読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホモ・デウス (上) (第1章 人類が新たに取り組むべきこと)

「死の末日

 

二一世紀には、人間は不死を目指して真剣に努力する見込みが高い。老齢や死との戦いは、飢饉や疾病との昔からの戦いを継続し、現代文化の至高の価値観、すなわち人命の重要性を明示するものにすぎない。(略)

 

 

歴史を通して、宗教とイデオロギーは生命そのものは神聖視しなかった。両者はつねに、この世での存在以上のものを神聖視し、その結果、死に対して非常に寛容だった。(略)

 

 

人間が死ぬのは神がそう定めたからであり、死の瞬間は、その人が生きて来た意味がどっとあふれ出てくる神聖な霊的経験だった。(略)

 

 

現代の科学と文化は、生と死を完全に違う形で捉える。

両者は死を超自然的な神秘とは考えず、死が生の意味の源泉であると見なすことは断じてない。現代人にとって死は、私たちが解決でき、解決するべき技術的な問題なのだ。(略)

 

 

そして、dの技術的問題にも技術的解決策がある。だから、死を克服するためにはキリスト教の再臨を待つ必要はない。尋常ではない頭脳を持つ人が二、三人いれば、研究室で解決できる。伝統的には死は聖職者や神学者の得意分野だったが、今や技術者が彼らに取って代わりつつある。(略)

 

 

科学の研究に携わっていない一般人でさえも、死を技術的問題と考えるのが当たり前になっている。誰かが医院に行き、「先生、どこが悪いのでしょう?」と尋ねると、医師は、「ああ、インフルエンザです」とか、「結核です」「癌です」などと答える。だが医師は、「人はどのみち、何かで死ぬものです」などとはけっして言わない。だから私たちはみな、インフルエンザや結核や癌は技術的な問題であり、いつの日か、技術的な解決策が見つかるかもしれないという印象を持っている。

 

 

 

私たちは、ハリケーンや自動車事故や戦争で人が亡くなったときにさえ、それは防ぎ得た、そして防ぐべきだった技術上の失敗と見なす傾向にある。(略)

 

 

したがって、昨今はもっと率直に意見を述べ、現代科学の最重要事業は死を打ち負かし、永遠の若さを人間に授けることである、と明言する科学者が、まだ少数派ながら増えている。その最たる例が、老年学者のオーブリー・デグレイと博学の発明家レイ・カーツワイルアメリカ国家技術賞の一九九九年の受賞者)だ。(略)

 

 

遺伝子工学再生医療ナノテクノロジーといった分野は猛烈な速さで発展しているので、ますます楽観的な予言が出てきている。人間は二二〇〇年までに死に打ち勝つと考える専門家もいれば、二一〇〇年までにそうなるとする専門家もいる。(略)

 

 

死を避けられない私たちは、日々、命の危険を冒している。どのみちいつか命が終わることを承知しているからだ。だから私たちはヒマラヤ山脈に登りに行くし、海で泳ぐし、通りを渡ったり外食したりといった危険なことを他にも多くする。だが、もし自分が永遠に生きられると思っていたら無限の人生をそんなことに賭けるのは馬鹿げている。

 

 

それならば、平均寿命を倍にするといった、もっと控えめな目標から始める方がいいかもしれない。(略)

四〇代で二人の子供を産んだその女性が一二〇歳になった頃には、子育てに費やした年月ははるか昔の思い出と化し、長い人生におけるかなり小さなエピソードに過ぎなくなる。そのような状況下では、どんな親子関係が新たに発展するかは予想がつかない。(略)

 

 

 

それに、人々は六五歳で引退することもなければ、斬新なアイデアや大志を抱いた新世代に道を譲ることもないだろう。物理学者のマックス・プランクは、科学は葬式のたびに進歩するという有名な言葉を残した。ある世代が死に絶えたときにようやく、新しい理論が古い理論を根絶やしにする機会が巡ってくるという意味だ。(略)

 

 

 

過去一〇〇年間に平均寿命が倍に延びたとはいえ、それに基づいて、今後一〇〇年間で再び倍に延ばして一五〇年に達することができると見込むわけにはいかない。一九〇〇年には、世界の平均寿命は四〇年にすぎなかったが、それは多くの人が幼いうちや若いうちに、栄養不良や感染症や暴力のせいで亡くなっていたためだ。

 

 

 

それでも、飢饉や疫病や戦争を免れた人は、優に七〇代、八〇代まで生きられた。それがホモ・サピエンスの自然寿命だからだ。一般的な見方とは裏腹に、昔も七〇代まで生きることは自然界の異常現象とは考えられていなかった。

 

 

抗生物質や予防接種や臓器移植の助けを借りもせずに、ガリレオ・ガリレイは七七歳、アイザック・ニュートンは八四歳、ミケランジェロは八八歳の高齢まで生きている。それどころか、密林のチンパンジーたちでさえ、六〇代まで生きることがある。

じつのところ、現代の医学はこれまで私たちの自然な寿命を一年たりとも延ばしてはいない。医学の最大の功績は、私たちが早死するのを防ぎ、寿命を目いっぱ享受できるようにしてくれたことだ。(略)

 

 

不死が実現するぞ、と叫ぶ科学者は、オオカミが来たぞ、と叫ぶ少年と同じようなものだ。遅かれ早かれ、オオカミは実際にやって来る。

だから、たとえ私たちが生きているうちに不死を達成できなくても、死との戦いは今後一世紀間の最重要プロジェクトにとなる可能性が依然として高い。(略)

 

 

 

あなたが四〇歳以上なら、しばらく目を閉じて二五歳のときの自分の体を思い出してみてほしい ―― 外見だけではなく、何よりも、どんな感じだったかを。もしその体を取り戻せるとしたら、いくら払う気になるだろうか?その機会を喜んで見送る人も間違いなくいるだろうが、どれだけかかろうと必要な額を払う人は大勢いるだろうから、ほとんど無尽蔵の市場が誕生ずる。

 

 

それでもまだ足りなかったとしても、ほとんどの人間が生まれながらに持っている死への恐れが、死との戦いに抗い難い弾みをつけることだろう。(略)

 

 

科学が死との戦いで大きな進歩を遂げた暁には、真の戦場は研究室から議会や法廷や巷へと移る。科学の努力が実を結んだら、激しい政治の争いがおこるだろう。歴史上のあらゆる戦争や衝突は、私たちの行く手に待ち構えている真の戦い、すなわち、永遠の若さを得るための戦いと比べれば、ほんの前触れにすぎなかったということになりかねない。」