読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

彩雲国物語

PCの不調やその他の理由で、しばらく「本」から逃げていました。

 

というより、あの山本七平著「日本人とは何か」を読んでいるうちに、

私の中に生まれた疑念は、「私たちは結局変われないのではないか…」という気持ちでした。

あの太平洋戦争を乗り越え、私たち日本人は、一歩前進した、と私は思っていました。なのに、ここにきて、日本会議なるものが起こり、安倍氏のような、あの太平洋戦争を引き起こした政治家と似ている政治家が現れ、マスコミや芸能人を抱き込んで、世論を丸め込んでいく現状を見ました。

 

更に、創価学会公明党という形でまとめられ、お国に協調していく、

国民の姿も見てきました。

 

それで、すっかり絶望的な気持ちになってしまい

もうあの「日本人とは何か」を読み続ける元気もなくなりました。

 

そんな時に、ウクライナをめぐる戦争が始まってしまい、

朝も夕もそのことが頭から離れなくなってしまいました。

 

そこで、増々現実逃避のための「世界」が必要になりました。

少し前まで、赤毛のアンシリーズを読んでいました。

あの中にある、アンの言葉、

「現実の世界が辛い時、ほんの一時だけ、夢の世界に逃げ込んで、

元気をもらって帰ってくるのよ…」。

 

実際、アンの世界は、私にとってそういう世界でした。

アンシリーズを読み終わり、今は、彩雲国物語を読んでいます。

とても面白く、アンの世界と同じように、元気をもらえます。

 

 

※ ここからは、この本を読みながら、あれこれ思ったことを書いてみようと思います。

 

☆5月17日

今読んでいるのは、彩雲国物語 第7巻。「欠けゆく白銀の砂時計」です。

もともと児童書にはまったのは、体調を崩し(腰痛)きちんと座ることが出来なくなったので、寝転んで読める本、ということでハリー・ポッターを読みなじめたのが、

きっかけでした。

 

その後、赤毛のアンの完訳バージョンを読み始めると、村岡花子訳から更に面白さが深まり、こちらにもはまりました。

 

そして、今は彩雲国物語です。

ハリー・ポッター赤毛のアンが翻訳ものなのに比べ、この彩雲国物語は、

日本人が書いたものだと思います(はっきりは分かりませんが)。

少なくとも、漢字に対する感度がとても繊細にあります。また、家柄とか血筋など、私たちの無意識レベルに入り込んでいる人間関係の大前提のようなものが、翻訳ものと違っています。

 

子どもの頃、本を読むのは、本当に楽しかった…。

ただただ、楽しかった。

その後、だんだん読む本がなくなり、読めなくなり、どちらかというと、

本は、楽しみのためのものではなく、知りたいことを教えてくれるもの、

になっていきました。

 

ハリー・ポッター赤毛のアン彩雲国物語は、そんな私にとって、

本当に久しぶりに、楽しみのために本を読むことを、

思い出させてくれた本です。

読みながら思ったことを、時々、少しずつメモしていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

いかれころ

〇 三国美千著「いかれころ」を読みました。

読書は苦手だと何度か書いたのですが、これも出会いなのでしょうか。

たまたま目にした題名を見て、どういう意味だろう?と思ったので、

読んでみることにしました。

少し前に読み終わったのですが、結局「いかれころ」の意味はイマイチよく分かりませんでした。

いかれぽんちという言葉は、知っています。それに似てるので、その類の言葉かな?と思ったのですが、違うようです。

 

 

読み終わった後の、物語全体を振り返った時の印象を書いてみます。

装丁として、きれいな桜の花が描かれていますが、まさに内容にぴったりの装丁だと

思いました。

桜の花は日本国の象徴のようになっています。そう擬えて見るのは、

たまたま私が、「日本とは…日本人は何故…」と考えていた最中だからかもしれません。

作者の意図とは、別なのかもしれませんが、私はそんな風に受け取りました。

 

 

登場人物の家には、見事な桜の木があり、父親は、子供の入学写真等には、必ず桜を入れます。逆光で良い写真にはならないとわかっていても、この桜を入れずに撮るなど、思いもよりません。

 

 

月日が経ち、庭木に詳しい老人が、そろそろ桜の木は切った方が良い、とアドバイスしても、それを受け入れることが出来ません。そして、物語の終盤では、この桜の太い木の根で、家の基礎が脅かされるかもしれない、という状況になります。

 

 

著者紹介を見ると、著者は1978年大阪生まれ、となっています。

家の長男は1979年生まれなので、息子と同じ世代で、

物語の中の母親は、まさに私と同じ世代です。

様々なエピソードにそれを感じさせる描写があり、親近感を感じながら、

読みました。

 

 

読み始め、なんとなく、以前読んだあの 「カジュアル・ベイカンシー」に似てると感じました。ほとんど小説を読まないので、たまたま読んだ二つを並べてそう感じただけかもしれないのですが。

 

日々の生活のこまごまとした場面を、淡々と描いて物語が進行していきます。その描写に引き込まれます。カジュアル・ベイカンシーでは、最後衝撃的な事件が起こり、ドラマチックな展開になりました。でもこの物語では、そのような事件も起こりません。何も起こらない。ただ、熱くもなく冷たくもない、生ぬるい現状維持の空気が人々を押さえつけている。まさに、今の私たちの国の空気そのもの、のような気がしてきます。

 

 

安倍元首相は、首相になった時、「美しい日本を取り戻す」と言いました。

桜=美しい と擬えた時、その美しさを守ろうとしながらも、人間を守ることは蔑ろにする姿勢と重なって見えます。

 

 

印象に残った文章をメモしておきたいと思います。

 

「東に以前松だらけの山だった住宅地を背負い、六つの村と町が一つに束ねられ南河内市を名乗るようになっても、一足飛びに村が新しくなるわけではなかった。外環状線沿いの田畑が小さなお家の密集地帯に様変わりしても巡礼道に住んでいる人は昔のままだ。」

 

 

 

「三本松には身分というものが残っていた。身分と言って差支えがあるなら、一人一人分をわきまえるという美徳を大切にする人たちが生きていた。」

 

 

 

 

「この頃、杉崎の家で持ち上がっていたのは志保子の縁談だった。(略)

女の子は短大を出たら御の字で、二十五までに結婚する人も多かった。」

 

 

「私は何もかも知っていた。

志保子叔母がとても賢かったこと。セイシンの発作が起きて、牛乳にネズミ取りの毒を入れられたと村中のマーケットで大暴れしたこと。(略)

美鶴の姉に若くして自殺したヨシエさんという人がいて、神経が細かいのはその人からの血だろうとされていること。母のおしゃべりからなんでも子供の耳に入ってきた。」

 

 

 

「「知っているか。こう見えて俺は福井大学代表として東京大学で一番に演説をしたんやで」

「ふうん」

東京大学という時、隆志は威勢が良かった。」

 

 

 

 

「「こうとくしゅうすい」が何をした人なのか久美子ははっきり知らない風だった。シズヲにしても事件の当時九つや十のなに不自由ないお嬢さんでは、訳が分かっていたかは怪しかった。その「えらさ」が分かって来たのは、帰る家をなくして、住み込みで働く生活を余儀なくされてからだったろう。(略)

女一人で辛酸をなめてきたシズヲは良かれと思って分家を建てたにちがいないが、結局その家屋敷が孫娘の家族に影を落とし続けるとは疑いもしなかったろう。」

 

 

 

 

「政治というものを末松はさほど信用していなかった。選挙で票を入れるのは昔から堂山六郎と決まっていた。しかし末松にすれば、選挙に名乗りを上げるような輩はごんたくれの出たがりでしかなかった。」

 

 

「その言葉は幼心に煽情的に響いた。

見合い結婚の彼らにとって、隆志の学生運動の話は過去を共有している錯覚を引き出すための小道具だった。

「アカっちゅうことあるか。お前と結婚する前に止めてるわ」」

 

 

「杉崎の一統でそのころ「恋愛結婚」をしたのはえっちゃんだけだった。「あの子の結婚はなぁ」と久美子が言い出す時、何とも言えない厭わしさがあった。」

 

 

 

 

「「差別」してはいけないものとして閉め切った体育館で、牛の背割りの映像が映し出された。真っ二つの背骨と作業をする人はセイシン、恋愛結婚という言葉につきまとう影とすぐには交わらなかった。

 

 

 

うす黒いものはどこにでも、家庭の中にも学校の中にも職場の中にも靴の底の砂みたいにまんべんなく入り込んでいた。もっと後になって高校生の頃、近鉄電車の車内で白髪の老婆が誰彼に向かって「この辺りに部落ありまっしゃろ」と言いながら好奇と蔑みに目を輝かせたのを見た時、私はさっと目を伏せた。それは明らかに差別だったし、予想に反して自分にもなじみの感覚として体の中にあった。」

 

 

 

「「私また、志保子ちゃんは結婚できへん体やとばっかり思ってたんよ」

うす黒い影はそうやって私たちに襲いかかってくる。触れたが最後公然と見下される。」

 

 

 

 

「私は黒く濡れる石ころをアロエの鉢に投げた。女という言葉にも黒い影がついて回るのに私は気づきかけていた。志保子はきっと我慢しているのだ。杉崎の家のためなのだ、と私は決めつけた。」

 

 

 

「亡くなる前に末松は後あとを見越して桜の樹を切っておいた方がいいと言ったが、隆志は珍しく久美子にも相談せず断ってしまった。(略)

決断の鈍さのせいで、三十年後に末松が危惧した通り桜は大木になりすぎた。応接間の樋を押すほど枝をはり、根は飛び石を押し上げて家の基礎に迫って大問題になった。

久美子は白い歯を見せた。妹を産む直前でシズヲがまだ生きていて、幸明が結婚して売嫁を迎える前のこの数年の間が、久美子の最後の黄金期だった。」

 

 

「田植えの日は晴れがましかった。農作業は仕事という以上に、一統の絆を確かめる機会でもあった。」

 

 

「久美子がせっぱつまって一泊旅行に出かけたのは間違いなかった。夫と幼児しかいない桜が丘の家に志保子が泊まるのを、普段なら許すはずがなかった。姉妹の間には、久美子の側から一方的に火花がチリチリすることがあった。」

 

 

「「本所のおっちゃんが釣書持って来はったら、なこたん桜のきーになわかけてぶらさがったる」

私は挑発的だった。(略)

結婚と自殺は幼児の頭の中で一緒くたになった。結婚だけが女の唯一の道と決められているなら、大きな娘のまま家にいるのは不名誉だと、とびきりの保守派の私は考えた。大人になっても結婚せずにすむ方法は自殺だけだ。桜が丘の由来になった桜の樹にぶら下がって死ぬのが、最も痛烈な表現になる気がした。

 

 

 

幼いながらに私はこの先学校や社会になじめないこと、久美子や末松の望んでいる子に、そして大人になれないことを予感していた。」

 

 

 

「近所の同い年の男の子と田んぼの畔をばったみたいに駆け回っていた私は、他の女の子よりもぼんやりした子だった。」

 

 

「美少女たちはそうしたいじめをしても許されるという雰囲気がもも組のクラスの中に存在していた。」

 

 

「二人目を身ごもってもまだ久美子は自分の結婚に折り合いをつけられなかった。旅行、同窓会、百貨店での買い物、趣味のお稽古、それらで気を紛らわそうとしても効き目はなかった。

久美子はわけのわからない矛盾の嵐だった。もっと後の時代になれば気分障害だとか病名がつくくらいの危機的な状態にいた。」

 

 

 

「「見合いでしやなしに結婚した人やもん。結婚したくてした人やないもん。お父さんが先にこの家建ててしもたせいやないの。この家なかったら別の人と一緒になってたはずやったのに」

娘の責任転嫁を蠅でもはらうように、ふんと末松は鼻で笑う。」

 

 

 

「美鶴は息子をかばうために必死だった。(略)

久美子は急に肩を落とした。丁寧に靴下の裏を払うと、何事もなかったように框に上がり流し台のまな板の前に戻った。

柄の取れた包丁を取り、まっすぐ出窓のガラスを見つめつぶやいた。

「ほんま私は、いかれころや」

いかれころ。

なんてぴったりなんやろう。(略)」

 

 

 

 

「これから先、何十年も桜が丘の家は手ひどい仕打ちを受けた。不道徳で、犯罪すれすれのいかれ沙汰だ。分家は本家が作ったもので、上の奴が作るものは上の奴の都合で良いようにされる。祖父がいきり立つ度、祖母が無鉄砲をしでかす度、叔父が問題をおこす度、久美子はいつもしてやられた。

 

 

 

カイホーとアカと共にしまい込んだ言葉を、私は何十年後までも取り出した。母譲りなのか、私は窮地に立つのが趣味みたいだったから。焦りを隠し、自分の愚かさと無鉄砲、子供じみた正義感を悔いながら、何度心の中で「いかれころ」と唱えたかわからない。確かに、卑下ではなかった。してやられた風を装い、反骨精神を奮い立たせて、災厄に対抗するために、やせ我慢をして鼻で笑い飛ばした。」

 

 

 

〇 淡々とした描写の中に、ミステリー小説のような謎があって、どうなるんだろう?と思いながら、次を読みました。

 

例えば、

志保子と久美子の間に一体何があるのか。時々ピリピリするのは何故なのか。気になって読んでも、結局最後までわかりませんでした。

 

久美子と隆志は一体どうなって行くのか。でも、結局どうにもならず、そのまま年を重ねて行ったようです。

 

桜が丘の家が受けた手ひどい仕打ちとは何だったのか。不道徳で犯罪すれすれのいかれ沙汰とは?

でも、これも何のことか、さっぱりわかりませんでした。

ただ、不道徳で犯罪すれすれの行為を繰り返した政治家がこの国では簡単に不問に付される体質があることを思い出しただけです。

 

 

また、二人目を身ごもっても自分の結婚に折り合いが付けられず、気分障害という病になった久美子の生涯を見る時、秋篠宮家の長女の結婚を思いました。

誰もが、たった一度の生涯を必死に生きる権利があると思います。

自分で選択して、その結果を引き受ける時、それがどんな人生でも、その人は一生懸命に生きたことになると思います。

 

誰かに押し付けられた役割を、引き受けたくないと思いながら、その意思表示をしないまま、ズルズルと、誰かの決めた鋳型の中に、引きずり込まれて生きる時、

あの真子さんが言ってたように「心を大切にして生きること」が出来るでしょうか。

 

 

「いかれころ」どういう意味なのか、きっとこれからも考え続けると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本人とは何か。

「3 律令制の成立

◎”科挙抜き律令制”の導入

(略)

「では天皇は日本人の教皇(ポープ)なのか」。この質問には少々弱った。後にイエズス会の東洋宗教研究所(当時)トマス・インモース師から、キリシタン宣教師が「天皇教皇に、足利将軍を実権なき神聖ローマ帝国皇帝に、分国大名をその帝国の大諸侯になぞらえている」と聞いた時、「ウーム、あのときこれを知っていれば、もっとうまい答えようがあったものを」と思ったが、あとの祭りだった。(略)

 

 

「帝権と教権」とか「教皇の俗権停止」とか言った言葉は、西洋史にしばしば登場する。(略)

 

 

 

中国の場合は、皇帝が聖人で、官僚が君子、そして律令が順守されれば、孔子が理想とした「王道」の国すなわち理想社会ができるはずであった。(略)

では、中国へ行って律令制を知った七世紀の日本の留学生は、果たして以上の基本的な考え方を正確に把握して帰国したのであろうか。七世紀の留学生が何を考えていたか現在ではわからないが、日本に移植された律令の運命を見ると、この基本には余り関心を持たなかったと思われる。(略)

 

 

 

というのは日本の律令制は「科挙抜き」であった。もっとも実施してみた、あるいは実施しようとしたらしい形跡はあるが、科挙で選抜された者が国政を担当するという体制はついに実現しなかった。(略)

 

 

 

しかしいずれにせよ「科挙抜き律令制」とは「選挙抜き民主制」のようなものである。

というのは中国では官職の世襲は許されず、同時に全中国人に科挙の受験資格があり、合格した者のみが官職につきうる。これは選挙で当選した者のみが国会議員になり、首相にもなりうるのと似た意味を持ち、もしここに「官職の世襲」が入ってきたら、律令制の基本精神は崩れて、文字通り、似て非なるものになってしまう。

 

 

 

中国はこの体制を完成させていったが、日本は別の道を歩んでいった。というのも、この律令制を導入するのは、当時の日本に要請されている政治目的に合わせてこれを利用することが目的であったし、またそれだけが可能であったからである。」

 

 

※ この本、上巻だけは一応読みました。難しく、古文書が載せられている部分は、

理解できない所も多く、それでも興味深く読んでいたのですが、ここで一旦やめます。またやる気が出た時には、続きを載せたいと思います。(12月1日)

 

 

 

日本人とは何か。

「かな文字文化完成への苦戦

だが、一つの文字文化 ―― それはその文化の基本を形成するものだが ―― を、何の模範も前例もなく、文字通り創出しようとするものは、常に苦闘を強いられた。日本人が「かな」の完成へと苦闘する三千年以上も昔に、セム族のアッカド人も同じような苦闘をしていた。

 

 

彼らはシュメール人楔形文字を採用したが、これも漢字と同じく表意文字だった。だがシュメール語とアッカド語は、中国語と日本語が同じでないようにやはり同じでない。

さらにシュメール人は、彼らの表意文字をそのまま音節文字にも流用していた。たとえばan=天空は、天空とは関係なく音節anとしても使用されたし、mu=名前もまた単に音節muにも使用されていた。(略)

 

 

 

さてこうなると、一個の文字が何を表しているのかわからなくなって、まことに「戦慄すべき楔形文字」となった。だが彼らはあらゆる工夫をしてこの混乱から脱出していった。それは日本人が「かな」へと脱却していったのと方向が違ったとはいえ、最終的にはラッ・シャムラの楔形文字アルファベットへと進んでいったわけである。

 

 

 

こうして見ていくと、日本人がやってきたことは、多くの創造的な民族がやってきたことで、その点において日本人もまた例外ではなかった。その意味で「かな」の創造は一種、普遍的な現象であったといえるが、日本人の出発は ―― 他の多くもそうだが ―― 彼らの出発よりはるかにおそかった。しかし、「かな」への脱却はきわめて早かったといえる。(略)

 

 

 

 

◎日本文学の独自性・普遍性

そして「戦慄すべき楔形文字」を連想させる万葉仮名が「いろは歌」のような形で「かな」として成立すると、日本人は、百花繚乱ともいいたい古典文学の世界を生み出した。「古事記」、「万葉集」「源氏物語」「古今和歌集」「平家物語」といった著名な作品だけでなく、ドナルド・キーン博士が「日本人の日記」の中で取り上げた膨大な日記文学にいたるまで、そこには、自国語を漢文の拘束から解放し、自由自在に自国の文字で語っていける喜びと豊饒さが現れている。

 

 

 

私は韓国に、このような自国語の古典文学がないことを知った時、一種の衝撃を感じた。もっとも「三代記」という「万葉集」のような歌集があったらしいが、それは失われ、はるか後代の十二、三世紀の「三国遺事」の中にその一部が漢字で集録されていることを知った時、一体なぜそのようになったのか、小林秀雄が「本居宣長」の中で記しているように「文化の中枢が漢文で圧死させられた」のか、との何ともいえぬ不思議な感じに打たれた。

 

 

 

万葉集という歌集は、とにかくわれわれが、無条件に楽しめる文化遺産である」(岩波版日本古典文学大系「解説」の冒頭)といえる遺産をもつわれわれは幸福である。万葉集は今も生き続けている。

 

暇無く人の眉根をいたづらに掻かしめつつも逢はぬ妹かも

 

こういった歌を読むと、なんとなく私は最近流行の「サラダ記念日」的な歌を連想し、こういう伝統は消えそうで消えず、民族の心の底に見えぬ流れとなって流れつづけ、時々、噴水のように噴き出してくるような感じをうける。(略)

 

 

自らの文字を造ると、いきなりその文字で自らの言葉の自らの文学を創作した民族は珍しい。自らの文学を創作するにあたって、ローマ人は長い間ギリシア語を用い、ヨーロッパ人は長い間ラテン語を用いても、自国語は用いなかった。この点では自国の文学をあくまで漢文で記そうとした韓国人の方が普通なのかもしれない。(略)

 

 

 

いわば日本人は「かな」による自国語の世界に生きつつ、同時に漢字という当時の東アジアの「世界文字」につながって生きていた。そしてこのように独自性と普遍性を併せ持つことで日本の文化は形成されていった。(略)

そして明治のはじめに日本人が英語に接したとき、これを漢文のように受け取り、そのため英語を「読めるが、話せない」人々が輩出した。これは「漢文は読めるが中国語は話せない」という伝統の現代版である。だが他国の文化を摂取するのはそれで充分な一時期があり、日本人がそれをまことに能率的に活用したこともまた否定できない。

 

 

 

この点ではインド人や中国人の学び方と全く違う。伝統とは実に根強いものである。(略)

日本文化とは何か。それは一言でいえば「かな文化」であり、この創出がなければ日本は存在しなかった。さらに、近代化・工業化にも多大の困難を伴ったであろう。そしてその文字を創出していく期間、いわば、「戦慄すべき万葉がな」の期間は、同時に律令制が出現へと向かって行く期間だったのである。日本人はまことに能率的に、文字と文学と中央集権的統一国家とを併行して形成していった。」

 

 

 

 

日本人とは何か。

「◎「かな」はだれが造ったのか

では一体、日本文化を決定したといえる「かな」はだれがつくったのであろう。(略)

漢字をそのまま表音文字に用いた「万葉仮名」が「かな」の基本であることは言うまでもないが、「万葉集」自体が5世紀前半から天平宝字三年(七五九年)正月一日まで、約四百年間にわたる四千五百首ほどの歌の集録(二十巻)で、「万葉集」自体が「一漢字→一かな」とはなっていないから、だれの創作かは、はじめから不明である。

 

 

 

 

 

これが余りに複雑なため、平安時代にすでに難解となり、そこで天暦年間(九四七~九五七年)に宮中で源順ら五人が「万葉集」にひらがなで読みを添えた。これが「古点」、これを付したのが「古点本」といわれ、現代の「万葉集」の原本になっている。

このように複雑なものを簡単に説明するのは難しいが、源為憲「口遊」(天禄元年=九七〇年)を見るとその原則が理解しやすいので、次に記そう。(略)

 

 

以上のように四十七字になる。このほかにもさまざまな「いろは歌」があったらしいが、もし万葉仮名と現代のかなとの関係が上記のようにすっきりしていたなら、「古事記」の解読などはたいしてむずかしい問題ではなかったであろう。(略)

 

 

 

 

一例として「く」を取り上げてみよう。推古期には「久」だが、古事記・万葉では「久玖九鳩君群口苦丘来」で、これが日本書紀では「久玖区苦句 窶屨衢」となっている。なぜこのように複雑になったのであろうか。

まずその期間が四百年にわたること、また「万葉集」では多く地方の歌も集められたこと、記紀ではおそらく、中国にならって同一の漢字の反復を避けたためなどの理由があると思われる。(略)

 

 

 

まことに混沌とした感じだが、これは自分の心の中にある歌を、何とかして、その当時の日本の周辺世界にあった唯一の文字で書き表そうという苦闘の結果だった。(略)

そこにあった苦闘は、漢字に圧倒されて日本語を殺すか、漢字をてなずけて日本語の文字にしてしまうかという苦闘だった。そしてもしそれができなければ最初に生命を失うのは詩と歌だったはずである。

 

 

 

和歌を漢文にすれば死んでしまう、それはもう歌ではない。この点ロドリーゲスがかなの使用で「韻文や詩の書物を書く」のに用いると記しているのは、正確な記述というべきであろう。」

 

 

 

 

日本人とは何か。

「2 文字の創造

◎ 日本文化の源「かな」

(略)

もちろん文字なき文化はあるし、言葉なき思想もありうる。だが「古事記」「万葉集」から「竹取物語」や「源氏物語」「伊勢物語」「平家物語」、さらに歌集・日記類から随筆「徒然草」に至る膨大な「かな古典文学」ともいえるものが創造されなかったら、現代の日本文化は無かったといってよい。

 

 

日本人は「かな」をつくり「かな」が日本文化をつくった。この意味で日本を考える場合、「かなの創造」は、忘れることのできない画期的事件、「かなの創造」がそれ以後の日本に与えた影響は計り知れない。(略)

 

 

 

ヨーロッパ人で「かな」に関心を持ち、それについて最初に記したのはキリシタン宣教師パードレ、バルタザール・カーゴで、彼は書簡の中で漢字とかなの一部を例示し、日本人は漢字を基にして、はるかに理解しやすい便利な文字を創作し、これが一般人に使われ、重立った人々がその上に漢字を知ろうとしていると記している。(略)

 

 

ロドリーゲスがこの膨大な著作を完成したのは、一六三〇年ごろであろうか。ロドリーゲスの著作は、いま読んでも見事なもので、情報化社会などといわれる現代でも、これだけ詳しく日本のことを知っている外国人が果たして何人いるであろうか、と思わせるものである。そこで前記の彼の著作の一章の一部を次に引用させていただこう(岩波版大航海時代叢書 ジョアン・ロドリーゲス「日本教会史・下」による)。

 

 

彼はまず中国人がなぜあのように難しい漢字の学習に専念するかを述べる。それは科挙に合格するためで、「これらの(合格した)人々だけが王国の文治を掌り、王家に属するあらゆる職務と任務および王国の官吏(マジストラード)の仕事を行なうことができる」からであり、そして、「それによって得られる利益と名誉のため」に漢字を一心に学ぶのだが、日本人はそうではないので、「諸宗派の学者を除けば、普通には、俗人の貴族と一般大衆が、シナ人のように大いに精励して文字を学ぶことに専念することはない」。ここに基本的な違いがあると述べている。この「科挙」の有無という日中両文化の基本的な違いは後述しよう。(略)

 

 

 

そして彼が当時の「世俗の書翰や覚書、その他この種のもの」がほとんどひらがなだけであったように記しているのは、正確な観察である。というのは祐筆に書かせた公式書簡などば別だが、私的な手紙では、信長も秀吉も家康も、まるで「かな文字論者」の手紙のようにかなが多いからである。ただ当時は濁点を打たず、漢字は「当て字」だから現代人には相当に読みづらい。(略)

 

 

 

以上は、織豊時代から徳川時代にかけての手紙だが、幕末になっても私的な手紙はほぼ同じようなかな書きで、これは渋沢栄一の千代夫人への手紙にも現れている。ただ女性向けの手紙(前記の家康の手紙はおかち・あちゃ両局宛)は特にかなが多かったといえるが、正式の文書でない内示もまたかなが多い。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本人とは何か。

「◎「骨(かばね)の代」の氏族体制

一体「骨(かばね)」とは何であろうか。それは大体氏族の首長もしくは中心的人物をいうと定義してよいであろう。これは韓国語の「骨」の用法を用いたと見るのが定説で、韓国では「真骨」もしくは「第一骨」といえば王族のこと、「第二骨」といえば貴族のこと、これが日本に伝わり、たとえば「武烈天皇紀」に「百済国守之骨族」という語が見える。(略)

 

 

 

 

そしてこの氏族が土地・人民を所有して半独立国のようになっており、時にはそれらが相争って「倭国の内乱」となるわけだが、その中のおそらく最大に氏族が天皇であり、他の氏族と違う点はおそらく祭儀権を持っていたことであろう。(略)

 

 

そして祭儀権者が亡くなり、この連合が崩壊すると混乱して内乱状態となる。こういう場合、中国から張政のような者が来て、祭儀権者の後盾となって混乱を収束させたものと思われる。この、女帝が祭儀権をもち、皇太子その他が統治権を行使するといった形態は、推古女帝と聖徳太子、皇極女帝と中大兄皇子、その他の例に見られる。(略)

 

 

 

前述のように日本人は元来は姓がなかったと思われる。この点では東南アジアを連想させるが、やがてこの職業その他が姓になっていく。たとえば地方官の国造・県主は和気・君・稲置・村主等の姓となり、また職業・技術・地名等も姓となった。(略)

 

 

 

 

中央の朝廷にはこの種の部が数多くあり、その長が姓を有し、その仕事は世襲であった。日本人の姓が何によって生じたかといえば大体以上がその起源だが、その姓が今まで継承されているわけではない。日本では養子が自由だから、よい世襲権をもつ家に養子に行くこともある。さらにこの氏族の人数が増加すると、苗字が生じてくる。

 

 

元来は、苗字と姓は同じではなく、分家に対する称号で、たとえば藤原家が近衛・一条・二条・九条・鷹司等の苗字を持つようなもの、この場合、正確に言えば「姓は藤原、苗字は近衛」となるが、しだいに苗字が姓のかわりになってしまう。そして武家時代になると各人勝手に姓を名乗る。元来無かったのだから、それらは自由自在で、足利末期には下層民が上層貴族の苗字を名乗るに至る。

 

 

 

話は先に進み過ぎたが、以上のような氏族制は、次第に崩壊せざるを得なかった。(略)

そしてこの弱点が最も強く露呈してきたのは、再び国内を統一し、強力な帝国となった隋・唐が、その勢力を朝鮮半島にのばしてきて、百済から援軍を要請されたときであった。

 

 

 

救援の日本軍は白村江で惨敗して百済は亡びる。次は日本の番ではないかという恐怖は、北九州の防備を厳重にしたことに現れている。(略)

 

 

 

だが六朝の影響の下で、政治より文化を優先させていたこと、そして詩や歌をつくることに大きな価値を置いていたことは、決して無駄ではなかった。「かな」を生み出す、大きな要因になったと思われるからである。」