史上の出来事に生物学的な説明が見つかるからではなく、むしろ、イデオロギー上の虚構がDNA鎖を書き換え、政治的関心や経済的関心が気候を再設計し、山や川から成る地理的空間がサイバースペースに取って代わられるからだろう。

 

 

人間の虚構が遺伝子コードや電子コードに翻訳されるにつれて、共同主観的現実は客観的現実を呑み込み、生物学は歴史学と一体化する。そのため、二一世紀には虚構は気まぐれな小惑星や自然選択をも凌ぎ、地球上で最も強大な力となりかねない。

 

 

したがって、もし自分たちの将来を知りたければ、ゲノムを解読したり、計算を行ったりするだけでは、とても十分とは言えない。私たちには、この世界に意味を与えている虚構を読み解くことも、絶対に必要なのだ」

 

読者のみなさんが、本書を楽しんでくださるとともに、何か新しい視点や考え方を見出してくださること、そして、著者のメッセージが伝わることを、訳者としては願うばかりだ。(略)

 

   二〇一八年        柴田 裕之    」

 

 

〇 ……ということで、この本は終わっています。

「二一世紀の間に、歴史学と生物学の境界は曖昧になるだろうが……」以降の文章は、ほとんど理解できませんでした。

どういうことなのか、これからも考えてみたいと思います。

これで、「ホモ・デウス」のメモを終わります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ホモ・デウス(下) (第11章 データ教)

「データフローの中の小波

 

データ至上主義にも当然、批判者や異端者がいる。第3章で見たように、生命が本当にデータフローに還元できるかどうかは疑わしい。とりわけ、現時点ではデータフローがなぜ、どのように意識と主観的経験を生み出しうるのかは皆目わからない。(略)

 

 

生命現象とはつまるところ意思決定にすぎないということになるかどうかも、同様に疑わしい。データ至上主義の影響下で、生命科学も社会科学も、意思決定の過程の解明に躍起になって取り組んでいる。まるで意思決定が生命にとってすべてであるかのように。だが、果たしてそうだろうか?

 

 

 

感覚や情動や思考は、意思決定においてたしかに重要な役割を果たしているが、意思決定だけが、それらの唯一の意義なのだろうか?データ至上主義は、意思決定過程についての理解をますます深めているが、生命についてしだいに偏った見方を採用しているのかもしれない。(略)

 

 

 

データ至上主義の協議を批判的に考察することは、二一世紀最大の科学的課題であるだけでなく、最も火急の政治的・経済的プロジェクトにもなりそうだ。生命をデータ処理と意思決定として理解してしまうと、何か見落とすことになるのではないか、と生命科学者や社会科学者は自問するべきだ。

 

 

 

この世界にはデータに還元できないものがあるのではないだろうか?(略)

もちろん、たとえデータ至上主義が間違っていて、生き物がただのアルゴリズムではないとしても、データ至上主義が世界を乗っ取ることを必ずしも防げるわけではない。(略)

 

 

 

データ至上主義が世界を征服することに成功したら、私たち人間はどうなるのか?最初は、データ至上主義は人間至上主義み基づく幸福と力の追及を加速させるだろう。人間至上主義のこうした願望の充足を約束することによって、データ至上主義は広まる。(略)

 

 

ところが、人間からアルゴリズムへと権限がいったん移ってしまえば、人間至上主義のプロジェクトは意味を失うかもしれない。人間中心の世界観を捨てて、データ中心の世界観をいったん受け容れたなら、人間の健康や幸福の重要性は霞んでしまうかもしれないからだ。(略)

 

 

 

それなのに、「すべてのモノのインターネット」がうまく軌道に乗った暁には、人間はその構築者からチップへ、さらにはデータへと落ちぶれ、ついには急流に呑まれた土塊のように、データの奔流に溶けて消えかねない。

 

 

 

そうなるとデータ至上主義は、ホモ・サピエンスが他のすべての動物にしてきたことを、ホモ・サピエンスに対してする恐れがある。(略)何千年間もそうしているうちに、人間は高慢と偏見を募らせた。人間はそのネットワークの中で最も重要な機能をはたしていたので、ネットワークの功績を自分の手柄にして、自らを神羅万象の頂上と見なした。

 

 

 

残りの動物たちが果たす機能は重要性の点ではるかに劣っていたので、彼らの生命と経験は過小評価され、何の機能も果たさなくなった動物は絶滅した。ところが、私たち人間が自らの機能の重要性をネットワークに譲り渡したときには、私たちは結局森羅万象の頂点ではないことを思い知らされるだろう。

 

 

 

そして、私たち自身が神聖視してきた基準によって、マンモスやヨウスコウカワイルカと同じ運命をたどる羽目になる。振り返ってみれば、人類など広大無辺なデータフローの中の小波に過ぎなかったということになるだろう。

 

 

 

私たちには未来を本当に予測することはできない。なぜならテクノロジー決定論ではないからだ。同一のテクノロジーがまったく異なる種類の社会を作り出すこともありうる。たとえば、産業革命がもたらした列車や電気、ラジオ、電話といったテクノロジーを使って、共産主義独裁政権ファシスト政権と自由民主主義政権のどれを確立することもできた。

 

 

 

韓国と北朝鮮を考えてみるといい。これまで両国はまったく同じテクノロジーを利用することができたが、それを非常に異なる方法で採用する道を選んできた。

AIとバイオテクノロジーの台頭は世界を確実に変容させるだろうが、単一の決定論的な結果が待ち受けているわけではない。

 

 

 

本書で概説した筋書きはみな、預言ではなく可能性として捉えるべきだ。こうした可能性のなかに気に入らないものがあるなら、その可能性を実現させないように、ぜひ従来とは違う形で考えて行動してほしい。

 

 

 

とはいえ、新たな形で考えて行動するのは容易ではない。なぜなら私たちの思考や行動はたいてい、今日のイデオロギーや社会制度の制約を受けているからだ。本書ではその制約を緩め、私たちが行動を変え、人類の未来についてはるかに想像力に富んだ考え方ができるようになるために、今日私たちが受けている条件付けの源泉をたどってきた。

 

 

単一の明確な筋書きを予測して私たちの視野を狭めるのではなく、地平を拡げ、ずっと幅広い、さまざまな選択肢に気づいてもらうことが本書の目的だ。繰り返し強調してきたように、二〇五〇年に求人市場や家族や生態系がどのようになっているのか、どの宗教や経済制度や政治構造が世界を支配しているのか、本当にあっている人は誰もいないのだ。(略)

 

 

 

古代には、力があるというのはデータにアクセスできることを意味した。今日では、力があるというのは何を無視するかを知っていることを意味する。では、私たちの混とんとした世界で起こっていることをすべて考えると、何に焦点を当てるべきだろうか?

 

 

何か月という単位で考えるのなら、中東の紛争やヨーロッパの難民危機や中国経済の減速といった、目の前の問題に焦点を当てるべきだろう。何十年の単位で考えるのなら、地球温暖化や不平等の拡大や求人市場の混乱が大きく立ちはだかる。ところが、生命という本当に壮大な視点で見ると、他のあらゆる問題や展開も、次の三つの相互に関連した動きの前に影が薄くなる。

 

 

1 科学は一つの包括的な教義に収斂しつつある。それは、生き物はアルゴリズムであり、生命はデータ処理であるという教義だ。

 

2 知能は意識から分離しつつある。

 

3 意識を持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが間もなく、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになるかもしれない。

 

 

この三つの動きは、次の三つの重要な問いを提起する。本書を読み終わった後もずっと、それがみなさんの頭に残り続けることを願っている。

 

 

1 生き物は本当にアルゴリズムにすぎないのか?そして、生命は本当にデータ処理にすぎないのか?

 

2 知能と意識のどちらのほうが価値があるのか?

 

3 意識は持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか?」

 

〇 ここで、本文は終わり、謝辞があって、「ホモ・デウス 下巻」は終わって

います。

 

謝辞は、以前こちらにメモしました。

 

〇 はてなブログには、カテゴリーという機能があるのですが、

以前メモした記事を見られるように、「カテゴリー」に

リンクさせて、それぞれの記事が開けるようにしました。(まだ、不完全ですが…)

 

記事「カテゴリー」はこちら。

 

 

 

 

 

 

ホモ・デウス(下) (第11章 データ教)

「記録し、アップロードし、シェアしよう!

 

だが、ことによるとわざわざあなたを説得するまでもないのかもしれない。あなたがニ〇歳前ならなおさらだ。人々はひたすらデータフローの一部になりたがっている。それがプライバシーや自律性や個性の放棄を意味するとしても、だ。(略)

 

 

芸術的創造物や科学的創作物が増え続けている。ウィキペディアを書いているのは誰か?私たちみんなだ。

個人は、誰にもよくわからない巨大なシステムの中で、小さなチップになってきている。毎日私は、電子メールや電話や論説を通じて無数のデータを取り込み、そのデータを処理して、さらに多くのメールや電話や論説を通じて新しいデータを送り返している。

 

 

私が世の中のより大きな仕組みのどこに組み込まれているのか、あるいは自分が生み出すデータが他の何十億という人間やコンピューターが生み出すデータとどう結びつくのか、実際にはよくわかっていない。私にはそれを解明する時間はない。(略)

 

 

この容赦ないデータの流れは、誰も計画も制御も把握もしていない、新たな発明や混乱を引き起こす。グローバルな経済がどう機能しているか、グローバルな政治がどこに向かっているのか、誰にもわからない。だが、誰にも理解する必要はない。必要なのは、自分宛メールにもっと速く返信することだ。そして、データ処理システムがそれを読むのを許すことだ。

 

 

 

自由市場資本主義者が市場の見えざる手の存在を信じているように、データ至上主義者はデータフローの見えざる手の存在を信じている。

グローバルなデータ処理システムが全知全能になっていくと、このシステムにつながることがすべての意味の源になる。人はデータフローと一体化したがる。データフローの一部になれば、自分よりもはるかに大きいものの一部になるからだ。(略)

 

 

 

熱狂的な信者にしてみれば、データフローと切り離されたら人生の意味そのものを失う恐れがある。何かをしたり味わったりしても、誰もそれを知らないとしたら、また、グローバルな情報交換に提供するものがないとしたら、何の意味があるだろう。(略)

 

 

 

一方、データ至上主義によれば、経験は共有されなければ無価値で、私たちは自分の中に意味を見出す必要はない、いや、じつは見出せないと信じている。私たちはただ、自らの経験を記録し、大量のデータフローにつなげさえすればいい。そうすればアルゴリズムがその意味を見出して、私たちにどうするべきかを教えてくれる。

 

 

 

二〇年前、日本人旅行者は万人の笑い種になっていた。いつもカメラを携えて目にしたものをすべて写真に撮っていたからだ。だが、今では誰もが同じことをしている。(略)スマートフォンを出してゾウの写真を撮り、フェイスブックに投稿し、その後は自分のアカウントを二分おきにチェックして「いいね!」をどれだけ獲得したかを見るのに忙しいからだ。(略)

 

 

私たちは本書を通して、人間を他の動物より優れた存在にしているものは何か、繰り返し問うてきた。データ至上主義には、新しい単純な答えがある。人間の経験それ自体は、オオカミやゾウの経験より少しも優れてなどいない。(略)

 

 

とはいえ人間は、自分の経験を詩やブログに書いてネットに投稿し、それによってグローバルなデータ処理システムを豊かにできる。だからこそ人間のデータは価値を持つ。オオカミにはそれができない。したがって、オオカミの経験は、人間のものと同じぐらい深遠で複雑であったとしても、価値を持たない。(略)

 

 

 

私たちは自分自身やデータ処理システムに、自分にはまだ価値があることを証明しなければならない。そして価値は、経験することにあるのではなく、その経験を自由に流れるデータに変えることにある。(略)

 

 

 

 

汝自信を知れ

 

データ至上主義は、自由主義的でも人間至上主義的でもない。とはいえ、反人間至上主義的ではないことは特筆しておくべきだろう。データ至上主義は、人間の経験を敵視しているわけではない。人間の経験には本質的な価値はないと考えているだけだ。(略)

 

 

たしかに過去七万年ほどの間、人間の経験はこの世界で最も効率の良いデータアルゴリズムであり続けた。だから人間の経験を神聖視するのは当然だった。ところが私たちは、このアルゴリズムがその座を奪われ、重荷にすらなる段階に間もなく達するかもしれない。

 

 

サピエンスは何万年も前にアフリカのサバンナで進化したため、私たちのアルゴリズムは二一世紀のデータフローに対処するようには構築されていない。私たちは人間のデータ処理システムをアップグレードしようとするかもしれないが、それでは十分ではないだろう。

 

 

 

「すべてのモノのインターネット」は、あまりにも大量で急速なデータフローをほどなく生み出すかもしれないので、アップグレードされた人間のアルゴリズムでさえ対処できないだろう。自動車が馬車に取って代わったとき、私たちは馬をアップグレードしたりせず、引退させた。ホモ・サピエンスについても同じことをする時が来ているのかもしれない。(略)

 

 

 

ハリウッドの多くのSF映画のクライマックス・シーンでは、人間がエイリアンの侵略宇宙船団や、反乱ロボットの大群や、人間を一掃しようとする全知のスーパーコンピューターに直面する。人類の前途は絶望的に見える。だが人類はこの苦境に屈することなく、最後の最後に、何かエイリアンやロボットやスーパーコンピューターには思いもよらず、理解もできないもののおかげで勝利する。

 

 

 

その何かとは、愛だ。(略)

データ至上主義者は、そのような筋書きは完全に馬鹿げていると考え、ハリウッドの脚本家たちに忠告する。「まさか。考えつくことと言えばそれだけですか?愛?それもプラトニックな広大無辺の愛のようなものですらなく、一対の哺乳動物が肉体的に惹かれ合うことだけとは。全知のスーパーコンピューターや銀河系全体の征服をたくらむエイリアンが、急激なホルモン分泌に物も言えないほど驚いたりするなんて、あなたは本当に思っているのですか?」

 

 

 

データ至上主義は、人間の経験をデータのパターンと同様に見なすことによって、私たちの権威や意味の主要な源泉を切り崩し、一八世紀以来見られなかったような、途方もない規模の宗教革命の到来を告げる。(略)

 

 

 

一八世紀には、人間至上主義が世界観を神中心から人間中心に変えることで、神を主役から外した。二一世紀には、データ至上主義が世界観を人間中心からデータ中心に変えることで、人間を主役から外すかもしれない。

データ至上主義の革命には、一、二世紀とまでは言わないまでも、おそらくニ、三〇年かかるだろう。

 

 

 

だが、人間至上主義の革命も一夜にして起こったわけではない。(略)

同様に、今日ほとんどのデータ至上主義者は、「すべてのモノのインターネット」は人間が人間の欲求に応えるために創出しているから神聖だと主張する。だがいずれ、「すべてのモノのインターネット」はそれ自体が本質的に神聖になるのかもしれない。(略)

 

 

 

同様に、「生き物はアルゴリズムだ」というデータ至上主義の発想が重要なのは、それが日常生活に与える実際的な影響のためだ。発想が世界を変えるのは、その発想が私たちの行動を変えるときに限られる。

 

 

 

古代のバビロンでは、人々は厄介なジレンマに直面すると、夜の暗闇の中で近くの神殿の上に登り、空を観察した。バビロニア人は、星が自分たちの運命を支配し、自分たちの未来を予言すると信じていた。(略)

 

 

 

ユダヤ教キリスト教のような聖典に基づく宗教は、別の物語を語った。「星は真実を語っていない。星を創造した神が、聖書の中にすべての真実を啓示した。だから星の観察はやめて、代わりに聖書を読むのだ!」これも実際的な提案だった。(略)

 

 

次に人間至上主義者がまったく新たな物語を引っ提げて登場した。「人間が神を考え出し、聖書を書き、多種多様に解釈した。だから人間自身があらゆる真実の源泉だ。聖書を、インスピレーションを与える人間の創造物として読んでもかまわないが、本当はそんなことをする必要はない。

 

 

もしジレンマに直面したら、ただ自分自身に耳を傾け、内なる声に従おう」。人間至上主義は、夕日を眺めたり、ゲーテを読んだり、私的な日記をつけたり、良い友人と腹を割って話したり、民主的な選挙を行なったりといったテクニックを推奨し、どのように自分自身に耳を傾けるのか、詳細にわたる実際的な指示を与えた。

 

 

科学者も、何世紀にもわたってこうした人間至上主義の指針を受け入れてきた。物理学者も、結婚すべきかどうか迷ったとき、夕日を眺め、自分自身を知ろうとした。化学者も、問題含みの仕事の依頼を受けるかどうかを考えたときは、日記をつけたり良い友人と腹を割って話したりした。

 

 

生物学者も、戦争を始めるべきか平和条約を結ぶべきか論争になったときは、民主的に票決した。脳科学者は、自らの驚くべき発見について本を書くとき、インスピレーションを与えるようなゲーテの引用を巻頭に載せることがしばしばあった。

 

 

 

これは、現代における科学と人間至上主義の提携の基礎を成し、それが理性と情動や、研究所と美術館や、生産ラインとスーパーマーケットといった、現代の陽と陰の間の微妙なバランスを保ってきた。(略)

 

 

 

私たちの愛情や恐れや情熱は、詩を創作することだけに役立つ不明瞭な霊的現象ではない。何百万年分もの実際的な知恵を内包しているのだ。(略)

それに対して、自分の感情に耳を傾ける場合は、進化が何百万年にもわたって発達させ、この上なく厳しい自然選択の品質管理検査にも耐えたアルゴリズムに従う。あなたの感情は、無数の先祖の声だ。

 

 

 

その先祖のそれぞれが、容赦のない環境でなんとか生き延び、子供を残した。あなたの感情はもちろん完全無欠ではないが、他の手引きの源泉のほとんどよりは優れている。何百万年にもわたって、感情は世界で最高のアルゴリズムだった。だから孔子ムハンマドスターリンの時代には、人々は儒教イスラム教や共産主義の教えよりも、自分たちの感情に耳を傾けるべきだった。

 

 

 

ところが二一世紀の今、もはや感情は世界で最高のアルゴリズムではない。(略)グーグルとフェイスブックアルゴリズムは、あなたがどのように感じているかを正確に知っているだけでなく、あなたに関して、あなたには思いもよらない他の無数の事柄も知っている。

 

 

したがって、あなたは自分の感情に耳を傾けるのをやめて、代わりにこうした外部のアルゴリズムに耳を傾け始めるべきだ。(略)人間至上主義が「汝の感情に耳を傾けよ!」と命じたのに対して、データ至上主義は今や「アルゴリズムに耳を傾けよ!」と命令する。(略)

 

 

 

以下にデータ至上主義の実際的な指針を挙げておく。

「自分は本当は誰なのかを知りたいんですか?」とデータ至上主義者が尋ねる。「それならば、山に登ったり美術館に行ったりする必要はありません。自分のDNA配列はもう調べてもらいましたか?まだ?!何をぐずぐずしているんです?

 

 

 

今日、調べてもらってきてください。それから、祖父母と両親と兄弟姉妹にも、DNA配列を調べさせないと ―― 彼らのデータは、あなたにとってとても貴重なんです。そうそう、血圧と心拍数を一日二四時間測定できる、ウェアラブル・バイオメトリック装置のことは聞いたことがありますか?

 

 

 

よかった。それなら一つ買って、装着して、自分のスマートフォンにつないでください。買い物のついでに携帯型の録音機能付きカメラも買って、あなたがすることをすべて記録して、インターネット上に掲示してください。そしてグーグルとフェイスブックが、あなたのメールをすべて読んだり、チャットやメッセージをすべてモニターしたり、あなたが「いいね!」したものやクリックしたものをすべて記録したりするのを許可してください。

 

 

 

 

こうしたことを全部すれば、「すべてのモノのインターネット」のアルゴリズムが、誰と結婚するべきか、どんなキャリアを積むべきか、そして戦争を始めるべきかどうかを、教えてくれるでしょう」

 

 

だが、こうした偉大なアルゴリズムはどこから生じるのだろうか?これがデータ王主義の謎だ。キリスト教によると、私たち人間は神と神の構想を理解できないというが、ちょうどそれと同じように、データ至上主義は、人間の頭では新しい支配者であるアルゴリズムをとうてい理解できないと断言する。

 

 

 

むろん現在のことろ、アルゴリズムの大半は人間の専門家によって書かれている。それでも、グーグルの検索アルゴリズムのような、真に重要なアルゴリズムは、巨大なチームによって開発されている。チームの各メンバーが理解しているのはパズルのほんの一部で、アルゴリズム全体を本当に理解している人はいない。(略)

 

 

 

もとになるアルゴリズムは、初めは人間によって開発されるのかもしれないが、成長するにつれて自らの道を進み、人間がかつて行ったことのない場所にまで、さらには人間がついていけない場所にまで行くのだ。」

 

 

 

 

 

ホモ・デウス(下) (第11章 データ教)

「情報は自由になりたがっている

 

資本主義同様、データ至上主義も中立的な科学理論として始まったが、今では物事の正邪を決めると公言する宗教へと変わりつつある。この新宗教が信奉する至高の価値は「情報の流れ」だ。もし生命が情報の働きで、私たちが生命は善いものだと考えるなら、私たちはこの世界における情報の流れを深め、拡げるべきであるということになる。(略)

 

 

この概念は伝統的な宗教のビジョンをいくつか思い起こさせる。たとえばヒンドゥー教徒は、人間は宇宙の普遍的な魂(アートマン)と一体化できるし、また一体化するべきだと信じている。キリスト教徒は、成人は死後、神の無限の恩寵で満たされる一方、罪人は神との関係を絶つと信じている。

 

 

 

実際、シリコンヴァレーではデータ至上主義の予言者は、救世主を想起させる伝統的な言葉を意識的に使っている。たとえばレイ・カーツワイルの予言の著書のタイトル「シンギュラリティは近い― 人類が生命を超越するとき[エッセンス版](NHK出版編、NHK出版、ニ〇一六年)は、「天の国は近づいた([マタイによる福音書]第3章2節)」という洗礼者ヨハネの叫びを真似ている。

 

 

 

データ至上主義者は、依然として生身の人間を賛美している人々に、次のように説明する。彼らは時代遅れのテクノロジーにこだわり過ぎている。ホモ・サピエンスは時代遅れのアルゴリズムだ。つまるところ、人間はニワトリよりどこが優れているだろう?それは、人間の中では情報がはるかに複雑なパターンで流れるということにすぎない。(略)

 

 

 

 

それでは、もし人間よりさらに多くのデータを取り入れ、さらに効率的に処理できるデータ処理システムを創り出せたなら、そのシステムのほうが人間よりも優れていることになりはしないだろうか?ニワトリより人間が優れているのとまさに同じように。

 

 

データ至上主義は根拠のない予言にとどまらない。あらゆる宗教と同じように、実際的な戒律を持っている。データ至上主義者は、何よりもまず、ますます多くの媒体と結びつき、ますます多くの情報を生み出し、消費することによって、データフローを最大化しなければならない。栄えている他の宗教のように、データ至上主義も宣教を行なう。

 

 

第二の戒律は、接続されることを望まない異教徒も含め、すべてをデータフローのシステムに繋ぐことだ。「すべて」とは人間に限らない。文字どおり、すべてを意味する。(略)

 

 

 

人々が完全に新しい価値を首尾良く思いつくことなどめったにない。それが最後に起こったのは一八世紀で、人間至上主義の革命が勃発し、人間の自由、平等、友愛という胸躍る理想が唱えられ始めた。一七八九年以降、おびただしい数の戦争や革命や大変動があったにもかかわらず、人間は新しい価値を何一つ思いつくことができずにきた。

 

 

 

その後の紛争や闘争はすべて、人間至上主義者のこの三つの価値を掲げて、あるいは、神への服従や国家への忠誠といったさらに古い価値を掲げて行われてきた。一七八九年以降、紛れもなく新しい価値を生み出した動きはデータ至上主義が初めてであり、その新しい価値とは情報の自由だ。(略)

 

 

二〇一三年一月一一日、データ至上主義の最初の殉教者が出た。二六歳のアメリカ人ハッカーアーロン・スワーツが自分のアパートで自殺したのだ。スワーツは他に類を見ない天才だった。一四歳できわめて重要なRSSポロトコル(訳註 RSSとはウェブサイトの更新情報をまとめて配信するためのフォーマットのこと)

の開発に協力した。彼はまた、情報の自由を固く信じていた。(略)

 

 

 

JSTORによれば、もし私が自分の生み出したアイデアに対して支払いを受けたければ、支払ってもらうのは私の権利ということになる。スワーツの考えは違っていた。情報は自由になりたがっており、アイデアはそれを生み出した人の所有物ではなく、データを壁の奥にしまい込んで入場料を請求するのは間違っている、と彼は信じていた。

 

 

 

そして、MITのコンピューターネットワークを利用してJSTORにアクセスし、大量の学術論文をダウンロードした。それをインターネット上で公開して誰でも自由に読めるようにするつもりだった。

スワーツは逮捕されて裁判にかけられた。そして、おそらく自分は有罪判決を受けて刑務所に送り込まれるだろうと悟ると、首を吊った。

 

 

 

ハッカーたちがこれに反応した。情報の自由を侵害し、スワーツを追いつめた学術機関や政府機関に対して陳情や攻撃を行なった。JSTORは重圧を受けて、スワーツの悲劇に加担したことを謝罪した。そして今日では、全部ではないが多くのデータに無料でアクセスできるようにしている。

 

 

 

データ至上主義の宣教師たちは懐疑的な人を説得するために、情報の自由の計り知れない利点を繰り返し説明している。資本主義が、良いことはすべて経済成長にかかっていると信じているのとちょうど同じで、データ至上主義者は、経済成長も含めて、良いことはすべて情報の自由にかかっていると信じている。

 

 

 

なぜアメリカはソ連より速く成長したのか?アメリカのほうが、情報が自由に流れたからだ。なぜアメリカ人の方がイラン人やナイジェリア人より健康で裕福でわせなのか?情報の自由のおかげだ。だから、より良い世界を作り上げたいなら、そのカギはデータを自由にすることにある。(略)

 

 

二〇一〇年、世界の自家用車の数は一〇億台を超え、以後も増え続けている。(略)人々は自家用車での移動の便利さにすっかり慣れてしまったため、バスや電車では我慢できそうもない。ところが、人々が本当に求めているのは自家用車ではなく移動のしやすさであり、優秀なデータ処理システムならこの移動のしやすさをはるかに安くはるかに効率よく提供できることをデータ至上主義者は指摘する。(略)

 

 

 

コンピューターなら、私が八時四分に家を出なければならないことがわかり、いちばん近くにいる自動運転車を迎えによこして、時間ピッタリに私を拾わせるだろう。車は大学のキャンパスで私を降ろしたら、駐車場でじっと待つ代わりに、他の目的に使える。

 

 

午後六時一一分ちょうどに私が大学の門を出ると、別の共同利用型の車がやってきて私の目の前に止まり、家まで送ってくれる。この方法なら、五〇〇〇万台の共同型の自動運転車が一〇億台の自家用車に取って代われるだろうし、道路や橋、トンネル、駐車場もはるかに少ししか必要なくなる。

 

 

もちろんそれは、私が自分のプライバシーを放棄して、私がどこに行きたいかを、アルゴリズムがつねに把握するのを許せばの話だが。」

 

〇 ここでも、引っかかった部分が何か所があります。その部分を太文字にしました。

 

「生命が善いものなら…」「良いことはすべて情報の自由にかかっている…」など、このデータ至上主義の基盤は、「良い社会を作る為に…」という価値観にあるようです。

 

以前読んだ、「サピエンス全史 上 神話による社会の拡大」の中から引用します。

 

「そのような生物学的本能が欠けているにもかかわらず、狩猟採集時代に何百もの見知らぬ人同士が協力できたのは、彼らが共有していた神話のおかげだ」

 

この神話が様々に変化し、普遍的な価値観を掲げるキリスト教になり、そのキリスト教の基に、帝国が作られ、人々は「一つ」になることができた、という内容が、サピエンス全史の中にもあったと思います。

 

そして、その普遍的な価値観は、「人工的な本能」になったと。

私は、ここがとても印象的でした。というのも、私たちの国は、幸か不幸か、帝国主義で一つになるという世界の動きから外れたところで発展したため、「普遍的な価値観」からも外れているように感じたのです。

 

サピエンス全史からその部分を引用します。

 

「農業革命以降、人間社会はしだいに大きく複雑になり、社会秩序を維持している想像上の構造体も精巧になって行った。神話と虚構のおかげで、人々はほとんど誕生の瞬間から、特定の方法で考え、特定の基準に従って行動し、特定のものを望み、特定の規則を守ることを習慣づけられた。

こうして彼らは人工的な本能を生み出し、そのおかげで厖大な数の見ず知らずの人同士が効果的に協力できるようになった。
この人工的な本能のネットワークのことを「文化」という。」

 

 

〇 ハラリ氏や、データ至上主義者は、おそらく「人工的な本能」の自覚は、本能だけに、生まれた時から自然に身についているもの、と感じていると思います。「善い」もの「良い」システムを求める行動をするのが、人間だと。そして、そのために協力しあうのが人間だと。

 

 

でも、日本人には、そのような「人工的な本脳」は培われなかった。むしろ、「サル」を基準に自分たちの行動を考える習慣がある。

「サルはみな、本能のままにセックスする。なぜ人間がそうであってはいけないのか…」という調子で。

 

 

そして、人工的な本能を培わなかった日本人が、どんなに自分たちの同胞を悲惨な目に合わせたかが書かれているのが、あの「私の中の日本軍」であり、「一下級将校が見た帝国陸軍」です。

 

日本にも、もともとは、それが例え借物でも、善い悪いを日々語る

「教え」があったと思います。仏教だったり、儒教だったり、キリスト教だったり。ところが、世界のどこよりも早く、そんなものは、「ウソ」だ、と脱宗教をし、経済やシステムによって、人々は結果的に良い行動をとるはずだ…というやり方になったのが、戦後だと思います。

その結果、日本人はどんな人間になったか…。

それは、あの「人間を幸福にしない日本というシステム」を読むと、

よく分かると思います。

 

 

ここで、言われているデータ至上主義には、そんな危うさを感じます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ホモ・デウス(下) (第11章 データ教)

「歴史を要約すれば

 

データ至上主義の視点に立つと、人類という種全体を単一のデータ処理システムとして解釈してもいいかもしれない。一人一人の人間はそのシステムのチップの役目を果たす。そう解釈すれば歴史全体を、以下の四つの基本的な方法を通してこのシステムの効率を高める過程として捉えることも出来る。

 

 

1 プロセッサーの数を増やす。(略)

2 プロセッサーの種類を増やす。(略)

3 プロセッサー間の接続数を増やす。(略)

4 既存の接続に沿って動く自由を増やす。(略)

 

 

これらの四つの方法は相容れないことがよくある。たとえば、プロセッサーの数と種類が増せば増すほど、それらを自由に接続するのが困難になる。したがって、サピエンスのデータ処理システムの構築は、それぞれ異なる方法に重点を置く、四つの主な段階を経て来た。

 

第一段階は認知革命とともに始まった。認知革命によって、厖大な数のサピエンスを結び付けて単一のデータ処理ネットワークにすることが可能になった。(略)ところが、異なる土地や気候帯に分散するにつれて互いに繋がりを失い、さまざまな文化的変化を経験した。その結果、人類の文化は限りなく多様になり、それぞれが独自の生活様式や行動パターンや世界観を持つに至った。したがって、歴史の第一段階は、人間というプロセッサーの数と種類の増加を伴い、互いの結びつきを犠牲にした。(略)

 

 

 

第二段階は農業革命とともに始まり、約五〇〇〇年前に書字と貨幣が発明されるまで続いた。農業のおかげで人口の増加が加速したため、人間というプロセッサーの数は急増した。同時に、農業により、ずっと多くの人が互いに近接して暮らせるようになり、それにしたがい、かつてないほどの数のプロセッサーを含む、高度な局地的ネットワークが生まれた。さらに、農業は、異なるネットワークどうしが交易したり意思を疎通させたりする新たな誘因や機会を生み出した。

 

 

 

それにもかかわらず、この第二段階の間は、遠心的な力が優勢なままだった。書字と貨幣が発明されていなかったので、人間は都市も王国も帝国も樹立できなかった。(略)

 

 

第三の段階は約五〇〇〇年前に書字と貨幣の発明とともに始まり、科学革命の始まりまで続いた。書字と貨幣のおかげで、人類による協力の重力場はついに遠心的な力に打ち勝った。人間の集団同士が緊密に結びつき、一体化して都市や王国を建設した。(略)少なくとも、貨幣制度や帝国や普遍的な宗教が出現した紀元前一〇〇〇年紀以来、人類は全世界を網羅するような単一のネットワークの構築を意識的に夢見るようになった。

 

 

この夢は、一四九二年ごろに始まった。歴史における最新の第四段階の間に実現した。近代前期の探検家や征服者や商人は、全世界を覆う最初の細い糸を張り巡らせた。近代後期にはこれらの糸はより強く、より濃密になり、コロンブスの時代のクモの巣は、ニ一世紀には鋼とアスファルトのネットワークになった。

 

 

さらに重要なのは、このグローバルなネットワークの隅から隅まで、情報がますます自由に流れることができるようになった点だ。(略)だが年月を経るうちに、自由市場や科学界、法の支配、民主主義の普及などが相まって、こうした障壁を消滅させるのを助けた。

 

 

私たちは、民主主義と自由市場が勝利したのは、それらが「善い」からだと考えることが多い。じつは、それらが勝利したのは、グローバルなデータ処理システムを向上させたからだ。

 

 

こうして人類は過去七万年間に、まず拡散し、その後別々の集団に分かれ、最後に再び一体化した。とはいえ、この統一の過程が私たちを最初の状態へ連れ戻すことはなかった。さまざまな人間の集団が融合して今日の地球村になったとき、それぞれの集団はそれまで集め、発展させてきた独自の考えと道具と行動の遺産を持ち寄った。

 

 

 

現代の私たちの食糧庫は、中東が原産地である小麦やアンデス山系が原産地のジャガイモ、ニューギニアが原産地の砂糖、エチオピアが原産地のコーヒーなどで満杯だ。同様に、私たちの言語や宗教、音楽、政治には、地球全域の先祖伝来の財産があふれている。

 

 

もし本当に人類が単一のデータ処理システムだとしたら、このシステムはいったい何を出力するのだろう?データ至上主義者なら、その出力とは、「すべてのモノのインターネット」と呼ばれる、新しい、さらに効率的なデータ処理システム創造だと言うだろう。この任務が達成されたなら、ホモ・サピエンスは消滅する

。」

 

〇 「貨幣制度や帝国や普遍的な宗教が出現した紀元前一〇〇〇年紀以来、人類は全世界を網羅するような単一のネットワークの構築を意識的に夢見るようになった…」という文章を読み、引っかかるものを感じました。

 

この「人類」の中に我ら日本人は入っていたのだろうか、と。

私たちは、全世界を網羅するような単一のネットワークを夢見たのか、そして今も夢見ているのか。

 

例えば、 「説明責任」という言葉がありますが、これは、ある普遍的な価値観を共有している人々の間でしか意味をなさない責任ではないのか、と思います。平気で嘘をつくことが、一般的になり、多くの人が噓をついていると考えられる時、どんな説明も意味がありません。

 

「嘘は良くない。許されない。」という価値観がしっかり生きている時に初めて、説明が意味を持つ。

こんなことは、小学生でもわかることだと思います。

 

 

なのに、我国の政治家たちには、それがわかっていないらしい。

そんな「道理」さえ分からずに、全世界を網羅する単一のネットワークが作れるでしょうか。

 

 

 

 

 

ホモ・デウス(下) (第11章 データ教)

「権力はみな、どこへ行ったのか?

 

政治学者たちも、人間の政治制度をしだいにデータ処理システムとして解釈するようになってきている。資本主義や共産主義と同じで、民主主義と独裁制も本質的には、競合する情報収集・分析メカニズムだ。(略)

 

 

 

これは、ニ一世紀に再びデータ処理の条件が変化するにつれ、民主主義が衰退し、消滅さえするかもしれないことを意味している。データの量と速度が増すとともに、選挙や政党や議会のような従来の制度は廃れるかも知れない。それらが非倫理的だからではなく、データを効率的に処理できないからだ。(略)

 

 

 

今やテクノロジーの革命は政治のプロセスよりも速く進むので、議員も有権者もそれを制御できなくなっている。

インターネットの台頭からは、将来の世界がうかがえる。今ではサイバースペースは私たちの日常生活や経済やセキュリティーにとってきわめて重要だ。それなのに、いくつかのウェブの設計から一つを選ぶという重大な選択は、それが主権や国境、プライバシー、セキュリティのような従来の政治的な問題に関連して居るにもかかわらず、民主的な政治プロセスを通して行われなかった。あなたはサイバースペースの形態について投票などしただろうか?

 

 

 

ウェブの設計者たちが人々の目の届かない所で決定を下したため、今日インターネットは自由で無法のゾーンであり、国家の主権を損ない、国境を無視し、プライバシーを無効にし、ことによると最も恐るべき世界的なセキュリティのリスクとなっている。サイバースペースでの大規模なテロは一〇年前にはまったく警戒の対象になっていなかったが、今日、ヒステリックな役人はサイバースペース版の九・一一が差し迫っていると予測している。(略)

 

 

 

政府というカメはテクノロジーというウサギに追いつけない。政府はデータを持て余している。アメリカのNSA国家安全保障局)は私たちの会話や文書をすべて監視しているかもしれないが、この国の外交政策が繰り返し失敗していることから判断すると、ワシントンにいる人は集めた厖大なデータをどうすればいいのかわかっていないようだ。

 

 

 

世界で何が起こっているかを一政府がこれほどよく知っていたことは歴史上かつてないが、それでも、現代のアメリカほどしくじりを重ねた帝国はほとんどない。アメリカは、相手がどんなカードを持っているかを知っているのに負けてばかりいる、間抜けなポーカープレイヤーのようなものだ。

 

 

 

私たちは今後の数十年に、インターネットのような革命をいくつも目にするだろう。そのような革命では、テクノロジーが政治を出し抜く。AIとバイオテクノロジーは間もなく私たちの社会と経済を ―― そして体と心も ―― すっかり変えるかも知れないが、両者は現在の政治のレーダーにはほとんど捕捉されていない。

 

 

 

今日の民主主義の構造では、肝心なデータの収集と処理が間に合わず、たいていの有権者は適切な意見を持つほど生物学や人工頭脳学を理解していない。したがって、従来の民主主義政治はさまざまな出来事を制御できなくなりつつあり、将来の有意義なビジョンを私たちに示すことができないでいる。

 

 

 

一般の有権者は、民主主義のメカニズムはもう自分たちに権限を与えてくれないと感じ始めている。世界は至る所で変化しているが、彼らはなぜ、どのように変化しているかわかっていない。権力は彼らから離れていっているが、どこへ行ったのかは定かではない。

 

 

 

イギリスでは、有権者は権力はEUに移ったかもしれないと思っているので、「ブレグジット(イギリスのEU離脱)」に賛成票を投ずる。アメリカでは有権者は既成の体制が権力をすべて独占していると思っているので、バーニー・サンダースドナルド・トランプのような反体制の候補を支持する。

 

 

だが、権力がみなどこへ行ったか誰にもわからないというのが、悲しい真実なのだ。イギリスがEUを離れても、トランプがホワイト・ハウスを引き継いでも、権力は一般の有権者のもとには絶対に戻らない。

 

 

だからといって私たちは、ニ〇世紀のもののような独裁制に立ち返るわけではない。独裁的な政権もやはり、テクノロジーの発展のベースや、データの流れの速度と量に圧倒されているようだ。二〇世紀には、独裁者は将来への壮大なビジョンを持っていた。共産主義者ファシストもともに、古い世界を完全に破壊してそこに新しい世界を建設しようとした。(略)

 

 

 

SF映画では、ヒトラーのような冷酷な政治家がそういったテクノロジーにたちまち飛びつき、あれやこれやの誇大妄想的な政治の理想の実現に利用する。ところがニ一世紀初頭、現実の世界の政治家は、ロシアやイランや北朝鮮のような独裁国家においてさえ、ハリウッド映画に登場するような人物とは全く違う。彼らはどんな「素晴らしき新世界」の構想も練っていないようだ。(略)

 

 

プーチンの野心はもっぱら旧ソヴィエトブロック、あるいはさらに昔のロシア帝国を再構築することに限られているらしい。(略)

今やテクノロジーは急速に進歩しており、議会も独裁者もとうてい処理が追いつかないデータに圧倒されている。まさにそのために、今日の政治家は一世紀前の先人よりもはるかに小さなスケールで物事を考えている。

 

 

 

結果として、ニ一世紀初頭の政治は壮大なビジョンを失っている。政府はたんなる管理者になった。国を管理はするが、もう導きはしない。(略)

これは、見ようによってはとても良いことだ。二〇世紀の大きな政治的ビジョンのいくつかがアフシュヴィッツや広島や大躍進政策へとつながったことを考えると、私たちは狭量な官僚の管理下にあったほうがいいのかもしれない。(略)

 

 

 

ビジョンの欠如がいつも恵であるわけではなく、また、あらゆるビジョンが必ずしも悪いわけではない。二〇世紀に、陰惨なナチスのビジョンは自然に崩れたのではなかった。同じくらい壮大な社会主義自由主義のビジョンに打ち負かされたのだ。

 

 

 

私たちの未来を市場の力に任せるのは危険だ。なぜならその力は、人類や世界にて良いことではなく、市場にとって良いことをするからだ。市場の手は目に見えないだけでなく、盲目でもあるので、放って置くと、地球温暖化の脅威やAIの危険な潜在能力に関して何一つしないかもしれない。(略)

 

 

とはいえ、権力の空白状態はめったに長続きしない。二一世紀に、従来の政治の構造がデータを速く処理しきれなくて、もう有意義なビジョンを生み出せないのならば、新しくてもっと効率的な構造が発達してそれに取って代わるだろう。

 

 

そのような新しい構造は、民主主義でも独裁制でもなく、以前の政治制度とはまったく異なるかもしれない。唯一の疑問は、そのような構造を構築して制御するのは誰か、だ。もはや人類がその任務を果たせないのなら、ひょっとすると誰か別の者に試させることになるかもしれない。」

 

 

〇 「自由・平等・博愛」を掲げ人権を謳い、民主主義を造り上げた西洋人はすごいなぁと思っていました。少なくともより良い社会を作りたいと必死になって頑張った、そしてそれを形にした、そこが凄いなぁと思います。

 

ここで、ハラリ氏が語っている未来への恐れも、基本的には、その土台は崩れずにある、ということを前提にしているように感じます。

飢えも戦争も疫病も封じ込めた人間は、更にこれから何を目指すのか…と。

 

でも、テクノロジーの話やデータの話について行けない私が、

漠然とした不安を感じてしまうのは、私がもう老人だからでしょうか。

 

自由・平等・博愛・人権・民主主義…全てみんなで作り上げたイメージです。

みんなで、〇〇であればよいのに…との願いを形にしようとして作り上げた

理想とか夢とかいうようなものです。

 

 

それって、そんな理想や夢など何の意味もない、と考える人間が多数を占める時代になると、崩れてしまうのではないでしょうか。

そこが、崩れる時、また人間は大昔と同じように、戦争ばかりするようになり、

疫病がはやり、力を結集できなくなり飢えるようにもなる…。

 

 

どんなにテクノロジーがあって、ビッグ・データがあっても、それを人々の幸福な社会のためには使われない、という可能性も考えてしまいます。

 

簡単に言うと、人間の脳が退化し猿に近い動物に戻ってしまったら、そうなる可能性もあると思うのですが。