読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

「家族」という名の孤独

「子どもは、親の輝く顔を見たい一心で生きている。そんなふうには見えない子どもでもそうであることは、自分の子ども時代を想い出せばわかるはずなのに、親という役割にとらわれた人は、このことを忘れてしまっている。

 

 

子どもに親の期待を雨あられと浴びせかけ、期待の視線で縛り上げるということが、この少子化時代に普遍的な親の子ども虐待である。(略)

 

 

そんなとき、親にラーメンをぶっかける子は、かけない子よりましなのである。頭にかかった熱いラーメンは、親の頭を冷やすだろう。ここから自然の理にかなった親子関係がはじまるかもしれない。

 

残念なのは、この期に及んでなお、親の「虐待」に逆らえない子が圧倒的に多いことである。そして、こんなのが「健全な親子関係」と呼ばれているからお笑いだ。健全な母たちは子どもに献身することによって子どもたちを追いつめ、夫に献身することによって、男たちを過労死の淵に追い立てている。

 

 

この種の献身は「共依存」である。この概念については第二章でもふれたが、ここでもう一度、その意味を掘り下げてみよう。」

 

 

「(略)

親密な人間関係とは、このような不安と支配欲から解脱した関係である。それは流動的なプロセス(過程)であって、共依存のように恒常性を持った状態ではない。親密性が制度や組織というものと相性が悪いのは、一つはそのためである。(略)」

 

 

 

共依存と親密性の外見が似ているのは、共依存者が偽の親密性を装う名人だからである。共依存者の利他主義は、実は記述のような自己中心性から発するという矛盾を抱えているのだが、われわれの文化は共依存的な権力使用を親密性の衣装のもとに覆い隠そうとする企みに満ちている。

 

 

共依存者は親密でない人の前ではニコニコ仮面を被って、親密な関係を装う。そして真に自分が

関わりたいと思う人には抑うつ的な自己を表現し、深いため息をつく。(略)」

 

 

「ある程度、男性に従っていかれる人、男性をたてられる人、自分はバカなんだと思える人でないと、とても結婚生活に耐えられないでしょう。私のように何の取り柄もない女は、結婚してもどうにかやっていけるでしょうけれど」

とその女性はある文集に書いた。

三人の男の子を育てながら、夫の実父母と同居して世話してきたという専業主婦である。(略)」

 

 

 

「ロボットのように機能的な良妻賢母は、このようにして息子を殺した。はたから見ると冷酷無残に見えるかもしれないが、この母はやさしい母である。自分が犯罪者になるのもいとわず、彼女は息子の将来の人生を神のように判定し、これを絶つことによって息子の苦衷を救ったのだから。自分の人生に侵入され、将来を勝手に断たれたほうはたまったものではないが。」

 

 

「この有名な事件を取材対象とした本に、「仮面の家」(共同通信社)というのがある。著者の横川和夫氏は共同通信社の記者で、以前から取材を介して面識があった。(略)」

 

 

 

「弁護士さんの冒頭陳述を聞いておりまして、ああ、私の知らないところで、ずいぶん長いあいだ、妻は苦しんでいたんだなあ、と感じました」

と息子を殺害した父親は言った。「殺さなければならない」と考えたわりには、この男性は息子に接していなかったわけである。

 

 

息子殺しを提案するほどに妻が悩んでいると知ったなら、なぜ妻に代わって息子に終日向き合うことをしなかったのだろう。

現にそのようにした男たちを、私は何人も知っている。仕事なんかしている場合ではなかったのだが、この男は息子殺しの当日まで、職場に出かけていた。(略)

 

 

 

仕事三昧に生きて、その余のことを念頭に置かないでいることを、仕事依存という。日本の中年男たちのほとんどが仕事依存者であるという意味では、この男も「健全な」生活をしていたわけである。(略)」