読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

死にゆく人のかたわらで

「第6話

 

「急速な老化で死ぬ」ということ

 

ガンの末期は痛い。痛い、痛い、そう思っていた。わたしも、中咽頭原発、頸部リンパ節転移の末期ガンで死んだ、亡き夫も。

ガンは、最後、痛いんだってね。耐えられないような痛みで、つらいんだってね。でも最近は痛み止めにいいものが出来たから、かなり抑えられるんだって言うよ。病院のガン病棟でもね、昔と違っていまはずいぶん穏やかになってるんだって。

 

 

痛みは抑えられるんだって。死ぬのはしかたないなあ。寿命だから。でも、居たいのはいやだなあ。痛いのはなんとかしてほしいなあ。なんとかしてくれるのかなあ。

そういう会話を何度繰り返したことだろう。首の晴れに気がついて、頸部リンパ節転移、と診断されてから、この痛みのことを夫とわたしは繰り返し話した。(略)

 

 

 

ステージⅣと呼ばれる末期のガンである、と診断されてから、夫は二年生きたのだが、亡くなる六カ月くらい前、しみじみとこの主治医に「わたしはどんなふうに死ぬんでしょうか」と夫は聞いていた。「急速な老化です」と、耳鼻科の主治医は答えた。

 

 

 

夫が聞きたかったのは、おそらく、「どういう症状でもって死ぬのか」ということだったのだと思う。突然呼吸停止するとか、息ができなくなるとか、ものすごい痛みに襲われる、とか、そのようにして死ぬ、という、なんだか、そういう具体的な答えが知りたかったのだと思う。

 

 

しかし答えは「急速な老化」であった。だんだんからだが弱っていって、食べるものがたくさんは喉を通らなくなっていって、活動もせばまっていって、精神活動も緩慢になっていって、痩せていく。老化って、そういうことだろうか。そういうことが、一〇〇載まで生きるのならば緩慢に起こるのかもしれないが、「あなたの場合は急速に起きます」と、まあ、そういうことなのである。わたしたちはすぐには、言葉がなかった。うーん、そういうことか。

 

 

ドトールコーヒーのレタスドック

 

(略)

夫とわたしは、外来の診療のあとには、いつもこの病院の一階にあるドトールコーヒーに立ち寄ることを習慣にしていたし、二人ともその時間を楽しんでいた。いつもコーヒーと、レタスドックを注文する。(略)

 

 

とにかく、最後の診療のときまで、病院に行けば、わたしたちはこのドトールコーヒーに行く、というルーティンをやめなかった。(略)

 

 

そのように思えば、最近の大きな病院に、おおよし病院らしくないドトールとかスタバとかその他の、ごく普通に街中にあるカフェが入っているのも、患者や家族にとって大きななぐさめになっているのではないか、と感じる。(略)

 

 

なんだか安心したような、落ち着いたような、そんな気分だった。わたしたちはもっとなにか「ドラマチック」なことが起って死ぬのだ、というイメージを持っていたのである。

 

 

 

想像出来なくなった「自然な死」

 

「自然な死」とは、なんだろう。「病気」や「自己」ではなく、自然に天寿を全うして、死ぬことか。いまどり、そんなに単純であるはずもない。(略)

 

 

いま、人間の出産にとっての産科医療は、魚にとっての水のようなものである。お産、と言えば、産科医療を語ることになり、病院で産科医療のもとで行われるもの、と思っていて、「医療のない馬でのお産」を考えることもできない。(略)

 

 

ワーグナー氏の論文は、その想像力の欠如によってわたしたちが失っているものがいかに大きいか、ということを書いたものだった。(略)

 

 

おそらくは死ぬことも同じで、お産が生活の場から医療の場で行われるものへと推移していったのとほとんど同じ時期に、死ぬことも生活の場から離れ、医療ともに人間が最後を迎えることは当然、と、わたしたちは受け取るようになったのだ。

 

 

だから自然な出産についての想像が及ばないのとほとんど同じくらい、自然に死ぬこともうまく想像できない。(略)

 

 

夫はどんなふうに痛かったか

 

痛い、という表現は、彼はたしかによく使っていた。痛い、と言っていた。痛み止めをずっと飲み続けていたし、口からうまく飲めなくなったころにはパッチにして貼っていたし、継続的に痛み止めの血中濃度が落ちないようにしていたし、それに加えて頓服がいつも用意されていた。(略)

 

 

闘病している間いちばんよく飲んだ頓服はオキノームと呼ばれる麻薬系の粉末状の薬である。この薬は、夫と出かける時いつも、お守りのようにカバンにいくつかしのばせておく薬であった。痛い、と言うと飲ませていた。

 

 

 

しかしいま振り返って見ると、少なくとも夫の場合、七転八倒するような耐えられない痛みに襲われる、という感じではなかった。うーん、痛い……とは言っていたが。ものすごい痛みに苦しんだ、という印象はない。本人は、それはオレが我慢していたからだよ、って言うかな……。

 

 

 

しかし、ずっと一緒に暮らしてきた人が、どのくらい痛いか、苦しいか、それはそばにいれば、やっぱりわかる。耐えられない痛み、というのではなかったように思う。

 

 

それはずっと、毎日朝昼晩と痛み止めを飲んでいたからだ、と専門家は言われるだろうか。しかし、いま、冷静に考えて見ると、わたしから見て、彼の痛みは「痛み」というより「苦しみ」だったのではないか、とも思えるのだ。痛いから薬が飲みたい、と言うし、自分でもときおり飲む。

 

 

たしかに痛いと言っていた。そうなのだが、それは痛みというより、自分の身体のなんともいえない調子の悪さ、ガンの部位、と言われる首の気持ちの悪さ、あるいは襲ってくる不安、身の置き所のさな、気持ちの持って行き所のなさ、そういったものが混じり合ったものではなかったか。いまになるとそう思ったりするのだ。

 

 

医者もまだよくわかっていない

(略)

しかし、骨転移以外の痛みについては、あまり一様な痛みがあるようには見えない。専門の医者にとっても、「末期のガンは痛い」と言っても、それはあまりに多用な部位で多様な痛みであり得るから、あまりよくはわかっていないと言えるようである。(略)

 

 

 

患者の側が考えるしかないこと

 

手術や放射線治療や抗ガン剤治療を受ける、ということは、そのガンの部位が小さくなるかならないか、なくなるかなくならないか、だけを目的として行われる。その治療によって腕が上がらなくなってつらい、とか、足がパンパンにむくんだ、とか、排泄のコントロールができなくなった、とか、そういう生活上の不具合が起こることについて、覚悟しなければならないのは患者の方なのである。

 

 

もう少しわかりやすく言うと、おおよその病院におられる医師の役目は、手術や射線治療や抗ガン剤治療など、基本的には医療介入をして痛みを抑えたり、症状を軽くしたり、死ぬ時期を延ばしたり(医療介入によって、かえって短くなることもあるにせよ)するところにある。(略)

 

 

だから、どのような医療介入を受けたら、生活上にどんな支障が出ることがあり得るのか、ということをしっかり考えなければならないのは、わたしたち自身であり、そういうことをよく考えたうえで、手術や放射線治療や抗ガン剤治療を受けるかどうかの判断材料にした方がいい、ということである。

 

 

 

実際に医療介入を受けた後に、排泄にトラブルが出るようになった、とか、うまく歩けなくなったなど、生活上の不具合が生じても、その結果に対しては誰に文句を言うこともできない、ということは、もっと多くの方に知られるべきではないのか、と思う。(略)

 

 

 

痛みと痛み止めの一五か月間

 

具体的な痛みの対処についてふりかえってみよう。夫、金蔵の、中咽頭原発、頸部リンパ節転移の末期ガンが見つかったのは二〇一三年四月のこと。(略)

 

症状もないのに、入院するのかな、と思っていたら、診断から二週間後、入院加療の直前から、「ばったり倒れる」発作が起き始めて、それはけっこう、怖いものでした、という話は、すでに書いた。(略)

 

 

具体的に「痛い」という症状が出始めたのは、末期ガンの診断、治療から約一一カ月後のことだ。亡くなったのは二〇一五年六月だから、亡くなる一五か月前から具体的な痛みが出始めた、ということになる。

つまり夫が「痛い」と言い、具体的な痛み止めを服用していたのは約一五か月間であった、と言えるが、その「痛み」の内容については、ずっとそばについていたわたしにもよくわからない。(略)

 

 

 

この頭を中心とした痛みが始まって、喉がヒリヒリする、ガンの部位もやや痛い、と言ってはいたが、本人曰く、我慢できない痛みではないので、痛み止めをいつも飲むほどではない。最初の痛みを感じてからも普通に暮し、酒も食事もちょっと量が減ったなあ、という程度で、わたしにとっても彼の痛みはまだ大したことがない、と思えていた。

 

 

ガンの痛み止めの代表である「麻薬系」の薬が処方され始めたのは、最初の痛みを感じて三カ月ちょっとしてから(つまりは亡くなる約一年前)だが、最初想像していたように、痛みがだんだんひどくなって、出されていた「ロキソニン」でおさまらないから麻薬系の薬に移行していった、というわけではなかった。(略)

 

 

 

身の置き所のない苦しみ

 

(略)

このように書くのだから「ガンの痛みは、抑えられていた」と言える。歯切れの悪い書き方だ。なぜだろう。わたしはなにを言いたいのだろう。それは、「痛み」か「苦しみ」か、よくわからなかったことによる。(略)

 

 

たとえば、亡くなる直前、夫は、とにかく服を脱ぎたがった。初夏のころで暑いえでもなく、脱ぐと寒いから、服を着せようとするし、なにかをかけようとするけれど、いやがってはねのける。普通に話もできて、精神的なぶれはいささかもないが、とにかく服をいやがるのだ。

 

 

布団やタオルケットもいがやる。下ばきだけははいているが、ほかはとにかく脱ごうとする。それは、身の置き所のない、苦しみ、としか言いようがなかった。

夜中に何度も起きあがって、じっとしていられないこともあった。頭が痛い、服を脱ぎたい、気分が悪い、眠れない、じっとしていられない。こういう苦しみは、自宅にいたので、なんとも言えないままに、表現されていた。

 

 

 

そして、それらの身の置き所のなさは、多くの場合、「痛い」という言葉に収斂されていったように思う。そうすると、なにか飲む薬があり、介護するわたしも提供する薬がある。「痛み」は、彼の総合的な苦しみの表現方法だったのではないか。

 

 

わたしは間違っているかもしれない。でも、こういう身の置き所のなさは、たとえば、病院や施設にいたら、いったいどう対処されるのだろう。「ガンの痛み」、とは、言われているよりも奥の深い表現なのではないか、まわりはそれをどう受け止められるのか。むずかしいことだ、と思うのである。」

 

 

 

 

 

 

死にゆく人のかたわらで

「第5話  お金の問題

 

自宅で死ねない二つの心配事

 

自宅で死にたいが、不安なのは「お金」と「痛み」であるという。家族に負担をかけるのではないか、ということはもちろん心配なのだが、それと同じくらい「お金」と「痛み」が心配なのだという。「末期ガンの家での看取り」についての新聞記事にそう書いてあった。(略)

 

 

「公的保険でできることだけする」

まず、お金のことを書いてみる。結果から言おう。我が家の場合、ガン患者の夫を家で看取るにあたり、そんなにびっくりするようなお金はかからなかった。

 

 

医療保険介護保険、そして最後の一か月くらいは介護保険で来てもらえるヘルパーさんの合間に、実費のヘルパーさんが必要だったが、それくらいだった。医療保険介護保険には自己負担限度があるから、両方フルに使って、いちばんたくさんお金を払った月でも、我が家ではあわせて八万円くらいだったと思う。

 

 

月に八万円は高いじゃないか、と言われるかも知れないが、日本の暮らしで、「いざというとき」のお金から考えると、そこそこ想定内なのではないだろうか。この八万円の内訳についてはのちほど述べることにする。(略)

 

 

一九四七年生まれ、絵に描いたような団塊の世代で、大学では緑のヘルメットなどかぶって、その世代にふさわしい大学生活をおくり、生涯、「社会派」であることをめざし、金持ちやエライ人は全て悪い奴だと思い、特別扱いをされることを嫌い、現在の社会保障の体制で出来る範囲で生きたい、と思うような人だったから、「生命保険」にも「入院保険」にも、ましてや「がん保険」など、公的な保険以外のプライベートな保険の類には、一切入っていなかった。(略)

 

 

 

特別なことはやらない、この国の公的な保険で、できることだけを受ける。「自分は医療保険の範疇でできることで死ぬ」ということを、いつも言っていた。そしてそれをほとんど全うした。

常々、彼は、「ガン」でお金がかかるのは、保険の利かない「認可されていない”新薬”」だとか、西洋医療ではない「なにか特別な治療」を受けようとするからであると信じており、そんなものは「所詮効かない」のだから、「医療保険」の範疇で治療を受けることが最も正しい、と考えていた。

 

 

医療系の新聞社に長く勤めた編集者であり、現在の医療システムに不満もいろいろ持ってはいたものの、基本的に近代医学の精緻な方法に信頼を置いていて、保険もおりないような治療は、はなから、信じていなかった。(略)

 

 

必死で生き延びて来た世代

 

(略)

夫の母、静子さんは、いま写真を見ても、若い頃は相当な美人で、チャーミングで気の強そうな、いかにも男性が「この人について行きたい」と思うような方であったことがわかる。世田谷の裕福な商家に生まれ、当時の女性はだいたいそうだったと思うのだが、「お嫁になんか行きたくない」と言いながらも親に聞き入れられることはないく、いやいや、見合いで結婚する。

 

この「いやいやながら、まわりに言われてしぶしぶ結婚する」というのが、いかに次世代育成にとって重要な態度であったのか、ということを、非婚化、晩婚化、少子化現代日本で、しみじみと我々は知りつつある。

 

 

若い頃は、おそらく古今東西を問わず、誰も結婚はしたくないのである。ひとりで勝手に好きなことをしていたい。親元にいるのが気楽でいい。なぜ急いで結婚しなけれがならないのか。娘時代というのはよきものだ。(略)

 

 

若い人は家庭など持ちたくない。ほんの少数の、早熟で恋愛上手で、「強者」である男と女が、勝手に恋愛をして、早くその女や男と一緒に暮らしたいから、その便利な理由として、若くして「結婚」するにすぎない。おおよそほとんどの若い男と女は、ほうっておいたら、結婚などする気はないのである。(略)

 

 

 

そんなことは封建的だとか、家父長制の温存だとか、個人の自由の抑圧だとか、女性蔑視だ、とか、声に出して言い始めたのはおもに団塊の世代(夫の世代)だ。それを聞いた段階の親の世代(夫の母、静子さんの世代)は、それもそうだ、自分は無理やり結婚させられて、いやだったもんなあ、と、娘や息子の言い分に反対することなく、子どもたちをあたたかく見守った。

 

 

そして「結婚」は、まわりが無理やりさせるものではなく、しかるべきときに、しかるべき相手を自ら見つけてするもの、ということになった。しかし、繰り返すが、そんなことができる、しかも若いうちにできる男と女は「強い個体」で少数派なのだ。

 

 

ほとんどの若い男と女は、自分たちでは結婚できないから、まわりが結婚させようとしなくなったいま、結婚することができなくなった。結婚、とは、収入もあり、それなりの容姿もあり、恋愛もできる、一部の強者にのみゆるされる、特権階級の行動となりつつある。

 

 

まわりが若い人を結婚させなくなったいま、非婚化、晩婚化が進むのは、もう、仕方がないことだ。ひとりで生きること。性と生殖の暮らしなしに老いること、はそんなに楽なことではないのに、先の世代の「対の暮らし」に責任を持たないことにしたのだ。(略)

 

 

婚家から捨てられた義母

 

(略)

静子さん一家はその店に住んでいたようで、食事時には、子どもたちはご飯のおかずが好きなものでない時は、母も忙しいので、店で、好きなものをちょっとずつ選んで、もらってきて、食べていたらしい。だから、亡くなった夫、金蔵は、食糧難の時代に育ったというのに、ものすごく好き嫌いが多い。無理やり嫌いなものを食べなくても、常に、自分で適当に選んで食事をとることが出来たのだ。これが彼の背景である。

 

 

「ナントカ療法」は全て挫折

 

(略)

まずは「ガンの患者には混載をたくさん食べさせるといい」と聞いた。大根、にんじん、蓮根、長いも、ごぼう、などの根菜をたくさん食べさせるといい」と聞いた。大根、にんじん、蓮根、長いも、ごぼう、などの根菜を一挙にたくさん煮ておき、それを筑前煮にしたり、けんちん汁にしたりして、とにかく毎日、根菜がある状態にしておき、それを日々、食べるとよいらしい。わたしにそのことを伝えてくれた友人の知り合いは、ハワイでその食事療法をやって、ガンが消えた、という。

 

 

 

根菜を毎日食べる、ということに、なにか問題があるとも思えない。好き嫌いの多い夫も、煮物は嫌いではなかった。わたしは早速、常に根菜を煮たものを冷蔵庫にストックするようにし、毎日けんちん汁がある状態にした。

 

夫に、是非これを毎日食べるように、と言ったのだが、夫は食べない。母親のつくってくれていたけんちん汁は、ちょっと味が違う。これはまずい、と、わりと平気でわたしのつくったものを、食べない。

 

 

わたしがつくったものを食べないことは、好き嫌いの多い彼にとって日常茶飯事のため、わたしはいまさら傷ついたりはしないが、せっかく友人にすすめてもらったのに、と残念であった。(略)

 

 

さらに別の友人女性は、父親が末期ガンと診断されたが、生のにんじんを中心とした生野菜と果物をジュースにしてその場で飲む、それも一日にたくさん飲む、という「生ジュース療法」みたいなのをやったら、めきめき元気になってきて、もう二年過ぎた、と言う。(略)

 

 

飲んでほしい夫は、緑の野菜が大嫌いなので、色が緑だと飲まないから、なんとか緑にならないものだけで作って、はい、すぐに飲んで、と言っても、これまた、飲まなかった。(略)

 

 

あとは、梅干を焼いたものの粉末とか、玄米の重湯とか、さまざまな健康食品系を送っていただいたが、全て、拒否。「ナントカ療法」の全ては挫折した。わたしがおいしくいただいた。

 

 

「多いときで八万円」のありがたさ

 

(略)

要するに、我が家のガン患者の方針は、「医療保険介護保険」でできること以外は、やらない、であったのだ。すべての代替療法、食餌療法は、拒否。保険診療以外の薬も拒否。だから、我が家でやったことは、結果として、ある意味、「日本の制度で可能な感患者の看取り」となった。

 

 

冒頭に書いた「多いときで八万円」について書いておくことは、いくばくかの人たちの不安を和らげることになろうか、とも思う。もちろん、多いときで月八万円、という額も、払えない、という方々ももちろんたくさんおいでになるわけで、それはそれで別の対処となるが、多くの、働いている間じゅう、医療保険と年金と介護保険を天引きされてきている、日本の給与生活者とその家族は、そのくらいはなんとか払う覚悟をしている人も少なくあるまい。(略)

 

 

各家庭の収入によるので、一概には言えないが、我が家の場合、月々の医療費はだいたい五万円台だった。つまりはだいたい五万円以上自己負担がかかると、それ以上は、役所の医療保険課に行って手続きすれば、払い戻してくれるのである。

 

 

簡単に書くが、これはすごいことだ。(略)

自宅での看取りをする、ということは、結果として大げさな医療措置はやらない、ということも意味している。「切開」とか「手術」とか「集中治療室」などという、病院にいたら起こりそうなお金のかかる医療措置は、何と言っても、「できない」からである。(略)

 

 

介護保険のヘルパーさん

 

(略)

わたしは外で仕事をしていたし、昼間は多くの場合、彼がひとりになった。もともと他人に家に入ってもらうことが嫌いな人だったこともあり、最後の最後まで、自分で立ち上がってトイレを使うことが出来たこともあり、「緊急」のときにはボタンを押せば三〇分以内にヘルパーさんが飛んで来る、という介護保険のシステムを使っていたこともあり、「二四時間誰かがいなければならない」という体制になったのは、最後の三週間だけだった。

 

 

夫が亡くなったのは二〇一五の六月二七日だったが、六月に入った頃、本人のいないところで、訪問診療の主治医、新田國夫先生は、「もう、週単位だと思います。月単位はないと思って下さい。二四時間、誰かが

体制になさったほうがいい」と言われた。まだ本人は立ち上がれるし、十分話もできる。下げ止まりながらこの状態はもっともっと長く続く様にわたしには思われていた。

 

 

本人もずっと誰かがいる、なんていやだ、と言っていたが、先生のすすめにしたがい、わたしは仕事に出て行くときには、常に、実費でヘルパーさんをやとうことにした。(略)

 

 

週末や、夜などは、ヘルパーステーションのヘルパーさんたちには来てもらえないので、「ダスキン」のヘルパーサービスを使った。こちらは二時間は八〇〇〇円を超えるが、二四時間いつでも来てくれて、なんでもやってくれる。

 

 

「いざというとき」とはどういうとき?

 

夫は、この「介護保険のh時間外でヘルパーさんを頼む」とか、「ダスキンさんを頼む」ということにあまり納得していなかった。もともと家に他の人がいるのがいや、ということもあったのだが、それよりなにより、彼はお金のことを気にしていたのだ。

 

 

「いざというときのために、お金はとっておいたほうがいいんじゃないか。こんなにお金を払ってヘルパーを頼むのはやめたほうがいいんじゃないか」と言うのである。

 

いざというとき……、いざというときっていつだ?(略)

 

 

度重なる天災からのよみがえりの歴史を持つこの国の人たちのエトスには、将来のよきからだのために、いま、危険因子になりそうなものをできるだけ排除するという近代予防医学の発想が、深く根付き過ぎたのかもしれない。

 

 

わたしたちは、「備えよ常に」という本来は美しいはずの態度を、「いま楽しむことは堕落である」という、禁欲的で他人に迷惑な態度に、静かに変えてしまったのかもしれない。

それが同時に、今、このときに集中することを妨げ、いま何をやるべきか、今何がなされるべきかを判断する明晰さを鈍らせること、につうじていないと、どうして言えよう。(略)

 

 

だが、本人が何と言おうと実費ヘルパーを頼もうと、わたしが実際に決断したのも、新田先生に「そうしたほうがいい」と言われたからである。「いざというとき」は、実は自分たちにはわかりにくいからこそ、訪問診療医が頼りになる。

 

最後の三週間は、結果としてこのような実費ヘルパーさんのお世話になったので、医療保険介護保険の八万円以外にもお金がかかりはした。が、主治医の見立ては正しく、たしかに、もう、月単位、はなかった。(略)」

 

 

 

 

死にゆく人のかたわらで

「伊豆に出かける「暴挙」

 

この状況はこの時点でしばらく続く。最初に倒れた時点では、いったいなぜ倒れたのか、わからない。もともとてんかんの治療を受けていたわけだから、てんかん発作だったのか、と、その時は思っていたし、意識がないわけでもなかったから、救急車も呼ばなかった。

 

 

本人はよく眠り、次の朝は元気で、伊豆高原には予定どおり行こうと言う。

前の夜にそういうことがあって、直後に、よく出かけようなんて言う気になるな、と今になれば思うのだが、それはいまだから思えることである。

 

 

当時の夫は、倒れていない時は元気なのであり、元気なのだから、なんでもやりたいことはやると言う。もともと、天上天下唯我独尊な人なので、やりたいことはやり、やりたくないことはやらないから、こちらが何を言っても無理である。

 

 

「倒れて、便失禁」は五月三日の夜で、翌々日から小さな別宅のある伊豆高原に出かけることにしていた。五月八日から数週間の入院加療が決まっていた。本人はこの連休を利用して大好きな伊豆高原にわたしと出かけようとしていたので、起きあがれて「元気」になったら、行きたいのだ。(略)

 

 

 

本人はいつもやりたいことはやってしまう人で、実は、わたしもそうで、お互い、そういうことに対して口を出しても、行き場のない口論になるだけであり、気持ちの良いことにはならないと知っていた。(略)

 

 

着替え一式は持っているのだから、いざとなれば着替えさせようと、はらはらしながらも電車に乗り、なんとか伊豆高原の小さな家に着き、彼はいつもどおりお酒を飲み始め、案の定、夕方五時ごろ、二度目の発作を起こした。突然気分あ悪いと言い始め、ふらつき、顔から昏倒しそうになったので何とか支える。またあぶら汗をかいていて、真っ青で、手足が冷たくて、血圧がひどく下がっているみたい。

 

 

首に強い痛みがあるというので、なんとか痛み止めを飲ませる。この日は便失禁はしない。発作だけだった。

またなんとか寝かしつけ、一晩経ったら同じように元気になっていた。さすがに二泊する勇気はなく、次の日、道中で発作を起こさなければよいが、と、今一度はらはらしながら電車に乗り、家に着いた時の安堵は忘れられない。末期ガンと診断された患者が発作を起こしているのに、よく出かけたものだ、という理性的コメントは、何度も言うけれど、いまだからできるのである。(略)

 

 

入院前の夜の発作

 

二度目の発作が五月五日。入院加療が始まる三日前で、連休中ではあるし、もうすぐ、入院するのだから、医者に診てもらうのはそれからでいいや、と思っていたこともあり、こんな容態の急変なのに受診もしなかった。というか、させなかったわたしも、今思えば、全く理性的でない。しかし、現実とはそういうものだ。(略)

 

 

入院前日の夜、入浴して、しばらくベッドに寝ていたのだが、首が痛い、と言ってベッドを下りようとする。うまく立ち上がれず、ベッドの脇でしりもちをつく。なんだか、エヘエヘと意味のないことをつびゃいていて、明らかに様子がおかしい。

 

 

痛いと言うから、痛み止め(この時点で出てくる痛み止めは全て前述したバラセタモールという、ごく普通の軽い痛み止めであり、麻薬系のものではない)を飲ませ、座り込んでいる彼をベッドに戻そうとするが、うまく立ち上がれない。

 

 

でもなんとか寝かしつけると、「ちづるさんも寝て」と、普通にしゃべるので、わたしも横になったところ、寝かしつけたばかりの夫は、首が痛い、と言っておもむろに立ち上がり、立ち上がるなりベッドの脇に後ろ頭からどーん、と昏倒し、いびきをかきはじめた。(略)

 

 

入院先でないERへの搬送

ベッドの脇で後ろ頭から昏倒し、意識がない、と思っていた夫は、わたしが救急車を呼んでいる間に、起き上がっていた。なんと数分の間に、便失禁したからだを洗うために、風呂場に行ってシャワーをかけている。もちろんまだふらふらしているから、そのまま脱衣場に座り込んでしまい、また、起き上がることができない。なんとかまわりを片付け、本人が寒くない様にバスタオルなどをかけて、動かないで、とたのみ、救急車を待った。(略)

 

 

明日から入院するというのに、救急外来がいまはいっぱいで運ばせてもらえない、という理由で、入院予定の東京都立多摩総合医療センターには運んでもらえず、結局、近くの立川氏にある災害医療センターのERに運ばれ、脳のCTをとる、という。(略)

 

 

救急車が来て搬送先を車内で決めようとしているとき、救急隊員はいろいろな質問をする。救急車にいるとき、本人はすでに意識があり、しゃべってはいるが、返答がめちゃくちゃである。(略)

 

 

「ガン?オレが?脳出血はしたことがあるけどな」みたいに、まともにしゃべるのに、内容はめちゃくちゃなのである。これはいったいどうなってしまうのだろう、と本当に「怖かった」のだが、とにかく搬送先のERに運び、手続きをして、わたしは夜中の二時に帰宅した。すごいにおいの一階の風呂場及び脱衣場及び寝室のそうじをイノシシのような勢いで終えた時には、朝の四時ごろになっていた。

 

 

ガンが進んで発作が消える

 

この「ばったり倒れる」発作、は、その後、彼が入院してからも何度も続いていた。「なんとなく痛みが出て、気分が悪くなり、立っていられなくなって、失神、失禁」が一番激烈なパターンであるが、失神まで至らない発作もひんぱんに起こしていたようだ。ようだ、というのは入院していたから、わたしが知らないのだ。

 

 

入院して放射線治療と抗ガン剤治療をうけはじめてだいたい二週間くらいで、この発作は消失した。そして、治療の一年後に、再度起こるようになり、それは四週間続く。要するに、末期ガンの診断を受けてすぐ、三週間くらい発作を起こすようになり、治療とともにいったん収まり、一年後再発し、また四週間発作を起こし、その後おさまり、それから一年後に亡くなった、ということである。

 

 

この「発作」は、耳鼻科の担当医によると、「迷走神経反射」なのだという。リンパ節転移しているガンの部位が首筋であり、ここには、「迷走神経」が走っている。そこをガンが刺激するような形になるから、発作が起きるのではないか、というのだ。(略)

 

 

 

最初の発作フェーズから一年、この二度目の発作フェーズが起きた時期は、すでに入院加療はせず、ずっと家にいたのだが、結果として四週間で二五回くらい発作を起こし、そして、それだけのけっこうな回数の発作を起こしたあと、発作は起きなくなった。(略)

 

 

必ず慣れる、慣れればできる

 

このようにして、死ぬ一年前に、いちばん激烈であった症状自体はおさまってしまった。それから一年、だんだん本人は、衰弱していったし、痛みも多くなって麻薬系の痛み止めを増量していったが、痛み止めはよくきいていたし、おおむね穏やかなフェーズであった。

 

 

本人がいちばんつらいのだが、起こって来ることに、家族も鍛えられていく。

最後の穏やかな時間にむけて、あれは鍛錬であった、といまになれば思うのだが、それらは全て「後づけ」の解釈では、ある。「ばったり倒れる」ことと「排泄物との格闘」が同時に起きたこの一連の発作は、わたしには「怖い」ことだった。

 

 

どこまで対応できて、どこまで適応できて、どこまでやれるのか、というのは、その時点におけるわたし自身の状態と密接にむすびついている。あの時点では「怖い」ことであったといまもはっきりと思い出せるが、それらはほどなく「怖い」ものではなくなっていった。「怖い」と思っていることでも「何度も起こる」と人間は慣れる。

 

 

「いやだ」と思っていることでも何度でもやらせるといやだと思わなくなる。これが実は人類の歴史の中で、さんざん悪用されてきたことだと思うのは、映画「フルメタル・ジャケット」を見るまでもない。しかし私たちは戦争をするのでも、人殺しをするのでもない。誰かの面倒をみるのだ。だったら、起こることには慣れるほうがよい。できなかったことはできるようになる方がよい。(略)

 

 

 

「排泄物」の怖さは、きっとわたしたちの記憶にひそむ、排泄物にまつわる何かわしい思い出や、それにともなう周囲の態度に起因するものだろう。汚い、臭い、ということだけではなく、なんらかの精神的ブロックがかかっている。だが、やるしかないさ、とハラをくくれば、やるしかないのだ。

 

 

慣れればできるし、いよいよとなれば、頼れるモノがあり、助けてくれるプロもいる。このことに限らないけれど、日本のシステムの中でどれほど助けてくれる人を探すことができるか、それはまた、回をあらためて書いてみよう。」

 

 

〇「馴れればできる…」と仰っています。

やらなきゃ慣れない。慣れなきゃできない。目の前にやった方がいいと思えることがある時には、そう思ってやる。わたしもそう思っていました。

でも、こと「排泄物との闘い」については、わたしの場合は、慣れなかったような気がします。逆に、どんどんトラウマのようなものが蓄積して行ったような気がします。

 

最初は頑張っていました。でも、小さな「嫌」がどんどん蓄積して、3年経つ頃には、身体に色々な問題が起こってきました。だから、わたしは、介護を、一人の人に任せてしまうのはよくないと思います。今の介護サービスには、本当に助けられました。このシステムを後退させないで、欲しいと心から願います。

 

 

 

 

 

 

 

 

死にゆく人のかたわらで

「第4話  いちばん怖かったこと

 

介護をするときに怖いこと

 

死にゆくプロセスを家で看取る。ガンの末期の家族を家で看取る。

本書のテーマはそのことである。それは、そんなに怖いことではなくて、家族が決意すれば可能なように思う、ということを、末期ガンの夫を看取った経験を振り返りながら書いている。

 

 

家で看取ること自体は、怖いことではなかった。むしろ残るものが励まされるありがたいことだった。でも、一連のプロセスの中で、怖いことは、やっぱりあった。(略)

 

 

 

人を介護する時に怖いのは、金銭的な子とも含めて、自分の限界を超えるようなことを求められるのではないか、ハードでヘビーな現実的体験があるだろう、と思うのが怖いのではないだろうか。

 

 

いちばん怖かったフェーズのことを書いてみよう。人によってフェーズは違うかも知れないけれど、やっぱり「すごく怖いフェーズ」は誰もがどこかで乗り越えなければならないのではないか、と直感で思うからだ。でも、おそらく、「すごく怖い」フェーズは、そんなに長く続くまい。そのフェーズは終わるし、終わらないとしても、慣れる。そして、そのフェーズはおそらく、死にむかう、最後のフェーズではない。

 

 

「容態の急変」と「排泄」

(略)

「いざというとき」、と言う言い方を私たちはたくさんするけれども、誰かの看病をしているときの、この、「いざ」というのは、多くの場合「容態の急変」だと思う。具体的には、ばったり倒れる、だったり、意識を失う、だったり、ものすごい痛みで七転八倒する、だったり、わけのわからないことを叫び出したり、言い出したりする、とか、そういうことなのではあるまいか。(略)

 

 

もうひとつ怖いこと。それは、「排泄」に関わることではないか。排泄物との闘い。要するにウンチとかおしっこ。このウンチ、おしっこの持つ力はすごい。わたしたちの近代的暮らしは、ウンチ、おしっこを遠ざけるところから始まっている。

 

 

五〇代後半であるわたしの年代にとって、ウンチ、おしっこの臭いは、幼い頃には馴染みのある者だった。私が小学生の頃、母の生まれ故郷、山口県のいなかでは、トイレはもちろん汲み取り式トイレであり、しかも畑をつくっていたから、汲み取り式トイレにたまった糞尿はバッキュームカーが来て吸い上げるのではなく、叔父が「肥桶」で定期的に汲み取り、畑に持っていくものであった。

 

 

 

肥桶に入れられた排泄物は畑のそばにある「肥だめ」にしばらくためられてから、肥料として畑に撒かれる。子どもたちの誰かが、山で遊んでいて、ときおり肥溜めに落ちる、というのは何の珍しいこともない、田舎の日常であった。畑のある地方に育った人なら、こんなことは誰でも知っている。(略)

 

 

だいたい今の若い人たちは、トイレに入って、下にたくさんの排泄物がたまっているところにしゃがんで用を足す、という状況自体におそれを感じるのではあるまいか。だが、二〇一〇年代に五〇代以上の方は、おそらく家のトイレが汲み取り式だった時代の記憶が明確にあるだろう。(略)

 

 

排泄物の存在とにおいのすごい力

 

ほんの半世紀ほど前には、日本人のほぼ全員が、そんな滞留された排泄物と、共存していたのである。これは、西洋社会の方々には驚愕を持って受け止められていたようであった。

 

 

「汲み取り式便所」を英語でpit latrine(ピット・ラトリン)と言うが、これは西洋社会では前近代社会の象徴であり、未開社会のシンボルなのである。

 

 

上水道、下水道が整っていないからこそ、ピット・ラトリンが存在するのであって、要するに糞尿をためているような社会に、近代は訪れないと考えられていた。

ヨーロッパを代表する公衆衛生校のひとつであるロンドン大学衛生熱帯医学院は私の母校であり、一〇年働いた職場でもあったが、そこにいた衛生学の専門エンジニアである同僚は、日本のことを、近代社会が確立されたあともピット・ラトリンと共存している社会、と定義しており、アフリカや南アジアからの留学生を驚かせていたものである。

 

 

ラテンアメリカやアフリカ、アジアの都会を含む西洋社会と西洋植民地社会の都市では、すでにわたしの二世代前位から、「水洗便所」が整備されている家に住んでいるから、近代都市におけるピット・ラトリンとの共存は、彼らにとって驚異なのである。

 

 

もっとも、上下水道の整備が近代社会の条件下と言うと、もちろんそうではなくて、なんと紀元前二五〇〇年頃に栄えた、インダス文明の遺跡であるパキスタンモヘンジョダロでは、びしっと上下水道が整っている姿が見られるそうだから、いったい人間の文明と言うのは、時間軸ともに進んでいるのか、遅れているのか、さだかではない。(略)

 

 

 

排泄物の存在とにおいにはものすごい力があって、理性は吹き飛び、人間存在の原初に引き戻される。恐ろしいことである。介護や人を看取るプロセスでも、大きな力を発揮する。家で介護していて、もうダメだ、これは家では看取ることができない、と家族が判断する大きな要因のひとつが、このウンチとおしっことの闘いである、と言わねばならない。

 

 

排泄のコントロールができなくなる人があり、排泄物で部屋が汚れ、そのにおいが家中に漂うようになることに、近代生活をしている私たちは耐えることが出来ないのだ。

怖いこと。だから、それは「容態の急変」と「排泄」のことに集約されていく。わが家でもそうであった。一番怖かったフェーズは、夫が「ばったり倒れ」、排泄コントロール不能になったフェーズであった。(略)

 

 

「ばったり倒れる」フェーズ

 

ばったり倒れる。これは怖い。本当に怖い。ばったり後ろ頭から昏倒する。なんと言ってもこれは、怖かった。六八歳で死んだ夫は、余命あと半年、と言われてから二年生きた。家で死んだのでそのプロセスをずっと見て来た。いま思い返して、いちばんつらかった、というか、一番参った、というか、いちばんこたえたのが、この「ばったり倒れるフェーズ」であった。それとくらべたら、「最後の日々」、死にむかう日々は、むしろ輝かしいような日々だった。

 

 

 

この「ばったり倒れる」フェーズは二度あった。(略)

要するに、死ぬ一年前と、二年前に、この「ばったり倒れる」フェーズがしばらくあった、ということである。(略)

 

 

頸部リンパ節転移の末期ガンが見つかった時点では、脳出血の手術の後遺症はてんかん視野狭窄だが、てんかん自体は薬でよくコントロールえていて、何の症状もなかった。身長一七五センチ、体重七〇キロ。

 

 

首が少し腫れていることに気づいた以外は、自覚症状は全くなかった。首に気づかなければ、そのまま、ガンだとも思わずに生活し続けたのだろうと思うくらい、元気にしていた。(略)

 

 

初めて倒れたときのこと

 

診断時点では何の症状もなかったけれど、一週間ほど経つと、声がときおりかすれてきた。やっぱりこういうものなのかなあ、と話す。激烈な「怖い」症状が出始めたのはガンの診断から二週間ほど経った、五月三日の夜のこと。いつものように、結構な量のお酒を飲み(もちろん、脳外科医からも、耳鼻科医からも、てんかんの主治医からも、お酒を好きに飲んでいいと言われているはずもないが、人間は飲む)、風呂に入った。

 

 

いつもひとりで風呂に入るのだが、この日はなぜか一緒に入った方がいいような気がして、わたしは風呂場にいた。

まだ、わたしが脱衣場にいるとき、湯船に入った本人が、ずいぶんふらつく、と言う。トイレに行きたいと言って、湯船から立ち上がると、ああ、だめだ、と言って風呂場に便失禁する。

 

 

本人は風呂場の隣りにあるトイレに行こうとして脱衣場で便をもらしながら歩き、トイレの前の廊下で倒れた。わたしがそばにいたので、なんとか頭から倒れることは避けられたが、相手は七〇キロ、こちらは五〇キロ程度なので支えられない。そのままトイレの前で真っ青になり、便失禁は続いた。(略)

 

 

「ばったり倒れる」フェーズの第一期が、このとき、始まったのである。四月半ばに首が腫れたことに気づいて、ガンの診断がくだされ、五月八日に入院して放射線、抗ガン剤で治療することが決まっていた、そのわずかな期間に、このフェーズが始まったのだ。(略)

 

 

子どもも育てているし、老人介護もやったから、排泄物に不慣れなわけではない。しかしおとなが派手に便失禁したあと、というのは、なかなか、ハードな状況である。風呂場から脱衣所、廊下に至るまでの大量の便とそのにおいは、わたしをして、「ガンの末期患者がいるのだ」という覚悟を決め、ハラを据えさせるに十分なインパクトがあった。これが、本人が亡くなる約二年前のできごとで、ふりかえってみると、この「倒れる+便失禁」が、いちばん「怖い」時期であったと思うのだ。」

 

 

〇義父の病状が急変して、救急車を呼ぶ前、義父にも便失禁がありました。「案ずるより産むがやすし」とように、どれほど大変だと言っていても、子どもは生まれて来る…

それと似ていて、便の始末も、大変だ……と言っていても、そういう状況になってしまえば、大抵の人は、「立ち向かって」やってしまうと思います。でも、その状況をあとで振り返ったり、いろいろ案じたりしている時には、とても「怖くて」逃げ出したくなります。

 

「排泄物の存在とにおいにはものすごい力があって、理性は吹き飛び、人間存在の原初に引き戻される」と言う言葉を読みながら、本当にそうだと、思いました。

 

 

 

 

 

死にゆく人のかたわらで

「いやおうなしに持った覚悟

 

夫が六〇を過ぎて退職し、しばらくしたころ、朝六時半、そのバクダンはバクハツした。隣に寝ている夫が「頭が痛い」と言う。ほどなく「あ、これはいつものと違う、すぐに救急車を呼んでくれ」と言う。(略)

 

 

救急制度、というもの。これは本当に大したことである。日本の医療制度が他国と比べて劣っているとか、問題があるとか、もちろんそのとおりであると思うし、社会保障制度が財政的に破綻していて、そのありようは、未来の子どもへの虐待に近い、と医療経済学者の友人から聞かされてもいる。きっとそうなのだと思う。

 

 

とくにこの財政の問題に対応するために、たしかになんとかしなければならない。改善しなければならないところだれけなのではある。このままでやっていけないところまで来ているという認識は、正しい。

 

 

だからといって現状が機能していないわけではない、というのがすごいところだ。

先輩方が戦後に精緻につくりあげたこの制度は、ひとりひとりの文字通り血のにじむような努力によってすばらしいものとなり、現在の所、おおよそ、よく機能している。

 

 

電話をすれば救急車はすぐ来てくれて、優秀な救急隊員がてきぱきと必要なことをしてくれて、患者をストレッチャーに乗せて病院に運んでくれて(もちろん今回はラッキーだったわけで、搬送先病院が見つからない、という話はいくらでもある。

 

わたしたち自身も、数年後にその問題に遭遇することになる)、そこには夜中でも明け方でも、おおよそ優秀な事務方と看護師と医師がいて、近代医療が提供されるのである。

夫がどういう人間か、どういうことをしていた人か、どのくらいお金を稼いだ人なのか、どんな家族がいるのか、家族に支払い能力はあるのか……そういうこととは全く関わりなく、ただ、目の前の患者を懸命に救おうとする。これは本当にすごいことである。(略)

 

 

 

ごほうびでもらったいのち

(略)

しかし、ここではその話に深入りはすまい。いまはとにかく、心臓とか、脳とか、人間にとって、なくなったら「すぐに」死んでしまうようなところ、について話そう。そういうところを外気にさらして手術すると、やはり人間はしばらく、おかしくなってしまう、ということをわたしは学んだ。

 

 

父は晩年に心臓バイパス手術をしたのだが、その手術のあと、夫も開頭手術のあと、二人とも集中治療室にはいっていた。術語しばらく経って目が覚めて意識が戻ってから数日、彼らは完全に、現実ではない世界に生きていた。病室の看護婦にスパイ行為をされているとか、見ているはずもない野球の試合の結果を延々と話すとか、集中治療室にいるのに「そこにあるビールを出せ」とか、看護の人に暴力をふるうとか、本当に、全く正常とは思えない発言や行為に及んだ。

 

 

まあ、ともかく、病院の方は大変だったと頭が下がるし、見ているわたしも気が気ではなかった。しかしそのようなよくわからないフェーズを経て、夫はいのちに関わる開頭手術のあと、何事もなかったかのように、この世に復帰した。

 

 

 

術後、数週間して自宅に帰ったら、まずビールを飲んでいたし、食生活も勝手なものばかりを食べ続けていたし、気ままに暮らしていた。気になっていた脳動静脈奇形がすでにバクハツしてしまったのだから、とくに気にすることもなくなったので、「ごほうび」でもらったようないのちをながらえることになり、変わらずきままに暮らした。

 

 

 

開頭手術から二年後の後遺症

しかしそれから二年後、東日本大震災の直後に、てんかんの発作が出始めた。もちろん、脳の手術の後遺症である。てんかんは、どういう症状が表にでるかはよくわからないといわれている。世間では「泡を吹いてばたんと倒れる」と思われていることが多いのだろうが、それはほとんど偏見に近い勝手なイメージであると言わねばならない。そういうこともあるが、そうでない症状もたくさんあって、表から見ただけではわからなくてつらい症状も少なくないのである。(略)

 

 

最初のてんかんの発作は、年のあまり違わない叔父の家を訪ねている時に始まった。叔父に言わせると、一緒にラーメンを食べていたのだが、なんだか食べ方が緩慢になってきておかしい。トイレに行く、というがうまく歩けない。よく見ていると、左半身が麻痺しているようだ。家族に脳腫瘍を患った方もあり、本人もいろいろ病気を抱える叔父は、様子を見てこれは脳になにかトラブルが起きているに違いない、と直感し、そのまま夫を近所の東京都立多摩総合イリョウセンターに自分の車で運んだ。

 

 

わたしが連絡を受けて病院に着いたとき、夫はすでにお馴染みのERに入院していた。だ丈夫だ、と言いつつも、叔父の家で起ったことはなに一つ覚えておらず、ラジオをチューニングしたあとのように、人の聞こえないものが聞こえるようにていて、「てんかん」の診断が下されていた。

医者の説明によると、やはり、二年前に行った開頭手術の影響であるという。

(略)

 

 

 

ガン細胞にはブドウ糖が集まる

(略)

この検査では、ガン細胞は正常細胞と比べて三倍から八倍くらいの ブドウ糖を取り込むらしいことを利用して、ブドウ糖に近い成分を体内に注射し、そのブドウ糖に近い成分がどこに集まるかを検知しているのだそうだ。(略)

 

 

それを読みながら、ふと、これは実におそろしいことを暗示しているのではないか、と考えた。「炭水化物が人類を滅ぼす」(光文社新書、二〇一三年)という刺激的なベストセラーを書いた夏井睦医師は、個人的な知り合いである。(略)

 

 

「ケトン体が人類を救う」(光文社新書、二〇一五年)という、もちろん先述のンを意識したタイトル(編集さんが同じなのである)をつけた、産科医の宗田哲男氏による、赤ちゃんはブドウ糖ではなくケトン体で生きている、という本もあらわれた。(略)

 

 

 

これを読んでやはり、糖質は制限すればするほどよいのではないか、糖質の摂取量とガンの発症には関連がある、という仮説をたてられないか、などと考えないえにはいかない。案外、こういう直感は正しい。糖質制限食の未来について、改めて考えさせられる。(略)

 

 

ゆるぎない方針

この人は、もともと「がん検診」はやらない、という方針の人であった。一九九六年に出版された「患者よ、がんと闘うな」(文芸春秋)で話題になり、そのあとも刺激的な論考を展開しておられる放射線医、近藤誠氏を心から尊敬しており、彼の方針が、夫のガンその他の病気に対する方針になっていたのである。

 

 

夫は、一九九七年「がんと戦うな」論争集―患者・医者関係を見直すために」(日本アクセル・シュプリンガー出版)など、近藤氏のガンに関する初期の編著書何冊かの編集者であり、個人的にも近藤先生と親交があった。彼の本をよく読んでおり、自分にはいちばん納得がいくこと、と思っていたようだ。(略)

 

 

いわく、世間では「がん検診」を受けて早期発見することが大切なように言われているが、症状もないのに、検診で見つかるようなガンは、実は治療する必要のない”前ガン状態”であることも多い。(略)

 

 

だから、「かん検診」は一切やらない。自分から症状もないのに、ガンを探しに行ったりしない。ガンは症状が出てから治療するのでよい。また、症状が出たからと言って、ムダな手術や抗ガン剤使用によって、ガンを”いじめ”ると、それはさらなる苦しみにつながる。ガンはできるだけほうっておいて、穏やかに死に向かうのがよい。

 

 

しかし、症状が出て、つらくなったら、痛み止めや緩和治療はしてほしい。症状で苦しみたくはない。結果として、ガンは、症状が出て、診断されてから、すぐには死なないことが多い。そのあたりが心臓発作や脳出血と違い、自分に時間が残される。

 

 

死ぬまでの準備もできるから、ガンで死ぬのはよいことだ。できるだけガンで死にたい。と、おおよそ以上のようなことを、ゆるぎない方針として持っていたのである。(略)

 

 

ゆるぎない方針を持つ、ということは、ふりかえってみれば、実によきことであった。深刻な病気になって、とくにガンのような治療法が確立しているとまだはっきりは言えないような病気にかかると、患者と家族はどの治療法を選択すべきか、翻弄されやすい。疼痛管理、つまり、痛みの軽減はかなりできる時代に入りつつあるので、一番の苦しみはこの「翻弄」ではないのか、と考えたりするのである。」

 

 

〇「色々批判されていても、救急医療は機能していてすごい」ということ、

私も、義父母が散々お世話になったので、同じように感じました。

また、「がんと闘わない」という方針についても、勉強になりました。

 

 

死にゆく人のかたわらで

「酸素吸入器をはずす

 

死にゆく夫と、そこに寄り添っているわたしが静かな時間を過ごせるように、そこに第三者が入って、邪魔をしたり、あれこれよけいな「処置」をしたりしないように、新田先生のたたずまいは、絶妙でだった。「夜中だったらわたしだけ呼んでください」、とわたしの周囲の安心な状況だけを整えて、その場を去る。(略)

 

 

 

夜一〇時半、長男が帰宅した。(略)

長男と二人で話しながら、夫をのぞきこんだり、頭をなでたりする。下顎呼吸は続いていて、それも的確なリズムを刻んでいて、この期におよんでもなお、この時間は長く長く続くのではないか、と思われた。(略)

 

 

病人の状態は、だんだんと悪くなって行くのではない。あるとき、がくがくっと状態が悪くなり、そしてしばらくプラトー、下げ止まり状態の安定期が続く。そして、また、がくがくっと悪くなる時期が半日くらいあって、そしてまた下げ止まる。

 

 

下げ止まっても下げ止まっても、まだ、いけるのではないか、と思っていたから、今回もこれでしばらくいくのではないか、と思ったのだ。

今思えばなんという楽観視。でも、これで終りだ、と本当に思えなかった。

 

 

長男が変な音がする、と言う。たしかに、いままで聞こえなかったシューシューという妙な音が夫の周りからしている。(略)

テイジン吸入器からの酸素は本人に確実に供給されていたが、いまはシューシューと音がする。そばによってみると、鼻に入るべき酸素が、からだに入って行かず、外に漏れているのである。(略)

 

 

 

もう、これ、はずしてもいいよね、酸素、入ってないものね、と言って、長男とふたりで酸素の管を外した。(略)

九二歳で死んだ義母は七〇を出るか出ないかという頃に認知症を発症し、二〇年近く特別養護老人ホームに入っていた。母を送ってから、逝きたい、というのは夫のたっての希望だったから、義母はこよなく愛する息子の願いをしっかり聞き入れて、彼よりちゃんと先に逝ったのだ。

 

 

血圧を測ることができません、という連絡が施設より入って、私たちは施設に向かった。私たちが施設に着いたら、施設の看護師さんは、「もう、はずしましょうね」と言って酸素吸入器を義母からはずした。

 

 

私たちはそので一時間ばかり義母のそばにいて、夫は義母に話しかけたり、ほおをなでたりしていた。そしてふと気づくと、義母はもう呼吸をしていなかった

 

 

だから、酸素吸入器をはずすことは、呼吸の終わりにつながるそれもわかっていたけれど、もう、シューシュー酸素が出ている吸入器ははずしてやりたかった。(略)

 

 

明るい憂愁につつまれた時間

 

しばらくは夫の穏やかな下顎呼吸は、それでも続いていた。長男が足下にいてわたしが枕もとで彼の頭のところにいた。下顎呼吸が止まり、二度、大きな息をして、夫はわたしの胸の中で、文字通り最後の息をひきとった。

 

 

長男と、その最後の瞬間に立ち会えたことはなんだかすごくありがたかった。二四歳はもうすでに立派な成人ではあるが、ひとりの人のいのちの最後をつぶさに見るには、まだ若い。こういう機会をこの年齢で与えられるこの人は、なんらかの役割を負うた人であるのだろう。(略)

 

 

わたしたちはこの場に立ち会えたことについて何も話さなかったが、お互いの感謝の気持ちはしみじみと感じた。長男もわたしも、このときには泣いたりしなかった。

 

 

不謹慎な言い方にならなければいいな、と思うが、わたしはこのとき、少しも悲しい、という思いがよぎらなかった。涙どころではなかった。晴れやかで立派な最期を目の前で見せられて、いろんなことがあったけど、この人への敬意と愛情で文字どおり胸がいっぱいだった。ありがとう。という言葉しか出てこない。人間って、よくできている。(略)

 

 

 

長男とわたしは介護ベッドのかたわら、狭いスペースになんとか二つ布団を敷き、眠った。(略)

病院で亡くなって、家に連れて帰ったら、きっと線香など立てて、もう「死人」として扱ってしまうだろう。(略)

でもわたしたちの生活の場の延長で、普通の暮らしのひとつづきの中で、わたしの腕の中で息をひきとって、家族の時間は続いていて…

 

 

 

そういう流れの中にあったから、夫がまるでまだ生きているかのように、夜伽をしたのだ。おやすみ、金ちゃん、おはよう、金ちゃん、と言って。

死はよそよそしくおそろしいものではなくて、わたしたちのすぐそばにあって、とても親しいものだったのだ。」

 

 

〇 私は誰かの死の瞬間に立ち会ったことがあっただろうか、と振り返りながら読みました。

義母の時は、病院に面会に行った時、すでに血圧が70になっていました。でも、それまでも、なんどか持ち直したりしていたので、そのことが、すぐに死につながるとは、考えもしませんでした。

 

夜になって、病院から亡くなりました。という連絡がありました。一瞬、何故、亡くなってからの連絡なのだろう、と思ったのですが、しょうがありません。車で一時間以上かかる遠い所にある病院だったので、

それから、義父と夫と三人で病院に行きました。

 

義父の時は、家で療養していた義父が、朝、病状が急変し、救急車でいつも通院していた病院に行きました。私は医者に、危ない時には、亡くなる前に知らせて下さい、とお願いしました。

 

 

すると、その時、医者は、「今既にもうかなり危ない状態です。」と言いました。その日の夜は、ベッドが空いていなくて、病室に入れなかったのですが、次の日には、病室も決まりました。

 

そして多分、今夜だろう、というので、夫と二人で病室に泊まりました。でも、義父は肺の疾患だったので、呼吸が出来ず、苦しんでいました。それで、麻酔薬を使うという処置に同意しました。

 

その麻酔薬を入れる前の会話が、最後の会話になりました。

夫と義父が話が出来て良かった、と思いました。

その夜、私はほとんど眠れませんでした。義父が何度も唸り声を出していたので、その都度、手を握ったりしていました。

でも、義父はその夜、逝きませんでした。

 

次の日は、確か義母の法事があって、お坊さんが来ることになっていました。それで、家に帰りその夜は、家で眠りました。

結局、義父は、次の日の早朝亡くなったようで、

病院からは、亡くなってから、連絡が来ました。

 

これが、病院で亡くなるということなんだろうな、と思います。

 

人間ではありませんが、家で飼っていた犬が亡くなった時は、

居間に敷物をしいて、そこに犬を寝かせ、その呼吸を確認しながら、家事をしていました。何度目かの確認の時、呼吸が止まってしまったのに、気づきました。

 

息を引き取るその瞬間に立ち会う、というのは、本気でその気にならなければ、出来ないことだと振り返りながら、読みました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

死にゆく人のかたわらで ―ガンの夫を家で看取った二年二カ月

〇気持ちが不安定になり、なかなか落ち着いてPCに向かえなくなったので、「本のメモ」を休みがちになっていたのですが、また、少しずつ続けたいと思います。

 

途中になっていた、三砂ちづる著「死にゆく人のかたわらで」の

メモをしたいと思います。この前の部分は、ここです。

 

「下顎呼吸のかたわらの穏やかな時間

 

この日は、親しい若い友人の誕生日だった。(略)

つまり、わたしはこの日、夫が亡くなる日でさえも、「誕生日のお祝いで、人に会いに出かけらる」くらいの状態だと、まだ思っていたのだ。

まだ大丈夫、と思える状態は、ドクターとナースの帰られた午後三時ほろには、さすがに「大丈夫ではない」に変わっていた。教え子に電話し、やはり今日はどうしても出かけられそうにない、というと、「なにか僕にできることはないですか」と言う。わたしは、息子のように親しく付き合っている彼に、「そばにいてほしい」と頼んで、家に来てもらうことにした。

 

 

わたしはさすがに心細かったのだ。いつかは来る、と思っていた時は、今日なのか。ドクターとナースはやるべきことはやって、なにかあったら連絡を、と言って、いつもと同じ淡々とした、でもあたたかな態度で変えられた。

 

 

息も荒い。話もできない。家に来て、と頼んだ友人が家に着くまでの一時間のことをあまりよく思い出せない。

この午後には、夫の呼吸は下顎呼吸になっていた。呼吸をするたびに下顎が上ったり下がったりする。要するに口があいたりしまったり、あぐ、あぐ、と言う感じの呼吸になる。もちろん、知識はあった。これが最後の呼吸だ、と。

 

 

下顎呼吸になるともう意識がない、とか言われているが、夫は反応はしていた。この友人が午後四時半ごろうちに着いて、夫に呼びかけると返事をしていたし、午後五時ごろまでは「愛してるよ」「ありがとう」と言うと、笑ってうなずいていた。

 

 

反応はしていたのだ。「金ちゃん、楽しかったよね」と言うとうなずいていたし、「しまねさん(友人)が来てくれているんだよ」と言うと、少しにっこりしたりしていた。

 

 

友人はなにか買ってきますね、と言って近所のスーパーに行ってのり巻きとかお稲荷さんとか、つまむのもを買ってきてくれて、同じくわたしの教え子である奥さんもほどなく家にやってきて、四時間くらい一緒に過ごしてくれた。まだ暑がってタオルをはねのけることはする。(略)

 

 

 

友人カップルが夜八時半ごろに帰宅するころには、夫の呼吸は安定しているものの、もう呼びかけには全く反応していなかった。彼らは「金ちゃん、また、来ますね」と言ってくれたけれど、返事はなかった。

 

 

 

「亡くなったら呼んでください」

友人夫婦が帰って、夜九時半ごろ、なにか買ってきてくれたものを食べようかな、と思っていたら、新田先生が現れた。「帰りに寄ってみましたよ」と電話もなくただ、やってきてくれた。なんだか絶妙なタイミングであらわれる。

 

 

「下顎呼吸ですね。今夜だと思います」「輸液は取りましょうか」と言って抜いて下さる。手袋もせず、そのあと手を洗いもせず。「すっきりしましたね」。鼠径部に入っていた太い梁につながれた高カロリー輸液は、もちろん、夫の最後の水分、栄養分補給の砦であった。これをはずす、ということの意味はよくよくわかっていたけれど、いまさらわたしも何も言うことがない。わたしはだまって見ていた。

 

 

 

管だらけで死にたくない、とよく言うが、この管は、酸素吸入は別として、夫がつながっていた最初で最後の管だった。全く食べられなくなり、水分も飲むのがつらくなり、経口の錠剤も飲み込むのがつらくなり、この高カロリー輸液の使用に踏み切った。「無理な延命、ということにならない程度の量にします」と新田先生は言われ、ずっと九〇〇ミリリットル、ここ数日は七〇〇ミリリットルの輸液を使っていた。

 

 

「キリストの最後のような顔ですねえ。みんな立派なんですよ」。わたしもいろいろ話す。「甥夫婦が帰ってしばらくして起こしてほしい、トイレに行く、という。溲瓶ですればいいのに、と思ったけれど、トイレに座らせて、おしっこをしました。

 

 

そうしたらもう立ち上がれなくなってだんだん白目をむいてきたので、なんとかベッドに座らせて、そうしたら倒れ込んだので先生を呼ぶことになったんです。トイレに座っている間に顔を熱いタオルでふき、からだもふいてやりました」

 

 

夜、一〇時すぎに先生は帰る。一〇時二〇分、呼吸が少し速くなってくる。まだ、手は動く。まだ、タオルケットをはねのけようとする。夫の様子を見て、「夜中になったらわたしにだけ電話して下さい。朝になって明るくなったら師長にいろいろやらせましょう」と言って帰られた。

 

 

わたしも、はい、そうします、とやっぱりなんだか現実味のない返事をしてしまったが、いまになると、この要するに「亡くなったら呼んでください」は、医者としてはすごい言葉ではあるまいかと思う。

 

 

これが、病院でのことなら、どうだろう。きっと、あの処置もして、この処置もして、いろいろな周囲があわただしく動くのだろうな、と想像して見ると、そのすごさに気づく。百戦錬磨の訪問診療医ならでは、の一言である。(略)

 

 

しかし、「家族とともに看取り」をする「訪問診療医」の役割は、いまわのときにやってきて、心臓マッサージをするのが役割ではない。家族が落ち着いて、本人がなるべく苦しまないで、穏やかに家で最後のときを迎えられるようにセッティングするのが、訪問診療医の仕事なのだ。

 

 

彼は最後のときに手を下しはしない。死にゆく人の最後のときは、その人自身と、家族と、その環境に委ねているのだ。

 

 

 

死にゆくときの「介助者」の役割

 

本来の第三者である「介助者」の役割とは、まさにここにあるのだろう。わたしは出産に関わる仕事をしてきた。世の中では人間は「ひとりでお産はできない」と思われている。(略)

 

 

しかし、誰が産むのかといえば、医者が産むのではない。女が産むのである。女が自分の力で産み、赤ちゃんが自分の力で生まれる。(略)

 

 

 

つまりは、「介助者はなにをするのか」ということは、実はそんなに簡単ではない。何か手を出して、その人にさわって、その人に対して「なにかをする」ことが介助者の役割だとわたしたちはつい思うが、必ずしもそうではない。その人がその人らしくあることができるように、その人がその人とともにある人(出産の場合は赤ちゃん、死にゆく場合の人は、親しい家族だろうか)が静かにその時を迎えられるように、環境を整えるのが介助者の役割とも言える。出産の場合、伝統社会のありようから見えて来るのはそういうこと、つまり「介助者は手を出すのではなく、周りの状況を整える」人なのである。」