読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

畏れ入谷の彼女の柘榴

〇 舞上王太郎著 「畏れ入谷の彼女の柘榴」を読みました。

この著作については、ずっと気になっていたのですが、やっと読むことができました。

 

そして読みながら、この作者との出会いを喜びました。

 

もともと、読書量が少なくものの考え方も、かなり狭い。

そんな私が、この作者に出会えたのは、全くの偶然でした。

 

私の場合、読書が苦手というほどではないのですが、

引き付けられない文章は、読み続けることができないのです。

努力して読む、ということが出来ないので、すんなり引き込んでくれる

舞上王太郎には、いつも感謝してしまいます。

 

この物語は、ファンタジーなのか、それともSFものなのか?と思い始めた頃、

話は急展開しました。

 

ここが、なんとも清々しくて、気分がスッキリしました。

すごいなぁ、と思います。

 

感想は〇で、引用文は「 」で、記ます。

 

「千鶴は瞳に穴が空いたみたいに見える程ぽかんとしている。

俺は続ける。

子供ができることはおめでたいことや。自分で作ったならな。でもそうでなかったら全然別の話や。人に押し付けるおめでたが相手に迷惑になるなんて普通にありえるやろ?

 

 

それチヅわかってるはずやろ?ほやかって今、まさしくその例を並べてくれたもんな」

「…………」

「千鶴が親としてふさわしくない、有害やって言うてるのはそういうところや」

「……どういう……」

 

 

 

「わかってるはずのことを自分に都合よくわからんふりするところ。そんでそのわからんふりしていることも誤魔化そうとするところ。誤魔化すために嘘をつくことも平気なところ」

「………!」

追い打ちをかけ続ける。そう決めている。

 

 

 

「さっきチヅ言うたが?「子供の親を軽んじるな」って。俺は親と親であることを決して軽んじてない。敬意を払うからこそ今はっきり言うわ。チヅには親は無理や。向いてないどころの話でない。資格がないわ。

 

 

「悪いところがあったら直すで……」

「直せるところでない。もともとないわ。悪いところって言うても何が悪いかもわからんやろ?」

「……教えてや」

 

 

「いいで?根本や。チヅは命を大事にできんのよ。ほやでいろんな人に気楽におめでた押し付けたりできるんよ。新しく生まれる命の話だけでない。

もうすでにある命のことも全然適当やもんな。(略)」

 

 

 

「わかってないって。まあわかってもらえると思って言うてないけど、チヅにはわからんのや。反省ってのは、何が悪いかわかってからでないとできんことや。それがわからんチヅにはできんって」(略)

 

 

 

「「ちゃんと追い込むって決めてるでな。俺は今回チヅには滅茶滅茶ボロボロになってもらうつもりなんよ」

 

「なんで?」

「言うたやろ? 親として敬意を払ってるんや」

(略)

「びっくりした?自分のことが大事で自分自分優先でやってきたつもりやったんやろ?

違う違う。自分のことが大事な人間は周りのこと大事にするもん。それができるもんや。人のこと大事にできんやつは、誰に嫌われてもどうでもいいと思ってるやつで、それはつまり自分のことどんなに酷い目に遭ってもいいと思っているんよ」

 

 

千鶴がいよいよそこから消えてなくなったみたいにして愕然としている。

千鶴の根幹を潰してしまったのかもしれない。

 

 

ほんの数か月前までは何も問題なく一緒に暮らし、確かに愛していた相手をここまで追いつめるなんて……と俺自身がどこかで悲鳴をあげるけれど、いいんだ、と俺はそれを削ぎ落す。

 

繰り返した通りだ。

親としての敬意を持って、俺はこれをやってるんだ。ここに欺瞞はない。やり込めてスッキリとかも全然ない。

気持ちはひたすら重い。

俺はこの人のことが好きだったのだ。

こんな人のことが好きになっていたのだ。

でもこの人が好きになったおかげで今の全てがある。

 

 

 

「……チヅは、どうなってもどうやっても、何が何でもナオくんの母親や。でも、親としては失格や。それわかるやろ?」

俺は書類を出す。

離婚届。

 

子供の親権の欄は俺が書き込んである。

「これ、書いてくれや。他はいろんなこと、フェアにやるさけ」

 

 

千鶴は動かない。

動けない?それも当然だろう。

でも俺は待つ。

今日終わらせないと、千鶴がまた何をトボけて誤魔化して嘘をついてくるのか

わからない。(略)」

 

 

「真面目な葛藤や計算をこなした後にしても、確かにまあいいや、ままよ、どうにかなるさ、みたいなところがあるかもしれない。それが根本になるからこその迷いだったのかもしれない。

 

が、生きることに軽やかさを持ち込むことと命を軽んじることは違うはずだ。

でもそのことを説明してもわかってもらえないだろうしわかってもらう必要もないから俺も何も言わない。

 

黙った俺を見て千鶴が

「ごめん、忘れて」

と言うけれど、本当にこいつは……としか思えない。(略)」

 

 

 

「でもやらかした罪の償いには全くなっていない。

それにはおそらく何をしても届かない。

現実問題としては、内心において、この世のいろんなことと同様折り合いをつけるしかない。

 

 

 

その上で願う。バカの使った言葉だが、それに頼る他はない。

おめでたい出来事がおめでたいことになりますように。

どのようなバカにも存在意義があって、この世の幸福につながるチャンスがそれなりに

あるんだという俺の祈りが叶いますように。

 

尚登の指はもう光らないし、光らせ方を忘れちゃったと言う。

あああ、あああああああ、そういうことが、たくさん起こりますように。」

 

〇 ファンタジーでもSFでもありませんでした。

この文章…

 

「わかってるはずのことを自分に都合よくわからんふりするところ。そんでそのわからんふりしていることも誤魔化そうとするところ。誤魔化すために嘘をつくことも平気なところ」

 

「…チヅには親は無理や。向いてないどころの話でない。資格がないわ。」

 

これは、まさに今の盛山文科相を評するのにぴったりの言葉です。

更に、もう随分前から、自民党の多くの政治家も同じような態度で、国民に対応しています。

 

「政治家は無理。向いてないところの話ではない。資格がない。」

 

なのに、それをしっかり「追い込む」ジャーナリストや検察官はいない。

国民までも、こんな噓つきで、何が悪いのかもわからない自民党公明党を支持しているのですから、本当に気持ち悪くてしょうがありません。

 

おそらく、この著者には、そんな意図はないのでしょうけれど、私はついそんなことを思いながら、読んでいました。

そして…

 

「…どのようなバカにも存在意義があって、この世の幸福につながるチャンスがそれなりにあるんだという俺の祈りが叶いますように。」

 

私も、心からそう思いました。

わからない人には、わからない。

そういう国民性なのだと思うしかないほどに、絶望的になってしまう。

 

でも、そんな私たちにも、「それなりに幸福につながるチャンスはあるように」と

祈りたいと…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「家族」という名の孤独

「子どもは、親の輝く顔を見たい一心で生きている。そんなふうには見えない子どもでもそうであることは、自分の子ども時代を想い出せばわかるはずなのに、親という役割にとらわれた人は、このことを忘れてしまっている。

 

 

子どもに親の期待を雨あられと浴びせかけ、期待の視線で縛り上げるということが、この少子化時代に普遍的な親の子ども虐待である。(略)

 

 

そんなとき、親にラーメンをぶっかける子は、かけない子よりましなのである。頭にかかった熱いラーメンは、親の頭を冷やすだろう。ここから自然の理にかなった親子関係がはじまるかもしれない。

 

残念なのは、この期に及んでなお、親の「虐待」に逆らえない子が圧倒的に多いことである。そして、こんなのが「健全な親子関係」と呼ばれているからお笑いだ。健全な母たちは子どもに献身することによって子どもたちを追いつめ、夫に献身することによって、男たちを過労死の淵に追い立てている。

 

 

この種の献身は「共依存」である。この概念については第二章でもふれたが、ここでもう一度、その意味を掘り下げてみよう。」

 

 

「(略)

親密な人間関係とは、このような不安と支配欲から解脱した関係である。それは流動的なプロセス(過程)であって、共依存のように恒常性を持った状態ではない。親密性が制度や組織というものと相性が悪いのは、一つはそのためである。(略)」

 

 

 

共依存と親密性の外見が似ているのは、共依存者が偽の親密性を装う名人だからである。共依存者の利他主義は、実は記述のような自己中心性から発するという矛盾を抱えているのだが、われわれの文化は共依存的な権力使用を親密性の衣装のもとに覆い隠そうとする企みに満ちている。

 

 

共依存者は親密でない人の前ではニコニコ仮面を被って、親密な関係を装う。そして真に自分が

関わりたいと思う人には抑うつ的な自己を表現し、深いため息をつく。(略)」

 

 

「ある程度、男性に従っていかれる人、男性をたてられる人、自分はバカなんだと思える人でないと、とても結婚生活に耐えられないでしょう。私のように何の取り柄もない女は、結婚してもどうにかやっていけるでしょうけれど」

とその女性はある文集に書いた。

三人の男の子を育てながら、夫の実父母と同居して世話してきたという専業主婦である。(略)」

 

 

 

「ロボットのように機能的な良妻賢母は、このようにして息子を殺した。はたから見ると冷酷無残に見えるかもしれないが、この母はやさしい母である。自分が犯罪者になるのもいとわず、彼女は息子の将来の人生を神のように判定し、これを絶つことによって息子の苦衷を救ったのだから。自分の人生に侵入され、将来を勝手に断たれたほうはたまったものではないが。」

 

 

「この有名な事件を取材対象とした本に、「仮面の家」(共同通信社)というのがある。著者の横川和夫氏は共同通信社の記者で、以前から取材を介して面識があった。(略)」

 

 

 

「弁護士さんの冒頭陳述を聞いておりまして、ああ、私の知らないところで、ずいぶん長いあいだ、妻は苦しんでいたんだなあ、と感じました」

と息子を殺害した父親は言った。「殺さなければならない」と考えたわりには、この男性は息子に接していなかったわけである。

 

 

息子殺しを提案するほどに妻が悩んでいると知ったなら、なぜ妻に代わって息子に終日向き合うことをしなかったのだろう。

現にそのようにした男たちを、私は何人も知っている。仕事なんかしている場合ではなかったのだが、この男は息子殺しの当日まで、職場に出かけていた。(略)

 

 

 

仕事三昧に生きて、その余のことを念頭に置かないでいることを、仕事依存という。日本の中年男たちのほとんどが仕事依存者であるという意味では、この男も「健全な」生活をしていたわけである。(略)」

 

 

 

 

 

 

 

「家族」という名の孤独

「同世代のグループが欲しいから、学校みたいなところへ行きたいというのなら、そうしたところを用意すればいい。フリースクールでもオルターナティブ・スクールでも結構ではないか。

 

 

ただし、どんなにフリーであろうと、オルターナティブであろうと、それがグループである以上、そして、思春期が思春期である以上、そこには過酷な競争が待っている。(略)」

 

「したがって精神療法の仕事とは、主体の症状を要求に転換する過程ということができる。

怠学、非行、薬物乱用など青春期の男女にありがちな逸脱行動の一部は要求であり、愁訴であり、ある部分は症状である。これらが一つの問題行動に混在しており、しかも明確な要求と見えたものが実は症状であったりするのが、この領域の精神障害の特徴なのである。(略)」

 

 

「こうした一連の過程の中で、乱用生徒の口からは「助けて」の言葉は出てこない。口をついて出るのは、反抗的な強がりと「金をくれ」、「ほっといてくれ」などの要求だけである。口で「助けて」が言えるような子なら、薬物乱用などという危険で面倒なルートへと迷い込むこともないのである。」

 

 

「今のところ、精神科医も精神療法家も彼女と言葉を交わせない。母親には、赤ん坊として甘えるだけ。E子が年齢相応の精神機能を表現する相手は唯一、シンナー乱用の仲間だけである。

 

小学校五年のとき、あれほどに級友と担任教師へのコミュニケーションを求めて手紙を書き続けた少女の現在が、これである。」

 

 

「私がそういう立場にいるせいなのだろうか、こうした形の学校不適応にたびたび出くわす。活発で口が達者な子、清潔そうで利発げな子、そして子どもを大切にする家の子が増えるに従って、その逆の印象を与えてしまう少数の子どもたちがクラスから疎外されていっているような印象を受ける。」

 

 

 

「今の時代の子どもたちにとって、学校でうまくやっていけないとなると、話は深刻だ。彼らにとって学校以外の日常がないのだから、学校が駄目なら日中を生きて過ごす場所がないからである。

 

こういうふうにしてしまったのは、教師を含めた大人たちである。すべての子どもが公的に制度化された学校で、一律の教育を受けながら日中を過ごすように定められていて、そのことの是非を疑ってかかることもしないようになってから、学校生活を除いた子どもたちの生活は、極めて貧弱なものになってしまった。

 

 

学校でしくじって学校嫌いになった子どもは、今や病気を自称して日中を寝て過ごすか、犯罪者のように「摘発」を恐れながら世間の目を逃れて暮らすしかない。こうした「学校嫌い犯罪」を犯すことの恐怖にかられながら、今の子どもたちは必死で学校へ通っているように思われる。

 

学校はそれ自体、子どもたちにとって最大のストレスであるという現実を、われわれはもう少し受け入れた方がよいのではないか。学校という共同社会が子どもたちにとってストレスであり続けるのは仕方がないとして、ストレスを限度以内に押さえる方向への努力が大人たちに要請されているのではないだろうか。

 

 

現在のような状況が続く限り、ここからは一定数の子どもたちが犠牲の野羊としてドロップアウトしていく。(略)」

 

 

 

「今、学校には行内の人間関係から独立した精神保健の専門家が必要だろう。(略)」

 

 

〇 おそらく大昔にも、「表沙汰」にはならないたくさんの問題があったのではないかと思います。

でも、一時は、「資源のない私たちの国の唯一の資源は人間」と言われていました。

その私たちの国で今、結婚したくない人が増え、子どもを持ちたくない人が増えています。更には、この国の未来には、希望が持てないと、国外で生きることを選択する人の話も聞きます。

 

「頭の良い人々」が「熱心に教育」した結果が、今の状況を作り出しているように

見えてなりません。

何か一番肝心なところで、間違っているような気がしてしまいます。

 

 

 

 

 

 

「家族」という名の孤独

「登校拒否は、登校という形で社会参加を促されている子どもからの「ノー」のメッセージである。

何らかの形で社会に出ることに挫折した子どもが、こんな生活はいやだと自己主張しているのだから、親のほうが「ああ、そうかい」と言えば、子どもは学校へ行く以外の自分の生活を模索するという次の段階へと進むことができる。(略)」

 

 

「実は、ほんの少し前まで、私たちの社会はこうした子どもたちの自己主張を、大した問題とも考えずに受け入れてきた。職人の子どもが学校を嫌って、居職の父親の仕事場で父の手元をじっと見ているとすれば、それを父親が喜んだ時代があった。この登校拒否児は、親孝行者であった。

 

私は東京の下町の育ちだが、小学校の同級生で、そんな形で徐々に学校から離れていった子どもたちを知っている。皆がそのことをそんなに騒がなかったし、彼自身も今では立派な社会人だ。(略)

今や子どもたちは登校と勉強以外の仕事が許されない。(略)」

 

 

「学校に行かないことに関して、こんなに親が半狂乱になるような時代はなかった。よく調べてみれば、これはごく最近になって起こってきたものである。(略)」

 

 

 

「生徒の一部がこれに適応できないのは当たり前のことで、こんな画一的な制度の中にいたくないと思う生徒がまったくいないとしたら、その方が不気味なことである。

登校を「拒否する」「したくない」などと自己主張できる子がいたとしたら、それは今の子どもたちの中で並み以上の子どもで、偉い。偉い者に偉いと言ってやるのは、治療的なことである。

 

 

逆に言うと、私は臨床家として、登校拒否ができない子がいっぱいいることに危機を感じている。(略)」

 

 

 

「おそらく、明治の昔に軍隊をモデルにした公教育の体系がつくられたころから、学校の内部の者たちは、昔の軍人が市民一般を「地方人」と言って蔑視したように、外部の者を峻別し、差別する必要を感じるようになったものだろう。

 

 

三者とはこの場合、地域の保健所である。この保健所では一〇年ほど前から一定の曜日の午後、地域の家族たちのミーティングが開かれていた。もともと地域内の酒害者(アルコール依存症の人)とその家族のために開かれていた。しばらくするうちに家庭内の暴力問題や子どもの非行が取り上げられるようになっていた。

 

 

私は数年前、このケースが持ち込まれてきたころまで毎週このミーティングに座り続けていたのだが、母親はこのことをどこかで聞いたらしく、息子のいじめられ問題をここに持ち込んだ。(略)」

 

 

 

「どこでもそのようだが、中学生になると教室全体が殺伐としてくる。一年生のときから高校進学のことが教師と生徒の頭をしめるということがあるのかもしれないが、それだけではないだろう。思春期というのは、自分の理想を求めて、それに沿わないものにとりわけ残酷になる時期なのだ。(略)」

 

 

 

「私の観察対象になったいじめ・いじめられ関係に話を戻すと、いじめっ子側の主役は、いじめられっ子の保護者を任じながら、やがてその立場に危機感を持つようになった。彼は体力、腕力、知力のいずれの種目でも、級友たちの中で優位には立てない。

 

 

このままで行くと、とろい親友の同類とされ、劣者の烙印を捺されて自身がいじめの対象とされる。

こういう政治的判断ができるだけの才覚を備えていた彼は、親友の保護者という立場を利用して、彼を優位者たちの生贄に差し出した。(略)」

 

 

 

「こんなわけで、学校とくに中学というのは、文字通り危険なところなのである。少なくとも一部の生徒にとっては。困るのは、”一部の生徒”、”生贄”は必ず必要とされるのに、誰がsろえに適しているかは結果が出るまでわからないことである。(略)

 

 

不幸にもこんな立場に置かれたときの、正しい振る舞い方は、危険から逃れることである。それしかない。逃げずに頑張ろうとすると、屈辱が重なって人間の一番大事な部分が破壊されてしまう。自分自身を愛し、尊ぶという、これからの人生のエネルギーの源泉を涸らしてしまうことになる。この種のトラウマ(心的外傷)の恐ろしさは、もう少し知られた方がいい。

 

 

要するに、登校を拒否できる能力が大切だ。この能力を支えるものは勇気と認識力である。これがあれば「僕はいじめられている」と親にはっきり言うことができる。愚かな親(親というものは、よく言われるようにたいてい愚かだ)が、「頑張って登校しろ」と諭しても、はねのけることができる。

 

 

 

そんな勇気や認識力に恵まれていなくても、とにかく学校を休んでしまえ。(略)」

 

 

 

「このいじめられっ子にも、私はこのように言ったのだが、何分彼は自分がそういう”身分”であることを認めてないのだから、なかなか言うことを聞いてもらえなかった。

 

 

ミーティングのあとにもいじめは続いたが、登下校の途中にすれ違いざまにキックを入れたり、殴ったりというものになって、群がっての儀式的な虐待はさすがになくなった。

 

見物層のいじめっ子たちが、自身が加害者と認定される危険を感じて、”場”をっはなれはじめたわけだ。さすがに賢いものである。こういう連中が育って、日本の大衆の中堅となる。(略)」

 

 

「この場合、私に語れたのであって、親や教師にではない。それは当たり前のことで、子どもは親が期待している、「学校で元気に過ごす子」を演じるのに必死だから、何があっても親にだけは言わない。(略)

 

 

教師は当事者で、いじめ側の一方の旗頭だから、こんな者に実態をもらすこと等あり得ない。学校は先に述べたように、評価と順位付けの場である。(略)

教師はそうした場の構成者なのだから、必然的にいじめ側の旗頭なのである。(略)」

 

 

「いじめ・いじめられという精神的虐待劇の観衆たちが、教室のエリートたちであったことも先に述べたが、彼らをエリートにしている価値の構造をけっていしているのは、教師という権力である。(略)

 

 

困ったことに教師たちは今のところ、こうした自分たちの見えない加害者性にきづいていない。言うまでもないが、これは個々の教師が良心的であるか否かとか、教育者としての能力の程度がどうかといったこととは関係ない。

 

 

中学校で教師をやるということは、それ自体いじめ側の片棒を担ぐことだというくらいの厳しい認識を持っていないと、この役割から降りられない。

 

 

だからこそ、教室や学校は、現在のような徹底した閉鎖系を構成してしまっていては危険なのである。いつも第三者の目を入れ、外部の価値観に敏感でいる必要があるのである。(略)」

 

 

 

 

 

 

 

「家族」という名の孤独

「女性は、女性として生まれただけで、「母性本能」なるものを備えていて、自分の子を持ちたがり、子のために自分のすべてを捧げるものであるとの信仰がまかり通っている。

こうした信仰が共有されている社会の中では、母性なるものを実感できない女性は、あたかも自分に大事なものが欠けているように感じて、それを隠そうとしたり、自己嫌悪に陥ったりせざるを得ない。(略)」

 

 

「もう一度繰り返して述べたい。育児に伴って母親は子どもに陰性感情(怒り、憎しみ、嫌悪感)を向けることがある。そしてそれは”当たり前”のことである。」

 

 

児童虐待はなかったのではない。名づけられていなかったのである。ようやく今、高学歴で職業を持った母親たちが、ないとされていたものに名を与え、ついでに自分たちの立場を正確に伝えようとするようになってきたところなのである。」

 

「人間は「本能の壊れた動物である」と言われることがある。ここで本能と呼ばれているのは、生誕前にプログラムされた種に固有の行動のことである。これにしたがって、ニワトリはニワトリのようについばみ、犬は犬のように交尾する。それは”必然性”の支配する世界だが、私たち人間の行動は、こうした必然によって完全に支配されているわけではない。

 

 

人間は、「私」とか「自分」とか「自己」とかと呼ばれる厄介なものを抱えながら、自分の生を組み立てている。したがって私たちの生活は時代により、状況により、そして個人個人により大きく変化し、ときには生命を自ら絶つという、”反自然”なことまでやってのける。(略)」

 

 

 

「こうした複雑な過程を考慮しれば、人間の母親は、”必然的に”子育てに没頭するものだとか、それによって満足しか感じないと考える方が不自然である。彼女は、さまざまな理由で子を産んだのであり、ときには産まざるを得なかったのである。生まれてきた乳児に対しても、さまざまな思いを抱く。普通の母親であれば、子どもは他に例えようもなく可愛いと思っているときが多いだろう。

 

 

しかし一瞬、自分のすべてを吸い取る小悪魔のように感じて憎らしくなることもある。「この邪魔者さえいなければ」と子育て以外のことが出来る自分を夢想している母親はむしろ”普通”の部類に属する。(略)」

 

 

 

「母親になるということは、ぐっすり眠れる夜を失うことを意味する。世の亭主たちは、この苦行を「母の喜び」のように錯覚して、妻にだけ負担させ、申し訳ないとも感じていない。

 

中には子どもの夜泣きがうるさい、何とかしろと妻に苦情をいう馬鹿夫さえいる。ぐずる子どもに脅えた母が、深夜や日曜、病院の小児科を訪れれば、看護婦に注意され、年若い女医に叱責され、今まで経験したこともないような屈辱にさらされることさえある。

 

 

こんなことのすべてが、「喜び」であるはずがない。これは苦行である。疑いようもなく、マザリングは苦行を伴うものである。」

 

〇 私にとっても、母であることは、苦行でした。

でも、私の場合、以前も書きましたが、20歳前後で自分の「酷さ」に癇癪を起し、絶望し、生きる意味のない人間と結論付けたにも関わらず、死ぬこともできず、

キリスト教の「イエスはありのままの私を受け入れて下さる」という言葉に力をもらって、生きようと思ったという経緯がありました。

 

母として、自分がどれほど「酷く」ても、もう今更驚かない、という状況だったので、

この自分でやれることをやるしかない、と思っていました。

そういう意味では、苦行ではあっても、「やれること」が目の前に次々とあり、

ありがたかった、と思っています。

 

子どもたちには、もっといい母親だったら良かったのに、と申し訳ない気持ちにも

なりましたが…。

 

 

「家族」という名の孤独

「男性優位の社会は女性に対して”聖なる母”と”淫蕩な女”の分裂した役割を押し付けてきた。”かあさん”や”おふくろ”に対する男たちの熱い思いが、女性の子育てを聖化し、人々は母親という言葉を聞いただけで無限の自愛や無条件の献身を期待してしまうようになっている。

 

 

母親による虐待は、人々のこうした期待を裏切ることによって、父親の虐待よりも注目されることになる。(略)

 

 

 

女性たちは長い間、聖母のイメージを逆手にとり、家の中の世話焼き仕事を通して家族を支配することに喜びを感じてきたのだが、最近の日本における出生率の低下は、女性たちが聖母の期待に応えることに疲れて、母親役割を回避しようとするようになってきていることを示している。」

 

〇 先日のニュースがショックで頭から離れません。

赤ちゃん遺棄の疑いの母親 出産直後に殺害か 再逮捕

 

でも、自分の身を守るためとなると、どんなことでもするのが人間で、

あの「サピエンス全史」の中にあった、「人工的な本能」がなければ、

チンパンジーの残虐性と同じものを発揮してしまうことに何の不思議もないのでしょう。

 

今の生徒のイジメを見ても、入管管理局の冷たい仕打ち、更には、

ジャニー氏による虐待をここに至っても問題視しない日本政府の在り方等々、

人権感覚のなさ=人工的な本能が作られていない野蛮人=日本人 のように見えます。

一部の人だけの問題ではなく、私たちの社会が、産んだ直後の赤ちゃんの

頭をコンクリートに打ち付けて殺す人間を育てている社会のように感じてやりきれなくなります。

 

アメリカの心理療法家のジェイン・スウィーガートは、「バッド・マザーの神話」(斎藤学監訳、誠信書房、一九九五年)という本の中で、今まであからさまに語られることのなかったマザリング(母親業)の暗い側面、つまり母親たちの怒りと苦悩に照明をあてている。

 

 

乳児を抱えた母親が感じる「乳児返りして、母親に抱かれたい」という欲求(このことが語られることはほとんどなかった)、すべてを奪いつくす子どもの欲望に仕えながら何の報いもないマザリングの仕事の厳しさ、乳児が育って自律的に振る舞うようになったときに感じる寂しさと裏切られた感じと怒り、そうした寂しさに耐えられない母親の強迫的妊娠(自身が得られなかった愛と抱擁の感覚を、乳児を世話することで代償しようとする母親は、子どもの成長が目につくようになると、大急ぎで次の妊娠をする)、

 

 

 

思春期の子どもを手放すことの困難さ、仕事を持って社会的達成を望む母親たちが、子育て期に感じる焦りと子どもへの罪悪感、成長した子どもたちの憎まれ役になるのも母親であること、そして何よりも、子育てを女性の「本能」と見なしてマザリングに関心も払わず、金も使おうとしない社会(男性)への批判などが、この本の中で語られている。

 

 

子育てについては、その喜びと充実感のみが語られることが多かった。(略)

しかし、マザリングとこれに伴う明暗、それぞれの現実は、改めて語り直さなければならない時期にきているようだ。」

 

 

アメリカの社会学者ナンシー・チョドロウは、このころの母親の内面を正確に記述した資料が極めて乏しいことを指摘している。その理由は、この時期に母親の心に生じるものを母親たちは延べたがらないからである。

 

 

この時期、母親は喪失、渇望、いや気(子どもがライバルになった感じ、子どもに利用されている感じ、子どもに使い古された感じ)、落胆、憎しみといったさまざまな感情を体験する。体験はするが、こうした否定的感情は、否認されたり隠蔽されたりしてしまう。

 

 

授乳期の母親が感じる全能感と自信は失われ、母親自身が子どもの行為(自律を主張する行為)に傷つきやすくなっている。

母親がこの時期、子どもを叩くことが多いのはそのためである。」

 

 

 

 

「スウィーガートの「バッド・マザーの神話」の中でもっとも注目をひくのは、父親が主たる養育者であった子どもの方が心身の発達が早く、社交性もストレスに耐える能力も伸びると書かれていることである。(略)

 

 

 

乳児の泣き笑いをビデオで観察し、父親に対する反応が母親の場合と明瞭に区別できないことを観察した学者がいる。四歳以前に父親不在の家庭で育った場合には、欲求不満に耐える機能の発達が悪く、思春期以後の社会適応に問題が生じやすいという指摘もある。

 

 

 

父親不在で成長した子どもたちは、そうでなかった子どもたちと比べて、IQ(知能指数)で六以上低かったなどという報告さえある。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「家族」という名の孤独

「日本人は母と息子の関係やその歪みについて敏感である。とくにマザコン男というのに衆目が集まっていて、ちょっと前には「冬彦さん」という言葉が流行語にまでなった。しかし私の見るところ、母と娘の関係は、母と息子以上に検討されるべきものである。(略)」

 

「やがて娘はアルコールを飲みながら、「今日しか言えないことだから、聞いて」と語り出す。それは母を深く求めながら、恨む者の言葉だった。

以下は、そのときの長いセリフの一部である。

 

「母と娘。なんて恐ろしい関係なのかしら。お互いに傷つけあい、いがみ合う。それを愛という言葉で片づける。母の傷や不満はそのまま娘に引き継がれる。母の不幸は、そのまま娘の不幸になる。きってもきれないこの絆」

概して母と娘の間というのは、心理的距離をとりにくい。(略)

 

 

娘、とくにひとり娘や長女となると、母親はまるで自分の体の延長のように娘を感じてしまうようだ。自分の一部なのだから、自分と同じように感じているはずだと考える。自分の喜びは娘の喜び、自分の嘆きは娘の嘆きと思うから、夫への愚痴などがあれば、思う存分たれ流す。

 

 

娘がそれを聞いて、どのように感じるかに思いがいたらない。それほどの一体感の中に、入り込みがちなのである。(略)」

 

 

「娘から離れて静かになってから、この母親が思いついたことというのは、娘の声と自分の母親の声との類似だった。娘は赤ん坊のときからよく泣く、泣き声の大きい煩わしい子だった。その煩わしさ、要求の強さというのが、気にかかっていたのだが、落ち着いて考えてみると、あれは自分の母親の声だった。」

 

 

「私の臨床での経験から言うと、声の質の類似というのは、かなり重要である。何にとって重要かというと、ある人が人を好いたり、嫌ったりする要素として重要である。人は人を好きになるときに頭でいろいろな理屈を考えるが、そんなものは皆、嘘である。

 

 

意識は、嘘しかつかない。人をつき動かし、何かをさせるものはいつも人の意識には浮かばない。浮かべない。それを知ろうとすれば、その人の行動の連鎖を辿るほかない。(略)」

 

「一見不思議なようだが、よく考えてみると、もともと「おねだり」とか「要求」とかいうのは、そうした質のものなのかもしれない。ねだる者が、もっとも求めているのは、実は相手がその要求を察してくれていることなのだ。(略)

 

 

娘は自分の存在を、まるのまま認めてくれることを母に求めた。求める必要があったのだろう、母は娘との関係に自分の母との緊張した関係を映していたのだから。このことが伝えられないから、伝えようもなかったから、娘は「おねだり」した。そしてそれをするごとに、母を恨んだ。」