読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

「家族」という名の孤独

「女性は、女性として生まれただけで、「母性本能」なるものを備えていて、自分の子を持ちたがり、子のために自分のすべてを捧げるものであるとの信仰がまかり通っている。

こうした信仰が共有されている社会の中では、母性なるものを実感できない女性は、あたかも自分に大事なものが欠けているように感じて、それを隠そうとしたり、自己嫌悪に陥ったりせざるを得ない。(略)」

 

 

「もう一度繰り返して述べたい。育児に伴って母親は子どもに陰性感情(怒り、憎しみ、嫌悪感)を向けることがある。そしてそれは”当たり前”のことである。」

 

 

児童虐待はなかったのではない。名づけられていなかったのである。ようやく今、高学歴で職業を持った母親たちが、ないとされていたものに名を与え、ついでに自分たちの立場を正確に伝えようとするようになってきたところなのである。」

 

「人間は「本能の壊れた動物である」と言われることがある。ここで本能と呼ばれているのは、生誕前にプログラムされた種に固有の行動のことである。これにしたがって、ニワトリはニワトリのようについばみ、犬は犬のように交尾する。それは”必然性”の支配する世界だが、私たち人間の行動は、こうした必然によって完全に支配されているわけではない。

 

 

人間は、「私」とか「自分」とか「自己」とかと呼ばれる厄介なものを抱えながら、自分の生を組み立てている。したがって私たちの生活は時代により、状況により、そして個人個人により大きく変化し、ときには生命を自ら絶つという、”反自然”なことまでやってのける。(略)」

 

 

 

「こうした複雑な過程を考慮しれば、人間の母親は、”必然的に”子育てに没頭するものだとか、それによって満足しか感じないと考える方が不自然である。彼女は、さまざまな理由で子を産んだのであり、ときには産まざるを得なかったのである。生まれてきた乳児に対しても、さまざまな思いを抱く。普通の母親であれば、子どもは他に例えようもなく可愛いと思っているときが多いだろう。

 

 

しかし一瞬、自分のすべてを吸い取る小悪魔のように感じて憎らしくなることもある。「この邪魔者さえいなければ」と子育て以外のことが出来る自分を夢想している母親はむしろ”普通”の部類に属する。(略)」

 

 

 

「母親になるということは、ぐっすり眠れる夜を失うことを意味する。世の亭主たちは、この苦行を「母の喜び」のように錯覚して、妻にだけ負担させ、申し訳ないとも感じていない。

 

中には子どもの夜泣きがうるさい、何とかしろと妻に苦情をいう馬鹿夫さえいる。ぐずる子どもに脅えた母が、深夜や日曜、病院の小児科を訪れれば、看護婦に注意され、年若い女医に叱責され、今まで経験したこともないような屈辱にさらされることさえある。

 

 

こんなことのすべてが、「喜び」であるはずがない。これは苦行である。疑いようもなく、マザリングは苦行を伴うものである。」

 

〇 私にとっても、母であることは、苦行でした。

でも、私の場合、以前も書きましたが、20歳前後で自分の「酷さ」に癇癪を起し、絶望し、生きる意味のない人間と結論付けたにも関わらず、死ぬこともできず、

キリスト教の「イエスはありのままの私を受け入れて下さる」という言葉に力をもらって、生きようと思ったという経緯がありました。

 

母として、自分がどれほど「酷く」ても、もう今更驚かない、という状況だったので、

この自分でやれることをやるしかない、と思っていました。

そういう意味では、苦行ではあっても、「やれること」が目の前に次々とあり、

ありがたかった、と思っています。

 

子どもたちには、もっといい母親だったら良かったのに、と申し訳ない気持ちにも

なりましたが…。