読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

「家族」という名の孤独

「入院患者たちだって、小さい時から「アル中」になろうと思っていたわけではない。「親のようになるまい」と思いながら生きているうちに気がついてみたら、親父と同じ生活パターンにはまってしまっていたのである。

 

その妻たちにすればもっと不本意なことで、彼女たちはたいてい「あんな母にはなるまい」という決意のもとに育っている。そうしながら、いつの間にか母親と寸分違わない人生の軌跡を辿っているのである。

 

 

それではこの人たちがアルコール依存症にならなかったり、その妻にならなかったりすれば「生き残れた」としてよいか、ということになるが、そうとも言えないところにこの言葉の本当の難しさがある。(略)

 

 

 

ACの多くは「よい子」として育つと前に書いたが、それは彼らが自分の欲求や感情に沿って生きることがむずかしいからである。そういう人々の中には、他人の役に立っていないと生きていてはいけないような気がして、人の世話を一生の仕事として選ぼうとする人が多い。

 

 

そういう事情もあって、看護婦、ケースワーカー、医者といった人たちにはACが多い。言うまでもないことだが、こうした職業がいけないと言っているのではない。どんなに他人の役に立つ、崇高な職業についているにしても、それが自分にとって喜びのないものであれば、それは生き残りとは言えないし、そういう人には本当の意味で人を癒すということもできないだろうと言いたいのである。」

 

 

「この安全な場所の中で乳児は子どもへと育つわけだから、この場所は、1〇ヶ月ばかり早く生まれすぎた人間の赤ん坊、つまり本来は胎児であるはずのものにとっての人工子宮である。

この安全な場所が女性の体全体に広がり、子どもと母が暮らす場に広がる。そしてそれが屋根の下と庭を覆うようになったとき、それが家庭である。したがって、家とは本来、母と子どものためのものである。」

 

 

 

「つまり、父親の役割とは、子に対して「安全な場所」をつくる役割を持った母を安全にすることに尽きる。このことを理解しない父、母の子育てに口をはさむ「姑のような父」なら、むしろ、いないほうがいい。(略)

 

 

たとえば合計特殊出生率が二・〇の線を回復したデンマークの場合、子どもを産む母親の半数以上が「結婚していない母」であるという。この場合、社会全体が「もう一人の大人」の役割を引き受けようとしているのである。」

 

 

「一五歳以前であれば、子どもの成長の役に立った「愛のミルク」「愛の世話焼き」も、一五さいを超えた子どもに与えれば下痢を起こす。できれば一切やらない方がいいのだが、そうもいかないのが現在の社会である。」

 

 

「一つ提案したいのは、子どもが一五歳を超えた翌日の「お別れパーティー」である。「今まで私たちの子どもでいてくれてありがとう。でも、これで親子の関係はおしまいね」と言ってやると、子どもは仰天するだろうが、自分の現実を受け入れるのに役立つだろう。

 

 

その日以来、このアダルト子どもを、一人前の大人の同居人として扱うのである。このことをきちんとやれば、そのうち子の同居人は、部屋代と食費くらいは持ってくるようになるかもしれない。」

 

 

〇 多分、ここを読んでいたからだと思う。私は高校に入った子どもたちを、

「子ども」だと思わないように心掛けた。でも、大切な我が子であるには、違いないので、

大切な親しい人くらいの気持ちで付き合うように心掛けた。

うまくいったのかどうかはわからないけれど、一応3人の子どもたちはなんとかみんな、それなりに自立してくれた。

 

 

それでも、その後もいろいろあり、「子どもではないけれど、大切な親しい人」に対して、やってあげたくなること、やるべきこと、は次々とあり、やっぱり、自分は親で、

彼・彼女らは、子どもだと思い知らされることがしばしばだった。

 

でも、人付き合いが苦手な私にとっては、そんな風に思える人がいることが、とてもありがたいことだと思う。

 

 

 

「子どもの役割から逃れる決め手は、恋である。相手は異性でも同性でもいいから、人に恋する。そうすると親に抱いていた愛着の感情は面白いほど、きれいに退縮してしまう。このことは、親子の愛着の感情というものの本質を示しているという点でも興味深い。」

 

チンパンジーについて語ろうとすると、必ず「ヒト」と比較することの短絡を戒める声が聞こえてくるのだが、そろそろ私たちはこのごく近い兄弟たちとの違いではなく、同質性にきづくべき時期にきていると思う。霊長類学者や初期人類学者たちの努力が、それだけの情報を私たちに供給してくれるようになっているのである。」

 

 

チンパンジーの標準的な寿命は四〇~五〇年、これはほんの最近までのヒトのそれに変わらない。その中で最初の一〇年ほどが、思春期を含めた子ども時代であるが、その間、子どもに接しているのは母だけである。

チンパンジーは、原則として雌雄のカップルを造らない。三〇~四〇頭から成る彼らの社会はオス優位の軍隊のような階級組織だそうで、最高権力者のアルファ・オスが独裁し、部下を連れてしょっちゅう縄張りをパトロールして回っている。(略)」

 

 

 

 

 

 

「家族」という名の孤独

「入院患者たちだって、小さい時から「アル中」になろうと思っていたわけではない。「親のようになるまい」と思いながら生きているうちに気がついてみたら、親父と同じ生活パターンにはまってしまっていたのである。

 

その妻たちにすればもっと不本意なことで、彼女たちはたいてい「あんな母にはなるまい」という決意のもとに育っている。そうしながら、いつの間にか母親と寸分違わない人生の軌跡を辿っているのである。

 

 

それではこの人たちがアルコール依存症にならなかったり、その妻にならなかったりすれば「生き残れた」としてよいか、ということになるが、そうとも言えないところにこの言葉の本当の難しさがある。(略)

 

 

 

ACの多くは「よい子」として育つと前に書いたが、それは彼らが自分の欲求や感情に沿って生きることがむずかしいからである。そういう人々の中には、他人の役に立っていないと生きていてはいけないような気がして、人の世話を一生の仕事として選ぼうとする人が多い。

 

 

そういう事情もあって、看護婦、ケースワーカー、医者といった人たちにはACが多い。言うまでもないことだが、こうした職業がいけないと言っているのではない。どんなに他人の役に立つ、崇高な職業についているにしても、それが自分にとって喜びのないものであれば、それは生き残りとは言えないし、そういう人には本当の意味で人を癒すということもできないだろうと言いたいのである。」

 

 

「この安全な場所の中で乳児は子どもへと育つわけだから、この場所は、1〇ヶ月ばかり早く生まれすぎた人間の赤ん坊、つまり本来は胎児であるはずのものにとっての人工子宮である。

この安全な場所が女性の体全体に広がり、子どもと母が暮らす場に広がる。そしてそれが屋根の下と庭を覆うようになったとき、それが家庭である。したがって、家とは本来、母と子どものためのものである。」

 

 

 

「つまり、父親の役割とは、子に対して「安全な場所」をつくる役割を持った母を安全にすることに尽きる。このことを理解しない父、母の子育てに口をはさむ「姑のような父」なら、むしろ、いないほうがいい。(略)

 

 

たとえば合計特殊出生率が二・〇の線を回復したデンマークの場合、子どもを産む母親の半数以上が「結婚していない母」であるという。この場合、社会全体が「もう一人の大人」の役割を引き受けようとしているのである。」

 

 

「一五歳以前であれば、子どもの成長の役に立った「愛のミルク」「愛の世話焼き」も、一五さいを超えた子どもに与えれば下痢を起こす。できれば一切やらない方がいいのだが、そうもいかないのが現在の社会である。」

 

 

「一つ提案したいのは、子どもが一五歳を超えた翌日の「お別れパーティー」である。「今まで私たちの子どもでいてくれてありがとう。でも、これで親子の関係はおしまいね」と言ってやると、子どもは仰天するだろうが、自分の現実を受け入れるのに役立つだろう。

 

 

その日以来、このアダルト子どもを、一人前の大人の同居人として扱うのである。このことをきちんとやれば、そのうち子の同居人は、部屋代と食費くらいは持ってくるようになるかもしれない。」

 

 

〇 多分、ここを読んでいたからだと思う。私は高校に入った子どもたちを、

「子ども」だと思わないように心掛けた。でも、大切な我が子であるには、違いないので、

大切な親しい人くらいの気持ちで付き合うように心掛けた。

うまくいったのかどうかはわからないけれど、一応3人の子どもたちはなんとかみんな、それなりに自立してくれた。

 

 

それでも、その後もいろいろあり、「子どもではないけれど、大切な親しい人」に対して、やってあげたくなること、やるべきこと、は次々とあり、やっぱり、自分は親で、

彼・彼女らは、子どもだと思い知らされることがしばしばだった。

 

でも、人付き合いが苦手な私にとっては、そんな風に思える人がいることが、とてもありがたいことだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

「家族」という名の孤独

「こうしたことこそフェミニズムの最大の貢献なのであって、その基盤は大学での「女性学講座」や、それにからんださまざまな出版物などにあるのではない。その点で、日本のフェミニズム運動はこれからはじまるのであり、フェミニストはこれから生まれるのである。そしてその担い手は、私が「草の根フェミニスト」と呼んでいるような手を汚し、靴の底をすり減らすことを厭わない女性たちである。

 

 

私の周囲にも、そうした女性たちがいる。たとえば、ここで紹介したC子がそれである。C子とその仲間たちは、一九九三年四月、なけなしの力を振り絞ってシェルターの設置に踏み切った。そのような施設は過去の自分たちにとって、なくてはならないものだった。しかしあの頃、そんなものはなかった。(略)

 

 

 

こんな例もある。ある女性は、三歳と二歳の幼児を連れて母子寮に逃げ込んだ。自立のためにはまず職探し、下宿探しということになるが、そのために外出しようとしても、母子寮では子どもだけを預かれないという。同じ寮に住む女性たちが見かねて預かろうとすると、それも駄目だと言われた。母親の不在中に事故でも起こったら困るという理由である。

結局この人は、幼児二人を連れて慣れない東京の街を歩き回らなければならなかった。

彼女が今の職と住まいを得たのは、「お役所」の援助によってではない。同性の危機を自分のことと感じた、複数のボランティアたちからの援助によってである。」

 

 

「そういうわけで、このシェルターを立ち上げた最大の功労者は、かつて妻を殴っていたアル中の男である。その男と私とのささやかなドラマがあって、それがC子たちの願望に形を与えた。」

 

Y染色体によってつくられる内分泌器官によって、男児は胎生期からジヒドロ・テストステロン(外性器の形状を決定する)やテストステロンの影響にさらされ、男性脳(言語野の左脳局在と、女性脳に比較して貧弱な脳梁で特徴づけられる)がつくられる。テストステロンにさらされた個体が順位闘争や縄張り争いで、能動性と攻撃性を発揮することは哺乳類と鳥類(雌※がY染色体を持つ)で明らかにされている。」

 

〇 ※ 本には、このように書かれていますが、Y染色体を持つのは雄なのではないかと思います。

 

「先に男女の間の共依存という言葉を紹介したが、親子の間に見られる共依存的な関係をパラ依存という別の用語で呼ぼうという提案がある。

確かに、選択が可能な配偶関係と相互に相手を選べない親子関係とを、同じ言葉で呼ぶには無理があるだろう。(略)

 

 

 

こうした子どもたちはまるで、親たちのカウンセラーを引き受けているかのようである。」

 

 

 

「ここに挙げたケースの場合、少女と母親との関係は、母親と祖母との関係に酷似しており、その祖母と曾祖母との間にも同じような母・娘関係があったはずである。(略)」

 

「ACはもともと嗜癖者の親を持った子どものことを言っていたのだが、最近では暴力を振るう親のもとで育った大人、アダルト・チルドレン・オブ・アビューシブ・ペアレント(adult children of abusive parent)というような形でも使われるし、お父さんやお母さんの一方が、たとえばうつ病などで苦しんでいる、あるいはお父さんが仕事依存症で家族を顧みないといったように、家族の機能に不全をきたしているような家で育った大人、アダルト・チルドレン・オブ・ディスファンクショナル・ファミリー(adult children of disufunctional family)にも適用される。」

 

 

「AC的な生き方は、緊張の高い家で育つ子どもの一種の適応様式であり、生活技術なのだが、この人々が思春期に入って家から離れるようになると、たちまち人間関係に行きづまるようになる。自分が何のために生きているのかわからなくなって、毎日が空しく、退屈で、しかも緊張で疲れるものになる。

 

 

そうしたときに彼らを救うのは、アルコールであり、ドラッグであり、ギャンブルであり、そして何よりも「自分なしでは生きられないような無力な人物」との出会いである。ACは、こうした依存的な人を世話するときに充実感を感じ、元気になる。」

 

 

「なるほど、飛雄馬はACである。彼の父、一徹は過去の栄光にこだわって鬱屈し、ときどき深酒して荒れる。飛雄馬はそうした父親の心のうちを汲み取り、その期待に応えて父親を喜ばそうと必死になっている。一体、飛雄馬は野球が好きだったのだろうか?(略)」

 

 

 

 

 

 

「家族」という名の孤独

「男が女に「癒す母」を期待するとき、男は女を恨むようになる。

息子は「自分の気持ちを理解してくれない母」を殴り、夫は「母のように自分をいたわってくれない妻」に復讐する。」

 

 

「しかし男が謝罪し、愛を告白し、女がそれを受け入れることではじまる関係は、そのスタートから男の側に我慢を強いることになり、彼の怒りは蓄積し続けることになる。こうして、次の暴力放出劇の幕があくのである。」

 

 

「この前夫は断酒すると無気力、抑うつといううつ病の症状に落ち込む人だったが、最後の断酒の際はひどい抑うつに落ち込むこともなく、AA(アルコホリックス・アノニマス)に通って断酒し、職場の勤務も順調だった。

 

 

 

 

 

 

c子は妻として二五年、私は主治医として十数年、この男を支え続け、アルコール依存症の治療はハッピー・エンドに終わるかに見えたのだが、この前夫の胸のうちには自分の生活を拘束する「母でない妻」に対する怒りが充満していたようである。(略)

 

 

ある晩、ささいなことから口論となり、不機嫌な顔でいったん階上の自室へこもった前夫は、やがて血相を変えてC子に襲い掛かってきた。この人は柔道高段者である。前夫の腕は背後からC子の首に巻き付き、締め上げられたC子は死を覚悟した。

 

 

このとき助かったのは、すでに成人に達していた彼らの長男が両親の間に割って入ったからである。夫は長男の方に向きを変え、今度は長男の首を締め上げた。長男は一切の抵抗をやめて力を抜いていた。長男も死を覚悟しているのだろうと、C子は思った。繰り返すが、この暴力は前夫が断酒して数年たったときに生じたものである。

 

 

 

この出来事の数日後、C子は私に会って「もう駄目です」と言った。C子の長く苦しい家裁での戦いがはじまったのは、それからのことである。(略)

この間、経済的な締め付けを受けながら、C子は和解を勧告する家裁の声に耳をかたむけず、最後には弁護士からも「勝手になさい」と放り出された。

 

 

 

C子の要求が過大であったとは、私にはどうしても思えない。彼女はただ、「残りの自分の人生を、脅えながら生きたくない」と考え、前夫に「責任をきちんととって、謝罪してほしい」と思っただけだった。しかし、そのつつましい要求を勝ち取る仕事は孤立無援の中で、彼女一人で進めなければならなかった。

 

この間、C子はAKK(AKKという略称は、今は「アディクション問題を考える会」のことだが、一九九二年までは「アルコール問題を考える会」だった)のただ一人の専従職員として雑務をこなすかたわら、他の被虐待女性やアルコホリックの妻たちへの相談に応じる毎日を送った。そのうちにC子は、同じ境遇の多くの女性たちに取り囲まれるようになった。

近頃の彼女たちは、かつて自分たちが切望した暴力被害女性たちのシェルター(避難所)を自力で設置するまでの力を、身に着けるようになっている。」

 

 

「一九七〇年代に入ると、暴力被害女性のためのシェルターと並んで、強姦救急センターの開設がいろいろな都市ではじまり、それと同時に幼女・少女たちの性的被害体験(児童期性的虐待)が正面から取り上げられるようになった。

これらは、同期して生じた一連の動きである。それぞれが勇気を振り絞り、手を汚し、汗をかき、靴の底をすり減らし、時間を湯水のごとく使わなければならない泥臭い活動であった。

 

 

たとえば強姦救急センターの場合、当初は被害女性たちの心理的援助に活動が限られていたのだが、やがて被害者が警察や病院へ行くのに付き添って、診断が正確に作られることを監視し、有罪判決を得やすくしたり、診断や調書作成の段階で生じる二次的性的虐待から保護したりするようになっている。

ここまでやらないと、男の論理の支配する社会の中で同性を保護することが出来ないのである。」

 

 

 

「家族」という名の孤独

「アルコールやドラッグの依存症(アル中やヤク中)に関連した家族問題のケアにあたるケースワーカであったロビン・ノーウッドは「愛しすぎる女たち」(落合恵子訳、読売新聞社)という本を書いている。

 

愛しすぎる女とは問題のある男性を愛したり、精神的苦痛を覚えるような状況に身を置くことで忙しく過ごし、自分と向かい合うことを避けようとする女性のことである。(略)

 

 

意識を集中させる相手を失ったとたん、彼女たちは実際の麻薬の禁断症状と同じように、吐き気、パニック、不安発作、等々に襲われる。(略)」

 

 

 

「愛しすぎる女たちには、「問題のある男たち」が寄り添う。彼女たちは、やさしく安定した信頼できる男性を退屈と感じてしまうからである。第一、こうした「大人の男」たちは、「養育する喜び」を与えてくれない。愛しすぎる女は自分が成育史の中で受けた親たちからの傷を、成長してからのパートナーとの関係の中で修復しようとするのである。(略)」

 

 

 

「考えてみると共依存者とは私の熟知している日本の妻であり、母である。妻や母の役割を戯画的にまで拡大して演じ、自らの感情や欲求を失った良妻賢母ロボットである。

共依存の病理性への注目はアメリカではじまったが、日本の場合、”普通の妻”、”健全な母”とは、つまり共依存のことにほかならないではないか。(略)」

 

 

 

「私のまわりで夫のアルコール依存に悩む女性たちは皆、この文章にあるような「でも」の罠に閉じ込められ、身動きならなくなっていた。私は、彼女たちに夫の世話焼きの役から降りることを勧め、効果のない努力(夫の酒をやめさせること)を断念して、自分の幸せのためにだけ自分の力と金銭と時間を使うようにと助言し続けた。」

 

 

 

共依存は八〇年代半ばに私がとりあえず採用した訳であるので、不適切との指摘があれば改めようと思っているうちに時間がたった。

共依存症と”症”の字をいれて使うことが多いのは、アルコール依存とアルコール依存症の関係に同じである。依存(ディペンデンス)はヨーロッパの一部やアメリカでは、それ自体病気なのかもしれないが、少なくとも日本ではそうではない。しかし、これが高じれば心身の不都合を生じるので、その段階を症(シンドローム)をつけて区分しようとしているわけである。」

 

 

「むしろ、彼女たちの多くはスキのない身なりをして颯爽としている。学歴なども普通より高く、教師、看護婦、薬剤師、理髪師などのきちんとした仕事を経験していたり、今もそうした職についてりうという人が多い。そして、自分では世間より一歩進んだ「自立した女性」のように感じている。

 

 

一人の男を抱っこしたり、おんぶしたりしているわけだから、並みの女性よりも能力は高いことが多いのである。ただ、以下に述べるように感情鈍麻をきたしているから、表情の乏しい、能面のような顔をしている。

自分の欲求や感情を認識することができず、したがって表現しようともしないから、自分自身のことがしゃべれない。口をついて出てくるのは、夫のこと、子どものことばかりである。」

 

 

「私「セックスと夫婦関係の維持とは別のことでしょ。家はもともと子育てのためにあるんで、夫婦のセックスのためにあるんじゃない。子どもが育ったところで夫婦は再契約するか、別れるか決めるべきなんですよ」」

 

 

「要するに、一見成熟した異性愛に見えるものが、実は乳児的な”抱擁される欲求”のスリカエであったと述べられているのである。

この欲求のスリカエというのが、嗜癖というものの一つの特徴であると私は考えている。スリカエられた欲求は、それが満たされても真の充足をもたらさない。それどころか、かえって渇望をひどくするので、スリカエ行動は昂進する。

 

 

セックス嗜癖が、実は「抱っこされる安心感」という欲求のスリカエであったりすると、セックスそのものは真の充足をもたらさず、かえって次のセックスへの欲求を昂進させてしまうことになる。(略)」

 

 

 

「家族」という名の孤独

「この調査は、もともと心理学会の大御所デイビット・マクレランのご託宣「男はパワー賦活のために飲む」という結論を、女性の場合に実証しようとはじめられたものである。男が飲み始めると、自慢話をはじめるのはよく観察されるところである。(略)」

 

 

「女も酔えばパワーアップするが、それは人との関係の中で相手を自分に依存させる「ケア(世話焼き)」として表現される。隣の男がタバコを取り出すと火をつけてあげようとしたり、灰皿を探しに行ったりする。

 

酔いが進むと「そんなに喫ってはお体に悪いわよ」、「そんなに飲んではアル中になるわよ」と相手の行動をコントロールする。男のように力ずくで自分に従わせようとするのではない。心から相手を心配して、その結果、相手の「悪い点」を矯正してあげようという利他主義的コントロールの形をとる。」

 

 

 

「いずれにせよ、女たちは子どもと異性に気を使い、世話することで彼らをコントロールし、家族の中で自分の支配権を確立する。」

 

 

 

「こうした女性たちはそれなりに充実していて、自分自身の救いなど求めていないのだ、ということに気づくまでに、私はだいぶ時間がかかった。

夫に殴られる生活に耐えているうちに、刃物で切りつけられる事態に及んで必死で逃げ出した妻たちを保護するという面倒で泥臭い仕事に何度も付き合い、そのつど「子どもが心配」という理由で虐待する夫のもとへと引き返す妻たちを見ているうちにようやく、女たちの「病気」に気がついた。

 

 

彼女たちは、「自分が必要とされる必要」につき動かされて生きていたのである。(略)」

 

 

 

〇 この本の最初の部分に、「結婚生活で奥さんはあまりいい思いをしていない…」と書かれていました。でも、自分のことを振り返って見たとき、案外、結婚に向くタイプと向かないタイプがいるのでは?と思いました。

 

私の場合、結婚で、「朝、どこかに外出しなくてもよい」という生活が始まり、

生まれて初めて、ホッとした記憶があります。

幼稚園で、「登園拒否」を起こして以来、ただひたすら頑張って頑張って、小中高と学校に通い、その後も、日々仕事に出かけていました。

 

今にして思うと、自分は、かなりのひきこもりタイプの人間だと思います。

大威張りで、ひきこもって居られたこの時期は、とてもありがたい時間でした。

そして、子どもが出来てからは、目の前にただひたすら自分を必要としてくれる存在があって、何も考えることなく、それに対応していられる時間の有難さを感じていました。

 

夫は、自分勝手な人で、全く子育てには、協力的ではありませんでした。

でも、だからこそ、私を「矯正しよう…」とする圧力もありませんでした。

私は不安ながらも、自分の思い通りにやることが出来て、ある意味、少しずつ、

元気や意欲が育っていったような気がします。

 

この斎藤氏が言うように、気質的には、私もかなり共依存的な人なのだと自覚しました。

 

 

 

 

「家族」という名の孤独

「しばらくすると私にスピーチの順番がまわってきたので、初対面の花嫁に次のように言った。

「この場にふさわしい話題ではないのですが、日本人の離婚についてお話させていただきます。ちょっと前まで日本人の離婚の半数以上は結婚五年以内に起こっていました。平均すると七年目です。

 

 

ところが最近は、これが延びていて平均で10年目ほどになっています。中高年離婚の増加のためで、その多くは妻の申し出によるものです。

どうしてこうなるかと考えてみると、結婚生活では奥さんがあまりいい思いをしていないんですね。日本の男だけではなく、男というものは皆そうなのですが、とにかく

パートナーの女性を母親にして彼女に甘えたがる。世間の人たちも、それを妻に押し付ける。

 

 

日本の女性はとくにやさしいので、これを受け入れて、そのうち自分のために生きるということが出来なくなってしまうんです。(略)」」

 

 

「喫茶店でこの部分を読みながら、私は私自身の”四年目”のことを再び考えていた。妻子に去られてパリのアパートに一人残されたとき、私にはいろいろな選択肢があった。目の前が急に開けて自由な気分がした。事実、それからの数か月の間にいろいろな人との出会いがあった。

 

 

一方で、愛着のオーバーを剝ぎ取られた寒々とした気分につきまとわれ、何をやっても、もうひとつ乗りが悪かった。タバコの量が急に増え、タバ・ノワール(モロッコ産の黒タバコ)のジタンを手放せなくなった。(略)」

 

 

「異性のケア(世話焼き)を必要とする男と、男に必要とされる必要を感じている女が出会うと、双方は一瞬のうちに相手の欲求を見抜いてアドレナリンの同時噴射が生じ、一緒になる。ケアと愛は混同され、女は男の母のような役割を背負い込み、その役割の重さに酔って、自分の人生を失う。男は、異性を愛することが出来るようになるという真の成熟の過程を失い、子ども返りの道を引き返す。(略)」

 

 

 

「粗野で乱暴で女を人間扱いしない男、クスリかアルコールをやっていて酔うとおかしくなる男、自分の女を囲って外へ出さない男、気に入らないと女を殴る男。そんな男たちが、もしA子の愛で成長し、A子を大切にし、安全にしてくれるやさしい男に変身するとしたら、彼女は自分の人生のすべてを受け入れることができるようになる。

 

 

A子が生きるということは、A子がこのゲームに勝ちをおさめることである。だからA子は、この種のパートナーを繰り返し求めた。

これからも求め続けずにすむためには、どうしたらいいのだろうか。

木下氏の文書が私に求めている解答とは、そのことである。」

 

 

「ところで男性患者のみについて死亡時平均年齢を婚姻関係別に見ると、著しい差があるのに驚かせられる。一度も婚姻歴のない男たちの死亡時平均年齢は四〇歳代の半ば、妻がいたが逃げられたという男たちのそれは、四〇歳代の終わりにくる。

 

これに対して、妻と同居しているという男たちは、六〇歳を越してから死亡することが多い。一方、女性患者ではこうした差が見られない。

アルコール依存症者に限らず、妻に先立たれた男は早々に死に至るのに対し、女では夫を欠いてからも長生きする者が多い。(略)」

 

 

「もっとおかしかったのは、「あなたにとって、もっとも不安なことは何ですか?」という質問に対する回答だった。「妻に先立たれること」というのが、もっとも多かったのである。

これで見る限り、日本の夫たちは”母である妻”の世話焼きを期待し続けるガキのようである。」

 

 

「そういうわけで家族依存症とは家族中心(優先)主義であり、家族強制であり、家族中毒のことである。家族メンバーが、家族の維持や秩序を重視するあまり、自らの欲求の所在を見失い、感情を鈍麻させているようであれば、これは家族依存症者である。

 

 

そしてそうした家族依存症者の充満した逸脱恐怖的な環境の中で、われわれ日本人は生活しているのではないかと思うのである。(略)」