読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホモ・デウス (上) (第1章 人類が新たに取り組むべきこと)

「幸福に対する権利

 

人類の課題リストに入る二つ目の大きなプロジェクトはおそらく、幸福へのカギを見つける事だろう。歴史を通して、無数の思想家や預言者や一般人が、生命そのものよりもむしろ幸福を至高の善と定義してきた。古代ギリシアの哲学者エピクロスは、神々の崇拝は時間の無駄であり、死後の存在というものはなく、幸福こそが人生の唯一の目的であると説いた。古代の人のほとんどはエピクロス主義(快楽主義)を退けたが、今日ではこの主義が当然の見方になっている。(略)

 

 

エピクロスにとって、幸福の追求は個人的な行為だった。それとは対照的に、現代の思想家は、それを集団的プロジェクトと見る傾向にある。もしあなたの国が戦争で引き裂かれていたり、経済が危機に陥っていたり、医療が存在しなかったりしたら、あなたはおそらく惨めな状態にあるだろう。

 

 

イギリスの哲学者ジェレミーベンサムは一八世紀の末に、至高の善は「最大多数の最大幸福」であると断言し、国家と市場と科学界の、唯一の価値ある目標は、全世界の幸福を増進することである、と結論した。

 

 

政治家は平和をもたらし、実業家は繁栄を促し、学者は自然を研究するべきで、それは王や国家や神の栄光を増すためではなく、誰もがより幸福な生活を楽しめるようにするためだった。

 

 

 

一九世紀と二〇世紀には、ベンサムのビジョンを支持する人は多かったものの、それは口先だけのことで、政府も企業も研究所も、もっと切実で明確に定義された目標に的を絞っていた。国家は国民の幸福ではなく、領土の大きさや人口の増加やGDP国内総生産)の成長で成功の度合いを測った。

 

 

 

ドイツ、フランス、日本のような先進工業国は、教育、医療、福祉の巨大な制度を打ち立てて行ったが、これらの制度は、個人の健全な生活を保障することよりもむしろ、国を強化することを目指すものだった。(略)

 

 

 

福祉制度でさえ、もともとは貧しい人のためではなく国家のために立案された。一九世紀後期のドイツでオットー・フォン・ビスマルクが国家年金と社会保障の分野で先鞭をつけたとき、彼の主な目的は、国民の幸福を増進することではなく、彼らの忠誠心を確保することだった。

 

 

一八歳のときに国のために戦い、四〇歳のときに税金を払うのは、七〇歳になったときに国に面倒を見てもらえることが見込めるからだった。(略)

 

 

とはいえ、ここでぜひとも指摘しておかなければならない。アメリカの独立宣言が保証しているのは、幸福追求の権利であって、幸福になる権利そのものではない。ここが肝心なのだが、トマス・ジェファーソンは国民の幸福を国家の責任にはしなかった。むしろ彼は、国家の権力を制限しようとしていたにすぎない。(略)

 

 

ところが、過去数十年間に状況は逆転し、ベンサムのビジョンははるかに真剣に受け止められるようになった。国を強化するために一世紀以上前に確立されたさまざまな巨大な制度は、実は個々の国民の幸福と健全な生活のために尽くすべきだと考える人が増えている。

 

 

私たちは国に尽くすためにいるのではなく、国が私たちに尽くすためにあるのだ。(略)

 

 

二〇世紀には、国家の成功を評価する最高の規準は、一人当たりのGDPだったかもしれない。この基点に立つと、国民一人ひとりが平均で年間五万六〇〇〇ドル相当の財とサービスを生産するシンガポールのほうが、国民が年間一万四〇〇〇ドルしか生産しないコスタリカよりも国として成功していることになる。

 

 

 

ところが今日、思想家や政治家、さらには経済学者までもが、GDPGDH(国内総幸福)で補足することを、あるいは前者を後者で置き換えることさえ求めている。けっきょく、人々は何を望んでいるのか?生産したいとは思っていない。幸せになる事を望んでいるのだ。(略)

 

 

 

エピクロスは幸福を至高の善と定義した時、幸福になるには骨が折れると弟子たちに警告した。物質的な成果だけでは、私たちの満足は長続きしない。それどころか、お金や名声や快楽をやみくもに追い求めても、惨めになるだけだ。

 

 

エピクロスは、たとえば飲食はほどほどにし、性欲を抑えることを推奨している。長い目で見れば、深い友情のほうが熱狂的な乱痴気騒ぎよりも、大きな満足を与えてくれる。エピクロスは、幸福へと続く危険な道を行く人々を導くために、するべきこと、するべからざることをまとめた倫理体系をまるごと一つ略述している。

 

 

どうやらエピクロスは、大切なことに気づいていたらしい。人は簡単には幸せになれないのだ。(略)

ペルーやハイチ、フィリピン、アルバニア(貧困と政情不安に苦しむ発展途上国)では、毎年自殺する人は一〇万人当たり五人程度だ。一方、スイスやフランス、日本、ニュージーランドのような豊かで平和な国では、毎年一〇万人当たり一〇人以上が自ら命を絶っている。(略)

 

 

それに、たとえ過去の苦難の多くを克服したとしても、純然たる苦しみをなくすことに比べると、明確な幸福を達成するのはずっと難しいかもしれない。飢え死にしかけた中世の農民は、パンを一切れ与えられただけで大喜びした。だが、分不相応な高給をもらい、退屈した太り過ぎの技術者は、どうしたら喜ばせてやれるのか?(略)

 

 

日本では、史上屈指の急速な景気拡大が見られた一九五八年から一九八七年にかけて、平均実質所得は五倍に増えた。これほど豊かになり、日本人の生活様式と社会的関係に、良くも悪くもさまざまな変化があったにも関わらず、日本人の主観的幸福度には驚くほどわずかな影響しか出なかった。一九九〇年代の日本人は、五〇年代の日本人と同じぐらい満足していた(あるいは不満だった)のだ。

 

 

どうやら私たちの幸福感は謎めいたガラスの天井にぶち当たり、前例のない成果をどれだけあげようとも、増すことができないように見える。(略)

真の幸福を達成するのは、老化や死を確保するのと比べてそれほど楽ではないだろう。

 

 

 

幸福のガラスの天井は、二本の頑丈な柱に支えられている。一方の柱は心理的なもの、もう一方は生物学的なものだ。心理的レベルでは、幸福は客観的な境遇よりもむしろ期待にかかっている。(略)

 

 

 

生物学的なレベルでは、私たちの期待と幸福の両方が、経済的状況や社会的状況ではなく、生化学的作用によって決まる。エピクロスによれば、私たちは快感を経験していて不快感がないときに幸福だという。ジェレミーベンサムも同様のことを言っている。(略)

 

 

ベンサムの後継者であるジョン・スチュアート・ミルは、幸福とは快楽と、苦痛からの解放にほかならず、快楽と苦痛以外には善悪は皆無である、と説く。何か別のもの(たとえば神の言葉や国益)から善悪を導き出そうとする者は誰であれ、人を欺いているのであり、ことによると、自分自身も欺いているかもしれない。(略)

 

 

 

逆に、昇進したり、宝くじが当たったりしても、さらには真の愛を見つけたとしてもなお、人は幸福になれない、と科学は主張する。人を幸福にするものは一つ、たった一つしかなく、それは体の中の快感だ。(略)

 

 

 

もしあなたが昇進したのに、なぜか少しも快感が湧かないとしたら、満足は得られないだろう。その逆もまた正しい。たった今、クビになった(あるいはサッカーの決戦で敗れた)のに、(ひょっとしたら、何かの薬物を摂取していたせいで)強い快感を覚えていたら、あなたは依然として得意の絶頂という気分でいることもありうる。(略)

 

 

 

これはすべて進化のせいだ。私たちの生化学系は、無数の世代を経ながら、幸福ではなく生存と繁殖の機会を増やすように適応してきた。生化学系は、生存と繁殖を促す行動には快感で報いる。だがその快感は、束の間しか続かない。(略)

 

 

珍しい変異の結果、木の実を一つ食べた後、永続する至福を楽しめるようなリスが誕生したとしたら、どうなっていただろう?技術的には、そうした至福体験はリスの脳の配線を変えることで実現し得る。

 

 

ひょっとしたら、何百万年も前に、どこかの幸運なリスにそんな変異が本当に起こったかもしれない。だが、もし起こったとしたら、そのリスはすこぶる幸せであると同時にすこぶる短い一生を享受し、その珍しい変異もそれまでとなったはずだ。なぜなら、その至福のリスはわざわざそれ以上木の実を探そうとしなかっただろうし、交尾相手など見つけようとするはずもなかったからだ。(略)

 

 

 

動物が生存と繁殖の可能性を高めるようなもの(たとえば、食べ物や伴侶や社会的地位)を求めているときには、脳は鋭敏さと興奮の感覚を生み出し、動物はそれに急き立てられて一層努力する。そうした感覚はじつに心地よいからだ。(略)

 

 

もし科学が正しく、私たちの幸福は自分の生化学系によって決まるとしたら、永続的な満足を確保するには、この系を操作するよりほかに道はない。経済成長や社会改革や政治革命などは忘れてしまおう。世界中の幸福レベルを上げるためには、人間の生化学的作用を操作する必要がある。そして、それこそまさに、私たちが過去数十年間に始めたことにほかならない。

 

 

五〇年前、向精神薬を服用するのは非常に不名誉なことだった。だが、今日ではもう、少しも不名誉ではない。是非はともかく、人口のしだいに多くの割合が、衰弱性の精神疾患を治すためばかりでなく、もっとありきたりの憂鬱やときおりの気分の落ち込みに立ち向かうためにも、日常的に向精神薬を服用している。

 

 

たとえば、ますます多くの学童が、リタリンのような興奮剤を服用している。二〇一一年には、三五〇万人のアメリカの子供が、ADHD(注意欠如・多動性障害)の薬物療法を受けていた。イギリスでは、その数は一九九七年の九万二〇〇〇人から、二〇一二年には七八六〇〇〇人へと増加した。

 

 

もともとの目的は注意力の障害を治療することだったが、今日では、完全に健康な子どもたちが成績を上げ、しだいに高まる教師や親の期待に添うために、その種の薬剤を使用している。

 

 

 

このような展開をよしとせず、問題は子どもたちではなく教育制度にあると主張する人も多い。(略)子供たちではなく学校を変えるべきなのではないか?この主張がどう発展してきたかを見てみると興味深い。

 

 

 

人々は教育の方法について、何千年にもわたって言い争って来た。(略)それでも、これまでは全員の意見が一致していることが一つあった。教育を改善するには、学校を変える必要があるということだ。ところが今日、史上初めて、少なくとも一部の人が、生徒の生化学的作用を変える方が効率的だろうと考えている。

 

 

 

軍隊も同じ方向に進んでいる。イラクではアメリカの兵士の一二パーセントが、アフガニスタンでは一七パーセントが、戦争のプレッシャーと苦悩に対処しやすくするために睡眠薬抗うつ薬を服用した。(略)」

 

 

〇完全に健康な子どもにも向精神薬を使っているという話がとてもショックでした。