読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

「家族」という名の孤独

「同世代のグループが欲しいから、学校みたいなところへ行きたいというのなら、そうしたところを用意すればいい。フリースクールでもオルターナティブ・スクールでも結構ではないか。

 

 

ただし、どんなにフリーであろうと、オルターナティブであろうと、それがグループである以上、そして、思春期が思春期である以上、そこには過酷な競争が待っている。(略)」

 

「したがって精神療法の仕事とは、主体の症状を要求に転換する過程ということができる。

怠学、非行、薬物乱用など青春期の男女にありがちな逸脱行動の一部は要求であり、愁訴であり、ある部分は症状である。これらが一つの問題行動に混在しており、しかも明確な要求と見えたものが実は症状であったりするのが、この領域の精神障害の特徴なのである。(略)」

 

 

「こうした一連の過程の中で、乱用生徒の口からは「助けて」の言葉は出てこない。口をついて出るのは、反抗的な強がりと「金をくれ」、「ほっといてくれ」などの要求だけである。口で「助けて」が言えるような子なら、薬物乱用などという危険で面倒なルートへと迷い込むこともないのである。」

 

 

「今のところ、精神科医も精神療法家も彼女と言葉を交わせない。母親には、赤ん坊として甘えるだけ。E子が年齢相応の精神機能を表現する相手は唯一、シンナー乱用の仲間だけである。

 

小学校五年のとき、あれほどに級友と担任教師へのコミュニケーションを求めて手紙を書き続けた少女の現在が、これである。」

 

 

「私がそういう立場にいるせいなのだろうか、こうした形の学校不適応にたびたび出くわす。活発で口が達者な子、清潔そうで利発げな子、そして子どもを大切にする家の子が増えるに従って、その逆の印象を与えてしまう少数の子どもたちがクラスから疎外されていっているような印象を受ける。」

 

 

 

「今の時代の子どもたちにとって、学校でうまくやっていけないとなると、話は深刻だ。彼らにとって学校以外の日常がないのだから、学校が駄目なら日中を生きて過ごす場所がないからである。

 

こういうふうにしてしまったのは、教師を含めた大人たちである。すべての子どもが公的に制度化された学校で、一律の教育を受けながら日中を過ごすように定められていて、そのことの是非を疑ってかかることもしないようになってから、学校生活を除いた子どもたちの生活は、極めて貧弱なものになってしまった。

 

 

学校でしくじって学校嫌いになった子どもは、今や病気を自称して日中を寝て過ごすか、犯罪者のように「摘発」を恐れながら世間の目を逃れて暮らすしかない。こうした「学校嫌い犯罪」を犯すことの恐怖にかられながら、今の子どもたちは必死で学校へ通っているように思われる。

 

学校はそれ自体、子どもたちにとって最大のストレスであるという現実を、われわれはもう少し受け入れた方がよいのではないか。学校という共同社会が子どもたちにとってストレスであり続けるのは仕方がないとして、ストレスを限度以内に押さえる方向への努力が大人たちに要請されているのではないだろうか。

 

 

現在のような状況が続く限り、ここからは一定数の子どもたちが犠牲の野羊としてドロップアウトしていく。(略)」

 

 

 

「今、学校には行内の人間関係から独立した精神保健の専門家が必要だろう。(略)」

 

 

〇 おそらく大昔にも、「表沙汰」にはならないたくさんの問題があったのではないかと思います。

でも、一時は、「資源のない私たちの国の唯一の資源は人間」と言われていました。

その私たちの国で今、結婚したくない人が増え、子どもを持ちたくない人が増えています。更には、この国の未来には、希望が持てないと、国外で生きることを選択する人の話も聞きます。

 

「頭の良い人々」が「熱心に教育」した結果が、今の状況を作り出しているように

見えてなりません。

何か一番肝心なところで、間違っているような気がしてしまいます。