読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

北一輝には「天皇尊崇の念」など全くなかった

 

ではここで北一輝への妄信の構造を少し調べてみよう。(略)

だがここでは第一の顔、すなわち彼の著作を通してみた基本的な思想のみを採り上げたいと思う。といっても、これも短い紙面への要約は相当にむずかしいが、この点で山本彦助検事の「国家主義団体の理論と政策」の中の、北一輝の部分は便利である。(略)

 

 

「我が国における、いわゆる国家主義運動中には、日本主義運動でない、すなわち正統派でない一つの力強い思想の流れがある。それは北一輝社会民主主義思想である。同人の著「日本改造法案大綱」は、革新陣営内にありては、革命経典とまでいわれ、この書の革新陣営に及ぼした影響は、きわめて大なるものがある。

 

 

西田税(陸軍少尉)は、北一輝に師事するもの。しかして、この両者より、直接影響を受けたる者も、いまなお、ずいぶん、残存しているのである」

 

 

社会民主主義思想という言葉は読者に意外かもしれないが、彼が「国体論及び純正社会主義」を著したのが明治三十九年、二十三歳のとき。「日本改造法案大綱」を著したのが大正八年であることを考えれば別に不思議ではあるまい。この時代の思想家で、何らかの形で「社会主義」の影響を受けていないものは、まず、ないと言って良いからである。

 

 

 

では、その後の彼の思想は変わったのか、変わっていないと北自ら述べ、山本検事も次のように記している。

「(全く変わらず)と豪語し、彼の晩年、すなわち、二・二六事件当時においても、彼の思想根底には、何らかの変化なく、いぜん、社会民主主義を堅持し、天皇機関説を執り、天皇尊崇の念全くなかりしものと推定せざるを得ない……」

 

 

 

そのとおりで、二・二六事件の将校が妄信した北一輝には「天皇尊崇の念」などは全くない。彼は処刑されるとき、「天皇陛下万歳」を叫ぼうとする西田税をとどめ、黙って処刑された。」

 

 

昭和天皇の研究 その実像を探る

「九章  盲信の悲劇  = 北一輝は、なぜ処刑されねばならなかったか

 

北一輝の処刑は、明らかに不当

 

本書は、二・二六事件について記すのが目的ではない。しかしこの事件は、天皇への「逆照射」となって、その実像を浮かび上がらせる貴重な資料を提供している。加賀乙彦氏は「北一輝青年将校たち」という小文の中で、彼らの行為を「盲信の悲劇」と記されているが、まことに適切な評言だと思われる。

 

 

彼らは天皇の意志を知らずに盲信しただけでなく、北一輝の思想を知らずに盲信していた。これは北一輝の著作を読めば明らかである。

この点で、北一輝の処刑は、「盲信された者の悲劇」といえるであろう。これは「天皇の戦争責任」を論ずる場合の貴重な示唆となる。

 

 

 

磯部浅一は「日本改造法案(大綱)は、一点一画・一字一句ことごとく真理だ、歴史哲学の真理だ、日本国体の実表現だ、大乗仏教の政治的展開だ」と記している。しかし彼らは天皇機関説を否定し、国体明徴を叫んで決起したはずである。一方、北一輝は明確な、天皇機関説の信奉者である。

 

 

また「ある全共闘系の学生が、「大綱」(「日本改造法案大綱」)に惚れ込み、このなかの「天皇」を「革命執行部」と書き換えれば、そのまま革命の指導書として使えると感心していたが、たしかにそれだけの筋道と迫力は「大綱」に備わっている……」と、加賀乙彦氏は記しておられる。

 

 

二・二六事件青年将校たちは、天皇を革命執行部のように盲信していたから、この点では彼らも全共闘の学生も大差ない。全共闘の学生は本当に北一輝の全著作を読んだのであろうか。それなら法華経と革命との奇妙な結びつけをどう解釈するのか、と言ってもはじまるまい。次に加賀乙彦氏の記述を引用させていただく。

 

 

 

青年将校たちは北一輝を遠くに見て神格化し、その思想を奉じて決起したと信じたが、実際にはその思想の一部を拡大し極端にして、自分たちの行動を正当化したにすぎなかった。彼らの北に対しての係わり方は、そのまま天皇へ対しての係わり方となる。彼らは、まさしく雲の上の天皇を信じ、天皇の心を体して行動していると信じたが、当の天皇個人が何を考えているかを思わなかった」

 

 

盲信して行動を起こして処刑されるのは、確かに悲劇であろうが、勝手に盲信されたがゆえに処刑されるのはさらに大きな悲劇である。天皇マッカーサーに”You may hang me.” と言い、その結果、天皇が絞首刑になったら、これまた盲信された者の悲劇となったであろう。(略)

 

 

しかしそれを論ずるなら「盲信された者の悲劇」は慎重に除去せねばならない。北一輝の処刑は、誰が見ても不当である。盲信したのは盲信した者の責任であって、盲信された者の責任ではあるまい。」

 

 

天皇を盲信し、「天皇陛下万歳」と言って死んで行ったのは、盲信した者、盲信させたものの責任であって、盲信された天皇の責任ではないということが、

とてもわかりやすく説明されていると思いました。

 

 

それは確かにそうなのですが、でも、「天皇」という存在、立場には、どうしても「日本神道」系の宗教色が漂ってしまいます。

意志的に宗教を選択して受け入れるつもりもない人も、お正月には初詣と称し神社に行って、お参りします。その血や肉にしみ込んでいる宗教的なものが、ある時、盲信を生むのだろうなぁと思うと、これは、相当にむずかしい問題だと感じます。

 

 

昭和天皇の研究 その実像を探る

「真崎大将、陸軍首脳の腰抜けぶり

 

一方、陸軍の首脳の多くは彼が見た通り腰抜けで、右往左往するだけであった。この点、東京陸軍軍法会議における裁判官の一人、陸軍法務官・小川関治郎の「ニ・二六事件秘史」は、まことに的確に事件の概要を要約している。その中での「当日川島陸相の恐怖振り」は興味深いが、これが軍人とは少々情けない。次に引用しよう。

 

 

「当日払暁決起部隊は陸相官邸に侵入し、下士官兵には着剣せしめて官舎内に闖入し、廊下の所々に立哨せしめ、一方決起将校は川島陸相に会見を要請した。当時護衛の憲兵および宿直の属官等はいたが、外部への電話通信連絡を遮断抑止しながら、頻りに陸相に面接を強要した。

 

 

しかるに容易にこれに応ぜず、かえって陸相夫人が周章狼狽の色をも見せず、出でて応対するなど、ことさら時間を費やすことに努められた。その内陸相は決起将校中に閣下閣下と呼び居る者の声を聞き、これなら恐らく自分には害を加えまいと思い、ようやく会見の用意をしたが、その間約二時間も掛かったとのことである」

 

 

「……(襲撃された者の)何れの夫人も身を以て夫を守り、そのような度胸には感服するの外ない」

とそれにつづけて記されているが、いずれにせよ、その後も一貫して川島陸相はまことにだらしがなく、大体、反乱側の言いなりであった。また、反乱側の背後にあり、押しとあくの強さでは抜群で、一見、大変に度胸があるかに見えた真崎大将は、ひとたび収監されるや神経症のようになり、

 

「戒護看守らは……その扱いに手こずり、甚だ閉口したとのことである。大将とまでなった人物としての、精神修養の点において甚だ遺憾であると評したものもあった」と。

 

 

 

興味深いのは、この点で、実に度胸がすわっていたのが、反乱幇助の容疑で収監された実業家の久原房之介(日立製作所を設立、また政友会の有力政治家)である。多少横道にそれるが、その部分を引用しよう。

 

 

「次には久原房之助の事である。同氏はもちろん軍人ではない、……同氏の収監も初夏の頃であったと思うが、同氏は入監前から少し胃腸を痛め、健康を害していたから、かねて温泉にでも行き静養するつもりであった。そこへ反乱幇助の嫌疑で収監の不幸に遇った。ところが、入監すると食事はもちろん起居動作、運動等きわめて規律正しく、規則通り実践して試みると、たちまち健康を回復した。

 

 

……同氏の述懐に、「入監以来規律正しき生活により、健康を回復し全然温泉に行く必要もなく、健康保持には温泉以上である」と、また盛夏になってからも、「ここは非常に閑静で、風通しも良く暑さ知らずで、これ以上の避暑地はない」と語ったとのことである。かように監獄を以てあたかも理想郷であるが如く感じたのは、恐らく久原氏一人ぐらいであろう……」(略)

 

 

 

岡田内閣総辞職のとき天皇は、

陸軍大臣の辞表が他の閣僚の辞表と同一辞句なるを御覧あり、「陸軍大臣はこれで責任が尽くせりと思うのか、こんな考えだからよろしくない」」

               (「木戸日記」昭和十一年二月二十八日)

 

と怒ったが、これは反乱側にとっても同じで、彼らは彼らなりに「川島はよろしくない」で、信頼できなかったのであろう。

 

 

二・二六事件、最大の失敗

 

「ニ・二六事件秘史」には「当日香田、村中、磯部らが参内せんとせし目的ならびにこれが平河門にて阻止せらる」について、次のように記述がある。(略)

 

 

との告示を説示せらるるや、その内容抽象的にして先に要求したる事項として実現せられあらずとなし、古荘次官に対し、さらに具体的決起を為すべき旨大臣に伝達を要請せり、同日午後五時半ごろ香田清貞、村中孝次、磯部浅一らは、参内して宮中に在る陸軍首脳部に意見を上申せんことを企て、

 

 

山下奉文、満井佐吉の自動車に追随し、宮中に赴かんとしたるも平河門において阻止せられその目的を達せず」とありて、右判示の上ではそれほど極悪非道のものとも認められぬが、いよいよ参内の目的を達した上は、あくまで彼らの要求を貫徹するためには、非常手段として、

 

 

天皇に)拳銃を突きつけても御承諾を願う計画であったと。なお彼らは自分らはたとえ足利尊氏になっても目的を達せんとするものであると、暴言を放っていたとの調書も他にあるようである」

 

 

二・二六事件の最大の失敗はこの「平河門において阻止せられ」であろう。もし彼らが皇居に入り、天皇に拳銃を突きつけるような事態になれば、おそらく磯部は天皇を射殺して、秩父宮を擁立しようとしたであろう。磯部はその布石は打っていた。彼らがなぜ二月二十六日に決起したか。その理由の一つが、同氏の一人、近歩三(近衛歩兵第三連隊)の中橋基明中尉が、この日に赴援隊に当たっていたことが挙げられている。(略)

 

 

ただ彼らの計画に非常に無理があったのは、中橋中尉に高橋是清(蔵相)邸を襲撃させ、そのあとで何くわぬ顔で皇居に赴かせたことである。これはきわめて危険なやり方で、周到に準備するなら、中橋中尉はそ知らぬ顔で近歩三におり、緊急事態による要請があってから堂々と皇居に向かい、時機が来るまで知らんぷりをしていれば、あるいは、磯部らは皇居に入れたかもしれない。(略)

 

 

このあたりから、周囲はおかしいという目で彼を見る。守衛隊の一人であり、同じ連隊(近歩三)で中橋の部下でもある大高少尉は、兵に着剣させて中橋を囲ませた。中橋は怒って彼をにらみつけたが、それ以上の行動にでようとしない。

 

 

大高少尉は兵を下がらせ二人で対決し、拳銃に手をかけた。すると中橋も拳銃を抜き出したが、発射したばかりの硝煙のにおいがプーンとする。大高少尉は中橋中尉を射殺しようかと思ったが、決心がつかない。にらみ合っている間に中橋は身をひるがえして二重橋に向かい、部下を置いて皇居を脱出した。(略)

 

 

結局、彼の恐怖は坂下門を中心とした「皇軍相撃」であろう。私も軍隊時代に近衛野砲にいたから、近衛には一種独特の「近衛意識」といったものがあったことを知っている。

 

 

彼らには彼らなりの誇りと使命感がある。指揮下であるはずの大高少尉が着剣した部下に彼を取り囲ませたのは一種の「近衛意識」である。それを中橋は理解できる。

 

 

それから見れば、皇居の守衛隊司令官は、近衛以外の部隊を黙って皇居に引き入れることはあり得ない。情況がしだいに明らかになる一方、天皇の意志は最も早く彼らに伝わる。野中隊が強行突破しようとすれば、当然に「皇軍相撃」となり、この際、攻撃軍が逆賊の烙印を押されることは目に見えている。これらの不安感と孤立感から彼は脱出した、と私は解釈している。

 

 

磯部浅一が残した”重い遺産”

 

ここで少々不思議なのは、香田、村中、磯部の三人が、山下奉文らによって平河門に誘導された点である。(略)

 

もし中橋基明があくまで合法的に皇居に入り、反乱とは無関係な顔をして坂下門をはじめとして内部を警備し、山下奉文らについて来た磯部浅一らを知らんぷりで坂下門から皇居に入れたら、どうなっていたであろうか。彼らの目的は達せられたであろうか。おそらく、そうはいかなかったであろう。

 

 

というのは終戦時、「玉音盤奪取」を企ててクーデターを起こし、森近衛師団長を射殺し、ニセの師団命令を発して部隊を出動させて皇居を占領し、兵が内廷庁舎まで迫っても、天皇は平然としていた。その例からすると、わずか三名の将校が内廷まで押し入ったにしろ、どうも出来ずに逮捕されるのが落ちであったろう。

 

 

マッカーサー会談でもわかるように、天皇には妙に度胸がすわっているところがある。磯部だけでなく、多くのものも、それを何となく感じざるを得なかった。(略)

 

「陛下が、私どもの義挙を国賊反逆の業とお考え遊ばされているらしいウワサを刑務所の中で耳にして、私どもは血涙をしぼりました。……今の私は怒髪天を衝く怒りに燃えています」

 

「余は確かに鬼になれる自信がある、地ゴクの鬼になれる、今のうちにしっかりした性根をつくってザン忍猛烈な鬼になるのだ、涙も血も一滴

悪鬼になるぞ」

 

 

確かに彼はこの望みは達した。この「涙も血も一滴もない悪鬼」「ザン忍猛烈な鬼」は、天皇に取り憑くことは出来なかったが、多くの重臣や軍上層部、さらに政治家にも取り憑いた。

 

 

 

重臣たちの昭和史」を書いた勝田龍夫氏と話し合ったとき、私は、氏が相当辛辣に批判している近衛文麿の、きわめて不可解な態度の真の理由を問うたとき、氏は言われた。「暗殺をこわがっていたんですよ。しかしそれは彼だけではありません」と。

 

 

そのとおりだっただろう。東条の「それでは部下がおさまりません」の一言でみな沈黙してしまう。この「残忍猛烈な鬼」は天皇の周辺だけでなく、政府も議会も腑抜けにしてしまう。この点では彼は勝った。

 

 

天皇が言われた「真綿にて朕が首を絞むるに等しい行為」を、彼はその死後も、悪鬼となってつづけた。この悪鬼に「止メ」を刺したのは、安藤大尉が、その夫人に制止されて「止メ」を刺し得なかった鈴木貫太郎天皇との、「私と肝胆相照らした鈴木であったからこそ」の終戦によって、はじめて行われた。

 

 

彼は国民にとって全く「涙も血も一滴もない鬼」であった。天皇への呪詛は、結局、国民への呪詛となった。一方、鎮圧が天皇の意志であることが、陸軍の関係者に知られるようになると、彼らは方向を変え、一見、”合法的”な方法でその目的を遂げようとする。」

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和天皇の研究 その実像を探る

天皇磯部浅一との「心理戦争」

 

天皇のいらいらはまだつづくが、磯部浅一の計画はこのとき挫折したといってよい。(略)

そして動揺がはじまると崩壊は早かった。首謀者は、部下に離脱されて崩壊したという結果になる事を恐れ―― 一部ではすでにそうなっていた ——自ら部下を原隊に帰した。

 

 

これが一歩誤ると逆の結果となる。というのは「心理戦争は」強烈な意思を持つ側の勝ちであり、磯部は当時の軍首脳の誰にもないような強烈な意志の持ち主であった。いわば皇軍相撃を避けるため、周章狼狽した軍首脳が彼らと妥協し、天皇がそれに動かされれば彼らの勝ちである。

 

 

 

そして少なくとも二十六日いっぱいは、あらゆる面から見て、そうなりそうに彼らには思えた。(略)彼らは内心では「成功」と思っていたであろう。これが裁判の途中で、磯部が真崎ら一五名の将軍・佐官を告発した理由である。自分たちを反乱と規定するなら、彼らも同じではないかという主旨で、これは、多くの軍首脳が彼らに傾いていたことを示している。

 

 

ではなぜそれが逆転し崩壊したかを彼らは知らなかった。そして知ろうとしないまま処刑された。

 

 

「自殺するならば、勝手に為すべく」

 

少し冷静に事態を見ていれば、自分たちを鎮圧し反乱を失敗に終わらせたのが天皇その人だと感ずる機会はいくらでもあったはずである。反乱三日目、事がすでに終わったと感じた彼らに対し、川島陸相ら軍首脳は、事件収拾策として、天皇の勅使を得たうえで、陸相官邸での彼らの謝罪の自決を許してほしいと申し出た。

 

 

 

これは少々ずるい、軍首脳の口封じとも受け取れる。これについて「本庄日記」には次のように記されている。

 

「陛下には、非常なる御不満にて、自殺するならば勝手に為すべく、かくの如きものに勅使など、以ての外なりと仰せられ、また、師団長が積極的に出にあたわずとするは、自らの責任を解せざるものなりと、いまだかつて拝せざる御気色にて、厳責あらせられ、直ちに鎮定すべく厳達せよと厳命をこうむる」

 

 

そしてこの「勅使差遣」の要請はもう一度、電話を通じて山口大尉から本庄侍従武官長のところへ来る。だが彼はもうこれを天皇に取り次ごうとしなかった。

これで見ると「勅使」は反乱軍将校の要請で、軍首脳がこれに便乗したと見るべきであろう。(略)

 

 

人間の妄信とは不思議なもので、彼らは、それを天皇の意志とは思わなかったらしい。さらに人間には希望的観測というものがあり、ラ・ロシュフコーの「箴言」にあるように、直視し得ないものは太陽と死、すなわち自己の死である。

この妄信と希望的観測から、彼らは、死刑の判決があってもその後で恩赦があると信じ切って安心していた。

 

 

 

「安心というのは求刑を極度にヒドクして判決において寛大なるを示し、軍部は吾人及び維新国民に恩を売らんとするのだろう、という観察だ。この観察は日時たつほど正しいと思えるようになった」

 

と磯部は自らを記し、ついで次のように記す(「仙台発見遺書」より)。

 

「安ド(藤)は馬鹿に楽観して、四月二十九日の天長節には大詔渙発とともに、大赦があって必ず出所できるとさえ言っている。余はそれほそには思わなかったが、マァ近いうちには出られるだろうと考えた……」(略)

 

 

彼らが勝手に描いている天皇像への彼らの信仰である。そしてその信仰に基づけば、天皇は忠誠なる軍人を処刑するはずがなかったのである。しかし、もとより恩赦はなく、天皇の言葉からすればあるべきはずもなく、まわりの者もそんなことを言い出せるような状態ではない。処刑は実施された。

 

 

 

天皇を叱咤、怨嗟する磯部の叫び

 

証人のために処刑を延期された磯部はこれが納得できない。そこでまず彼はそれをあくまでも天皇側近の仕業と考え、側近のロボットであってはならないと天皇を叱咤する。

 

「八月六日 / 

一、天皇陛下、陛下の側近は国民を圧する漢奸(売国奴)で一杯でありますゾ。お気付き遊バサヌデハ日本が大変になりますゾ、今に大変なことになりますゾ、

 

二、明治陛下も皇大神宮様(天照大神)も何をしておられるのでありますか、天皇陛下を、なぜお助けなさらぬのですか、

 

三、日本の神々はどれもこれも皆ねむって居られるのですか、この日本の大事をよそにしているほどのなまけものなら日本の神様ではない、磯部菱海(彼の法号)はソンナ下らぬナマケ神とは縁を切る。そんな下らぬ神ならば、日本の天地から追い払ってしまうのだ、よくよく菱海の言うことを胸にきざんでおくがいい、今にみろ、今にみろッ」

 

彼の呪詛はまず側近、ついでそれの言いなりになっていると思われる天皇から、明治天皇、さらに皇大神宮にまでおよぶ。彼のこと言葉と、「憲法停止・御親政」を秩父宮から言われた時の天皇のお言葉、「祖宗の威徳を傷つくるが如きこと」「明治大帝の創制せられたるところのもの(憲法)を破壊するものにして、断じて不可」(135ページ参照)とを対比してみると興味深い。

 

 

 

そして彼が勝手に描く天皇像は天皇とは無関係なことが、彼にもうすうす感じられるようになってくる。

 

 

 

「八月十一日 / 天皇陛下は十五名の無双の忠義者を殺されたであろうか、そして陛下の周囲には国民が最もきらっている国奸らを近づけて、彼らの言いなり放題にお任せになっているのだろうか。陛下、吾々同志ほど、国を思い陛下のことを思う者は、日本国中どこをさがしても、決して居りません。

 

 

その忠義者を、なぜいじめるのでありますか、朕は事情を全く知らぬと仰せられてはなりません、仮にも十五名の将校を銃殺するのです、殺すのであります、殺すということはかんたんな問題ではないのであります……」

 

 

この言葉には、彼らが天皇重臣たちを簡単に殺したことへの反省は全くないことを示している。おそらく一種の”総括”に似た感情で、彼らは殺されてしかるべき国奸・売国奴だが、自分たちは天皇の最も忠節なものと彼は信じて疑わない。(略)

 

 

事実、彼は事件が終わりを迎えた時、ただ一人、逃亡しても再挙を図ろうとしている。そしてこうなると天皇への脅迫だが、実質的には呪詛に近い。(略)

 

 

彼には天皇の激怒が、ぼんやりながら伝わってきたらしい。おそらく本庄侍従武官長から女婿の山口大尉が聞き、それが彼に伝わってきたのであろう。(略)

 

 

「八月三十日 / 余はたしかに鬼になれる自信がある、地ゴクの鬼になれる、今のうちにしっかりした性根をつくってザン忍猛烈な鬼になるのだ、涙も血も一滴ない悪鬼になるぞ」

悪鬼・怨霊になって天皇に取り憑いてやるぞ、ということであろう。磯部から見れば、天皇は裏切り者であった。天皇は、彼が勝手に描いていた天皇とは、似ても似つかぬ対象であった。」

 

 

 

昭和天皇の研究 その実像を探る

「事件勃発、天皇の決然たる対応

 

天皇に反乱勃発を伝えたのは当直の甘露寺侍従、時間は五時四十分すぎ――。

 

「陛下はまだ御寝になっている時刻だが、事柄が事柄だけに、一時も早く奏上せねばならぬと、御寝室に伺った。差し支えない。緊急の用務ならここで聞くと仰せられたので、鈴木(貫太郎)、斉藤(実)両重臣が軍隊に襲撃され、斉藤内府は落命、鈴木侍従長は重体である旨を申し上げた。

 

 

陛下は静かにお聴き取りになり「そして暴徒はその後どの方面に向かったかわからないか、まだ他にも襲撃された者はないか」とかお訊ねになった……」

             (「天皇陛下」 高宮太平著)

 

 

天皇の最初の言葉が「暴徒」であることは注意を要する。そして岡田(啓介)首相生死不明のため、急ぎ首相臨時代理に任命された後藤文雄への指示も、

 

「速やかに暴徒を鎮圧せよ」

 

である。本庄(繁)侍従武官長は、女婿・山口大尉の手紙を見、すぐに参内し六時ごろ到着した。その時には、暗殺された者がほぼ明らかになっていた。(略)

 

 

だが事態は一向に進捗しなかった。それもそのはず、反乱軍を背景に真崎が、いつでも大命降下(首相任命)のため拝謁できるように、勲一等を佩用して宮中に乗り込み、侍従武官長室に入り「決起部隊は到底解散せざるべし。このうえは詔勅渙発を仰ぐ外なし」と繰り返し主張した。その席に本庄と川島陸相がいたはずだが、二人が何を言ったか明らかでない。

 

 

 

またこの言葉を天皇に取り次いだ形跡もない。到底そんなことの言える状態ではなかった。「本庄日記」はつづける。(略)

 

 

事実、「行軍相撃」を何とか避けようとさまざま策を弄するだけでなく、これを機会に政権にありつこうとする真崎もいる。ただ彼は、本庄侍従武官長から天皇の意志の固さを聞いたのであろう。ここで実質的に反乱軍を裏切り、何とかうまく逃げて無関係な状態にしてしまおうとする。少々気の毒な位置に立ったのは本庄侍従武官長である。

 

 

 

二十六日も二十七日も、ほぼ一時間置きに天皇に呼びつけられている。

本庄はかつて関東軍司令官で、関東軍や荒木(貞夫、真崎と並ぶ皇道派の首領)らの強い推挙で侍従武官長になったという。

 

 

彼らは本庄を通じて天皇をあやつるつもりだったのかもしれない。また女婿の山口大尉が反乱側にいたわけで、この点でも「皇道派」と見られる位置にいた。だが彼は、侍従武官長をしている間に、天皇は到底ロボットに出来るような対象ではないと悟っていたであろう。簡単に言えば叱り飛ばされているような感じである。

彼は正直な人柄なので、その「日記」は、当時彼とともにいた侍従武官が見ても、きわめて正確であるという。

 

 

真綿にて、朕が首を締むるに等しき

 

「この日(ニ十七日)拝謁の折り、彼ら行動部隊の将校の行為は、陛下の軍隊を、勝手に動かせしものにして、統帥権を犯すの甚だしきものにして、もとより、許すべからざるものなるも、その精神に至りては、君国を思うに出でたるものにして、必ずしも咎むべきにあらずと申し述ぶる所ありしに、後御召あり、

 

朕が股肱の老臣を殺戮す、かくの如き兇暴の将校ら、その精神においても、何の恕すべきものありやと仰せられ、

またある時は、

 

朕が最も信頼せる老臣を悉く倒すは、真綿にて、朕が首を締むるに等しき行為なり、と漏らさる。

これに対し老臣殺傷は、もとより最悪の事にして、事たとえ誤解の動機に出ずるとするも、彼ら将校としては、かくすることが、国家のためなりとの考えに発する次第なりと重ねて申し上げしに、それはただ、私利私欲のためにせんとするものにあらず、と言い得るのみと仰せられたり」

 

 

この問答は多くの人が記し、すでにさまざまな解説が出ているが、私はこの問答の背後に、ある種の「含み」があったのではないかと想像している。本庄侍従武官長に、彼らを、というより陸軍全体を弁護したい気持ちがあっても不思議はない。

 

 

天皇は反乱側だけでなく、「皇軍相撃」を避けようとして、速やかに討伐をしようとしない軍の首脳にも怒りを感じている。

そして本庄侍従武官長は、反乱側をどのように弁護しようと天皇が受け付けないことはすでに知っている。それをあえて「(その精神は)必ずしも咎むるべきにあらず」とか「国家のためなりとの考えに発する次第なり」などと言っているのは、それゆえに「皇軍相撃」だけは避けたい」という伏線であろう。

 

 

というのは、あまり注意されていないが、二・二六事件のとき、戒厳令が二度出ていることである。最初に出たのは「平時戒厳令」で、これは内閣の副署で出される。簡単に言えば大震災の時の戒厳令と同じで、警察では手に負えなくなった事態への応急的な処置として行われるもので、厳密にいうと作戦行動ではなく、タテマエから言えば軍の一部が内閣の指揮下に入って警察行為をする、いわば今の機動隊の役割に任ずることになる。

 

 

一方、「戦時戒厳令」は、「内乱勃発」のような場合で、これへの対処は純然たる戦闘行為になるから、「内閣副署」でなく、参謀総長が起案して天皇の決裁を求める。この戦時戒厳令の日本国内における公布は、後にも先にもこのとき一回だけである。(略)

 

 

「二十七日午前八時二十分、自分(杉山参謀次長)は拝謁し、奉勅命令の御允裁を仰ぎしに、陛下にはしごくご満足にて直ちに御允裁ありしが…」

 

これが事件勃発以後、天皇がはじめて見せた「しごく御満足」であろう。「本庄日記」には次のように記されている。

 

「この日、戒厳司令官は武装解除、止むを得ざれば武力を行使すべき勅命を拝す。

ただし、その実行時機は司令官に御委任あらせらる。

戒厳司令官は、かくして武力行使の準備を整えしも、なお、なるべく説得により、鎮定の目的を遂行することに勤めたり」」

 

 

 

昭和天皇の研究 その実像を探る

「八章  天皇への呪詛

     = 二・二六事件の首謀者・磯部浅一が、後世に残した重い遺産

 

 

決起将校の”読み違い”を招来した一事件

 

天皇への批判はもちろんあるであろう。また怨みを抱いている人もいるかもしれない。しかし、天皇を呪いに呪って呪い殺しそうな勢いで死んだ人間といえば、私の知る限りでは、磯部浅一しかいない。彼は二・二六事件の首謀者、実質的な総指揮官だが、退職一等主計のため部下がおらず、自らを総参謀長と言っていた。

 

 

二・二六事件の首謀者は、判決後一週間で処刑されたので、外部のニュースはあまり入ってこないし、決起の熱気も冷めておらず、また多人数で気勢を上げて気をまぎらわすことも出来る。この点で最も重要なのは「君側の奸」に敗れたと彼らが信じ得たことで、そこで「天皇陛下万歳」を三唱、安藤(輝三)大尉は、さらに「秩父宮殿下万歳」を叫んで処刑された。

 

 

 

この方が幸福だったかもしれない。

というのは磯部と村中孝次(退役士官、磯部の同志)は、つづく裁判の証人として、執行まで一年間独房にいた。その間、面会などを通じて、しだいにニュースが入って来る。そしてついに、彼らの昭和維新を潰し、彼らを処刑に追い込んだのは天皇その人だと彼は知るのである。そのショックがどれくらいすさまじかったか――。

 

 

彼はやがて、半狂乱のような文章で呪詛の言葉を書き綴る。彼らが勝手に「体して」いた「大御心」と天皇の意志とが全く別であったのだ。磯部にしてみれば「裏切られた、天皇こそ元凶であったのだ」という気持ちであったろう。(略)

 

 

同紙によれば山口大尉は「青年将校の中核的存在なので」「言論取締の憲兵は、この状況を上司に報告、これが成り行きに関しては慎重な態度で注視している」と。(略)

 

 

 

ところが彼の友人亀川哲也が次のように言ったと、松本清張氏は記している。

 

「入営兵とその父兄に対する山口訓話が問題になって、憲兵隊は山口を逮捕しようとしたが、天皇のお声がかりでこれが出来なかった。天皇は本庄侍従長に「忠義は大切だから……」と言ったという。

 

 

……二、三日すると山口がやってきて「陛下の一言で逮捕が出来なかったんだよ」と言って笑っていた。山口訓示に対して天皇にはむしろ満足の気持ちがあったのではないか。このことから、青年将校らは、天皇が自分たちの忠誠心を理解されておられると信じたのだろう」

         (「昭和史発掘」8/文春文庫)

 

 

前にも記したが、天皇は個々の部門に対して絶対に容喙しないのが原則である。山口大尉は本庄侍従武官長の女婿だが、だからといって天皇が特別な指示をするとは考えられない。天皇が、誰かを逮捕せよとか逮捕するなとかいった指示をされた例は皆無である。(略)

 

 

憲兵が問題にしたのは演説が何らかの行動の前触れではなかったかという点で、演説そのものではあるまい。一大尉の演説に天皇が何かを指示するなどということはあり得ないが、彼は本庄侍従武官長の女婿だから「陛下の一言で逮捕できなかったんです」という言葉は、何やら信憑性がありそうに思われる。

 

 

こういった気持ちは彼らだけでなく多くの軍人にあり、二・二六事件の後も「天皇が軍人の処刑を許可されるはずがない」と思い、軍法会議の裁判長さえ、陸軍大臣が判決を奏上した日も「あるいは死一等を免ぜらる、というようなことがあったら」と夜おそくまで待っていた。裁判長までこのような状態だから、死刑判決を受けたものはなおさらのことで、処刑の直前まで必ず恩赦があると信じて込んできても不思議ではなく、恩赦・出獄の際の祝賀会まで考えていた者もいた。(略)

 

 

だが天皇の厳命で「二十九日払暁攻撃開始」が決定される。ところが彼らは最後まで天皇がそのような命令を下されるはずはないと信じていた。しかし包囲網はしだいにちぢまり、戦車が轟音を立てて近接し、住民はみな避難した。あり得ないと思っていた「皇軍相撃」が今や始まろうとしている。このとき彼らは崩壊しはじめた。」

 

 

 

 

 

昭和天皇の研究 その実像を探る

「相沢中佐の異常心理と「昭和維新

 

”総括”を思わせるのが、相沢(三郎)中佐の永田(鉄山)事務局長斬殺事件(昭和十年八月)である。その背後にあったのは、陸軍内の皇道派と統制派の争いで、細部は除くが、資料を見るとこの近親憎悪はすさまじいが、今回は彼らの異常心理についてだけ短く述べたい。というのは、相沢は永田軍務局長を斬殺した後、まず福山の連隊に帰り、ついで命令通り台湾に赴任するつもりであった。(略)

 

 

一種の確信犯だが、それではどのような内容の確信があったのか。彼は大一回公判(昭和十一年一月二十八日)で次のようなことを述べている。

 

 

「……私の心情が分らんというならば申し上げましょう。私が昭和四、五年ごろ、日本体操学校に在る時、国家の状態は万般にわたり実に情けない状態でありました。たとえば、農民は貧困の民のように心がすさんでいたようであります。

 

 

農村には小作争議が起こり、共産主義に心動き、鉄道大臣賞勲局総裁が妙な事をし、最高学府さえ御国に尽くすことを教えず、経済の中心も私欲に基づく権益擁護のみに動いていたのであります。

 

 

また、外交も満州事変突発以前は情けない状態であり、海軍条約も統帥権干犯の不都合があり、こうした例は毎日の如く、真に大御心を悩まし奉って臣下として申し訳ない次第と思ったのであります。こう考えると、単に体操学校で愉快に生徒とともに御奉公を申し上げるだけでは済まないと感じたのであります。これが私の社会革新の動機となったのであります。」

 

 

統帥権問題を別にすれば、ここまでは左右の確信主義者のすべてが口にしていたことで、別に珍しい認識ではない。そしてこの背後に、実は国家社会主義諸国では、以上のような問題がすべて解決されたかのような見方が作用していた。それは一種のイリュージョンにすぎないが、彼らは、それが分からなかった。もっとも戦後でもこの問題は残っている。(略)

問題は、その革新を担うのは青年将校であるとした点である。

 

 

永田軍務局長斬殺が「大御心」か

 

「……青年将校の考えについても、一度申し上げます。すべて尊王絶対であります。たとえば、軍について、連隊長なら連隊長はあくまで陛下の御身代わりとして動くべきです。「俺が、俺が」と私欲で動くことは絶対にいかぬ。(略)

 

 

なお皇軍がしっかりするためには、将校がしっかり団結して、尊い一つの塊となって、上官とも切磋琢磨、軍民一体となって、昭和維新へ進む。これが青年将校の考える夢想であります」(第一回公判)

 

 

以上の様に彼は言う。いわゆる昭和維新において彼は、青年将校をその「前衛」のように考えているわけである。彼はこの前衛の、更に先頭に立ったと自負している。そして永田軍務局長斬殺は、「作戦要務令」第一条に基づく行為で、決して違法ではないと彼は主張する。(略)

 

 

そして永田軍務局長斬殺は「君側の奸」で暴徒に等しい彼を除くためのもので、「作戦要務令」にかなった行為、すなわち「統帥権に則っている行為」だから大御心にかなっている。(略)軍人精神から見ればもとより無罪であり、これを有罪にすることは軍人精神を殺すことだと彼は主張する。

 

 

彼はこう信じたのかも知れぬ。しかし彼には重要な誤解がある。まず平時の軍隊を律するのは「軍隊内務令」であって「作戦要務令」ではない。暴徒が皇居に乱入するのを阻止するのは警察の任務で、これが警察の手に負えなくなれば戒厳令がはじめて発令される。それまでは、軍隊は関係がない。

 

 

さらに「作戦要務令」が適用されるのは、戦闘序列の下命があって後で、このときに「軍隊内務令」に変わる。平時の町を歩いている軍人が、勝手に「作戦要務令」どおりに行動したら大変なことであろう。(略)

 

 

これは当時の軍人の「法意識」の欠如を物語っているが、さらに問題なのは「大御心に副って」とか「大御心を体して」と言った言葉である。(略)

 

 

もし「大御心」といえるものがあれば「あくまでも憲法の命ずるとおり」であっても、「錦旗革命」ではあるまい。それを無視すると、自己の信念や妄想が「大御心」になってしまい、その人間が天皇になってしまう。

「永田軍務局長を斬殺することが大御心だ」などと言われたら、天皇は驚いて跳びあがったであろう。そして天皇の意志と、青年将校の「大御心」が激突するのが二・二六事件である。

 

 

憲法と歴史的実体との大きな乖離

 

ある雑誌で「憲法に描かれた社会システム」としてのアメリカの青写真と、歴史的実体としてのアメリカの現実との間の重大な食い違い」が現代のアメリカの問題点とする論文を読んだが、「帝国憲法と歴史的実体いての日本」の食い違いが最もはっきり現れているのが戦前の日本である。(略)

 

 

では彼(相沢)に、憲法に代わるべき明確な理念があったのであろうか。錦旗革命とか昭和維新とか言っても、その方法も目的も相沢には明らかでない。(略)

 

 

興味深いのは、島田検事官との次の問答である。

 

「島田  国家の法律は陛下の下し賜ったものであり、御裁可を得て国民斉しく奉戴しなければならないものである。

 

相沢  はい。

 

島田  法を犯せば大御心に反することになる。知っていたか」

 

この問いに対して彼は答え得ないで沈黙する。(略)

 

そこで島田検察官は質問を変える。

 

「島田  永田局長ただ一人を一刀両断にすれば昭和維新は出来ると思ったか。

 

相沢  私の考えは少し違いますが、認識不足であったことを認めます。

 

島田  永田局長一人を殺しても維新決行は出来ぬということを今さら知ったことで認識不足というのか。

 

相沢  いや、維新とは悪い考えを持った人が悪かったと思うのがその発祥である。

 

島田  被告の行為によって悪い人が良くなるというのか。

 

相沢  そうであります。」

 

この問答を読者はどう思われるか。小学生並みの知能水準と思われるかも知れないが、ドストエフスキーが鋭く見抜いた革命心理からすれば別に不思議ではない。これは彼が題材としたネチャーエフ事件でも、連合赤軍事件でも同じかもしれない。どのような方法で革命を行なうのか、革命後の社会に対してどういう青写真を持っているのかと問われれば、答え得ないのがむしろ普通である。

 

 

青年将校」という新タイプの登場

 

ただ、つづく訊問で北一輝の「日本改造法案大綱」が出てくるが、その内容に賛成なのかと問われても「単にそう言っても漠としてわかりません」と言い、さらに問われても、結局は答えていない。(略)

 

 

陸軍士官学校では、将校もエリートとして社会に目を向けなければならないと、途中から、教課に社会科学を導入した。だがそれが逆効果となり、彼らを「軍部ファシズム」に走らせたが、相沢中佐はまだそれ以前の年代で、いわば「神がかり的尊皇家」といったタイプである。この神がかりの伝統と社会科学の結合が「青年将校」というあるタイプを生み出したという一面は否定できない。

 

 

天皇はこの風潮をよく知っておられたのではないか、と思われるお言葉がある。(略)

 

一方、二・二六事件の将校の供述に「閑院宮参謀総長デアラレル限リ、陸軍ノ癌デアリマス」というのがある。また事件発生を知った瞬間、閑院宮は大丈夫かという危惧が、反射的に頭の中に走ったという関係者も多い。

 

 

こう思った理由は、真崎(甚三郎)教育総監(革新将校の精神的支柱)をやめさせたのは、本当は閑院宮だと彼らが思っていたこと、同時に、天皇に絶えず自分たちのことを、”中傷的”に伝えていると思っていたからであろう。(略)

 

 

「将校等、ことに下士卒に最も近似するものが農村の悲境に同情し、関心を持するは止むを得ずとするも、これに趣味を持ち過ぐる時は、かえって害ありとの仰せあり」

        (「本庄日記」昭和九年二月八日)

 

 

さらに、

 

「善政は誰も希う所なるが、青年将校などの焦慮するが如く急激に進み得べきにあらず」

         (同 三月二十八日)

 

 

言うまでもなく、このお言葉は「相沢事件」「二・二六事件」以前であり、そのことから天皇が相当の危惧を抱いていたことを示している。(略)

 

 

しかし基本的には彼らの考えは違っていたであろう。前述の言葉はおそらく「万が一」であり、彼らは天皇は自らの意志なき「玉」か「錦の御旗」だと思っている。そこで「君側の奸」を一掃し、自分たちが天皇をかついで一刀両断、大改革をすれば、すぐに全てが解決すると信じていた。」

 

 

〇 苦しんでいる人、泣いている人を助けたいと、「錦旗革命」や「昭和維新」を企てる。ただ願うだけではなく、本気で行動する。

そうすると、あの「連合赤軍事件」になってしまう。

 

その恐ろしさを嫌になるほど知って、どれほど社会を変えたくても、人を助けたくても、革命や維新はやめてほしいと思うようになりました。

 

そして何もしない、行動しない人になってしまいました。

政治は難しすぎる、活動は難しすぎる。

そんなことを言っているうちに、私たちの国の政治は三流どころか、最低になってしまいました。

 

もう少しなんとかならないかと思います。

せめて、真実を尊び「論理」的に考えることを訓練し、

議論が成り立つ風土を作れないものかと思いますが。